アカトキ / 第5話

伍話目:餅草(もちくさ)

渡会…視点主。優しい男。 ジロー…物の風情が判る賢い犬。 和尚…山寺の主。人が善い。 江ノ本…亡友。死後も何だかんだ忙しそうにしている。 餅草(もちくさ)…蓬(ヨモギ)の別称。キク科ヨモギ属の多年草。春の地表に生えた若芽は食用になり、餅に入れられる事から餅草と呼びます。日本の在来種であり、新芽は餅以外の様々な料理に使われます。香りがよく、シュンギクに似た風味。多くの薬効があり、「ハーブの女王」の異名を持つ。
 《《卯月| うづき》》の半ば。 ―ホー、ケキョキョケ  庭の何処かで、《《鶯| うぐいす》》が鳴いた。しかし、如何にも下手糞である。  此れは此れで《《趣| おもむき》》がある、悪くはない。  春告げ鳥としては些か遅い恋の告白だった。鳴いてる鶯は《《寝坊助| ねぼすけ》》なのだろう、私に似ている。  飛び立つ音を聞き届けてから、《《扨| さて》》と庭に出た。ジローを呼ぶ。  顎を前足に乗せ庭先を見ていた彼は、私の呼び声に顔を上げた。両の耳がぴくりと此方を向く。 「ジローや、私は郵便を出しに行くよ」  ついて来るかい、と問うてみたがジローはふわぁと《《欠伸| あくび》》をして再び寝の体勢に戻った。否定の意を汲んで、一人で家を出る。駅前の郵便局に向かう。  此処最近ジローは私の頼み事を律義に守っているらしく、並んで外出をしようとしない。  家に誰も居ない時間が無い様に、迷子の《《蛟| みずち》》の子どもを見守っているのだ。散歩に行くのは私が在宅している時で、其れも四半刻も経たずに戻って来る。  迷い子の存在が判明する少し前は私と心行くまで外を歩き回っていたので、散歩が嫌いな訳では無い。風情が判る賢い忠犬は、我慢しているのだ。蛟の子の為に。  見張りを頼んだのは私とは言え、少々申し訳ない気持ちになる。ジローの為にも早く何とかしてやりたい。  田圃沿いの道を進み、郵便局に着いた。《《出版書肆| しゅっぱんしょし》》《《宛| あて》》の郵便を頼み、外に出る。  此れでまた懐が温かくなる。しかしまぁ翻訳仕事なぞ、世間一般の賃金としては安い方だろう。また里中から仕事を貰わねばなるまい。  其れでもちょっとだけ心が弾んだので、少し寄り道をする。財布を覗くと僅かばかりの小銭があった。甘味一袋ぐらいは買えるだろうか。ジローにも食わせてやりたい。  駅前から歩いて直ぐの場所に、団子屋が一つ在る。老舗であり、私も何度か甘味を購入させて貰っている。知り合いへの土産に丁度良いのだ。  店先を覗くと、色取り取りの甘味の中に、一際目立つ緑が在った。平たく丸められており、深緑の色合いをしている。  《《蓬餅| よもぎもち》》である。《《糝粉| しんこ》》を《《捏| こ》》ねて蒸し、中に若い蓬の葉を加えてついた餅菓子だ。ほう、と興味がそそられる。  私には《《餅草| もちくさ》》と言う名の方が親しみがあった。郷里ではそう呼んでいたのだ。蓬と言う名を知ったのは、上京してからだった。  串の団子も気にはなったが、今回は此れを一袋包んで貰う。受け取る際に、ふわりと好い匂いがした。 「またどうぞ」  にこにこと笑う店の親爺に会釈し、離れる。存外にずっしりとした重さを懐に感じ、自然と脚も軽くなる。  もうすっかり暖かくなった。ぽかぽかとした陽気は《《如何| どう》》にも眠気を誘う。  此れは《《寧| むし》》ろ昼寝をしない方が春に対して失礼な気もする。帰ったら縁側で昼寝でもしてしまうか。  そう思いながらぼんやりと歩いていると、丁度山寺の階段付近で和尚と落ち合った。  誰かに肩を貸していた為、驚いて駆け寄る。 「こんにちは和尚殿、如何なさいましたか」 「オゥ渡会さん、ちょいとな。用事から戻ったら、此の《《御仁| ごじん》》が階段に座り込んでおったのだ」  肩を貸している相手を見ると、淡い鶯色の帽子にシャツの二十ばかりの男性だった。柔らかな癖のある黒髪の下の顔は、何とも血の気が無い。 「御気分が悪いのですか」  そう尋ねると、若者は黙ったまま頷く。喋る《《余力| よりょく》》も無いようである。怪我が有る様には見えなかったので、貧血だろうか。 「此処で休ませるのもと思ってな。ちと大変だが上まで連れて行きたいのだ、其処なら寝かせてもやれる」  手伝って呉れと言われ、私は迷いなく片側に回った。若者の背中を支えてやる。 「ゆっくり上りましょう、片側から私が支えます。頑張って」  そう励ましながら、いつもの倍の時間を掛けて山寺の石段を上った。途中、何処かから鶯の鳴き声が響く。 ―ホー、ホケキョ  手本になりそうな程の綺麗な発音だった。其の鳴き声が耳に入ったのか、下を向いていた青年が《《僅| わず》》かに顔を上げる。  しかし喋る事は無く、黙りこくっていた。  《《漸| ようや》》く上まで辿り着いた。彼が途中で後ろに倒れ込まなかった事に安堵する。そうなった場合、私では支えきれるか自信がなかったのだ。 「ほれ、お前さんもうちょっとだ。縁側に座りなさい」  和尚は庫裏にある縁側まで若者を連れて行くと、其処に座らせる。ぐったりと、男は目を瞑っていた。 「渡会さん、面倒を《《暫| しば》》し見ててくれ。水でも持って来よう」    若者を素人目ながら診ている私に一声掛けると、玄関へと入って行く。  後に残された私は、何かしてやれないかと様子を窺い続ける。 「もし、貴方。意識はありますか、私の声は聴こえていますかね」  縁側に腰掛ける若者の前に屈んで目線を合わせると、漸く彼は目を開けた。私の問い掛けに、僅かに《《首肯| しゅこう》》する。  其の目に何だか奇妙な違和感があったが、体調の方が気に掛ったので其れを振り払った。そんなもの些事だ、今は。 「何か、欲しいものは有りますか? お水なら和尚殿が今準備して下さっていますが」  そう尋ねると、目の前の彼はことりと小首を傾げた。自分の状態が如何なのか、確かめる為に考えている様に見える。  急かさずに其のまま待っていたが、不意にきゅうと言う可愛らしい音がした。思わず件の方向を見てしまう。  音が鳴ったのは、若者の腹からだった。戸惑うような彼の顔と、シャツ越しの腹を私の視線が往復する。  気まずい沈黙が流れたものの、私は気を取り直した。 「…もしや、腹が空いていたり…しません、か?」  そう訊くと、彼は困った様に考えて――…頷いた。空腹の自覚が無いのかもしれない。  しかし空腹かぁ、如何しようか。偶さか和尚に頼むのも気が引ける。彼ならば、人助けで何か食わせてやるぐらいは躊躇わなさそうではあるが。  と、懐の重さを思い出した。そうだ、良い物があるじゃないか。  自分とジローの為に購入した蓬餅だったが、緊急事態である。半分ぐらいなら構わない。  懐から包みを取り出し、不思議そうにしている彼の掌に餅を二個持たせた。 「此れは餅です、草が練り込まれた甘味です。餅なら腹にも溜まりましょう」  だが餅だけでは喉が渇く。些か早急過ぎたかもしれない。  此れは和尚が戻って来るのを待つべきだったかと思ったが…其処に折よく家主が返って来た。湯呑を持っている。 「ほれ、冷たい水だ――む。それは蓬餅か」  青年は自分の傍らに置かれた水の入った湯呑と、掌の餅を交互に見つめている。 「喉に詰まらせないように、ゆっくり食べて下さい。水を飲みつつ食えば、大丈夫ですよ」  そう告げると、若者はおずおずと餅の端っこを口に入れた。はむりと食んで、恐る恐る咀嚼していたが美味い物であると認識したのか、子供の如く目を輝かせた。  私の忠告に従いつつちびちびとながら確実に食べて呉れている彼を、和尚と私で声を《《顰| ひそ》》めつつ見守る。 「何だ、もしや空腹で《《眩暈| めまい》》でもしていたのか」 「そうかもしれません。何も食べずに動いていると、倒れたりはしますから」  何か重大な病ではなさそうなので、私は胸を撫で下ろした。良かった。  初対面であれ知り合った者がいきなり戻らぬ人になりでもしたら、私も暫く寝込みかねない。  青年は時間を掛けて二個とも完食した。水も飲み干すと、安心した様にほうと息を吐く。  そして少し離れた処で様子を窺っていた我々に、深くお辞儀をした。丁寧な一礼に、思わず私も会釈する。  落ち着いた様だ。  彼に話し掛けようとしたら、 ―ホー、ホケキョ  とまた鶯の鳴き声がした。其の声に反応し、若者はきょろきょろと辺りを探っている。何やら焦っている風でもある。  一体如何したのだろうかと思っていたが、和尚がぽつりと呟いた。 「迎えが来たようだ」  ほれ、と指す先に鳴き声の主が居た。少しばかり小柄の鶯が、《《菩提樹| ぼだいじゅ》》の《《梢| こずえ》》に留まっている。此方を窺っている様にも見える。  唯迎えとは何なのだろうか。和尚の顔を見て理由を尋ねようとした、次の瞬間だった。 ―ホー、ケキョキョケ  と、直ぐ近くで鳴き声がした。ついで、パタタタと《《羽搏| はばた》》く音。  丁度若者が座っていた縁側の辺りだった。驚いて振り返ると、誰も居ない。先程まで座っていた彼の姿が消えている。  替わりに、小さな鳥影が菩提樹に留まる鶯の元へと飛び立っていった。素早過ぎて目で追えなかったが、あれも鶯だろうか。  彼等はすぐさま飛んで行き、何処に行ったのかも分からなくなる。其処には、《《葉擦| はず》》れの音だけが残された。  口をあんぐりと開けたまま固まっていると、横の和尚が空を見上げながら言った。 「あれは《《番| つが》》いだろう。空腹か何かで飛べず、ほとほと困り果てていたのだろうな」  では、何か。あの帽子を被った若者は、鶯だったのか。 「…和尚殿は、気付いておられたのですか」 「途中からな。人にしては軽すぎた」  そうか、彼は若者に肩を貸していた。重さで人外の類だと見抜いたらしい。其れでも《《態々| わざわざ》》上まで運び介抱してやったのだから、和尚も人が善い。  驚きはしたし、化かされたと見るべきかもしれないが…何だかすっきりした心地であった。 「私は、彼を助けれたのでしょうか…」  そう訊くと、そりゃァ間違いなかろうと和尚は太鼓判を押してくれた。懐の袋は軽くなったが、心も少し軽くなる。悪い気はしない。  其れから碁打ちをしないかと誘われたものの、流石に辞退した。 「申し訳無い、ジローに留守を頼みっぱなしなのです」  我慢してくれている忠犬を、此れ以上待たせるのは気が引ける。また来いよと言う科白に承諾し、私は山寺を後にした。  自然と急ぎ足になり、帰りつく頃には軽く汗を掻いていた。そろそろ初夏の陽気になりかけている気もする。 「戻ったぞジロー、お前も散歩に行って…おや」  縁側に向かうと、其処に江ノ本が座っている。ジローはその傍らで、畏まって座っていた。  私を見て嬉しそうに笑うジローに只今と告げると、彼は片眉を上げる。 「遅かったな、寄り道でもしていたのか」 「あぁ。ちょいと、人助けならぬ鶯助けに巻き込まれていたのさ」  ほう、鶯助けと呟く彼の横顔を見る。今日の話を喋りたくはなったが、それよりも江ノ本が横に置いている竹筒が気になった。蓬餅の袋を一旦座敷の机に置く。後で食べよう。 「其れよりもだ、何か進展はあったか」  竹筒は恐らく件の蛟に関わるものだろうか。  江ノ本の横に胡坐を掻くと、彼は頷く。 「あぁ、今日は其の件で来た。池に迷い込んできた蛟の子どもだが…矢張り水天宮の使いの子だった」 「そうなのか…。いやしかし、水天宮の付近の水場と此処に繋がりは無かろう? どうやって迷い込んだんだ」  此処の疎水の流れからして、水天宮付近の川には繋がりは無い筈なのだが…気になって尋ねる。  江ノ本は腕を組みながら池を見つめている。水面は山から流れて来る流水で少しばかり騒めくばかりで、静かな儘だった。  自分が会話の中心であるとは思っていないだろう、あの子も。 「ふむ。…俺もまぁ、神の使いの御家事情なぞ知る由も無いが…どうやら家出をしららしい」 「い、家出か。するのか、化生の類も」 「するようだな。俺も面食らった」  彼から聞いた話を要約すると、蛟の子の動向が漸く判った。  最初は、水天宮の水場の流れを組む川を上って深山の奥まで行ったらしい。其処で暫く居着いていたが…ある時《《野分| のわけ》》の雷と増水に驚いて、別の川へと流れてしまう。此の川は旧江ノ本邸の裏山を流れる水路の一端を担っており、流れ流れて《《彷徨| さまよ》》った末に此処の疎水へ迷い込み――池に居着いてしまった。此処から先は水路も狭く、田圃沿いの小川にしか繋がっていない。 「繁殖したホテイアオイの影響もあったのだろう」  そう呟く江ノ本に私は得心した。池の中に無数の根を下ろしていたホテイアオイは、如何やら隠れ蓑であり行き止まりを示すものだったようだ。 「何時からあの子は居たんだ?」 「如何だろうな、野分の頃と言うならば夏か秋以降だろうが…。其処からずっと居たと言うなら、長居していると言っても良いかもしらん」  ふぅむ、と考える。私は蛟の子の気持ちが何となく分かってしまった。  外の世界へと憧れ、飛び出たくなる気持ち。其のまま親と同じように水天宮の使いとして生涯を過ごす事が、あの子も厭になったのだろうか。  郷里を思い出す。決して悪い土地では無かった。自然は厳しく冬は手足が凍り付きそうになったが、梅雨の時期に食べた桑の実の甘酸っぱさも、緑深い山々も桑の葉を摘んでお《《蚕| かいこ》》様の世話をするのも嫌いでは無かった。  唯、私の上には兄が居て。あそこでの私の役割は、彼が如何にかなった際の替わりでしかなかった。そうして一生を終える事は、辛い事だと思っていた。  だから、流されつつも結局己が意思で此処に居る。郷里に大した便りも出さぬまま、大それた展望も無く今日を生きている。  ふと気づくと江ノ本が此方を見ていた。私がだんまりになったのを疑問に思ったのかもしれない。  何でもないと首を振り、先を促す。 「其れで、如何するのだ。親元は帰ってきて欲しいのか」 「いや、問うては見たが煮え切らぬ答えしか来なかった。戻らなくても良いらしい」  其れは――、些か《《薄情| はくじょう》》すぎやしないか。  私の不満が顔に出ていたのか、江ノ本はまぁ落ち着けと言って横に置いていた竹筒を手に取った。中に液体が入っているのか、ちゃぽんと音が鳴る。 「替わりに此れを預かった」 「何だ此れは、中身は水か?」  あぁ、と頷いた江ノ本は更に続ける。 「唯の水ではない。駅前の付近に川が在るだろう」 「在るな。あそこは大きな方ではないが…待った、もしや其処の水なのか」  そうだ、と頷き彼は再び竹筒を置いた。 「蛟は土地と言うより水に居着くらしい。こいつは、川の水と水底の砂が入っている。垂らしてやれば、其の水場に往き付けると聞いた」 「はぁ…私にはよく判らないが、そうすればあの子は其処まで往けるんだな」 「自分で往けない訳では無く、単純に何処へ居着けば良いか判然としていないのだろうな。此処は狭すぎる、何れは池からはみ出てしまう」  確かに此の池は小さい。蛟がどれ位になるのかは知らないが、まぁ化生の類だろうし普通の蛇よりは大きくはなるだろう。 「だが、故郷に戻さずとも良いのか。…其の、我々の感覚に当て嵌めるならば、親元に帰すのが道理な気もするが」 「さあなぁ。…橋姫に訊いたが、知り合いなので暫し面倒を見るとは言っていたな」  成程、親元を飛び出した子どもの面倒を見る親戚の様なものなのだろうか。しかし橋姫とは。記憶の限りでは、水に《《纏| まつ》》わる鬼女では無かっただろうか。  とてもじゃないが、にょろりとした子を角の生えた女が面倒を見る光景なんて思い浮かばない。異様である。  私の想像の《《埒外| らちがい》》であった。人に化けた鶯と言い透明な蛟と言い、想像もつかない相手に最近遭っている気がする。 「渡会、今の家主はお前だ。お前が水を与えてやれ」 「私がか。…その、私で良いのか?」 「何も特別な事をする訳じゃないさ。大丈夫さ、すぐに動いて呉れずとも迎えを寄越すと言ってはいたぞ」  そうか。ならば遣るか。  縁側から庭に降りる。竹筒を持つと、水が中で動くのを感じた。ちゃぽん、と鳴る。  池の直ぐ近くに立つと、いつもの様に黄色い眼がぱちりと目を開けた。挨拶なのかぷかりと泡が一つ水面に浮かんでくる。  子供だと言うのに律義な性格をしている。そう思いながら、私はしゃがんで竹筒の栓を抜き、その中身を慎重に池へ《《注| そそ》》いでやった。  中に入っていた僅かな砂が、黄色い瞳に優しく落ちていく。瞬きをして、其の子は砂を瞳から払う。  砂が降った事で、僅かに輪郭が《《顕| あらわ》》になった。池の中で蜷局を撒いていたらしい。青大将よりは大きいし、太い。  実際の姿をもし初めて遭った頃に見ていたとしたら、私も悲鳴を上げたかもしれない。 「なぁ、此処に棲むには狭かろう。引っ越しをしないか、良い処があるらしいぞ」  そう告げると、黄色の双眸は僅かに斜めに傾ぐ。言葉は伝わっているかは判らないが、意を《《汲| く》》もうとするつもりはあるのだろう。  後は此の子と迎え次第か。私達がやれる事は無いかもしれぬ。  江ノ本の元まで戻り、彼に竹筒を返す。あっさりと江ノ本は其れを手で受け取った。ふむ、実体は矢張り有る。 「我々が遣れるのは此処までか?」 「そうだな、後は迎えが来るまでは暇になるか」  如何やら其の迎えとやらが来るまでは、江ノ本も居るらしい。  ならば折角なので風流な事をやっても良いかもしれぬ。ジローに土産もやりたい。 「江ノ本、暫く暇なら花見をしないか」 「花見か? …嗚呼、ウワミズザクラか」  先日私に懸想をしていると判明した庭のウワミズザクラは、気が急き過ぎた事を反省したのか開花までの早さは著しく落ちた。  以来、庭に降りた際には挨拶をする様にしている。何とはなしに嬉しそうな気配はするので、嫌な気はしない。  今は六分咲きぐらいになっていたが、其れでも下まで行くと《《芳醇| ほうじゅん》》な香りに包まれる。木漏れ日を浴びながら上を向くと、陽に透ける《《花房| はなぶさ》》がこれまた美しいのだ。  ウワミズザクラの下で春の甘味を食うのは中々に乙な体験になりそうなので、遣ってみたい。いや、遣らねば。 「ジローや、お前もおいで。土産があるぞ」  座敷に置いていた袋を見せてやると、畏まっていたジローは尻尾を振って立ち上がった。  庭に再度降りた私とついて行くジローを見て、江ノ本も立ち上がる。付き合って呉れるらしい。 「やあ、矢張り下からの眺めは良いな。ほら、蓬餅を買って来たんだ」  木の下に座り、餅を取り出す。二個しか残らなかったが善行の証である、一個は《《慰労| いろう》》として丸ごとジローにやる事にした。  片割れを先に頬張る。爽やかな餅草の香りが口一杯に広がった。噛みちぎって咀嚼すると、中に入った《《餡子| あんこ》》の仄かな甘味が舌を《《擽| くすぐ》》る。美味い。  餅の柔らかさと、中の小豆の食感が好い。喉に詰まらぬように小さめに齧ったが、本当は大口を開けて齧りたい。甘味は好きだ。  目を瞑って堪能していたら、江ノ本の声が降って来る。横で立ちながら《《凭| もた》》れているらしい。 「お前は《《何時| いつ》》も美味そうに物を食うな」 「そりゃ美味いからな。顔も綻ぶと言うものだ」  《《揶揄| からか》》われるかと思ったが、江ノ本は其れもそうかと言って黙った。ウワミズザクラを見上げている横顔を見る。木漏れ日が顔に落ち、《《万華鏡| まんげきょう》》の様だった。  綺麗だなぁと思いつつ、自分の分を完食する。実に美味かった。 「待たせたなジロー、小さく千切ってやったらお前でも食えるだろう」  横に座っていたジローが口を開く。そうすると笑っている様に見えるのだから、不思議である。餅を少しずつ千切りながら掌に乗せて与えてやる。  舌の感触が何とも言えない心地がしたが、食べているジローは餅草の風味に感じ入っているのか。偶に目を瞑っていた。  矢張り物の風情が判る犬である。飼い主に似たのかもしれない。 「嗚呼そうだ。江ノ本、聞いて呉れ」 「何だ」  ジローに掌を舐められている間に、和尚と鶯との件を江ノ本に語って聞かせた。  話し終えると、ふむ、と考え込むような仕草をする。 「だから土産の量が少なかったのか」 「あぁ、だが悪い気はしないさ。鶯も人に化けれるのだなぁ」 「化けれるさ、大抵の奴は」  何と。其の返答には《《吃驚| びっくり》》する。 「何だと。…で、では。庭の彼等も化けれるのか」  庭で思い思いに栄華を極めている植物達を見る。流石に植物は化けれまいと思ったが、予想に反して出来ると言う返答が来た。  出来てしまうのか、そうか。ちら、とウワミズザクラを見上げる。  ウワミズザクラが化けて出るのなら、どんな容姿になるのか考えたのだ。しかし想像力が無かったので、特に何も思い浮かばなかった。  唯まぁ、出て来るとしたら美しい容姿をしているだろう。こんなに麗しく咲いているのだから。  ジローに餅をやり終わり、江ノ本と暫くウワミズザクラの万華鏡を楽しんだ。 「そろそろ来るな」  少し経ってから、不意に江ノ本がそう呟いた。しかし、庭に特に異常は無い。  首を捻っていると、彼に家に入れと促される。 「如何してだ?」  そう尋ねたら黙って空を示された。見てみれば家の周囲にだけ曇天が掛かってきている。  今にも降りそうな黒さではあった。慌てて立ち上がる。  縁側に戻って空を見上げた処、丁度雨粒が一つ落ちて来た。ぽつ、と庭石を湿らせると《《俄| にわ》》かに大粒の雨が降り注ぎ出す。 「随分と急だなぁ」 「そう言うものだ」  ジローが縁側の下に避難したのを確認し、江ノ本と共に庭を見詰める。池にも雨粒が大量に落ちている。 ―ざぁざぁ、ざあざあ  そんな《《俄雨| にわかあめ》》の最中、唐突に池から何かがすぅと空へと伸びた。其れは水面から出るまでは黄色い瞳だけが宙に浮いていたが、伸びていくにつれ徐々にぬらりとした《《瑠璃| るり》》色に染まっていく。青大将よりは長く、太い胴体。尖った頭。蛇に似ているが、蛇と呼ぶには外見に違和感がある。  あれが、あの子の本来の姿なのか。つい、美しい姿に見入る。  蛟の子はにょろにょろと胴体を空へと伸ばし、何かを考えている風でもあった。次いで縁側で自分を眺める二名の人物に、其の顔を向けた。  黄色い双眸が、きょろりと一度だけ私を捉え再度空へと向き直る。  そうして、 ―ドーン!  唐突に鳴り響いた雷鳴と共に、目にも留まらぬ速度で空へと上がって行った。  瑠璃色の淡い軌跡を残し、そうして――…雨雲の中へと消える。  すると不思議な事にその雨雲は霧散するように消え、何事も無かったかのように太陽が顔を出した。 「…《《往| い》》ったかな?」 「あぁ、往ったな」  そう江ノ本と頷きあう。這う這うの体で縁側の下から出て来た忠犬に、お疲れ様と言うとジローは柔らかにわんと鳴いた。  蛟の子の旅立ちを、彼も祝っているのかもしれない。 「また、一緒に散歩に行こう」  池をふと見ると、その上に小さな《《虹霓| こうげい》》が掛かっていた。
他サイトの掲載でも地味に閲覧が多かった回です。 愛の許容と迷い子の出立の話。 多々の補足をここで述べますが、まず鶯はオスだけホーホケキョします。詰まる所この番いは…はい。 和尚も渡会君もその習性は理解しているので、愛の多様性を許容している形になりますね。 野分は昔の嵐…台風の事です。台風の名は近現代で名付けられました。江戸に近しい明治中期では野分の表記になります。 最後に虹霓とは虹の古代中国表記です。古代中国では、虹を蛇や竜に見立てて表現しております。渡会君は翻訳家で、知識として持ち合わせているのでこの感想となりました。

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