アカトキ / 第6話

陸話目:ショウブ

渡会…視点主。ひょろほそだが食うのは好き。 ジロー…番犬。自由に生きている。 里中…渡会の後輩。犬っぽい雰囲気らしい。 白菖堂…骨董屋の主。名は店名で本名は志津野。 ショウブ(菖蒲)…池や川等に生える多年草の草木。薬草や漢方薬としても知られ、中国では正確には白菖と書かれます。紫色の鮮やかな花が咲く他、茎葉全体から芳香があり、日本では端午の節句にショウブ湯として用いられております。古代エジプトでは治療薬及び媚薬として利用されたそう。
 《《皐月| さつき》》の《《麗| うら》》らかな日。庭を眺めていたら、池の中に小さな浮草を見付けた。  おや、と思い近付いてみる。 「此れは…ホテイアオイ、か?」  誰にともなく呟いた。枯れた姿と掛け軸の絵でしか見た事が無いので推定だが…恐らくは、ホテイアオイだろう。  《《瑞々| みずみず》》しく、こぢんまりとした様は愛らしい。  しかし、《《如何| どう》》したものだろうか。  また増殖して仕舞っても困りはするのだ。何せ、此の池には漸く《《鮎| あゆ》》が訪れ出していた。今も数匹池の中を優雅に泳いでいる。  つまり釣りをすれば、鮎が釣れなくもない。いや、釣りの腕前はからっきしなのだが。  だが、此方の都合で小さな生命を勝手に取り除くのも、気分的に宜しくは無い。  私が黙考しているからか隣にジローがやって来て、顔を覗き込んで来た。《《円| つぶ》》らな瞳が何事かと問うている。 「ジロー、御覧よ。ほら、ホテイアオイだ」  そう言うと、彼は神妙に池のホテイアオイを見た。何だかその眼差しに慈愛を感じるので、彼としても此の存在に和んでいるのかもしれない。  一人と一匹でそんな事をしていたら、玄関の方から里中に声を掛けられた。休みなのか、今日は和装であった。下は《《袴| はかま》》だろう。 「渡会先輩。また池なんか覗き込んで、一体何遣ってるんですか」  何だか似た様なやり取りを前にした気がする。 「やぁ、里中。いや、池を見て呉れ」 「ではちょいと失礼し…待ってください先輩。其の、前に見た河童か何かのお方は…い、居ますぅ?」  《《玉袖垣| たまそでがき》》から此方へ向かおうとしていた彼は、前回の経験を思い出したのか其処で立ち止まった。《《余| よ》》っ《《程| ぽど》》怖かったのか、既に顔が蒼白である。  あれの正体を知っている私からすれば面白かったが、取り敢えずは笑うのを我慢してもう居ないよと答えた。 「あれはもう旅立ってしまった。今の処、鮎しか来ていないさ」 「お、鮎ですか。鮎は美味いんですよねえ…其れ、本当ですかね? 僕、変なの見たらまた引っ繰り返っちゃいますよ」 「お前にそんな嘘なんて吐いて如何するのだ。引っ繰り返られたら、運んで看病するのは私なんだぞ」  其れもそうかぁと納得したのか、里中は隣にやって来た。ジローにも挨拶をしつつ、彼も池を覗き込む。 「や、本当だ鮎だ鮎だ。…あれ、そんで一体何を気にしていたんです?」 「私が見ていたのは、其処のちいせ…小さい浮草だ」  上の空で喋って思わず故郷の方言が出そうになり、慌てて修正した。幸いにも里中は気付かなかったらしい。ほほお、と呑気に声を上げている。 「ひょっとしてこれ…僕がこないだ掃除した、あのホテイ何ちゃらのちぃこい奴ですか」 「そうだよ。生き残っていたんだなぁ」 「そんで、仲良く並んで見てたんですねぇ」 「まぁそんな処なんだが…嬉しくて見ていた訳じゃないんだ」  そう言うと、おやと里中は首を傾げる。 「おやぁ、そんだけじゃあ無いんですか?」 「うーん、そのなぁ。《《此間| こないだ》》みたいに大繁殖しては、鮎も来なくなるだろう?」  其れだけで察しが付いたらしい。賢い男である。 「嗚呼。つまり新しい生命の、今後の処遇に困ってたんですか」 「うん、そうなんだ。私も成る《《丈| たけ》》庭の姿は其の《《儘| まま》》にしてやりたいが…鮎達が此処を訪れるのは、懐かしい光景でもあるのだ」  しかし如何にも悩ましい。《《碌| ろく》》な解決策が思い浮かばず首を捻っていたが…其の内に里中が、ぽんと自分の掌を叩いた。 「そうだ。鉢に此奴を移せば良いのでは?」 「鉢にか?」 「ほら、《《睡蓮鉢| すいれんばち》》とか有るでしょう」  《《成程| なるほど》》其れなら《《角| かど》》が立たない。此の家なら睡蓮鉢ぐらいは有るかと納戸を漁ってみたが、残念ながら見つからなかった。  池が在るから、買う理由が無かったのかもしれぬ。 「無さそうですねぇ…」  埃から口を《《庇| かば》》いながら、《《脚立| きゃたつ》》の横で里中が此方を見上げている。支えられながら降りつつ、再度思案した。 「無いなぁ。買うしかないのか…」  だが購入するにせよ懐は相変わらず寒い。此間の仕事で幾分かまた貰いはしたが、使って良いか迷う。  そんな様子を見ていた里中は、事も無げに僕もちょいと出しましょうかと言ってのけた。 「えぇ? いやぁしかしだなぁ」 「替わりに此処で釣らせて下さいよ、鮎は好きなんです」  其れは構いはしないのだが。果たして等価交換になるのだろうか。 「そいつは構やぁしないが…睡蓮鉢なんて、何処に売ってるんだろうか」 「うーん…専門の店は知りませんけど、前に知り合いの骨董屋に有ったのは覚えてますよぉ。其処にでも行きます?」  行き付けの店か。だが骨董屋とは…。 「そりゃお前さん、敷居が高くはないかい。そんな貴重な品なんて、私には扱えないぞ」 「大丈夫ですよ。売れるのか如何か判らない、安くて《《襤褸| ぼろ》》っちい品まで置いてありましたし」  その後何やかんやと理由を付けてはいたが、結局件の骨董屋を覗きに行く事になった。唯まぁ、目的の睡蓮鉢は有ったら《《折半| せっぱん》》してくれるらしいので、感謝するしかない。無駄遣いかもしれないが、此れも小さなホテイアオイの為だ。背に腹は変えれぬ。  ついでに何処かでゆっくりしたいと珍しくごねられたので、《《瀬野屋| せのや》》で湯にでも浸かる事にする。骨董屋の付近には美味い蕎麦屋が在るらしい。  里中が我の強い主張をする事は余り無い。普段は細かい点に気を利かせたりしているから、相手に合わせてしまうのだろう。  此れも私が気の置ける先輩だからだろうか。いや、舐められているとも取れなくも無いが。人徳と思っておく。  出掛けの際にジローにお前は如何すると訊いてみたが、わんと鳴いて彼は其の場に伏せてしまった。次いでごろんと寝転ぶ。  昨日一緒に長々と散歩したからか、今日は一匹でゆっくりしたいらしい。無理に連れて行くつもりも無いので、留守を任せる事にした。 「ははぁ、《《蛟| みずち》》の子ですかぁ」  駅に向かう道すがら、池の中の存在の正体と《《顛末| てんまつ》》を語って聞かせる。 「蛟なんて見た事ありませんわ。先輩も、珍しいものと縁がありますね」 「矢張り珍しいのか」  途中、ワスレナグサの生えていた庭の前を通った。家の中で誰かが曲を弾いている。  伸びやかな管楽器の音色。此れは、《《風琴| ふうきん》》だろうか。  弾いている曲は、モーツァルトの”春へのあこがれ“だった。軽やかな曲調に乗って、微かに女性の歌う声が届いて来る。 ―Ach, liebr Mai, wie gerne…(嗚呼、愛しき五月よ…)  通り過ぎながら、暫くその歌声に耳を澄ました。柔らかな風と共に其の声が耳を《《擽| くすぐ》》る。  風琴の音も聴こえなくなった辺りで、里中がそっと私に問い掛けて来た。 「…今の曲は何かご存じです?」 「確か”春へのあこがれ“じゃなかったかな…。《《墺太利| オーストリア》》のモーツァルトって音楽家の曲だよ」  少しの期間だったが、語学の勉強も兼ねて欧州へ留学していた時分がある。其の際に、何処かの音楽会に連れられて演奏を聴いた。  私にとっては未知の世界で、終わった後の帰り道でひたすら興奮が収まらなかった。音楽を聴くと言うのは、精神の健康に良いのかもしれぬ。 「ほぉ。何だか、小鹿が跳ねる様な可愛らしい曲でしたね。歌声も綺麗だったなぁ」 「例えが《《巧| うま》》いな。うん、歌詞もそんな感じだった筈だ」  数多の文士の書いた物語を見て来た男である。文才に関しては私よりあるのでは無いだろうか。  そう言ったら、あんなの心が病みつきそうなんで遣りたくないです、と辛口な返答が来た。《《然| さ》》もありなんではある。  取り止めの無い話をし《《乍| なが》》ら駅を通り過ぎ、其のまま徒歩で瀬野屋にやって来た。番台に居たこいとが、此方を見やり手を振る。 「渡会さん、お元気? 其れと、其方は…前にも来られた方かしら」 「こいとちゃん、今日は。こっちは私の後輩だよ、里中だ」 「や、どうもどうも、里中と申します。えぇ、何度かは来てますねぇ」  里中もこいとも、にこにこと愛想の良い笑顔を浮かべている。お互いに《《卒| そつ》》が無い性格なので、紹介からの流れもあっという間だった。  こう言う遣り取りの巧さは、接客業をしている者特有の努力の《《賜物| たまもの》》だろうか。  さぁどうぞと中に通され、《《暖簾| のれん》》を《《潜| くぐ》》る。  湯屋は昼前と言う事もあってだが、常より客入りは少なかった。瀬野屋は昼過ぎからが客入りが多くなる。  お陰で落ち着いて入れる。身体を流して浴槽に向かうと、其処には緑の細長い物体が縛られたままぷかぷかと浮かんでいた。  見た目は太い《《韮| にら》》に似ているが…直ぐに思い至った。ショウブだ。  湯に浸かり乍らショウブをそっと持ち上げる。顔に近付けて匂いを嗅ぐと、独特の薬草《《染| じ》》みた香りがした。  《《端午| たんご》》の《《節句| せっく》》はもう過ぎたものの、ショウブ自体は薬効がある植物である。皐月の間はショウブ湯をする方針なのだろう。  お湯の温もりが身に馴染んでいく。遅れて入って来た里中も、湯に浸かって気持ちよさそうにしていた。 「嗚呼、やっぱり湯に浸かるのは良いですねぇ。身体の疲れが抜けていきますわ」 「そうだなぁ。私も下宿時代はもっと《《足繁| あししげ》》く通っていたんだが…ちと遠くなってしまった」 「ありゃ、そういやそうか。…先輩、其れはもしやショウブですか」  尋ねて来た彼にショウブの《《束| たば》》を渡す。里中は其れを《《繁々| しげしげ》》と眺めて、匂いをクンクンと嗅いでいた。何だか其の様はジローを想起させる。ジローと比べると里中はより厳つくはあるが…。  《《柚子湯| ゆずゆ》》もそうなのだが、私個人の経験則として湯に浮かべたものを皆一回は匂いを嗅ぐ傾向がある気がする。風情を愛する此の国の、独特な習性かもしれぬ。  ショウブの束を放流した彼を横目に見つつ、人が少ないので此れ幸いと私は思いっきり足を伸ばした。身体がほぐれていく感覚が心地良い。  其の儘ぼんやりと天井を眺めていたが、行き成り脇腹を《《抓| つま》》まれて飛び上がった。 「わひゃっ…な、何だいきなり」  むにむにと里中に脇腹を抓まれていた。指先が繊細過ぎて逆に《《擽| くすぐ》》ったい。抗議の視線を送ったが、何故だか真剣な顔をしている。何なのだ。 「先輩ちょいと痩せ過ぎじゃないですかね…? 僕の担当の先生方も半分は痩せていますけど、煙草も酒もやらないのに此処まで肉が無いと心配になりますよ」 「っひ、ま、まぁ私は懐具合からして常に粗食だし、冬は入院していたんだうひゃ、う、っおい良い加減にしないか」  《《辛抱堪| しんぼうたま》》らず彼の頬を思いっきり引っ張ると、あたた済いませんと漸く手を離した。 「そ、其れに元々私は《《肥| ふと》》りにくいのだ。食うのが好きなのは知っているだろう」 「知ってますけどぉ…。もうちょっと仕事を持ってきますかねぇ」 「そりゃあ助かりはするが…」  仕事が増えるのは有難いものの…職権乱用にならないと良いが。其れからは、二人して黙って湯の《《揺蕩| たゆた》》いに身を任せていた。  暫くしたら熱くなってきたので上がった。服を着直して、こいとに挨拶をし瀬野屋を出る。 「確かこっちです。手前に蕎麦屋が在るんで、其処で昼飯にしましょう」  裏路地を抜けて別の通りを進む。何度か路地に入っていたら、左手側に蕎麦屋の看板が見えた。《《蕎麦処| そばどころ》》《《仁兵衛| にへえ》》と書かれている。  高級そうな店では無かったのでひとまず安心した。店の中に入り、席に座る。 「此間食べたんですが、揚げしんじょをのっけた蕎麦が美味かったんですよね。其れにしましょ」  里中の説明を聞くに、如何やら鶏のつくねの素揚げを乗せた蕎麦があるらしい。聞いた事が無い。  どんなものかと思いつつ《《歓談| かんだん》》していたら、店主が器を二つ持って現れた。器を置いてごゆっくりと告げ去って行く。  中を覗くと、湯気の向こうで四つに切られた揚げ物がつゆに沈んだ蕎麦の上に鎮座していた。此れが揚げしんじょらしい。 「ほぉ…初めて見たなぁ」 「そうでしょ? 此れがまた美味いんですよ、揚げ物をつゆに浸けると最高なんで」  成程と思いつつ、《《箸| はし》》でちょいとつゆに揚げしんじょを沈める。じゅわり、とつゆの表面に油が浮き出て来た。  一個を摘まんで持ち上げ、少し冷まして口に運ぶ。鶏の旨味と沁み込んだつゆが味わい深い。続けて蕎麦を啜ると、蕎麦の好い風味が口内を満たした。喉ごしを楽しみつつ、咀嚼して《《嚥下| えんか》》する。うーん、此れは素晴らしい。 「こりゃ美味いなぁ…お前さんが気に入る理由が分かったよ」  つゆを飲みつつそう言うと、里中は嬉しそうにしている。 「先輩は僕が食事を共にした中だと、一番物を美味そうに食いますからね。紹介《《冥利| みょうり》》につきますわ」 「そ、そうか? 前に江ノ本にも言われたな…」  つゆに浸した揚げしんじょを齧っていた里中が、目を丸くした。 「そうなんで? …嗚呼そういや、江ノ本先輩にはまだ会えてないなぁ。いやぁまた気絶しそうなんであれなんですが」 「見た目は全く変わらないぞ。恨めしやと言う雰囲気でも無いが…そんなに怖いかね」  そう尋ねると怖いですよぉと彼はぶんぶんと頭を振る。 「だからなんですって。何年前だと思ってるんですかぁ、江ノ本先輩が消えたの。変わらない時点で奇怪しいでしょう」  其れはそうなのだが。昔と変わらず接してくるから、私としては全く怖くないのだ。 「そも、化けて出て来る理由が判らないでしょうに。先輩、今度会ったら聞いてみて下さいよ」 「江ノ本にか。如何だろう、答えてくれるかは分からんが…まぁ、訊いてはみよう」  あいつは的確に必要な答えを呉れはするが、其の割に自分の心情は話さない。そんな彼があの家に来る理由なんて答えて呉れるだろうか。  今悩んでも仕方がないので、取り敢えずは目の前の揚げしんじょ蕎麦に集中する事にした。  美味い物を食うのに余計な思索はしたくない。 「有難う御座いましたー」  蕎麦を《《堪能| たんのう》》し、店を出た。午後の日差しを浴びつつ、空気を胸一杯に吸い込む。  腹が満たされたので気持ちが良い。 「美味かったですねえ」 「あぁ、美味かった。私では、普段見知らぬ店には入らないから新鮮な体験だったよ」 「へへ、なら良かったです。《《偶| たま》》の休みにこう言う事するのも悪くないなぁ」  里中の場合、仕事が忙しいらしく纏まった休みが取れないらしい。なので、休み自体がかなり貴重なのだが…。  骨董屋への案内を再開した里中に話し掛ける。 「お前さん、本当に休みをこんなのに使って良かったのか」 「なぁに、好きでやってるんで良いんですよこちとら。そも僕ぁ元々、此の貴重な休みを《《無為| むい》》に先輩のとこで昼寝でもする予定でしたよ」 「そうなのか」 「どっちが無為かってんなら後者のが無為でしょ? こっちの方が遥かに《《有意義| ゆういぎ》》な使い方です」  そうなのだろうか。唯まぁ、当人は楽しそうにしているので良いか。  其れから幾分か通りを歩くと、《《件| くだん》》の骨董屋に辿り着いた。白い暖簾には細やかな筆致で”《《白菖堂| はくしょうどう》》“と書かれている。  暖簾を潜って中に入る。薄暗いが、奥の方に灯りが見えた。 「御免下さぁい」  間延びした声で里中がそう言うと、灯りの辺りからどうぞと返答が来た。中性的な声音である。  里中について行くと、やがて店主らしき人物の居る帳場に辿り着いた。 「おや、里中さんじゃないか。いらっしゃい」  其処に居たのは男性とも女性ともつかぬ《《容姿| ようし》》の人物だった。《《顎| あご》》の辺り《《迄| まで》》の長さの黒髪に、鉱石を思わせる切れ長の冷ややかな瞳。  衣装は《《萌黄| もえぎ》》色の袷にやや色の濃い羽織の姿だったが、其れは男性のものだった。しかし、顔付きは女性寄りでもある。  何方かは一見しても判別がつかないが――此れだけは言える。  ぞっとする程美しい。人形の様な《《美貌| びぼう》》の生者が…其処に座していた。  思わず魅入って私は硬直したが、里中は見慣れているのか気にする様子も無く挨拶をしている。 「今日は。お久し振りです、白菖堂さん。本日は欲しい物が有って此処に来ました」 「欲しい物、ですか。おや、後ろの御仁は――貴方のお連れ様ですか?」 「嗚呼、えぇとですねぇ」  そう問われ、里中と白菖堂と呼ばれた人物の視線が此方に向く。我に返って慌てて一礼した。 「失礼しました、私は渡会と申す者です。学生時代の、里中の先輩です」 「成程、私は《《志津野| しづの》》で御座います。とは言っても、お客様からは店名である白菖堂の方で呼ばれていますね」  そう言うと、白菖堂は《《艶| あで》》やかな笑みを浮かべる。そうされると妙にどぎまぎしてしまう。  そんな動揺を見抜いているのか、里中が私の替わりに話を切り出した。 「実は手頃な睡蓮鉢を探していまして。白菖堂さんの処に有りはしないかなぁと」 「睡蓮鉢ですか。確かに幾つかはありますが…そうですね。欲しがっているのは、渡会様の方ですかね」 「あ、はい。其の、小さな物で構わないのですが…」  とでもじゃないが、懐が寒いので安い物が欲しいとは言えぬ。 「幾つか御見せしましょうか。ご案内しましょう」  そう告げると、白菖堂は帳場から立ち上がった。身長は私よりも低く、鼻の辺りに頭が来る。大体《《五尺| ごしゃく》》ぐらいだろうか。  横を通り過ぎる際に、ふわりと不思議な香りがした。恐らくは、《《伽羅| きゃら》》の匂いだった。  里中に背を押されて、白菖堂の後ろを歩く。店内は薄暗くはあったが、所々に《《行灯| あんどん》》が置かれていた。ぼんやりとした光が辺りを照らしている。 「先ずは此方ですかね」  白菖堂が見せてくれたのは、小振りな睡蓮鉢だった。色鮮やかなショウブの花が描かれている。其の高貴な紫の花の前で、《《白鷺| しろさぎ》》らしき鳥が優雅に佇んでいた。 「此れはショウブですか? 美しい絵柄ですね」  許可を貰って鉢を持ち上げ、繁々と眺める。繊細な筆致であり、ぐるりと一通り回して見てみても飽きない。  が、白鷺を観察していた処、ふと鳥の顔が此方を見た気がした。 「…ん?」  《《怪訝| けげん》》に思い顔を離す。もう一度顔を近付けてみたが、白鷺は澄まし顔でそっぽを向いていた。  首を《《捻| ひね》》りながら睡蓮鉢を戻すと、白菖堂が面白そうに此方を見詰めている。 「何か、気になる事が有りましたか?」 「嗚呼、いえ…多分、気の所為です」  尋ねて見たくなったが、後ろに里中が居るので止めた。下手に怪現象を述べでもしたら、途端に怖がってしまうだろう。唯でさえ薄暗いのである。 「此れ、凄く良いですね」  見た目は私好みではあった。値段を訊くと、折半すれば買えなくも無さそうではある。 「もう一つ同じ値の鉢もありますが、如何しましょうか」  そう言われ、心は決めかけてはいたものの――…もう一つの鉢も見せて貰う事にする。見る分には只である。損は無い。  其の場所に案内され、もう一つの睡蓮鉢を示された。此方は先程の物と違い、白を基調とした藍色の鉢だった。  四季の植物の下で、《《鮒| ふな》》とも《《鯉| こい》》ともつかない魚が泳いでいる。其の水底で、《《林檎| りんご》》らしきものが踊っていた。  不思議な意匠である。魚の下の林檎は何なのだろうか。  そんな事を思いながらもまた許可を得て鉢を持ち上げようとして―――…指先がぴたりと冷たい陶器に触れた瞬間だった。  急に、意識が《《遠退| とおの》》いた。ぐらりと後ろに身体が《《傾| かし》》ぐ。 ―ごぽり、ごぽり  薄暗い視界が白み、目の前は水底に居るかの様に青い光と泡が浮かんでいた。水面へと昇る泡が、酷く眩しい。私の身体は、如何やら水底へと沈んでいる。 ―ごぽり、ごぽり  其の儘ゆっくりと視界すらも薄れていっていたが…行き成り耳元で渡会先輩、と大声で名前を呼ばれ我に返った。薄暗い店内へと引き戻される。  気付くと里中に抱えられていた。後ろに傾いだ身体を受け止めてくれたらしい。崩れかけていた膝に力を入れると、あっさりと立ち上がれた。  目の前の白菖堂は焦った様な顔で、此方を見詰めている。 「先輩…?」  私の両肩を抱えた里中が、心配そうに覗き込んでいた。 「あ、あぁ…だ、大丈夫、だ」  額に手を当てて考えた。今の。今の景色は。見覚えがある。  あれは、一回目の――…溺れた、時の。 「申し訳ありません、渡会様」  其れに思い至る前に、白菖堂が口を開いた。追想を中断して其方を見る。 「此の鉢は、貴方には宜しくない物の様ですね…。此れをお譲りするのは、止めておきます」  そっと鉢に触れた方の手を持たれた。白く《《嫋| たお》》やかな其れは、ひんやりとしている。  鉢から遠ざける様に手を誘導され、指が離れる前に一度だけぎゅっと握られた。柔らかい感触が、僅かに《《名残| なごり》》を残す。 「貴方様は、《《彼方| あちら》》の水に縁が深すぎるのでしょう。誘われ過ぎましたね」  貴方は生きているのだから、近付き過ぎるべきでは無い。そう言われ、私は何が何だか分からなかったが頷く。  微妙な空気が流れたが、其処に里中が割って入った。 「白菖堂さん、取り敢えず先輩を何処かに座らせても良いですかね」 「そうですね…。帳場の近くに椅子があります、暫く休んで貰いましょう」  意識が飛びはしたものの、体調が悪い訳では無かったのだが…如何にも納得されそうな空気では無い。里中に帳場まで誘導され、其処に在った椅子に大人しく座る。 「具合は如何ですかね」 「具合も何も《《頗| すこぶ》》る元気なのだが…」 「そうですかぁ…? でも、一応じっとしていて下さい。睡蓮鉢は、あのショウブの奴で良いですかね」  其の問い掛けに頷くと、里中は何処かに行ってしまった。多分、白菖堂の元に行ったのだろう。  一人でまんじりともせず周囲を眺める。日本人形やら壺やらが雑然と並んでいた。掛け軸もあるが、薄暗過ぎて何が描かれているのか判別出来ない。そして、《《彼方此方| あちこち》》から視線を感じる。気の所為だと思いたい。いや、思っておこう。其の方が精神には良い。  そうやって時間を潰していたら、漸く二人が戻って来た。白菖堂が件の睡蓮鉢を抱えている。何故か里中の方は古ぼけた釣竿を持っていた。 「お待たせ致しました。一応、《《罅| ひび》》等の損傷が無いか確認しますね」  そう言って、近くの行灯に鉢を照らして一通り検分を始める。暫く其の様を見詰めていたが、如何しても気になる事があったのでおずおずと口を開いた。 「…一つ、お訊きしても?」 「何で御座いましょうか」 「其の…先程の林檎の鉢は、何か由縁が有るものなのですか?」  私の背後に控えていた里中が、息を呑む音がした。白菖堂はぴたりと手を止めると、私を見る。  《《黒曜石| こくようせき》》の如き双眸が、見透かす様な光を宿している。私の心中すらも見通されそうな其れに、思わずたじろぐ。  しかし、一つ頭を振ると白菖堂は答えて呉れた。 「あれは――…そうですね、誰の作品かは私も知りません。ですが…遠い国にある水底の島を表現したのだと、あの鉢を売りに来た御仁が仰っていました」 「水底の島…《《英吉利| イギリス》》に残る、伝承の神話でしょうか」  水底の国。不思議な響きである。欧州に留学していた際、英吉利の神話を少しばかり聞き齧った事がある。  其処で、楽園―…《《常若| とこわか》》の国の伝承を《《識| し》》った。死後の楽園。妖精達の棲まう国。向こうの言葉では、ティル・ナ・ノーグと呼ばれる物。  あれには、三通りの島々があり…其の中の一つが水底の島だと記されていた記憶がある。  私の呟きに、白菖堂は苦笑を返した。 「申し訳無い、如何にも《《浅学| せんがく》》なので外国の神話は私も余り知らないのです。ですが、恐らく其の場所を模した物なのでしょうね」 「嗚呼、成程…いえ、有難う御座います。申し訳無い、手を止めさせてしまって」  いえいえ、と白菖堂は笑って作業を再開する。  白菖堂の説明に納得がいった。  そうなのか。死後の楽園、しかも水底の世界を模したものだとは…確かに、二度も溺れて生死を彷徨った私には刺激が強すぎる。  一人で苦笑していると、里中に背中を突かれた。  振り返ると、心配そうな瞳が此方を見下ろしている。 「先輩…あの鉢、買いたいとか言いませんよね?」 「まさか。私だってまだ命は惜しいよ」  大した展望は無いにせよ、私はまだ彼方側に行きたいとは思っていない。そう言ったら、彼はほっとした顔をしていた。 「此の鉢は長らく持ち主が居ませんでした。きっと、喜んでいると思います」  銭を払って帰りしな、鉢を受け取る際に白菖堂がそっと零した。 「こんなに美しい鉢なのにですか」  意外に思う。私の科白に、優しい御仁ですねと白菖堂は笑う。 「出来れば、可愛がってあげて下さいませ。道具は使われてこそ、輝く物ですから」  其れに頷き、私と里中は別れの挨拶をして連れ立って店を出た。里中は結局釣竿も購入したらしい。釣りに使いたいのかもしれない。  鉢は何かにお包みしましょうかと訊かれたが、断った。其の為抱えっぱなしである。 「いやぁ…何だか変な事になってしまって済みません」  店の中に居た時点で若干元気が無かったが…外を歩きだしてから里中にそう言われ、私は目を丸くする。 「おいおい。お前さんは別に何もやってないじゃないか。気にするなよ」 「うーん…」  其れでも渋い顔をしている。仕方が無いだろうに、あれは。  水底の島の伝承を知っているのは私だけだったし、白菖堂は私が溺れた事を知る由も無い。里中に関しては、あの鉢の存在すら知らなかっただろう。  不幸な事故と言ってしまえば良いのだが…別に、私は厭な思いをした訳では無いのだ。意識を持っていかれる際、苦しさも痛みも無かった。 「其れよりお前さん、怖がりなのによくあの店に入れたな」  取り敢えず話題を変えた。私の問い掛けに、彼は若干言葉を濁す。 「いえ、僕も当初は薄暗過ぎてずっと怯えてたんですがね…。怯える度に白菖堂さんが遣って来て色々説明してくれたんで、怖くなくなりました」 「ほぉ。良い人だなぁ」 「良い人ですよぉ。何とも不思議な雰囲気の方ですけど」  白菖堂は面倒見が良いらしい。麗しい人形染みたあの横顔を思い出す。結局、男性なのか女性なのか全く分からなかった。不思議な御仁である。 「結構変な物が混ざってますけど…あの御店は面白いんですよ」 「確かに。また今度行っても良いかもしれん」  抱えているショウブの鉢を改めて眺めてみる。陶器製のつやつやとした其れは、薄暗い光源の中で見た時よりも遥かに美しかった。 「うん、良い買い物をした」 「へへ。其れなら、何よりです」  上品な紫の花が、風に吹かれた様に揺らいで見えたが…きっと気の所為だろう。
白菖堂登場回。白菖とは造語ではなく、ショウブの漢名に当たります。詰まる所タイトルは、この店主の事も示しております。 おもしれーキャラになっているので、いずれ完結したらこの人を主体にした作品も書きたい所存。 此処からは補足です。 睡蓮鉢は家庭で水生植物を育てて観賞する為の鉢になります。江戸の時点で既に日本には現存しております。 ワスレナグサのおうちの風琴とは、今で言うオルガンです。一般家庭にはありませんがその辺はおいおい。 揚げしんじょの蕎麦ですが…これは今で言うコロッケ蕎麦の大元になります。昔は鳥のつくねを揚げて蕎麦に乗っけておりました。幾つかのお店には、このタイプの蕎麦も残っているようです。

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