アカトキ / 第11話

拾壱話目:ノウゼンカズラ

渡会…視点主。ひょろいが食うのは好き。 瀬野屋の親爺…こいとの父親。 白菖堂…骨董屋の店主。中性的な御仁。 ノウゼンカズラ…ノウゼンカズラ科ノウゼンカズラ目の落葉性のつる性大本。夏から秋にかけて橙或いは赤色の大きな花をつける。漢名は凌霄花(りょうしょうか)であり、霄(そら)を凌(しの)ぐ花の意。漢詩では他花に絡む為、愛の象徴とされています。平安の頃から存在している古い花。
 《《文月| ふみづき》》の半ば。天高く、空は清々しいほど青く澄み渡っている。快晴である。  縁側で空を見上げ、一つ伸びをした。 「嗚呼、良い天気だな」  あの湖で花火が上がると、巷で聞いた。  打ち上げ花火は夏の風物詩である。江戸の頃、隅田川では『《《鍵屋| かぎや》》』と『《《玉屋| たまや》》』と言う花火師がその技を競い合ったらしい。花火が上がる際の掛け声である「かぎや、たまや」は此処から来ているのだろう。  明治に入り、より上質な火薬の輸入により、昔以上に花火は非常に派手で大きくなる。今では、我々の目を楽しませる娯楽になったのである。  が、一方で《《慰霊| いれい》》の為に上げられる事が有った。  今回は慰霊の方だろう。如何にも、近年またあそこで人が行方不明になったと言う。  昔からそう言う出来事が多い場所らしく、其の為か湖底には彼方に逝った者達が暮らす極楽が在ると言う噂話がある。  只、人々は本当に其の話を信じていると言うよりも――…そう思い込む事で、心の平穏を保っているのやも知れぬ。  もう戻って来ない、愛する者達を《《偲| しの》》ぶ為に。  花火は嫌いでは無い。真っ暗な夜空に浮かんでは弾ける光の花は、鮮やかで好ましい。腹の底を揺らす様な音も、太鼓に似ていて心を弾ませる。  しかし、流石にあの湖にもう一度行ってみたいと言う気には、とてもじゃないがなれなかった。なれる筈も無い。  私は死にかけ、江ノ本はあの湖で消えた。いっかな私が生きていて、江ノ本が此の家に帰って来ると言っても厭な思い出は残る。  まぁ、遠目に見る分には良いとは思うので、駅前まで出掛けて其処で眺める事にした。あの場所の川沿いならば、湖の花火も視えるだろう。  幸い、懐は多少潤ってはいる。駅前は幾つか露天商も在るので、飯に困りはすまい。 「おーい、おや…ジロー?」  縁側から小屋を覗くと、何処にも主の姿が無い。  替わりにお隣の家から彼のわんと言う声が聞こえて来た。おかみさんの楽しそうな話し声もするので、恐らくは遊びに行っているのか。  ふむ。わざわざ出掛ける事を伝える為に、彼を呼び戻すのも如何とは思う。例え私が不在でもジローは何とかするだろう。  何ならおかみさんの家で、夕飯のご《《相伴| しょうばん》》に預かって来そうではある。  此の儘外出する事にして、懐に財布を入れた。  手拭いを肩に掛け、《《疎水| そすい》》沿いを歩く。  白いパナマ帽子を見つけたので、最近出掛ける際はよく被っている。  大変に品が良く、若輩者である私よりももう少し年嵩の紳士が似合いそうな物だが…他に帽子を持っていない。  豚に真珠であろうとも被るしかないのだ。  途中、あの娘さんの家の前を通ったが、今日は風琴の音色は聴こえなかった。  まぁ、毎日弾いているとは限らない。少々残念な心持ちになりながら、通過する。  しかし何も考えずに出て来てしまったので、花火が打ち上げられる宵までは暫く時間が余る。  何処ぞでも散歩しようかと思いはしたが、先日余計な寄り道で危険な目に遭ったので、一人で見知らぬ場所をうろつくのは少々怖い。  薬売りが居てくれた手前多少気丈に振舞ってはいたが、正直もう懲り懲りである。  此処はもう一足伸ばして『《《瀬野屋| せのや》》』にでも行くとするか。  駅前までやって来た。予想通り昼でも露天商が多い。此の辺りは今日花火が上がる事を予期してか、何時もよりも賑わっている。  此の辺は電気が通る様になったので、夜でも明るい。  寿司屋も在れば、飴細工屋もある。更に夜が更ければ夜店も出る。  何を食おうか皮算用しつつ、其処を通過した。 「嗚呼…《《凌霄花| りょうしょうか》》が見事だなぁ」  『瀬野屋』では、外壁の一部を覆う様に生えた凌霄花が大量に咲いていた。  此の花は別名ノウゼンカズラと言い、日本に古くから在る植物である。桃色がかった橙色の《《喇叭| らっぱ》》に似た花を咲かせ、中心は鮮やかな黄色となっている。行った事すら無い、遠き南国を思わせる花だ。  まぁ此れは私の見識と言うよりも、『瀬野屋』を経営する親爺の自慢話を聞いて覚えていただけである。花は門外漢だ。  毎年夏になると此のノウゼンカズラが麗しく咲き誇るので、ある種『瀬野屋』の名物であろう。  青空に其の花は非常に映える。暑さも忘れ、暫し見惚れる。  しかし余りにもぼうっとしていたからか、番台から店の親爺が出て来た。  《《団扇| うちわ》》をパタパタし《《乍| なが》》ら、おい何してんだいと怪訝そうな顔をされる。 「暑さで茹で上がっちまったかい、渡会さん」 「嗚呼、違うのだ瀬野屋の親爺さん。いや何、凌霄花に見惚れていたんです」  其の科白に親爺はノウゼンカズラを見上げて得心した。 「ノウゼンカズラか。此奴も随分歳を重ねてるからなぁ、こいとが生まれた頃に植えたんじゃなかったかな」 「そうなんですか。では、こいとちゃんと同い年なんですね」  そうやって雑談をしていたら新しい客が来たので、私も慌てて『瀬野屋』に入った。《《抑々| そもそも》》炎天下で雑談なんぞするものでは無い。 「そう言えば、今日はこいとちゃんは不在なのですね」 「あぁ、友達の見舞いに行ってるよ。紗良ちゃんって子と一緒にね」  そうなのか。普段此の親爺は裏で火の番をしている為、殆ど表には出てこない。  娘が見舞いに行くので、代わりに店番をしているらしい。中々に子想いの御仁である。  娘が産まれて早々に奥方を亡くしているそうなので、彼女を大事にしているのは当然やも知れぬ。 「ま、ゆっくり入ぇんな」 「はい、有難う御座います」  《《胡坐| あぐら》》を掻いて番台でだらけて居る親爺に苦笑しつつ、暖簾を潜った。  今日の『瀬野屋』の湯は温めであった。火の番をする親爺が裏に居ないのもあるだろうが、多分夏なので温めにしているのだろう。  お陰で長湯もしやすい。私は暑くても長めに浸かりたいので、此れは有難い。  此の暑さの所為だろう、浴場は人が疎らであった。唯、馴染みの顔は居る。  彼等は暑かろうと寒かろうと湯に浸かるのが好きなのだろう。  しかし、駅一つ跨いで毎日入りに行くのは難しい。懐具合からして厳しくもある。  此れはそろそろ、旧江ノ本邸の風呂も使ってみるべきなのやも知れぬ。 「まず風呂場を掃除せねばなぁ…」  そんな事を独り言ちつつ、天井を眺めていた。 「うーん…」  長湯しすぎて少々逆上せてしまった。  こりゃいかんと着替えて二階に上がり、身体を冷ます。同じ様に此方も人入りは少ない。  だが其れは詰まる所、涼しい場所を確保しやすいと言う事である。  風通しの良い日陰に陣取り、此れ幸いと寝転がる。  外の日差しは中々に辛いが、日陰も風もまだ心地良い。  ついつい、うとうとして仕舞う。  偶に何処からか漂って来る《《蚊遣火| かやりび》》の煙の匂いが、夏の気配を助長させる。  パナマ帽子で顔を覆い、《《転寝| うたたね》》を楽しんだ。 「ふあぁ…嗚呼、丁度良いな」  《《午睡| ごすい》》から覚醒すると、日が少し傾き出していた。  此れから郵便局のある駅前に戻れば、飯を食い終わる頃には花火の打ち上げが始まるだろう。  下に降りると、入った時と同じ格好で親爺がだらけている。 「嗚呼お帰りかい、大分ゆっくりしていたな」 「今日、湖で花火が上がると聞きまして。遠目から眺めようかなと」  理由を述べると親爺は納得した風であった。 「そういやぁそうだったか。こいとも遅くなるたぁ言ってたから、同じとこで見て帰るのかもしれんなぁ」  そうなのか。しかし、年頃の娘さんが人通りが多い場所とは言え遅く帰るのは如何なのだろう。  運よく会えたなら、顔馴染みでもある私が『瀬野屋』まで送るべきやも知れぬ。  別れを告げて外へ出たら、ノウゼンカズラが幾つか落花していた。 ―チー、チー    其の萎びた喇叭に《《目白| めじろ》》が数羽姦しく集り、蜜を啜っている。《《況| いわん》》や《《栄枯盛衰| えいこせいすい》》である。《《儚| はかな》》い《《趣| おもむき》》だ。少しだけ其の様を眺め、離れた。  涼しさを含んで来た夕風を浴びつつ、のんびりと目当ての駅まで戻る。  扨、何を食おうかと歩きながら思案する。  蕎麦も良い、《《天婦羅| てんぷら》》も悪くは無い。  と、《《彼是| あれこれ》》考えていたが、《《墨痕| ぼっこん》》鮮やかな寿司屋の目印が視界に映り引き寄せられる。  らっしゃい、と迎えて呉れた店主に挨拶し屋台を覗く。 「何れも美味そうですね、御主人」 「へへ、どれも自慢の品でさぁ」  大きく握られたすし飯の上に、玉子や《《鮪| まぐろ》》、《《小鰭| こはだ》》が乗っている。無論、其の他にもネタは多い。  私は鮪と小鰭が好きなので、其れを主として摘まませてもらった。  口一杯に頬張ると、酢の酸味と魚の旨味が堪らない。にこにこしながら美味い美味いと食べていたら、立ち食いしていた私に釣られてか人が寄って来た。  腹はある程度膨れたので、他の客に場所を譲る為に銭を払って後にする。  しかしまだ腹六分というぐらいである。さて他にも食べるかと考えていた処だった。 「おや…貴方は、渡会様ですか?」  聞き覚えが有る様な無い様な、中性的な声音である。  思い出せない儘振り返ると、私よりやや背の低い御仁が目に入った。  男とも女ともつかない、人形染みた顔の妙齢の人物。  季節は夏だと言うのに、其の人だけが長羽織に袷の姿である。季節外れな恰好だと言うのに、往来の人々は目も呉れない。 「…《《白菖堂| はくしょうどう》》さん?」  特徴的な容姿なので忘れている訳も無かった。骨董屋の店主、白菖堂である。小さな木箱を抱えている。  あの仄暗い店内から外に出ている姿が意外で、少々驚いた。  しかし考えてみれば生きてはいるのだから、店の外にだって出はするだろう。  …いや、生きているのだろうか?  白菖堂に一度だけ手を握られたが、其の感触は柔らかくも江ノ本と同じくひんやりとしていた様な…。 「覚えていて下さり、有難う御座います。今日はお一人ですか?」  小首を傾げて嫋やかな笑みを浮かべる白菖堂は、矢張り何方か判らない。  一人胸中で緊張しつつも、ええまぁと何とも言えない返事をする。綺麗な顔なので妙に身構えてしまう。 「お久しぶりです。…其の、湖で花火が上がるでしょう? 此処から眺めでもしようかと」 「嗚呼、成程。此処からでも観えますからねぇ」  首肯しつつも、空を見上げる。宵にはまだ早い時刻であり、黄昏時である。  赤味を帯びた橙を見ていると、何だかしんみりとなる。  《《倣| なら》》う様に白菖堂も横で空を眺めていたが、ふと私へと向き直った。 「そう言えば、渡会様は何か腹には入れられましたか?」 「腹にですか。先程寿司を摘まみましたが…まだ腹六分くらいなのですよね」  そう言えば、話し掛けられるまでは次に何を食べるか思案していたのだ。 「そうなのですね…ふむ。宜しければ、私がよく通っている天麩羅屋が丁度近くに居りまして。御一緒に行ってみませんか?」 「ほほぅ」  つい興味がそそられる。美味い物は好きである。美味い物を共有して呉れる相手も良い人だと思う。  まぁ里中が紹介してきた辺り、確実に悪い人物ではない。其れだけは確信がある。  唯少し、顔立ちが整い過ぎていて取っ付き難いのだ。こう思っているのは私だけやも知れぬが。 「其れは気になりますねぇ。白菖堂さんが宜しいのであれば、是非」 「ふふ。ええ、では参りましょうか。御案内致します」  萌黄色の長羽織を《《翻| ひるがえ》》し、ゆっくりと白菖堂が歩き出す。私は其の背を追う様に続いた。  人混みはそうでもないので、此れで見失う事も無い。 「此処ですか」 「はい。《《今晩| こんばん》》は、大将」  白菖堂が案内して呉れたのは、矢鱈に古ぼけた屋台であった。  しかし考えてみれば、其れだけ長く屋台で商売をしている証である。所謂《《老舗| しにせ》》と言うべきか。  胡麻油の香りが漂って来ている。食欲をそそる匂いに、六分ぐらいだった腹が五分ぐらいに減った。 「おぅ、白菖堂さんじゃないか。おや、今日は連れが居るのか」  胡麻塩頭の六十代の大将が、座りながら此方に会釈して来た。  何とはなしに会釈を返しつつ、白菖堂が口を開くのを待つ。 「えぇ。以前御店にいらした方と行き会いまして。丁度私もお腹が空いていたので、お誘いして来ました」 「そりゃ有難い。旦那、うちの店はどれもお勧めの品です。丁度揚げたてですよ」  屋台には《《芝海老| しばえび》》の他、《《穴子| あなご》》や《《鯣| するめ》》の揚げ物が有る。《《牛蒡| ごぼう》》や菊の葉、《《蓮根| れんこん》》等其方にも興味が湧く。  うーむ迷う。しかし金持ちと言う訳でも無い。安いとは言えたんと食えば其れなりに高くつく。懐具合も考えて食べねば。 「えぇとでは――」  微笑まし気に此方の様子を眺める白菖堂を後目に、ひとまず穴子串へと手を伸ばした。 「うぅん、ちょっと食べ過ぎたかなぁ…」  …だが、そんな私の節制の決意も虚しく。屋台を後にする頃には満腹になっていた。  腹七分で済ませたかったのだが…私が美味い美味いと言いながら食っている為か、横で串を摘まむ白菖堂が次々お勧めを示してくるのである。  やれあれも美味い、此れも美味いですよと言われ、つい気になってそっちも摘まんで仕舞った。  衣は厚みがありながらもさくさくと食べやすく、天つゆと大根おろしと合わせると堪らないのだ。  揚げ物なので胃もたれしやしないか不安になったが、油の質が良いのか大将の腕が良いのか気持ち悪さは無かった。 「またどうぞ」 「有難うございました、大将。また来ます」 「御馳走様でした」  銭が払えるか不安になったが、此方の店の天麩羅は味の良さに反して大分安めであった。想定よりも銭は余った。ほっとする。  屋台を後にしつつ、白菖堂を伴って橋までぶらぶらと歩く。  宵を迎え、墨を溶かした空の中に白い星が見えだしていた。そろそろだろうか、花火が上がるのは。 「《《如何| いかが》》でした、天麩羅屋さんは」 「いやぁ、絶品でした。私もある程度、此の辺りはうろついているのですが…初めて知ったなぁ」  隣の白菖堂も結構食べていたが、けろりとしている。私と同じくらい体の厚みが無さそうだが、割と食べる方らしい。 「あの方は稼ぐ事を目的としていない様で、目立つ場所に屋台を置かないのです。初対面なのも仕方ありません」 「そうなのですか…とても美味かったのに。往来が多い通りで店を構えれば、大繁盛しそうなのですが」  少々勿体無い気もしたが、そうなのですよねぇと白菖堂は同意する様に苦笑した。 「きっと、道楽なのでしょうね。繁盛しすぎると忙しなくてやってられん、と仰ってました」  成程気楽に商売したい派なのか。だからこそ目立つ場所に置かず、ひっそりと美味い揚げ物を安く振舞っているのだろう。  其れは其れで良い生き方だと思う。  漸く橋の辺りまで戻って来た。白菖堂は如何するのだろうか。  見るに木箱を抱えているので、商売の帰りなのだろうが。 「白菖堂さんは、花火を観て帰られるのですか?」 「うーん。人混みは余り好きではないのですが…如何しましょうかねぇ」  商売の帰りなもので、荷物も有りますしと白菖堂は木箱を抱え直す。 「其れは、骨董ですかね」 「此れですか、風鈴です。遺品だそうですが、何やら曰くがあるらしく」  早く手放したいとの事で、御遺族の方から安く貰い受けてしまいましたと苦笑する。  木箱の蓋までそっと開けてくれた。良いのだろうか、其処まで見せて呉れて。  中に入っていたのは硝子製の風鈴だった。アサガオに似た植物の意匠が施されているが、如何にも色味的にアサガオではない。  何が該当するのか少し考え――答えに行き着いた。ノウゼンカズラだ。 「此れは…凌霄花ですか? 少々変わった意匠ですね」 「えぇ。元は奥方に贈った手作りの品だったそうです。漢詩では凌霄花は愛の象徴だそうですから、仲が宜しかったのでしょうね」 「嗚呼…確かそうでしたね」  持ち主が無くなった後に、何某かの理由で手放さざるを得なくなったのか。悲しい話である。  蓋を戻して器用に片手で紐を結び直す白菖堂も、心成しか悲しそうであった。  と、ふと白菖堂が足を止めた。  何処かの方を見ている。私には誰を見ているか掴めなかったが、如何やら知り合いを見つけたらしい。 「行って来て下さい、私は暫く此処に居ますから」  私に視線を戻した白菖堂にそう言うと、会釈して離れて行った。  雑踏にすぐさま紛れてしまった其の姿を追う事も無く、《《欄干| らんかん》》に背を預けてぼんやりと湖の方角を眺める。  下からは仄かに川のせせらぎが聴こえて来る。涼しくなって来た空気と混じり、何だか心地が良い。  此の儘待とうかと思っていたが、そうこうしない内に急に肩を叩かれた。 「わぁ」  忘我の状態になりかけていた私は、飛び上がって慌てて振り向く。 「な、何…あの…?」  其処に居たのは、見知らぬ女人だった。  桃色の《《単衣| ひとえ》》を着ている。柄は恐らくボタンだろう。  上品な《《秘色| ひそく》》の《《被衣| かずい》》で顔を覆っており、表情は窺い知れない。  唇の紅だけが、妙に艶めかしかった。  何でかその唇は固く結ばれており、私は何か知らぬ間に彼女に失礼をしたのかと狼狽える。  しかし尋ねるより先に、女人が口を開いた。 「貴方は、《《此岸| しがん》》の者ではありませんね」 「は」  何が何だか判らない。如何答えれば良いか迷っていると、彼女は更にいけませんいけませんと頭を振る。 「まだ、戻る時期ではありませぬ。本来居るべき場所へ、御帰り下さいまし」  す、と女人が肩から手を離す。  気付くと彼女の姿は消えていた。見渡しても何処にも居ない。  はて何事だったのかと思案していたが、遠くに白菖堂の姿が視えて其方に気を取られる。  何故か切迫した表情で駆け寄って来る姿に、疑問を覚えていたが――…次の瞬間。  ぐん、と背中を引っ張られた。思いもよらない強い力が働き、私の身体は欄干の外へと傾ぐ。  あ、と思ったがもう遅く。掴んで何とかする間もなかった。  落ちる。此の感覚は二回目である。冬の時にも一度味わった。  しかしまぁ、今は夏だ。凍えて泳げなくなる訳では無い。  だが川に落ちるのは良い気分では無いので、せめて衝撃に備えようと身を固くした…――のだが。  傾き落ちようとしている私の背後…即ち水面から、唐突にざぶりと音がした。  何かが自ら飛び出してくる様な、そんな気配。  其れは素早く伸びあがると、私の背中を強く突いた。 「うっ?!」  存外強い衝撃に思わず呻く。だが、飛び出て来た其れは凶器の類ではなかったらしい。  平たい様な感触の何かが、私を上へと押し戻している。そう感じた。  が、平たい何かだけの力では私を押し戻し切れない。  何とか欄干へ手を伸ばそうとしていたら、宙を藻掻いていた腕を誰かに掴まれ欄干の内へと素早く引き戻された。  ひんやりとした柔らかな感触。尻餅を付きながらも手の主を確認すると、白菖堂だった。  ほんの数秒程度の出来事だった筈なのだが、私も白菖堂も息が上がっている。  私の前で跪いた白菖堂は、真剣な顔をしていた。 「御無事ですか、渡会様」 「あ、あぁ…だ、大丈夫、だ」  周囲を見回すと私に不思議そうな顔を向けながらも、人々の往来の動きは常と変わらなかった。  川に落ちかけた姿は、花火がそろそろ上がる頃合いの所為か、誰も視ていなかったらしい。  頭に触れると、パナマ帽子の感触。如何やら、幸いにも水に落とさずに済んだらしい。落ちて無くしては困る。帽子の替えはないのだ。  立てますか、と言われそろそろと立ち上がる。  背中をぱたぱたとはたいて土埃を落として呉れていたが、白菖堂はおやと呟き手を止めた。  何かを私の背中から摘まみ取る。  私に見せた其れは、瑠璃色の平たい物体だった。 「此れは…《《鱗| うろこ》》、ですか?」  見た目は蛇や魚の鱗に似ている。しかし、魚にしては大きすぎる。  首を傾げる私に、白菖堂は正解を告げた。 「そうですね、鱗です。…渡会様、《《蛟| みずち》》を御存じですか?」 「蛟…嗚呼、知っています。一時期、我が家に迷子の蛟が居ました」  春の越して来たばかりの頃に、池に迷い込んでいるのを見つけた蛟の子を思い出す。  きょろりとした黄色い瞳と見詰め合ったりしたのが、遥か昔の事の様に思える。実際は其処まで過ぎ去っていないのだが。  懐かしい気持ちになる私を余所に、白菖堂は妙なものと縁が有りますねぇと笑った。  蛟の鱗を私の掌に乗せると、木箱を抱え直す。そして、川面を欄干から眺めた。整った横顔は、矢張り人形の如き美しさである。 「貴方を着水から庇ったのは、蛟でしょうね。…もしや、先の迷子の蛟と同じなのやも」 「まさか…嗚呼いや、そう言えば駅前の此の川に引っ越しをさせた…筈…」  もしかしてと思い、私も白菖堂に倣って川面を覗き込む。  私がまた落ちない様にする為か、片袖を掴まれている。  川面には出立前に見たあのにょろりとした姿は見当たらなかった。代わりに、河川沿いに設えられた階段に、先程の女人らしき姿が見受けられる。  川面を覗き込みながら、何やら話している様である。 「あれは、先程貴方を落とそうとした御仁ですね」  白菖堂がそう言う。そうなのか。  しかし初対面である筈だった。恨まれる覚え等、あり様も無いが。  先程の女人の科白を思い出す。其れを白菖堂に話すと、ほぉと呟き頷いた。 「何やら誤解が有るようですねぇ…。渡会様、宜しければ仲裁しましょうか」 「えっ。あの方ともう一度話すべき、なのでしょうか…」 「悪い方ではありません。無用な誤解が生みだした結果でしょうから、大丈夫ですよ」  私が居る限りは水には突き落とさせませんよ、と微笑むと白菖堂は私の手を引き歩き出した。  気が引けはしたが、謎に其の言には安心感がある。抵抗はせずに、大人しく後に続く。  白菖堂の手はひんやりとしている。しかし、冷たさの奥に血が流れている生者の温もりも微かに感じられた。  此の辺りは、死者である江ノ本との違いなのだろうか。  何だか手を引かれて歩くのも久々なので、妙な心地になりながらも謎の女人の許まで行く。 「《《橋姫| はしひめ》》殿、今晩は」  階段を下りて行く白菖堂は、そう声を掛ける。  橋姫と呼ばれた女人は振り返り、白菖堂と背後の私を見てあらまぁと口に手を当てた。  慌てて立ち上がると、気拙そうに会釈する。 「嗚呼、此れは白菖堂様――今晩は。其れから、其の後ろの御仁は…」 「ど、如何も…」  私も橋姫も気まずい。だが間に立つ白菖堂は、柳に風であった。 「少しばかり思い違いが起きていそうなので、此方の御方を紹介に来ました」 「思い違い、ですか」  被衣を持ち上げ、彼女は此方を視る。凛とした、妙齢の貌が覗いた。  此れまた人形の様な美しい容姿であり、気圧される。 「えぇ。此の方、渡会様と言うお名前でして――死者ではありません。れっきとした、生きている人間ですよ」 「そう…なのですね。いえ先程、此の子にも叱られまして」  此の子?  そう思いつつ、彼女が指し示す川面を見やると―――其処に、覚えのある黄色い双眸がぷかぷかと浮かんでいた。  あっ、と思いつつ、白菖堂の背後から身を乗り出す。 「おぉ…」  すると、私の存在に気付いたのかぷかりと泡を吐き出した。  嗚呼、あの子だ。きっと、挨拶だ。  俄かに嬉しくなり、思わず笑みが零れた。 「元気にやっているんだな…」  恐らく声は届かなかったろうが、ぷかりぷかりと続け様に泡を吐くのを眺める。  旅立った後の事は一切江ノ本から聞いていなかったので、こうして無事が確認できると何だか安心して仕舞う。  ふと二人に視線を戻すと、微笑ましげにしている瞳と合う。何だか恥ずかしいのだが。  一つ咳払いをして、気になる事を尋ねる。 「其の、真実私は生きてはいますが…。何かしら、そう思わせる理由があったのでしょうか」  そう、私側にも要因があるのなら気を付けねばならぬ。  橋姫は迷う様を見せつつも、口を開いた。 「貴方様の匂い。…其れが、私の知る彼岸に暮らす方々の者とよく似ているのです」  匂いとな。気になって自分の臭いを嗅いだものの、さっぱり判らない。石鹸の匂いしかしない。  匂いは比喩に近いものやもしれませんね、と白菖堂が言い添える。 「正確には気配と言いますか。貴方様が一度私の店にいらっしゃったでしょう?」 「はい」  あれが初対面である。薄暗い店内に居た其の姿は妙に神秘的だった。 「里中様の既知との事でしたので、《《幽世| かくりよ》》の方では無いとは思っていましたが。私も、些か判断に迷う程度には見間違えました」 「そうだったので? いや、全く気付かなかったなぁ」 「ふふ、少々緊張なさっていましたから…そうですねぇ」  白菖堂は暫し思案していたものの、顔を此方に向ける。 「渡会様。…此れは、貴方に少々踏み込みすぎている質問なので、不快であればお答え頂かずとも結構です」 「は、はぁ。いえ、大した事など抱えてはいないので、大体の事は答えられますが…」  そう言い置くと、ふむと白菖堂は思案する。如何訊くか、迷っている風である。 「其の、里中様からもお聞きしたのですが…何度か溺れた事があると」  話していたのか。いや、流石に目の前で私が卒倒しかけたから、二人で何某かの推測をするのも無理は無い。 「お恥ずかしい話ですが、二回程溺れて死にかけた事があります」  一回目は、約十年前。江ノ本が生きていて、そして何処かへと消えてしまった時分。  二回目は、直近の冬。此処ではない橋から此の川に落ちて、助けられた。  白菖堂は返答を聞き――…慎重に言葉を選んだ。 「当て推量になりますが…、其のどちらかは今宵花火が上がる湖での事故ではありませんか」 「え、えぇ…よく分かりましたね」  そう、一回目は…あの湖で溺れた。 「来店なされた際に睡蓮鉢に触れて、気をやったでしょう? あれは、遠い異国に伝わる水底の島が元だとお話しましたよね」 「はい。…あれ、待って下さい」  私も気付く。白菖堂は頷いた。 「あの湖にも、似た様な言い伝えが在りますね。湖底には、あそこで沈んだ者達の極楽浄土が在ると」  在るのですよ、と白菖堂は囁く。 「実際に、在るのです。だから、あそこで生死の境を彷徨った貴方には、彼方側の気配が残っているのやも知れませんね」 「そう…なんでしょうか」  よく判らない。矢張り、此方に自覚は無いのだ。  黙って話を聞いていた橋姫が失礼と言い添え、私に身を寄せる。  彼女に落とされたらしいので思わず身を硬くしたが、まじまじと見詰められただけだった。  しかし得心出来なかったのか、不思議そうな顔をしている。 「うぅん、確かに白菖堂様の仰る様な匂いがしますが…何でしょうね」  何だか、そそられる様な…そんな奇怪な事を言われ、私は反射的に白菖堂の側に寄る。  そそられるとは何なのか。  最近危うく喰われかけた記憶が蘇る。  不安になっている私を知ってか、窘める様に白菖堂は橋姫様と呼んだ。 「嗚呼、申し訳ありませぬ。今のは不躾でしたね…兎も角、相分かりました」  改めて、謝罪致しますると深々と頭を下げられ、其れは其れで狼狽して仕舞う。  何も知らない間に因縁が生じて何だか分からない間に解決したので、そもそも自覚が無いのだ。  はあ、あのとかしどろもどろになっていると、見兼ねた白菖堂が助け舟を出して呉れた。 「橋姫様。謝礼と言っては何ですが、少々手助けをして頂けませんか」 「手助け、ですか」  首を傾げる橋姫に、白菖堂は話を続ける。 「此の儘だと、渡会様はまた何かしらの切っ掛けで水に落とされかねません」  其れはとても困る。 「橋姫様、貴女は本質的には此の川の守り神である筈。そう何度も何度も、人が川に落っこちては困るでしょう?」 「其れは…そうですね。如何致しましょう」  渡会様、鱗をと言われ私は繋がれていない方の手にずっと蛟の鱗を握っていた事を思い出す。  白菖堂に鱗を渡すと、其れを更に橋姫へ渡された。 「其の子の鱗でしょう? 渡会様の背中にくっついておりました。此れに、貴女の加護も頂けないでしょうか」 「嗚呼、成程。其れならば少々お待ち下さいませ」  言うが早いが、橋姫は何と川面を歩いて橋の下へと歩いて行ってしまった。其の儘川の中へ沈む様子を唖然と見届ける。  ちょっと待ちましょうかと階段に白菖堂が腰掛けたので、私も並んで横に座った。着ている長羽織は上物だろうに、汚れても頓着しないらしい。  …何だか釈然としない儘、あれよあれよと話が進んでいる。 「いやはや、忙しなくて申し訳ありません」  顔に出ていたのか、白菖堂にそう言われて私は慌てた。 「いえ、其の…まぁ、私には理解出来ぬ事ばかりなので、戸惑っているだけですよ。気にしないで下さい」  ちゃぷん、と水音がしたので川面を見ると蛟の子が顔だけを水面から出して此方を覗いていた。黄色い瞳がきょろきょろと動く。蛇に似ているが、蛇ではない顔立ちをしている。  いや、子と呼ぶにはちょっと大きい様な…。何だか、春の頃の倍ぐらいの大きさになっていないだろうか。 「お前さん、大きくなったなぁ…」  瑠璃色の身体をぬらりと光らせ、鼻先を少し近付けて呉れる。額の一部の鱗が剥げている事に気付いた。  庇ってくれた時に、取れてしまったのか。  痛くないかい、と問うと微かに頭を傾げた。伸ばした指先に、ちょんと鼻先が触れる。  冷たくて、ぬらりとしていた。 ―クルル  蛟の子が喉を鳴らす。其の声にはまだ幼さがある。  大きくはなっても、まだ子供なのだろう。愛らしさの方が勝っている。  其の様を見て、白菖堂は静かに笑っていた。 「随分と懐かれていますね。…迷子だと仰ってましたが、お世話でもなさっていたのですか」 「いえ、特に世話は…。家の庭に居るのを、見守っていただけです」  本当に何もしていない。池の中に居るあの子を、許容していた。其れだけである。 「其れでも充分だったのでしょう。存在の許容は、ある種の愛でもあります」  隣人愛と言うのでしょうかねぇ、と白菖堂は呟く。 「隣人愛…何でしたっけ、外の国の宗教観の一種だったかな」 「そうですね。ユダヤ教…でしたか」  以前浅学だと白菖堂は零していたが、そんな事は無い気もする。  ふと、気になっていた疑問が上がって来た。  隣に気楽そうに座っている今なら、訊いても良いだろうか。   「白菖堂さん、其の。お訊きしたい事があるのですが」 「はい、何でしょうか」  にこにことしている其の笑顔が、より聞き辛さを助長する。  ええい儘よ。 「言い難ければお答え頂かなくても良いのですが…。ええと、貴方は殿方なのでしょうか。其れとも、ご婦人…?」  年齢すらよく判らない外見である。しかし会って二回目、こんなに近くに居るのに未だに何方か判然としない。  彼なのか彼女なのかは、知っておきたい。心穏やかな御仁なので、此れからの付き合いがある事を望んでいるのである。  問われた白菖堂は暫しふむ、と考え――指を立てて唇の前に持って来た。 「其れは…」 「ふふ、秘密です。秘すれば花と言うでしょう」  こう言うものは判然としない方が良いのです、としれっと言われ私は苦笑した。  仕方が無い、”彼“と仮定しておこう。何時かは教えて呉れるやも知れぬ。  不意に、彼方の空で太鼓に似た音が響いた。  群衆が湧き上がる声が、あちこちで聞こえてくる。 「嗚呼、花火が始まりましたね」    川の近くに居るので、実際の花火は視えない。  ただ、遠くの川面に色とりどりの光が反射しているのが映っていた。  風流ですねぇ、と呟いた白菖堂に黙って首肯する。  何時の間にやら、結構な時が過ぎていたらしい。  遠方から届く、落雷や鉄砲に似た轟音に耳を澄ませる。  少しばかりの寂しさと、昔々の後悔に想いを馳せつつ。  今の出会いが、長く続く事を祈って。  …みそぎする ならの小川の川風に 祈りぞわたる下に絶えじと  蛟の子が、またクルルと喉を鳴らした。
白菖堂再登場回。 江戸の頃、天婦羅等の御馳走は屋台で食べれる安くて美味しいジャンクフードの類だったと聞きます。油も胡麻油で、看板が煤で汚れている程名店の証だったとか何とか。 最後の古歌は新古今和歌集に掲載されている物です。

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