水無瀬 弥生 / 第19話

第8章:熱と氷の狭間で

夏の眩い日差しが、都心の最高裁判所や各省庁の重厚な花崗岩の壁面を、灼熱の光で焼き尽くしていた。蝉の鳴き声が街路樹の葉を揺らし、蜃気楼がアスファルトの地平を歪ませる。地表は焼けるように熱く、空気は重く澱んでいる――それでも、この街は動き続ける。権力は、季節の変化すらも無視して、一定の速度で回転し続ける機械のように。 だが、その巨大な権力機構の内部を流れる空気は、氷点下のように冷ややかで、完璧なまでに無菌化されていた。窓の外の蝉の声は、厚い防音ガラスを通る間に意味を失い、ただの振動へと変わる。彼らはその振動すら聞いていない。彼らの耳に届くのは、数字と報告書と、そして互いの声だけだ。 世論の怒りは沸点に達していた。タマル《《聖血| せいけつ》》教会の信者による首相暗殺に続き、同じ信者が4畳半のアパートで、骨と皮ばかりの痩せ衰えた姿で孤独死した凄惨なニュースは、大手新聞やテレビのニュースショーで連日大々的に報じられていた。連鎖する生活苦、違法な偽装結婚、そしてその背後でうごめく『タマル聖血教会』の異常な集金構造。街頭では市民団体によるデモが行われ、永田町では野党議員たちが教団の解散命令請求と、全面的な家宅捜索を求める叫び声を上げていた。 テレビの画面では、綾の遺体が発見された部屋の写真が映し出される。視聴者はその映像を見て、怒り、悲しみ、そしてやり場のない不安を感じる。彼らは「誰かが何かをしてくれる」と信じている。その「誰か」は、この建物の中にいる者たちだ。 しかし、その激しい怒りの波は、権力の最深部に築かれた目に見えない防波堤にぶつかり、虚しく白い泡となって消えていく。防波堤の内側では、誰も彼らの声を聞いていない。聞こえているが、聞いていない。それがこの場所のルールだった。 都内ホテルの最上階に位置するプライベートスイート。重厚な防音扉に守られたその1室で、教団の二世カリスマ、ハン・ジフンは、1枚の巨大なアクリル板の前に立っていた。そこには、与野党の有力政治家、法務省・警察庁の元幹部、さらには大手弁護士事務所のトップたちの名前が、網の目のように複雑な線で結ばれている。それは、この国を動かす人間関係の生々しい断面図だった。 ジフンは手に持った万年筆の先で、その線のひとつを静かに叩いた。指先が触れるたびに、アクリル板の表面に指紋がつく――しかし、彼はそれを拭おうとはしない。それが、彼の「存在の証」のように思えたからだ。 「世間が騒げば騒ぐほど、この防波堤の堅牢さが証明される」 彼の口元に浮かぶのは、極めて冷酷で洗練された笑みだった。その笑みには、勝利の確信と、そして自分がこのゲームのルールを完全に把握しているという、知的傲慢さが混ざっていた。 ジフンにとって、母親である「聖母」マザー・ハンが築いてきた熱狂的な宗教運動など、すでに時代遅れの遺物に過ぎない。彼女の「神」は、涙と叫びと祈りを必要とする。だが、ジフンの「神」は、数字と契約書と、そして沈黙だけで成立する。彼が主導して再構築したのは、政治家、官僚、法曹界の欲望を緻密に計算し、組み上げた「絶対的な相互依存システム」だった。

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