アカトキ / 第10話

拾話目:ナツツバキ

渡会…視点主。暑さは好きじゃない。 ジロー…忠犬。 おかみさん…おとなりさん。 娘さん…風琴のおうちに住む娘さん。 ナツツバキ…ツバキ科ナツツバキ属の落葉小高木・高木。別名はシャラノキ、サラソウジュ等。インド北部に生えるフタバガキ科のサラソウジュとは別種。白いツバキに似た花を咲かせるが、朝に咲き夕に落ちる1日花。観賞性が高く、日本では冬を越せないインドのサラソウジュの代用として、寺の境内に植えられていたりする。花言葉は愛らしさ。
 《《文月| ふみづき》》。梅雨が明け、庭の土が乾いてきた頃。  無事に帰って来たジローの為に、小屋を建てて遣る事になった。《《祝賀| しゅくが》》の代わりである。我が家に高級な食材は無い。  旧江ノ本邸に残っていた板切れを掻き集めてみた処、一応何とかなりそうなぐらいの材料は集まった。  釘と金槌も納戸から無事に発掘し、さていっちょ建ててやるかと思い立ったものの、此処で問題が浮上する。 「小屋なんぞ、造った覚えが無いなぁ…」  そう、私は小屋造りのど素人なのだ。棚ですら、人生で一度造ったか如何かと言う程度の腕前である。棚は確か直ぐに壊れた。  其れでも何とかジローに棲み処を与えてやりたいので、見様見真似で設計図を描いて唸っていたら小屋らしき物が見えて来た。  設計図《《擬| もど》》きと睨めっこしつつ、とんてんかんと庭の縁先で金槌を打つ。  此処最近気温も上がり、外で作業をするだけでも汗ばむ。汗を拭く手拭いを準備するべきだったかと思ったが、後の祭りである。  釘を幾つか駄目にしつつも、そうやって悪戦苦闘していたら、お隣のおかみさんがひょっこり顔を覗かせた。 「今日はぁ、渡会さん。何をしていらっしゃいますので?」 「嗚呼おかみさん、如何も。いや何、ジローに家を造って遣ろうかと」  私の傍らで腹這いになっていたジローが、おかみさんを見て嬉しそうに尻尾を振った。  寄って来たジローの頭を撫でる彼女は、私の説明を聞いてにこにことしている。 「あらまぁ、其れは素敵! ジローや、楽しみだねぇ」  返事をする様に、ジローがわんと鳴いた。正直、余り期待はしないで欲しい。 「《《生憎| あいにく》》と小屋造りは素人でして。見栄えが良い物は出来ないかと」  苦笑しつつそう言うと、おかみさんは気持ちが大事なんです、とお茶目に口元に手を添えうふふと笑った。 「嗚呼でも、もし上手く出来なさそうならうちにお出で下さい。うちの主人は大工ですから、お手伝いぐらいはさせますよ」  そうだった。お隣の旦那さんは大工である。平日の昼間は不在がちなので会う事が少ないが、何度か遭遇して話をした記憶がある。  無口な御仁ではあったものの、おかみさんと同様に犬好きであるらしくジローを話題に出すと嬉しそうにしていた。  しかし、此れはあくまで私のジローに対する感謝のつもりである。人に頼るのは最終手段にしたい。  礼だけ言ってその場はお茶を濁す。おかみさんは、また夕方に来ると言って去って行った。  今夜の夕飯は頼りにしても良いやもしれぬ。  陽が真上に昇りそうになっている中、作業を再開する。  虎毛の毛皮は熱をよく吸収するだろうに、私の忠犬は大人しく日向で作業を見守って呉れていた。ちらりとジローを見ると、穏やかな団栗眼と目が合う。 「日陰にお行き、暑いだろう」  そう言って聞かせたが、結局一段落着くまで彼は私の傍らに居た。  陽が真上から傾きだした頃、漸く小屋の外枠に壁と入り口を付ける事が出来た。  だが、此処で問題が起きる。 「や、屋根の分が、無いなぁ…」  あれやこれやと悪戦苦闘している内に、屋根にする予定だった板材も使ってしまったのだ。困った。  一旦縁側で休憩して汗を拭いつつ、如何すべきか思案する。ジローも暑そうにしていたので、器に水を入れてやると勢いよく飲み始めた。矢張り我慢をしていたのか。私も手を洗い、顔もついでに洗う。多少はさっぱりした。  確か、駅前には材木問屋が在る。屋根に使う板切れ一枚ぐらいは買えるだろう。  私室には、出版《《書肆| しょし》》宛の郵便に出す予定だった封筒がある。郵便を出すついでに、板材も買うのが無難か。  流石に屋根無しで家とは呼べぬ。いっかな下手糞とは言え、其れを小屋と呼んで贈るのは気が引けた。  封筒と財布を携え、縁先で寛ぐジローに話し掛ける。 「ジローや。郵便を出すついでに、小屋の材料を買って来るよ。お前さんは如何する?」  此の場合の如何するは、散歩に同行するかの誘いである。ジローの場合、一匹で気儘に散歩に出る事もある。其の場合、おかみさんの差し入れに合わせて夕方頃にひょっこりと帰って来るのである。  今日は同行したい気分だったのか、彼は伸びを一つして立ち上がった。尻尾を振って玄関側へと機嫌良く歩いて行く。  分かり易くて助かる。外出する為に、私も向かった。  外に出て、駅へと続く道を歩く。疎らに立つ木々は、柔らかな若葉から固い深緑の葉へと衣を変えている。木陰に差し掛かると少し涼しい。  裏山の方では、《《蝉| せみ》》達が大合唱していた。夏の風物詩である。彼等は十日も経たずに命を落とす替わりに、ああして命を燃やし夏を謳歌する。儚くもあるが、同時に其の鳴き声は力強い。  学生時代、夏の頃に此処を歩くと同じ様な蝉の大合唱に迎えられた。じりじりとした暑さは好ましくは無いが、こう言った夏を感じる音や景色は嫌いでは無い。 「余り暑くならないと良いなぁ」  そう独り言ちる。元々《《磐城| いわき》》の生まれなので、私は暑さに強くない。しかし梅雨明けして直ぐに此の陽気なので、今年は厳しくなりそうな気もする。  帽子を買うべきかと思いつつ歩いていたら、《《小気味良| こきみよ》》い《《風琴| ふうきん》》の音色が聞こえて来た。其れに乗り、以前聞いた事のある歌声が届く。 ―…The elphin knight sits on yon hill,(…妖精の騎士が丘の向こうに座り) ―Blaw, blaw, blaw, wind blaw.(吹く、吹く、吹く、風は吹く)  歌詞に聞き覚えが有る…気が、する。  思わず柵越しの庭に目を向ける。しかし、演奏家の姿は見えない。家の中で弾いているだろうから、当然と言えば当然か。  夏を迎え始めた庭には、一際目立つ若木が白い花を咲かせていた。ツバキに似た真っ白い花弁と、鮮やかな黄色く大きな雄しべを持つ植物である。  あの樹は山寺にも在った。和尚曰く、ナツツバキと言う名らしい。別名はサラソウジュだとも言っていた。  ただ如何にも歌が気に掛り、花の美しさは棚上げして必死に記憶を辿る。  …嗚呼そうだ、確かに同じ歌を聴いた。  何時だったか、恐らくは欧州に留学していた折だろう。あの頃、居候先には私より九ばかり年下の少年が居た。  彼は音楽家を目指しており、暇さえあれば《《洋琴| ようきん》》――彼方だと確か、ピヤノだったか――其れを演奏しながら伸び伸びと歌を歌っていたのだ。  其の時の記憶が呼び起こされたらしい。  しかし悲しき哉、留学していたのは八年程前の事だ。細部の記憶が曖昧過ぎて、曲名を思い出せない。 ―He blaws his horn both lowd and shril.(彼が吹く角笛は、大きな音で甲高い) ―The wind hath blown my plaid awa…(其の風は、私の肩掛けを吹き飛ばした…)  軽やかな若い女性の声が、歌詞を紡ぐ。全く表題を思い出せないが、美しい歌声だったので足を止めて聴き入って仕舞う。  しかし、彼女もうろ覚えなのだろう。其の後の続きは鼻歌で口ずさんでいた。  演奏が終わるまで目を瞑っていたが、やがて私は我に返る。柵越しとは言え他所の家の庭先である。  痩せた男と犬が一匹と言う奇怪な組み合わせは、不審者に他ならない。  ナツツバキと歌声の余韻ををもう少し楽しみたい欲は有ったが、私は《《世間体| せけんてい》》を取った。首を傾げるジローに咳払いをし、行こうかと促す。促すも何も、私に合わせて彼は立ち止まっていただけではあったが。  日差しが少し辛くなってきた頃、駅前に着いた。直ぐさま郵便局へ向かい、封筒を出す。 「嗚呼、暑いなぁ。よし、ジロー、待たせたな」  外で大人しく舞って呉れていた忠犬を撫でてやる。彼のふかふかとした頭は大分熱かった。水なりなんなりやりたいし、私も正直喉を潤したい。  冷しあめでも売ってないかと思い、駅前をうろついてみる。すると、冷しあめでは無いが水分補給に良さそうな露店が在った。  青果の移動販売である。《《胡瓜| きゅうり》》が山の如く積まれており、深緑の長物が何とも美味そうだった。  江戸時代の頃は黄色く熟した胡瓜が主であり、余り好まれる食い物では無かったらしい。末期の頃に品種改良がなされ、今の上手い胡瓜が定着したと聞く。改良して呉れた農家には足を向けて寝れぬ。  夏の胡瓜は大好物である。冷やして食うととても美味いのだ。身体も冷えるし歯応えも良く瑞々しく、しかもそこそこ安い。私にとっては救世主が如き野菜だった。 「ジロー、胡瓜は食った事あるかい?」  そう訊くと不思議そうな顔をする。ふむ、食った事は無いのか。  余計な寄り道である自覚はあるが、喉の渇きには代えれぬ。買わせて貰おう。  店番をしていた男に話し掛ける。気怠げな顔で空を見ていた若者は、此方を見て直ぐに愛想の良い笑顔を浮かべた。  冷やした胡瓜も有ると言うので、其れを二本と山積みを十本。此れでも大分奮発した方である。 「其の犬っころにもあげるんで?」  若者も犬好きらしく、そうだと答えたらそりゃ良いですねとおまけで倍量を袋に詰めて渡される。合計二十本に化けた。 「おい良いのかい、こんなに貰って」  慌てて尋ねると、売れ残る方が困るんで貰ってやって下さいと逆に頭を下げられる。確かに、山積みの胡瓜を持ち帰るのは一苦労だろう。  思えば客入りは少ない。美味いのに勿体無いとは思うが、皆暑くて露店を見る余裕が無いのだろうか。  冷えた胡瓜も渡され、私はふと考え付いた。胡瓜を冷やしている桶は、積まれた胡瓜に隠れる様に置かれている。  …此れは、寧ろ桶を見せるべきでは? 「なぁ店主よ。山積みの胡瓜を前面に出すのでは無く、桶で冷やした胡瓜を売りにしては如何だ」  皆涼を求めてはいる筈だ。冷えた胡瓜が見えたら、其れに釣られるのではと思ったのだ。 「冷やし胡瓜を…嗚呼確かに! 御主人、感謝しまさぁ」  若者は俄に明るい表情になった。それじゃあと言って離れてから振り返ると、桶で涼む胡瓜を見て客に成りそうな人影が誘蛾灯の如く引き寄せられていた。  うむ、良い事をした気がする。  木陰に移動して、其処で腰を下ろす。  傍らに畏まるジローに胡瓜を差し出すと、ぽきりと良い音を鳴らして半分齧り取った。ぽりぽりと咀嚼する音を聞きつつ、私も齧る。 ―ぼりっ  とても良い音が鳴った。胡瓜は歯に沁みそうなくらい冷え切っている。咀嚼すると、青臭い風味の中からどんどん瑞々しさが溢れて来た。矢張り夏の胡瓜は美味い。もう一発齧る。うん、美味い。  初めての胡瓜は、ジローとしても中々に好みの味だったらしい。残りも咥えると、あっと言う間に食べ切ってしまった。彼は食べるのが上手い。口の構造的に零れやすい筈なのだが、胡瓜の残骸は殆んど地面に落ちていない。器用な犬である。  私も夢中で完食し、暫し其の儘休憩する。 「へいらっしゃい」  ジローの背中が冷めてきたのを確認し、材木問屋へと向かった。犬と男の組み合わせは奇妙に見えるのか、怪訝な顔をされる。  仔細を話すと、ほほぉと感心する様な声を店の親爺が上げた。《《梟| ふくろう》》みたいだと思ったが、実際親爺の顔も何だか梟に似ている。 「屋根に使う分の板材二枚ぐらいなら、差し上げますよ」  木材を売るとなると、事情が変わって仕舞いますと親爺が言う。  如何にも、此の材木問屋では個人に対する木材の取引を行っていないらしい。成程、板材を一枚だけと言うのは難しいのやも知れぬ。  しかし、只で貰うのは流石に気が引ける。其れならせめてと今日は何人勤めているのか尋ねた。  不思議そうな顔で五人ですよと答える彼に、胡瓜を五本差し出す。 「ただで貰うのは忍びないので、宜しければ冷して食べて下さい」  そう言うと、親爺は相好を崩した。 「や、お構いなく…と言いたい処ですが、此の陽気では有難い差し入れですわ。皆で頂きます」  有難そうに受け取ると、代わりに板材を持って来て呉れる。 「ワン公、良かったなぁ」  私に板材を渡し、店の親爺はわっしわっしと力強くジローを撫でた。彼も犬好きだったか。  持つべきものは忠犬と言うべきだろうか。今日はジローが傍に居るお陰で、万事上手くいっている気もする。  礼を述べて其の場を去る。  扨此処からが踏ん張り処である。板材はそこそこ重いのだ、頑張って持ち帰らねばならない。おまけに片腕には胡瓜の袋と来た。  つまり、片腕で板材を抱え、もう片方で胡瓜の袋を抱えているのだ。歩き難い上に板材は持ち辛い、二重苦である。  此の痩せた身では些かきつい。偶に休みつつも、陽が照り付ける中を歩く。ジローが心配そうに先導しながら此方の様子を窺っているが、流石に畜生の身ではして貰える事が無い。 「だ、大丈夫だ。ふぅ…はぁ…」  直ぐに汗みずくになってしまった。木陰に避難しつつ、袖で汗を拭う。  思えば快癒して其処まで日は経っていない。何て事は無い風邪っ引きだったが、其れでも病み上がりは病み上がりである。体力が落ちているのか。  …いや、体力の無さは元々だった。  外で力仕事をしない分、体力もつかないのである。うーん、情けない。  しかしだからと言って、折角もらった板材も買った胡瓜も此の場に置いては行けぬ。  よし、と再度腹を括り二つとも抱える。駅前からは既に離れ、何時もの疎水沿いの道である。  此処さえ抜ければ後は家だ。ちょっと休んで、ジローの小屋を完成させよう。  日が傾いてきている為、多少暑さは和らいで来ている。其れだけが有り難い。  息を切らしつつも、帰路を急ぐ。  先刻通ったあの家の横道を、通過しようとしていた折だった。  機嫌の良さそうな鼻歌が、風に乗って聞こえて来た。風琴の音はせず、如何にも其の御仁は庭に出て来ているらしい。  思わず、足を止めてしまう。丁度良く木陰も在ったので、一旦休む。  板を一度地面に立て、大きく息を吐く。  透き通る其の声は、風琴の音色が無くとも麗しい。箒で掃き掃除でもしているのか、其れが音楽の代わりであった。 「…どんな方だろうなぁ」  恐らく、風琴を弾いていたのも歌っていたのも此の御方だろう。一体全体、どんな人だろうと気にはなる。  なるが、不躾が過ぎる。此の儘そっと柵越しに眺めるのは、余りにも失礼だろう。  こう言う時に、光源氏と言った物語の主人公ならば一も二も無く覗きに行くのだろうが、生憎私は肝の小さい小市民である。  機嫌の良さそうな鼻歌を聴きながらも、よし続きをと板切れを再度持ち上げようとした時だった。ふと横を見るとジローが居ない。 「あれっ? ジ、ジロー?」  慌てて小さな声で呼ぶも、茂みからあの笑顔がひょっこり顔を出す事は無かった。まさか、此の短時間で行方不明になって仕舞うとは。  何処だ何処だときょろきょろしていると、不意に柵の向こうから聞き馴染みのあるジローの声がした。  まさかと思いつつ耳を澄ませる。すると、其のわんと言う声に鼻歌が止んだ。 「あら、こんにちはこぐまちゃん。元気にしてた?」  ころころと笑う声は快活で少し幼さがある。鼻歌の主は、存外に若い娘さんなのやも知れぬ。  柵から覗くのも憚れるが、ジローは呼び戻さねばならない。  娘さんとジローが戯れる声を聞きつつ、咳払いをして声を掛ける。そっと柵へと近付く。 「其の、もうし」  はぁいと反応が有り、暫くして件の人物が顔を覗かせる。  髪を三つ編みにした娘さんだった。年の頃は『《《瀬野屋| せのや》》』の看板娘であるこいとと同じぐらいだろうか。  西洋の血を少し引いているのか、《《若草| わかくさ》》色の瞳を丸くしていた。 「まぁ、汗びっしょり。…如何なさいました、御気分が優れませんか?」 「嗚呼いえ、此れは暑さの所為です、お気になさらず。其の、先程うちの犬の声が…」  しまして、と言い切る前にジローが娘さんの直ぐ横から顔を覗かせた。 「ジロー、やっぱり勝手に入り込んでいたのか」  心配したぞ、と言う私にジローは首を傾げる。娘さんはジローの背中を撫でながら、あらと同じ様に首を傾げた。 「此の子、偶に一匹でうろついてるのですけど…もしや、飼われている子だったのですか」  そう言われると飼っているかは怪しい。寧ろ世話にはなっている。名付け親は江ノ本であり、ジローのご飯を融通して呉れているのはおかみさんなのだ。私は其処まで世話らしい世話をしている自覚は無い。  唯我が家の庭で寝泊まりはしているので、家に居着いてはいる筈である。 「私が飼い主かは、少々自信が無いのですが…家に居着いてはいますね」  曖昧な返事を返すと、娘さんはころころと笑う。笑顔が可愛らしい。 「ふふ、不思議なお返事ですね。でも、貴方が此の子を大切に思っているのは、判ります」  そうなのだろうか。いや、そうではあるのだろう。実際、ジローが家に居ると落ち着くのである。  ジローは満足そうな表情で此方を見詰めている。もしや、私が歌声の主を気にしていたのを見越して、庭に侵入したのだろうか。流石に其れは無い気もするが。 「こぐまちゃん、貴方本当はジローってお名前なのね。…此の子ですね、偶にうちへ遊びに来て、庭で休んで何処かへ帰って行っていたんです」 「嗚呼、そうなのですか」 「飼われていないにしては、毛並みの綺麗な子だったので。お父様と此処の近所の子なのかと度々話しておりました」  確かに、此の家と私の住む旧江ノ本邸は歩いて行ける距離ではある。 「我が家と此処は、少し近いかもしれません」  家の場所を教えると、娘さんはあれ、と不思議そうな顔をする。 「其方は確か、御年配の方が御一人で暮らしていた様な…」 「私の恩師なのです、家守をする事になりまして。春から彼の家を預かってます」  成程と娘さんは納得した風だった。 「だからなのですね…。其の、怒らないであげて下さいませ。さっきも、私が喜ぶから庭に来て呉れた筈なので」 「まさか、怒りませんよ。大人しいので、貴方のお庭を荒らしたりはしていないでしょう?」  慌てて尋ねると、勿論ですと娘さんは太鼓判を押す。  と、其処でジローが娘さんを見てわん、と吠えた。 「あら、もう帰って仕舞うの?」 「そうだ。其の、帰ってジローの小屋を完成させねばならないのです」  少々残念そうな娘さんに、外出の目的を告げる。日が暮れる前に屋根を付けねば、暗くなっては釘が打てない。  私が抱えている板材とジローを交互に見て、娘さんは嬉しそうにまた笑った。 「まぁ、自分のおうちが出来るのを楽しみにしているのね。其れなら仕方ないわ」  少し待っていて下さいね、と娘さんは一旦家の中へと上がって行った。  戻って来た彼女の手には、《《剪定| せんてい》》用の鋏が握られている。  其れを持ってナツツバキに近付くと、まだ蕾のついた枝を幾つか切り出した。  出掛ける前に見たナツツバキには、幾つか花が付いていたが…夕方に差し掛かりかけた今、花は落ちてしまっていた。そう言えば此の花は、朝に花開き、夕には落下する儚い一日花ではなかっただろうか。何とも、短命な美しさである。  其の蕾の付いた枝を、娘さんは懐紙に包んで纏めるとジローに咥えさせる。ジローは優しく其れを受け取った。 「ジローちゃんの新築祝いです。一日で散って仕舞いますけど…私のいっとう好きな花なので」 「ナツツバキですね、有難う御座います。飾らせてもらいます」  しかし貰いっぱなしも頂けない。彼が此方に戻って来る間に、袋から胡瓜を三本取り出す。上品なナツツバキの花束に見合うものでは無いが、今返せるものが此れしか無い。 「其の、恐らくは、彼もまた遊びに行って仕舞うと思うので…此れからも、迎えてやって下さい」  其の言葉に、娘さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。ナツツバキに似た、清楚で美しい笑顔だった。 「嗚呼。つ、疲れた…」  何とか家に帰り着き、日が暮れる前にジローの小屋を完成させた。凡そ屋根と呼べるかは怪しい外観だが、少なくとも雨は防げる筈である。  玉袖垣の直ぐ近くに小屋を置いてやると、ジローは嬉しそうに其の中に収まって《《寛| くつろ》》ぎ出した。ふむ、大きさは問題ない様だ。  へろへろになりつつも、花瓶に水を入れナツツバキを挿す。此の花瓶は、以前貰ったセイヨウツツジを挿していた物だった。物臭が発動して、納戸に仕舞わずにいたのだ。《《縁| ふち》》が欠けているが、青磁の色合いは大変に趣がある。  何とはなしに睡蓮鉢の近くに置く。水面のホテイアオイは少しずつ成長し、此間とうとう蕾らしきものを付けた。此の儘、綺麗に咲いて欲しい。  其れにしても、矢張り胡瓜は買い過ぎてしまった気もする。もう少ししたら、おかみさんがジローにお裾分けを持って来て呉れる筈なので、日頃の礼も兼ねて幾つか渡させて貰おう。  涼しくなり出した風に縁側で吹かれつつ、桶に水を入れて胡瓜を冷やしていると、唐突に思い出す。  娘さんが歌っていたのは、英吉利の旧い童謡だ。曲名は確か…。 「《《妖精の騎士| エルフィンナイト》》、だったか…」  そう独り言ちる。朧げな古い記憶と、今日の新しい記憶を辿る。下手糞ながらも、私も歌を口遊む。 ―The elphin knight sits on yon hill,(妖精の騎士が丘の向こうに座り) ―Blaw, blaw, blaw, wind blaw.(吹く、吹く、吹く、風は吹く)  娘さんの様に美しくは歌えない。しかし、其れでもジローは目を瞑り、私の歌を聴いている風であった。 ―He blaws his horn both lowd and shril.(彼が吹く角笛は、大きな音で甲高い) ―The wind hath blown my plaid awa…(其の風は、私の肩掛けを吹き飛ばした…)  愛らしいナツツバキの蕾が、一際強い風に吹かれて鈴の様に揺れた。
風琴弾きの娘さん登場回。彼女は英吉利人とのハーフ。明治中期時代、風琴等の楽器を持っている一般家庭なぞはほぼありません。あるとしたらよっぽどのお金持ちなのでしょう。 妖精の騎士(エルフィンナイト)は海外民謡の1つ、スカボローフェアの原曲となる物です。妖精との問答を歌にしたものであり、当時の宗教観とかがうかがえて面白いです。

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