アカトキ / 第12話

拾弐話目:マクワウリ

渡会…視点主。そそっかしい。 ジロー…忠犬。可愛い。 江ノ本…渡会の亡友。面倒見が良い。 里中…渡会の後輩。怖がり。 真桑瓜(マクワウリ)…ウリ科キュウリ属のつる性一年草およびその果実。メロンの亜種。日本では西洋メロンの導入以前より、多数の農家で生産されて来た安価な庶民のメロンで、自然な甘味と歯触りの良さが特徴。『万葉集』にも登場し、歌に詠まれているぐらいには昔から存在しています。
 《《葉月| はづき》》の初め。  常より暑い日の事である。  上等な《《真桑瓜| まくわうり》》を貰ったので、冷して食べる事にした。  貰った理由は御礼である。  先日花火が終わった後。《《白菖堂| はくしょうどう》》と別れて散策していた折に、運良く『《《瀬野屋| せのや》》』の看板娘であるこいとに会う事が出来た。  彼女は留守番の親爺曰く、友人の見舞いに行っていたそうだが…其の連れ合いである紗良と言う人物も、初めましてではなかった。  何と、あの何時ぞやの風琴を弾いていた娘さんだったのだ。  顔見知りだった事にそれぞれ驚きはしたが、私が無害そうな男だった為か直ぐに打ち解けた。そして、こいとに飴細工やらをねだられ紗良の迎えが来るまで駅前を連れ回される羽目になった。役得と言うべきなのか、損だと思うべきかは判らぬ。  実際無害そうに見える自覚はある。詰まる所、害を為せなそうなぐらいに弱そうとも言えるのだろうが。  まぁ、二名の年若い少女達が愉しげにしていたので良しとしたい。  そうして彼女等に着いて行けず、へろへろになっていた処に、漸く彼女の迎えが来て其処で紗良とは別れた。  其の後はこいとを予定通り『瀬野屋』に送り届け、私はやっとこ家に帰る事が出来た…そんな次第である。 「失礼。渡会殿の御宅で、間違いは御座いませんか?」  午前中に我が家にやって来たのは、紗良を迎えに来た《《恰幅| かっぷく》》の良い壮年の紳士だった。  上等な布地のシャツを着ており、裕福そうな印象である。  穏やかな顔で、先日娘が世話になった事を手短に感謝し、御礼の真桑瓜を渡して去って行った。  何やら他にも用事が有ったらしい。降って湧いた見知らぬ男の顔を確認がてら、礼をしに来たのだろう。  帰り際にジローの顔を見て、やぁと挨拶をして撫でて帰って行かれたので、心証はそこそこ悪くは無さそうだった。  此れからも、ジローを温かく迎えては呉れそうである。 「嗚呼、此れまたえらく上等な真桑瓜だなぁ」  紳士が持って来た真桑瓜は、疵一つ無い艶々とした物だった。  真桑瓜は非常に甘い瓜の仲間である。濃い黄色の厚い表皮を持ち、俵に近い形状をした果実だ。  中の果肉は淡い緑色であり、《《芳醇| ほうじゅん》》な香りがする。  夏が旬であり、私も下宿先で暮らしていた時は偶に買っていた。  すん、と表皮の匂いを嗅ぐと仄かに甘い香りがした。丁度食べ頃らしい。  真桑瓜は美味い。しかも上物。想像するだに涎が湧いて来る。  今すぐ切って食べたいが、折角なので冷したい。 「夕飯の楽しみにするか…」  今は我慢だと己に言い聞かせつつ、木桶に水を溜めて真桑瓜を入れた。台所の日陰に置いておく。  扨とと思い直し、紳士が来る前にやろうとしていた洗濯の支度をする。  此処最近、ものぐさが災いしてたくさん洗濯物を溜めて仕舞っていた。流石に着る物が減って来たので、天気の良い今日こそ洗って干したい。  よたよたしながら土間へと洗濯物を抱え、大きな《《盥| たらい》》に水を溜める。そうして洗濯板と石鹸で擦るのだが…此れがまた大変なのだ。  しゃがんでひたすら力を込めて洗うので、腰が痛くなるし腕も疲れる。何なら足も攣る。  しかも今日は酷く暑い。日陰に居ても汗だくになってしまった。  が、洗濯物を溜め込んだのは己が不徳なので、黙って全て洗って絞り終えた。 「お、重い…」  水を吸った衣類は絞っていても重い。よろめきながらも運び、何とか全て干し終えた。  此れだけで疲れて仕舞った。もう汗みずくである。  水浴びでもしたいなぁと思いはしたが、そう言えば風呂釜の掃除がまだだった事を思い出す。  家事一つとは言え今日は大分働いた気もする。しかし水は浴びたい。非常に暑い。  如何したものか。まぁ今日は盥に水を溜めて浴びるかと思っていたら、其処に丁度ジローがやって来た。 「嗚呼、おかえり。散歩でもして、き――う、うわぁ」  洗濯を始めた辺りで外に行く音がしていたので、散歩に向かったのは知っていた。いたのだが。  帰って来た彼は、何故か泥だらけになっていた。田圃にでも落ちて仕舞ったのだろうか。  ぴぃぴぃと鼻を鳴らしているジローに、慌てて近付く。 「い、一体全体何があったんだ?」  怪我でもしてないか心配になったが、其の様子は無い。  が、何だか申し訳無さそうな顔をしている気がする。  もしや、落ち込んでいるのだろうか。 「大丈夫だよ。お前が怪我をしてないなら、何よりだ」  《《唯| ただ》》、此の儘ではおかみさんが引っ繰り返って仕舞うだろう。其れはいけない。  試しに水をかけてみたが、泥は存外にこびり付いている様で、全部は落ちかなかった。  少し離れた位置で、ぶるぶると身を震わせるジローを横目にしつつ、此れは洗うべきかと言う考えが過る。  しかし先程悪戦苦闘しつつ洗濯を終えた処なので、正直な話遣る気は出ない。 「…うーん。でもまぁ、涼を取ると考えるなら良いか」  結局、ジローも洗う事にした。ついでに風呂釜も洗って、私も水浴びして仕舞おう。  こう言うのはあれなのだ、面倒事は一気にやってしまう方が良い。また今度と先延ばしにして仕舞うと、確実に遣らなくなるのである。  己の事は己がよくよく知っている。 「お、お前さんも重いなぁ…うぅ」  ジローを抱えて風呂場まで運ぶ。暴れずに大人しくしていたので助かる。  着ていた《《単衣| ひとえ》》が泥だらけになったが、此れも最後に洗うのでもう気にしない。  盥に水を溜め、其処に入って貰った。石鹸をジローの毛皮に擦り付け、泡立たせる。  が、泡立たせるだけでも一苦労だった。  衣類と畜生一匹では必要な量が大違いである。其れでもジローの特徴的な虎毛は、漸く泡塗れになった。  気持ちよさそうにしているので、濡れたりする事は嫌いでは無いのだろう。  夏毛にすっかり変わっているので助かる。毛がまだ短いので水も泡も浸透しやすい。  わしゃわしゃと手で掻きまわす様に洗う。《《襷| たすき》》掛けに《《尻端折| しりはしょ》》りはしていたが、最早私の着ていた単衣は泡と泥で汚れてびしょびしょであった。  もう脱いで褌一枚で居た方が良い気もする。今更脱ぐのも手間なので脱がないが。  何とか努力の甲斐あって、ジローの毛皮は綺麗になった。  何回か水を掛けて泡を流す。  夏毛だからか、ジローの濡れそぼった姿は常とそんなに変わらなかった。  毛皮からある程度水を絞り取って、乾いた布で拭いてやる。此れも洗濯しなければ。   「ふぅ…さ、玄関にお行き。お天道様に乾かして貰うと良い」  生乾きであったが、後はもう夏の日差しに託すとする。 「さて、次は風呂釜だなぁ」  わんと一声吠えて去って行ったジローを後目に、腰を叩いて立ち上がった。中腰ばかりで、良い加減腰が悲鳴を上げていた。  着ていた単衣を脱いで、雑に絞って一旦帯と共に風呂場の外に放る。洗濯は後だ。  大分疲れてきたがまだやらねばならぬ事がある。此処からが正念場である。  誰も聞いてる者など居なかったが、束子を掴んでよぉーしと私は気合の声をあげた。 「やっと終わった…」  風呂釜と洗濯物を洗い切る頃には既に午になっていた。  褌も脱いで素っ裸で洗う事になったので、干すのは後回しにした。流石に家の中とは言え、全裸で外に出て干すのは《《憚| はばか》》られる。  洗い立ての風呂釜で水浴びをする。夏の生温い空気に晒され、沢山家事をして疲れ切っていたが、冷たい水を被ると熱気も何処か遠くなる。  火照った身体に涼を与えれば、酷使した腕や腰の痛みも和らぐ。 「嗚呼、気持ち良いなぁ」  何とはなしに石鹸で自分も綺麗にする。途端にさっぱりとした。  湯を沸かすと手間が掛かるので、夏の内はこうして水で入るのが一番である。今なら風邪も引かない。  気分が良くなって下手糞な鼻歌交じりで水を浴びていたが、行き成り声を掛けられて文字通り飛び上がった。 「渡会」 「わぁ」  江ノ本の声だった。何時の間にやら来ていたらしい。  下手糞な鼻歌を聞かれて仕舞った。赤の他人より恥ずかしい。  俄かに大きく跳ねた心臓を宥めつつ、戸の方を向く。 「な、何だ脅かすなよ江ノ本。足音ぐらい立てて呉れ」 「無茶を言うな。洗濯ついでの水浴びか?」  そう言えば、追加で洗った洗濯物は絞るだけ絞って、盥に入れっぱなしである。 「まぁ、そんな処だ。ついでにジローも洗う羽目になって大変だったのだ」 「ほう。何だ溝にでも落ちたのか」  いや判らぬと答えつつ、江ノ本が来たのなら上がろうかと思う。  が、其処で大変な事に気付いた。  着替えを持って来ていない。此の儘では、江ノ本が居るのに素っ裸で歩き回らねばならない。  縦しんば旧友と雖も、私にも恥じらいぐらいはある。  一緒に湯屋に行った事は無くもないが、あれは服を脱ぐべき場所でお互いに裸だからこそ恥ずかしくないのだ。裸で居るべきでない状況で、此方だけ裸なのは流石に恥ずかしい。  困った末に江ノ本に話し掛けた。  頼むのも何なのだが、手拭いで前を隠して歩き回るよりましである。 「…其の、江ノ本。一つ頼まれて呉れないか」 「何だ、行き成り改まって」 「き、着る物を持って来て欲しいのだが」  恐る恐る切り出すと、戸の向こうにいるであろう江ノ本が黙りこくる。  もう一回彼の名を呼ぶと、溜め息を吐かれた。 「…如何して持って来ていないのだ」  単純に、やる事を詰め込み過ぎて失念していたに過ぎない。 「仕方が無いな。其の様子だと褌も無いな?」 「うん、忘れて来た…」  暫し待っていろと言われ、手拭いを絞って身体を拭きつつ大人しく待つ。  洗濯物をひいこらしながら洗って干し、何故か泥だらけで帰って来たジローも洗い、再び増えた洗濯物を洗って。止めに下手糞な鼻歌を聞かれた上に、旧友に着る物を持ってこさせる事になるとは。  やれやれだ。  今日は散々な日やも知れぬ。   「ほら、置いておくから後は何とかしろ」 「済まん、有難う」  仕方の無い奴め、と言う笑い交じりの声が遠ざかる。  座敷の方にでも行ったのか、髪を拭いてから戸を開けると既に江ノ本は居なかった。  何だかんだ江ノ本は面倒見が良い。しみじみとそう思う。  着替えて放っておいた洗濯物を干して座敷まで戻ると、彼は籐椅子に身体を預けて庭を眺めていた。  矢張り気に入りの椅子なのだろう。  夏の日差しに艶々と緑を輝かせる庭の景色を、眩し気に見詰める姿は様になる。 「いや、助かった。予定を急に詰めすぎてうっかり忘れていたのだ」 「お前は何時も、見切り発車で予定を立てるからなぁ」  半目で視線を向けられ、頭を掻く。そそっかしい処は昔からである。  思い付きで事を初めて、後々で予定を調整するので大体何処かで《《襤褸| ぼろ》》が出るのだ。  江ノ本は予定を前日から綿密に立てる性格だったので、此処に関しては馬が合わない。 「そう言えば、部屋にある守り袋なのだが」  妙な気配がするな、と言って彼は私室にしている部屋の方を見る。  私は其の守り袋を持って来て、江ノ本に中身を見せてやった。 「あぁ。先日、水難除けで鱗を貰ったから入れているのだ」 「鱗?」  花火の折に蛟の子から貰った鱗には、橋姫曰く水難除けの加護が入っているらしい。瑠璃色の艶めきを宿す《《鱗| うろこ》》を袋の中に戻す。  其の時の話を語って聞かせてやると、嗚呼白菖堂殿かと意外な人物に対して反応が有った。 「うん? 顔見知りなのか」 「父が知り合いだった。あの御仁は、祖父が存命の頃からの付き合いらしい」 「祖父…いや待て。お前の爺様が亡くなったのは、十五年ぐらい前じゃないのか」  如何見積もっても四十に近い歳にならないだろうか。とてもじゃないが、其処まで老けているように見えない。 「そうだぞ。…まぁ、あの方が年齢不詳なのは周知の事実だ」  益々白菖堂の謎が増えてしまった。性別も年齢も判然としない、不思議な人物である。 「そうか。まぁ、良いんじゃないか」  うっかり溺れる事が無くなるのは何よりだ、と笑う彼に何だか釈然としない気持ちになる。  確かに大助かりなのだが…子ども扱いしてはいまいか。 「お前、何だか私を幼子か老人扱いしてないか。其処まで呆けてはいないぞ」 「ぼんやりしすぎる癖を直してから言う事だな」  そう言われてはぐうの音も出ない。  《《憮然| ぶぜん》》となりつつも、守り袋を机に置いて畳に寝転がる。 「飯は食ったのか、しこたま働いたんだろう」  揶揄う様な口調で問われた。 「何なら此間の礼で美味そうな真桑瓜を貰ったが…今は良い」 「如何した、具合でも悪いのか」  別に悪くはない。相変わらず自他共に認める程細いが、頗る健康である。  人が来ているのに美味い物を共有できないのが、何だか嫌なのだ。仏前か掛け軸の前に供えても良いが…恐らく、江ノ本が食べた事にはならぬ。  しかし、そんな事を正直に述べたら彼が帰って仕舞いそうなので、何となくだと誤魔化した。 「楽しみは後で取っておきたいのだ。なので、真桑瓜は木桶で冷やしている」  江ノ本は其れ以上深くは追及しなかった。ふぅんと呟くと、庭へと視線を戻す。  其の儘黙ってしまったので、寝っ転がりながら私は庭と彼を何とはなしに眺めた。  籐椅子に身を預けて物憂げに庭を見る姿は、非常に絵になる。惜しむらくは私に絵の才能が無い事である。  以前、犬を描いたら此れは生物かと問われたぐらいには絵心が無い。  カメラと言う物ならば、此の景色をそっくり写し取って残せるらしいが――いや、抑々其れに江ノ本は映るのだろうか。よく判らない。  と、そんな益体もつかない事をつらつらと考えていたのだが、途中から暑くなって考えるのを止めて仕舞った。  暑い。今日は本当に暑い。  先程水浴びをしてさっぱりとしたのに、もう既に軽く汗ばんできている。  室内は日陰の筈なのに、熱気が入って来ているのかむわりとしていた。 「暑い…」 「今日は一段と暑そうだなぁ」  そう言った江ノ本当人は涼し気な顔であった。  もしや、暑さ寒さ等もう関係ないのか。其れは其れで、些か羨ましい。  ふと思い出す。私が熱を出して寝込んだ日。  彼の手は、とてもひんやりとしていた。 「なぁ、江ノ本」 「何だ」  寝転がった儘の私を江ノ本が見る。  暑くて仕方が無いので、此の際体面とかは気にしたくない。 「涼が欲しいのだが」 「そう…待て。俺で涼を取る気か?」  厭だよ、と本当に厭そうな顔で言われた。  籐椅子の上に足を避難させたので、余っ程されたくないのだろう。何でだ。 「駄目なのか。お前さん、ひんやりとしていたろう」 「あれは…何だ、仕方なくだよ。打ち水でもすれば良かろう」 「日向に出ねばならないじゃないか」  日向に出たら余計暑い。 「駄目だぞ。お前、俺が此の世の存在じゃないの忘れていないか」 「忘れてはいないが…ちぇっ」  幽霊みたいなものだから、迂闊に触るなと言いたいのか。  あれは中々に良かったのに、と呟くと何だか複雑そうな顔をされた。 「じゃあ、雨とか降らせたりは…」 「俺にそんな通力があると思うか。無茶を言うな」  無いのか。そうか。  仕方が無い。夕になるまでじっとするしかない。  耐え切れなくなったら、盥に水でも溜めて足でも漬けるとする。多少はましになるだろう。  籐椅子の上で胡坐を掻いている江ノ本に背中を向ける。腕を枕にしつつ、掛け軸を何とはなしに見た。  ホテイアオイの群生と、優雅に泳ぐ黒い《《鮒| ふな》》。紫の上品な花の色彩は、心を涼しくさせる。  …が、矢張り暑いものは暑い。  江ノ本は此処から出てくる。向こうは涼し気である。 「あっちは涼しそうだなぁ…」  誰にとも無く呟いた独り言だったが、後ろで江ノ本が反応した。 「掛け軸の向こうか。常に霧がかっているし、涼しいんじゃないか」 「ふぅん。そう言えば、此れは先生が描いたんだろう? 何かを見て描かれたのか」  何とはなしの疑問だった。  背後の江ノ本が急に押し黙る。  もしや、江ノ本も知らないのかと思ったが――違った。 「あの湖だよ」  囁く様な声。存外に近く、驚いて振り返る。  何時の間にやら、私の直ぐ近くまで江ノ本が来ていた。胡坐を掻いて、此方を見下ろしている。  逆光になっている所為か…妙に迫力があった。  固まった私に、無表情で静かに言葉を続ける。 「あの湖の、湖上の景色を描いてある。だから、俺は此処から来ているのだ」 「…お前が居るのは、湖底の、極楽か?」  そうだ、と江ノ本は頷く。  嗚呼。矢張り此奴は、あの湖の底に居るのか。  沈みゆく視界。眩しい泡。  穏やかな景色では、あった。  ならば、今の江ノ本も苦しくは無いのか。ならば良いのだが。 「往ってみたいか、啓次」  目を細める。笑っている様な、笑っていない様な微妙な表情だった。  不思議と周囲の空気が、冷たくなった気もする。  此れは若しや――誘われているのか。  覗き込む江ノ本の視線は、あくまで優しい。  静寂が訪れる。蝉の時雨も、葉擦れの音も遠い。  …が、返事に迷っている間に、下らない疑問が浮かび上がって来た。  何だか今の空気を台無しにしそうな問い掛けなので、言葉にするか迷っていたが…其の内江ノ本が目を逸らして口を開いた。 「いや、止めておけ。あっちにはお前の好む食い物が無い」 「嗚呼、そうかぁ…無いのか」  考えがばれている。丁度訊くか迷っていた事ではあった。  食べる事が楽しみの一つである私には、其の回答は往くのを渋るのに十分な理由である。  心の底からの残念な声に、堪え切れなかったのか江ノ本が噴き出す。 「おい、笑うなって」 「お、お前は昔から花より団子だったな…ふふ、く、くく」 「違うぞ、花も団子も同じぐらい好きなだけだ」 「ど、何方か、ふふ、選ぶなら、団子を優先するだろうに…くくく」  顔を背けて震えている江ノ本に、再度憮然となる。  と、何だか暑さが和らいだ事に気付く。  江ノ本が風が吹いて来る位置に移動して呉れたからか、浴びる風に冷たさが加わっているらしい。  気持ちが良い。自分が疲れていた事を思い出し、途端に眠くなって来た。 「…なぁ、触らないから暫く其処に居て呉れ」 「む、お前な…まぁ良いか。居て遣るよ、有難く思え」  胡坐を掻いた上で、器用に膝に頬杖を付いている旧友を眺める。《《態々| わざわざ》》此方を向いているのは、意趣返しのつもりなのだろうか。  江ノ本が此方に手を伸ばす。何をするのかと思っていたら、生乾きの髪を一房摘まむと弄られる。  触るのは嫌がるのに、お前は私に触るのか。いや、髪ならば良いのか?  其の辺の《《塩梅| あんばい》》は、生者である私には判らない。  もう少し眺めていたかったが、瞼が限界を迎えた。   微睡みの世界へと旅立つ私の耳に、微かに朴念仁めと言う江ノ本の声が届きはしたが――其れに文句を言えない儘意識を落とした。 ―カナカナカナ  遠く《《蜩| ひぐらし》》の鳴き声が聞こえる。夕に近いのか、今の刻限は。  曖昧な意識の中、あの湖に行った日の夢を見た。  …江ノ本に誘われて、納涼ついでに湖を訪れた。日差しを反射する湖面が美しかったのを、覚えている。  アヤメが見頃を迎えていて、上品な青紫の花々が鮮やかだった。  二人で散策し乍ら取り留めも無い話をしていたが…其の内疲れて休憩する事にして、江ノ本と少しの時間別れてぼうっとしていた。彼は彼で何かをしに行っていた筈だが、仔細は記憶していない。多分、如何でも良い用事だった気がする。  そうやって湖のキラキラとした輝きに、一人で見惚れていたのだが――其処から途切れ途切れの記憶しかない。  覚えているのは、舟の上の自分。遠くの岸で、此方を見つけて走って来る江ノ本の影。そして、光を反射する水面。沈みゆく視界。  薄れる意識の向こうで、誰かが手を掴んだ感触。あの日の記憶は、此処までである。   ―カナカナカナ  蜩の合唱。仲間と鳴いているのに、其の声は何処か寂しげであった。  私は嫌いでは無い。其の《《寂寞| せきばく》》もまた、趣がある。 「――か。…なら――」 「…――よ。…すから」  誰かと誰かが話している。寝ている間に客が来たのか。  …いや待て、今の声。片方は里中じゃないのか。  脳味噌が俄かに覚醒した。  が、身体がついて行かない。寝返りをうって呻き声をあげると、直ぐ近くに居た声が反応した。 「お目覚めか、渡会」  江ノ本である。まだ居て呉れたらしい。  お陰で大分気持ちよく午睡出来た気がする。  まだ眠気で碌に開かない瞼を擦りつつ、上体を起こす。畳に其の儘寝ていたので若干節々が痛い。 「お早う…。今、何時なんだ…?」 「もうそろ日が暮れるぞ、俺は帰るよ。ほら、お前に客だ」  客か、とぼんやりしながら座敷を見たら、縁側から里中がひょこりと顔を覗かせた。何時ぞや彼が置いて行った釣竿を持っている。  手持無沙汰の待ち時間に釣りでもしていたのか。…おや? 「あ、先輩お早う御座います。勝手に上がらせて貰ってますよ」  寝癖凄いですねぇと言われ、反射的に自分の頭を撫でつける。確かに髪が跳ねているが、撫でても戻りそうになかった。  いや、待って欲しい。困惑しつつも、江ノ本と里中を交互に見る。  確か里中は以前、急にやって来た江ノ本相手に、引っ繰り返って気絶してはいなかったか。  里中はかなりの怖がりである。座談会で怪談話に発展したら、昼間だと言うのに厠への同行を頼み込んで来たぐらいには、怖さに耐性が無い。  其れが、十年前に居なくなった姿其の儘の江ノ本を、平然と視ている。 「お早う…さ、里中。お前、平気なのか」  漸う其れだけ訊けたが、里中には短い問い掛けでも伝わったらしい。  ちょっと罰が悪そうな顔で、顎を掻いている。 「嗚呼…まぁ、何と言うか乗り越えざるを得なかったと言うか。今はそうでも無いです」  私が寝こけている間に、二度目の邂逅を果たしてしまったらしい。惜しい事をした。  江ノ本はそんな私と里中を眺めていたが、じゃあもう行くぞと言ってさっさと掛け軸へと向かう。 「あ、あぁ…江ノ本、また来いよ」 「…また来るよ」  掛け軸の中へ入って行く江ノ本を見る。何度見ても奇妙な光景である。 ―ざぶり、ざぶり  ぎぃぎぃと舟が遠ざかり、霧の中に消えるのを見届けて里中の方を向く。  彼は掛け軸を見て、青白い顔をしていた。  慌てて彼に近付く。倒れられても困る。 「おい、矢張り駄目なんじゃないか。大丈夫か」 「だ、大丈夫…では無いですねぇ。本当に、江ノ本先輩あそこから来るんですね…」  心臓に悪いなぁと言いながら、胸を押さえている。 「…なぁ、里中。江ノ本はお前から見たら、まだ怖いのか」  怖がらない私が奇怪しいのかと思い、尋ねてはみたが里中は苦笑するだけだった。 「昔の儘すぎて、寧ろ怖いですけど…良いんですよ。先輩は怖がらない方が先輩らしいです」 「何だ其れは」  何だか莫迦にされている気もしたが、気を取り直して来訪の理由を訊く。  予想通り新しい原稿の翻訳依頼ではあったが――…何故か彼は、大きな《《自然薯| じねんじょ》》を土産に持って来ていた。 「如何したんだ、此れ」 「上司殿の裏山で採れた奴らしいです。僕一人じゃちと多すぎるんで、麦飯を集るついでに持って来ました」  ほら擂鉢も有りますよと出されて笑う。確かに《《擂鉢| すりばち》》は家に無い。用意が良い。 「仕方ないな、麦とろでも一緒に食べるか」 「へへ、良いですねぇ。じゃあ台所お借りしますわ。麦飯の用意して来ます」  はい此れ、と釣竿を渡された。鮎でも釣れと言う事か。  見れば近くに水を張った桶が置いてある。が、中は空であった。 「何だ、釣れて無いのか? 私が使った時はとんでもなく入れ食いだったぞ」 「うーん…そいつは何と言いますか、欲深い奴が使うと釣れないらしいんです。僕は無理でした」  其れだけ言い残すと台所へと消えて行く。本当だろうか。食い気は多い自覚はあるが。  縁側で腰掛けて釣竿を垂らすと、直ぐに一匹鮎が釣れた。  何故だろうか、釈然としない。釈然としないが、里中の釣果が無いのは事実である。  横を見ると、ジローが小屋の中ですやすやと寝息を立てていた。 「嗚呼、美味いですねぇ」  麦とろとは、自然薯を擂り潰して作ったとろろに醤油や出汁を加えて麦飯に掛けた食い物である。  とろろは喉ごしが良いのでするすると食べれるし、自然薯は滋養に良い。  お供に鮎も三匹焼いた。ジローにも一匹身をほぐして与えて遣る。麦とろと一緒に美味そうに食っていた。  醤油の味がほんのりとするとろろは、実に美味い。麦飯と一緒に搔っ込むと格別なのだ。 「美味いなぁ。お前さんの上司は良い人だな」 「そ…いやいや。先輩、美味い物を呉れるからと言って、良い人扱いしてませんか」 「違うのか」  違うらしい。やれ人遣いが荒いだの何だのと愚痴が始まったので、話半分に聞いた。  こう言うのは話の内容を聞いて欲しいと言うよりも、誰かにぶちまけるのが肝心なのだ。内容への理解は如何でも良いのだろう。  食後に貰った真桑瓜を四等分に切って、里中とジローにも分けた。  一口齧った彼の目が丸くなる。 「うわ、何ですかこの真桑瓜。途轍もなく甘いですよ」 「どれ…うーん、美味いなぁ。上等な奴だけある」  頬が落ちると言う表現は此の為に在るのだ、と思うぐらいには甘い。齧ると果汁が溢れて来る。  貰ったんですかの問い掛けに、そうだと返す。買ったとは訊かない辺りが、私の懐具合をよくよく理解している。  冷えた真桑瓜に舌鼓を打ちつつ、のんびりと宵を過ごす。  美味い物を分け合うのは、矢張り良い気分になる。  にこにこしながら真桑瓜を齧る里中を見ながら、しみじみとそう思う。  此ればかりは江ノ本とはもう出来ない体験である。其れだけが、残念でならない。  残った最後の真桑瓜は、掛け軸の前に置いて遣った。  果たして本当に霧の向こうへ本当に匂いが届いているかは――…生者である私には判らない。
洗濯回です。真桑瓜はメロンの先駆けみたいな果物なのですが、非常に甘くて美味しい。ただ何と言うか幾つか種類が有りまして、物によってはスイカみてぇな縞々だったりまっ黄色だったり色々あります。

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