アカトキ / 第4話

肆話目:ウワミズザクラ

渡会…視点主。自他共に認める朴念仁。 ジロー…賢いわんこ。番犬の地位を獲得した。 薬売り…おきぐすりの商談をする男。とても厳つい。 江ノ本…亡友。面倒見は良い。 ウワミズザクラ…バラ科ウワミズザクラ属の落葉高木。桜の名を冠してはいますがその姿はソメイヨシノとは異なり、白い小さな花が房状にたくさんつきます。日本では北海道西南部と本州、四国、九州の低地や山地に分布する植物。建材にも用いられますが、香りは桜餅の様な独特なもので若芽や花、実は東北地方等で食用にされています。ウワミズザクラの塩漬けは杏仁子(あんにんご)、と言う名前だそうな。
 《《卯月| うづき》》。ジローが旧江ノ本邸の番犬に収まり、《《暫| しばら》》く経った頃。庭のウワミズザクラが、ぽつぽつと花を咲かせ始めた。  桜と名は付いているものの、其の姿は川沿いによく咲いているものとは形が異なる。ふわふわとした柔らかそうな小さい花が、《《山葡萄| やまぶどう》》の様にまぁるく連なって咲くのだ。《《宛| さなが》》ら《《束子| たわし》》に近い形状をしている。  まだまだ満開とは行かず、所々に白化粧を施している程度だが、此れまた《《風情| ふぜい》》がある。  しかし《《如何| どう》》した事だろうかと、私は首を捻った。  開花の時期が、些か早すぎる気がするのだ。  学生時代も此の花の開花を、二階から江ノ本とよく眺めていた。花見と洒落込みながら彼と会話していた記憶があるが…確か他所でソメイヨシノやらヤマザクラを《《肴| さかな》》に、《《遊行| ゆうこう》》を終えた後日だった筈だ。  だが、今は丁度他の桜と開花が被っている。  気になるので此処数日、暇な時にウワミズザクラの下まで近付いて様子を窺っている。其の度に、縁先で寝ていたジローも神妙についてくる。もしやジローにも風情と言うのが分かるのだろうか。  私の隣でウワミズザクラを見上げる姿は、悩める哲学者の様でもある。私よりも余っ程《《賢| さか》》しく見えるので、型無しかもしれぬ。  最近はジローのお陰で、お隣のおかみさんからの差し入れが増えた。煮物等のおかずの余りものを呉れるので、私もご《《相伴| しょうばん》》にありついている。  食生活に関しては多少豊かになったものの、果たして此れで良いのかは疑問だ。犬に食わせてもらっているのは《《甚| はなは》》だ《《遺憾| いかん》》だが、情けない事に稼げぬのは事実である。 「ジロー、お前もこいつが《《可怪| おか》》しいと思うか」  そう訊くと、彼は居住まいを正した。矢張り思う処は有るのか。しかし、畜生の言葉も気持ちも私には理解出来ない。解らぬ以上は訊いても無駄である。  もう一度ウワミズザクラを見上げて、幹やら何やら観察する。昨日と比べると、左の《《房| ふさ》》にまた新しい《《蕾| つぼみ》》が膨らみ始めていた。  未だ香りは薄いが、ウワミズザクラ特有の桜餅に似た何とも言えぬ好い匂いが、辺りから漂っている。  異常気象でもなし、素人目に見て病がありそうにもない。  何だかんだ江ノ本が存命の頃によく見ていた木だったので、調子を崩してしまっているのではと心配になっていた。  実の処、ウワミズザクラを識っているのには理由がある。  此の木は、郷里にも有ったのである。そして、若い《《花穂| はなほ》》や実を塩漬けにしたりと食の面でも身近なものだった。花や若芽を《《和| あ》》え物にしたりもして、《《皐月| さつき》》の頃は其れを楽しみの一つにしていた。成人前に郷里を出たので吞んだ経験は無いが…赤い実を酒にしたりもしていたらしい。  私としても郷里を連想させる植物なので、一際思い入れも強いのである。何時かは花穂や実を少しばかり頂戴して、郷里の味を再現してみたいと考えていた。 「なぁ、余り急いで咲いてくれるな。如何にも不安になる」  《《折角| せっかく》》綺麗なのだから、とウワミズザクラに呟いた処で唐突に池から音がした。  ちゃぽん、と水を揺らす音だった。其方を見ると、《《波紋| はもん》》が立っている。  そう言えばと思い出す。以前、里中が《《黄金柑| おうごんかん》》を持って来訪した《《折| おり》》に見た水中の瞳。  あれはまだ、在るのだろうか?  枯れたホテイアオイを取り除き、水の流れも多少良くなったので池の水も澄んできている。ちょいちょい池の横を通ったりもしていたが、あれ以来鳥が鳴く様な音もしない。  池から流れて移動してしまったのだろうか、あれが何なのかは判らぬままだったが。  里中が江ノ本を見て引っ繰り返って仕舞ったので、すっかり《《忘失| ぼうしつ》》していた。  ウワミズザクラから離れ、池を覗き込む。ジローもついて来て、真似る様に池を眺めた。規則正しいジローの呼吸音と、庭の草木が風にそよぐ音だけが聞こえる。  水底には汚泥が溜まってはいるが、其れでも綺麗である。此れならば、昔見た様に鮎の類もまた泳いで来てくれるかもしれない。  何も居なさそうだなぁ、とまじまじと観察しながら思っていたのだが不意に底の汚泥が不自然に揺らいだ。  ぱちり、と黄色い《《双眸| そうぼう》》が池の中で《《瞬| まばた》》きをする。しかし其の瞳の主は何処にも居ない。  二つの目玉だけが、ゆらゆらと水中に浮かんでいる。何だ此れは。  思わぬ再会に暫し困惑して見詰め合っていたが、不意に横のジローへ黄色の瞳が向く。  すると、 ―コココッ  と音がした。ぷかり、と何もない場所から泡が一つ水面へと浮かぶ。  其のまま二、三度と双眸が瞬きするのを見ていたが―――もしやと考え付く。 「…《《威嚇| いかく》》しているのか?」  口に出すとそうかもしれないと、ますます思えてくる。此の謎の存在は、考えている以上に《《臆病| おくびょう》》なのだろうか。  威嚇された当人ならぬ当犬は、大して悪感情を抱く様子も無く隣で首を傾げていた。気にするなと頭を撫でてやると、嬉しそうに尾を振る。  江ノ本に任された当初はジローに対し遠巻きにしてはいたが、素直に懐いてくれるのですっかり《《傍| そば》》に居る事を《《許容| きょよう》》してしまっていた。  まぁ、私も犬は嫌いではない。  《《扨| さて》》、と池の中の怪生物に意識を戻す。相も変わらず、黄色い瞳だけが此方の様子を探っている。  瞳が瞬きをすると、水底の汚泥も動いて水を濁らせた。もしや、身体は見えないだけで其処にあるのだろうか。  しゃがんで顔を近付けると、また同じ音がする。 ―コココッ  此れは、怖がられている気がする。  こうして見ていると、迷子を相手にしている気分になって来た。何だか黄色の瞳も不安そうなのだ。 「もしや、お前さん迷子の類なのか」  試しに話しかけてみる。成る《《丈| たけ》》刺激しない様に、優しく聞こえる様に務めたが如何だったかは分からない。  ただ、黄色の双眸は少しだけ斜めに《《傾| かし》》いだ。ぱちくり、と瞬きをする。  警戒の色が薄れた気がして、何とはなしに私は笑いかけた。 「獲って食いはせんよ、私も其処まで《《窮| きゅう》》しちゃいない」  膝に手を付いて立ち上がる。余りじろじろ見ても疲れてしまうだろう。  ジローにもおいでと声を掛けると、彼は大人しく元の位置へと戻って寝転んだ。くわぁ、と呑気に《《欠伸| あくび》》をしている。  私も縁側で《《胡坐| あぐら》》を《《掻| か》》く。  やれ、如何したものだろうか。  ウワミズザクラの早咲きと、池の中に居る謎の存在。どちらも私個人では解決は出来なさそうな問題である。  床の間の掛け軸を見る。こう言う話は、河童だ人魚だと話していた相手に相談するのが一番なのだろうが…。  しかし当の江ノ本も呼べば来る存在では無さそうでもある。彼の来訪は大体私が予想していない時にあるのだ。  待つしかないのかもしれないが、《《唯| ただ》》なぁ。  風に揺れるウワミズザクラを見る。  こんな事をしている場合ではないのだが、気になる。  私がぼうっとしているという事は、詰まる所執筆作業が進んでいない証だ。仕事をしなければ懐も寒い。寒いと生活も成り立たぬ。  後ろ髪を引かれつつも、仕事に戻ろうかと重い腰を上げた時だった。  もうし、と玄関から聞き慣れない声がした。男性の、低い声音である。  悩みも仕事も一旦棚上げして、私は返事をして玄関先へと向かった。 「はいはい、何か御用か…な…」  何用かと思って応対に行くと、其処には大きな壁があった。  いや、そう見えたのだ。実際は体格の良い三十代の男性だった。《《鳥打| とりうち》》帽子を被っており、背中には大きな《《風呂敷| ふろしき》》を背負っている。  《《巌| いわお》》の《《如| ごと》》き姿であり、縦にも横にもがっしりと幅がある。背丈は《《七尺| ななしゃく》》に達しようかと言う程である。其の為、彼は玄関をようよう潜って狭そうにしていた。  何とも圧がある姿だった。  男は眼光鋭く私を頭から足先までざっと見て、其れから《《柔和| にゅうわ》》な笑みを浮かべた。  恐らく、自分の容姿に圧がある事を分かっているのだろう。相手を安心させようとする意図を感じる。  しかし、何処か《《胡散| うさん》》臭さがある。何故だろうか。 「やぁ、如何も如何も。旦那とは初めましてですね?」 「は、はぁ。そう、ですな」  初めましての筈だ。そも、こんな体格の男に会ったら二度と忘れないだろう。それぐらいは印象に残る。 「イヤ、何だかお会いした様な記憶もあるんですが…。まァ旦那に覚えが無いなら初めましてでしょうね」  そう言って彼はぽりぽりと頬を掻く。それから風呂敷を土間に降ろした。  重そうな音がする。如何やら、それなりに大量の物を入れているらしい。  男が風呂敷を解くと、《《行李| こうり》》の様な物が出て来た。 「あっしは薬売りでして。色んなトコ渡り歩いて、《《先用後利| せんようこうり》》で薬を置かせて貰ってるんですわ」 「ほう、おきぐすりかね」 「ヘイ、旦那詳しいですな」  先用後利とは、《《富山| とやま》》十万石の二代目藩主の『用を先に利を後にせよ』の精神から生まれた商法である。富山の薬売り、と言えば有名だろう。  先に薬を預け、後から利用した分だけの代金を貰い、新しい薬を補充する販売手法なのだ。彼等は山河を超え各地を渡り歩き、定期的に薬を届けて売り歩いているのだ。何とも商魂《《逞| たくま》》しく、強い精神を持つ者達だろうか。尊敬に《《値| あたい》》する。 「この辺りはちょいと前から《《逗留| とうりゅう》》させて貰っておりまして、今もおきぐすりをお願いさせて貰っておりやす」  旦那も如何です、と薬売りはにこにこしている。確かに先用後利ならば、今の懐の寒さでも置けはする。  病み明けして暫く経ったので、肺の具合は大分良くなった。今の処困りはしてないが、独り暮らしなので万が一と言う事もある。  此処は置かせて貰うべきだろうか、と思案していると薬売りは大きな背中を丸めて私に顔を近付けた。  思わず《《後退| あとずさ》》る。完全に気圧されている。 「其れからもう一つありまして」 「な、何だい」 「御宅、長虫は出たりしませんか」  《《百足| むかで》》か、百足なら沢山居る。 「まぁ、百足はたんと出るよ。庭の土が良いのだろうね」 「矢張りそうですか」  薬売りは我が意を得たりと言わんばかりに頷いている。  長虫が一体如何したのだろうか。 「君、百足が如何したんだ」 「イヤ百足もですね、薬になるんでさ。あっしは偶にそう言うのを捕まえて貰って、買い取らせて頂いてるんで」  こんなのがありまして、と薬売りは《《長火箸| ながひばち》》を見せてきた。此れで捕まえろと言うのか。  百足くらいは造作もない、造作もないが。…しかし一度百足を買い取ってもらう流れになってしまうと、百足を見る度に金《《勘定| かんじょう》》をして仕舞う気もする。  其れで仕事が手につかなくなっては本末転倒である。大して食えるほど稼いではいないが。  いやしかしジローに食わせてもらっている現状、そんな禄でもない《《矜持| きょうじ》》で断るべきでは無い様な。  私が迷っていると、薬売りは声を潜めた。 「旦那ァ、もっと高額で買い取らせて貰いたい物もあるんで」 「あ、あぁ」  にょろりとした物も出ませんかと、薬売りは囁く。にょろり。にょろりとは何だろうか。《《蝮| まむし》》とかか。 「其れは蝮かね、確かに蝮も見た事は――」 「いいえ。御宅の池に居るでしょう、にょろりとした物」 「は――」  にょろりとした物?  浮かんだのは黄色い双眸の生物だった。あれは長虫の一種なのか。てっきり河童か人魚かと思っていたが。  いやいや、薬売りの思い違いかもしれぬ。 「君、うちの池でそんなものは見た事ないぞ」  何時の間にやら薬売りの勢いに押されかけている事に気付く。家主として此れはいけない。  私は片目を《《眇| すが》》めて彼を《《睨| にら》》みつけた。しかし何処吹く風と言わんばかりであった。迫力が足らないのかもしれぬ。  何せ体格差は圧倒的に彼方が上だ。ひょいと《《胸倉| むなぐら》》を掴まれようものなら、軽々と浮き上がりそうである。 「いえいえ、居ますとも。風の噂に聴きました」  此処にはみずちが居る筈で、と薬売りは言う。  聞き覚えの無い単語が出て来たので、私は困惑した。思わず素直に訊ねてしまう。 「みずち? 君其れは、一体どんな物だ?」 「虫に交わるで《《蛟| みずち》》でさ。こいつァ竜の類みたいなモンですが、竜よりもにょろりとしています」 「にょろりとはしていなかったが」  反射的に返してしまってハッとした。《《仕舞| しま》》った、此れでは何かが池に居ると言っているような物である。 「あいつらは、水に潜んでいる時は視えねえんでさ。居るか居ないかは目ん玉が浮かんでれば分かりやす」  ぷかぷかと水中に浮かぶ、瞬きする瞳。  だが、そんな大層な生き物が潜むにしてはあの池は小さい気もする。  其れを察してか薬売りは言い募る。 「旦那の池に潜んでる奴ァ、まだ子どもです。だからあっし等でも捕まえきれます」  そう言って薬売りは買値を告げた。とんでもない額を提示され、一瞬頭が真っ白になる。一年以上は楽に暮らせそうな金額だった。  しかし、如何してもあの困った様な不安そうな瞳が頭から離れない。ええい《《儘| まま》》よ、と私は腹を《《括| くく》》った。 「お前さんの言い分は分かった。分かったが、済まないが此の話は断らせてくれ」 「何故です?」  私がきっぱりと断ると、まさか拒否されるとは思っていなかったらしい薬売りが、しょんぼりと眉根を寄せた。  おや、となる。存外、見た目に見合わぬ繊細さがあるのだろうか。 「あれは迷子なのだ。ずっと困って、帰り道も分からずに留まっている」  あの気弱な威嚇を聞いてしまってから、私は蛟にすっかり同情してしまっていた。 「私は《《逸| はぐ》》れた幼子を金の成る木として売る事は出来ん。…それに、それにだ」  私も申し訳無く思う。何せ薬売りからすれば、割の良い話を打診しに来たに過ぎない。  其れを此方の都合で断ろうとしているのだ。彼等だって食い扶持を稼がねばならないので、《《千載一遇| せんざいいちぐう》》の機会は逃したくないだろう。 「私の心の問題なのだが…此の家は私の所有物ではない。恩師に代わって亡き旧友の、家守をしているのだ」 「…そうなんで」  何かを察したのか、薬売りは其処で少しばかり沈痛な面持ちになった。此方に乗り出していた身を引く。 「私は余り、友の家にある物を金にしたくはないのだ。生きているものも含めて、成る丈在るが儘にしておきたい」  申し訳無い、と私は薬売りに頭を下げた。慌てた様な声が頭上から降って来る。 「嗚呼旦那、頭を下げねェでくださいよ。…仕方ないですねェ、分かりましたよ、分かりました」  勿体ないですが、今回は旦那の顔を立てましょう、と言う苦笑交じりの《《科白| せりふ》》が聞こえ私はほっとして顔を上げた。 「あぁ、有難う。嗚呼でも、おきぐすりは――」  置かせては貰えまいかと言いかけた処で、開けっ放しの玄関からジローが此方を覗いている事に気付いた。  何事だろうと言う風に、《《団栗眼| どんぐりまなこ》》が問うてきている。如何やら今の問答が聞こえ、彼なりに心配してくれたらしい。  急に黙った私に気付き、薬売りも振り返った。ジローと目が合う。  するとキャッと言う、風体に見合わぬ甲高い悲鳴が薬売りの口から漏れた。ジローを怖がるように壁に身体を押し付ける。  もしや犬が嫌いなのか。確かにジローは見た目は少々《《厳| いか》》つくはある。 「薬売り、もしやお前さん、」 「す、す、すいやせんちょいと用事を思い出しまして」  犬は苦手かと《《尋| たず》》ねようとした処を、薬売りは遮った。慌てた様に風呂敷を結ぶと、重そうな行李を背負い直す。  ジローは来訪者が自分を怖がっている事を察したのか、玄関から退いていた。 「今日は失礼します!」  引き留めようとするも間に合わず。薬売りは這う這うの体で駈け出して行ってしまった。後には、呆然とする私と再度此方を《《窺| うかが》》うジローだけが残される。  私は暫く自失していたが、やがて我に返った。玄関の戸を閉める為にジローに近付く。 「いや、大丈夫だ。何でもないさ」  そう告げると、ジローは《《得心| とくしん》》したのか庭へと戻って行った。戸を閉め、私も自室へと戻る。  せめてもの《《詫| わ》》びとして、おきぐすりは打診しておきたかったのだが。頼む前に帰ってしまった。  少しばかりの罪悪感と後悔が残ったが、私の判断は間違ってなかったと信じたい。取り敢えずは、餅は餅屋で待つしかないだろう。  心の《《靄| もや》》は一つも晴れなかったが、私は池の中の迷子を守れたので少しばかりほっとしていた。  しかし江ノ本には早く来て欲しい。呼び水に成らないかと、私は二階の彼の私室から《《籐椅子| とういす》》を運んで庭に面する形で座敷に置いた。  此れは生前彼がよく座っていた椅子である。籐椅子に身を預けながら、書を読む姿が記憶にある。  其れでも不安なので、あいつ早く来ないかなぁとジローに愚痴をこぼす。ジローは神妙な面持ちで聴いていた。  夕方になると、ぽつぽつと空から《《雫| しずく》》が落ちて来てやがて勢いよく降り出した。慌ててジローを読んで玄関の土間へと非難させる。此処なら濡れないだろう。  ガラス戸を閉めて外を窺う。池には大量の波紋が起こり、中は視えない。  ウワミズザクラも、急な春雨を耐え忍んでいる様でもあった。 「渡会、起きろ」  其の夜の事だった、布団の中で寝入っていたら聞き慣れた声がした。《《寝惚| ねぼ》》けながらも身を起こす。  乱れた《《小袖| こそで》》を直しつつ、座敷に顔を出すと籐椅子に江ノ本が座っていた。遥か昔に見慣れた光景であり、少しばかり安心する。  目を擦りながらも、私は自分に覚醒を促した。ぐん、と伸びをする。背骨がぽきぽきと音を立てた。 「江ノ本、お前を待っていたのだ。私には手に負えない事があってだな」 「らしいな。…お前、俺の事を探していただろう」 「如何して分かるんだ」  風の噂だ、と何でもなさそうに言う。成程お喋りな風だと私は笑った。口が軽すぎていけない。  私は最近のウワミズザクラの様子と、池の中の存在を江ノ本に洗い《《浚| ざら》》い話した。《《兎| と》》に《《角| かく》》何かしらの助言が欲しい。  面白そうにひたすら私の話を江ノ本は聞いていたが、話し終えたら徐に立ち上がって《《硝子| がらす》》戸から外を眺めた。  池の様子と、ウワミズザクラを交互に見ている。何だか其の横顔は《《物憂| ものう》》げであった。 「ウワミズザクラの方は――…何だろうな。お前、最近此の家で他の桜の話でもしたか」 「話か、特に―――…嗚呼、いや、した。おかみさんと、ちょいと話したな」  近所のヤマザクラが咲いたとの事で、花見の季節になったと簡単な会話をした。花見をするならどんな料理が良いのかと《《暫| しば》》し議論をしていた気がする。  そう告げると、江ノ本は其れだと振り返った。 「何が其れなのだ」 「ウワミズザクラの開花は、近所の桜達に張り合う為だろう」 「は、張り合う?」 「そうだ」  《《突拍子| とっぴょうし》》も無い科白を聞き直した私に、江ノ本は再度頷く。 「あれはな、お前に《《懸想| けそう》》しているのだ。懸想をしているから、他の桜に心移りされない様に早く早く咲こうとしている」  嫉妬の様なものだ、と彼は平然と言ったが私は開いた口が塞がらなかった。  懸想。私に。しかも、ウワミズザクラが。  そんな莫迦な、とも思ったが此処に来たばかりの私の行動を思い出した。  ウワミズザクラが《《壮健| そうけん》》だったのを見て、庭を散策する度に話しかけていたのだ。  やれお前は今も在り続けているのだなとか、私の故郷ではお前さんの花や実を加工して食べていて美味かったのだとか。  《《止| とど》》めに今年も綺麗に咲いてくれ、とにこにこしたのを思い出し私は顔を覆った。  あ、明らかに私の所為ではないか…。  ウワミズザクラの名誉の為にも言うと、《《彼方| あちら》》の《《岡惚| おかぼ》》れとかではないだろう。此れでは《《口説| くど》》いているのと変わりない。 「…そうかもしれん、思い当たる節はある」  しかし木に惚れられるとは。そんな事初めての経験である。 「お前は《《朴念仁| ぼくねんじん》》だからな、言われなければ気付かなかっただろう」  其れはそうである。だが、如何すれば良いのだろうか。 「私は、無理をして急いて欲しくはないのだが。だが他の花を愛でるのは止められぬぞ」  様々な美しいものを愛でるのは、私の心の芯に在り続ける思想である。とてもじゃないがウワミズザクラの為だけに、其処を変える事は出来ない。  そんな私の事を察してか、江ノ本は面白そうな顔をしている。楽しんでいないか、お前。 「あれはああ見えて、存外人の話を聞くのが好きな奴だ。久しぶりに話しかけられて当てられたんだろうさ。そうさな…《《偶| たま》》に話しかけたり本でも読んでやれ、そうしていれば《《何| いず》》れは熱も冷める」 「成程」  本を読んだり話を聞かせてやるのは、私の生活からも《《逸脱| いつだつ》》はすまい。 「ウワミズザクラは大丈夫なのか、大分早咲きしてしまっているが」 「問題はあるまい。此の所為で枯れたり等はせんだろうさ、彼等はお前が思うより《《余| よ》》っ《《程| ぽど》》頑丈だよ」  ならば安心か。私は胸を撫で下ろした。  江ノ本は雨に《《曝| さら》》される庭にまた視線を移した。何とはなしに、其の隣に行く。 「其れから…池に蛟の子供が迷い込んでいる件だが」 「あぁ。私には、瞳だけしか見えないから本当に居るかは判らん」 「あれはそう言うものだ。存外に憶病なのだ、子どもなら尚の事だろう」  此処からでは判らんな、と江ノ本は呟く。池に次々と落ちる雨粒で、水中の様子は窺えない。 「迷い子の蛟――少々、心当たりがある。親元を一度、尋ねてみてみるとしよう」  《《水天宮| すいてんぐう》》の使いの子かもしれん、と江ノ本は呟く。 「水天宮とはあれか。日本橋の、《《天之御中主神| あめのみなかぬし》》を祀る社の」 「そうだ。…此ればかりは元の《《棲| す》》み《《処| か》》を探してやらねば解決せんだろう。済まんが、暫くは面倒を見てやって呉れ」 「あぁ、鷺につつかれたりせぬ様に気を配るぐらいはしておくよ。…其れから、こいつを狙う輩が居たら吠えるようジローにも頼んでおく」  そう頷くと、江ノ本は私に笑いかけた。如何にも苦笑が混じっている様にも見える。 「しかし、お前も大概お人好しだな。《《態々| わざわざ》》薬売りからの打診を断るとは」 「いや、私だって悩んださ。悩んだが――…其の、困っている姿を先に見てしまったのだ。彼に売り《《捌| さば》》いてしまっては、私は一生此の件を後悔する」  だから止めた、と言う私の科白に、お前らしいと江ノ本は庭を見つめながら零す。其のまま二人共黙り込んで、屋根を打つ雨音をひたすらに聞いていた。  翌朝。雨の止んだ庭に降りて、池の中の蛟とウワミズザクラの様子を確認しに行った。  池は少しだけ、水かさが増えていた。昨夜の雨の影響だろう。  蛟の子は、私の姿を見ると瞳を開いてぷかりと一つ泡を吐いた。挨拶のつもりなのかもしれない。元気そうなので、安心する。  ウワミズザクラは雨に打たれた所為か、それとも昨日の私の科白を気にしてか何となくしょげ込んでいる様にも見えた。 「大丈夫さ、お前はお前らしく在ってくれ。他と比べる事はしないさ」  花の持つ美しさは、比べるべきものではない。  そう話しかけると、ウワミズザクラは風も無いのに一度だけぶるりと葉を揺らす。  何だか喜んでいる様に――見えた。
かわいこちゃん登場回です。書き手からすれば全員可愛いのはそう。 薬売りの補足ですが、7尺は現代だとおおよそ約2メートルに相当します。つまりとてもでかいです。むっきむきの鳥打帽子を被った男が、和装で風呂敷を背負っていると思ってください。私が現実でそんな人に会ったらまず尻込みすると思います。

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