アカトキ / 第13話

拾参話目:タチアオイ

渡会…視点主。人が良い。 ジロー…忠犬。詫び寂を理解している。 和尚…山寺の主。酒が好き。 タマ…山寺に棲みつく三毛猫。雌雄不明。 タチアオイ…アオイ科の多年草。古くから渡来している植物であり、幾つかの薬効がある。草丈は1~3m程直立し、綺麗な花を6月から8月にかけて咲かせる。梅雨の頃に枝の下方から咲きだし、梢の方まで咲きあがる辺りで梅雨が終わる為『梅雨葵』という別名もある。花は一重や八重の物もあり、白やピンク、紫など多彩。万葉集にはタチアオイに関する詩が残っている。
 《《葉月| はづき》》の半ば。  少々遅れてはいたが、漸く睡蓮鉢に移していたホテイアオイが花を咲かせた。  数日前から咲く《《兆候| ちょうこう》》はあったものの、中々蕾を綻ばせずにやきもきしていたのである。  朝目覚めて睡蓮鉢を覗きに行ったら、上品な青紫の花弁をこんぢまりと披露していた。 「む。おぉ、ジロー、ジローや起きろ起きろ。ホテイアオイがやっと咲いて呉れたぞ」  誰かと此の喜びを共有したく、一先ず我が家の忠犬を呼ぶと、寝惚けた顔でのそのそと睡蓮鉢を覗きに来た。  可愛らしい花を確認し、すんすんと匂いを嗅いで何かを感じ入る様に目を瞑る。  飼い主に似て詫び寂を良く理解している風である。偉いぞ。 「ふふ、可愛らしいなぁ。暫くは枯れずに咲いて欲しいものだ」  感慨深くなりながらジローの頭をわしわしと撫でていると、私の腹が鳴った。台無しである。寝起きだから致し方無いが。  腹の虫を放っておく訳にもいかぬ。昨日の残りが有るので其れでも食べるか。 「ジロー、お前さんも飯だな」  立ち上がってそう言うと、彼は畏まりながらわんと吠えた。 「おや?」  簡単に朝食を済ませて庭を覗いてみると、ウワミズザクラの木に鮮やかな朱色がちらほらと見える。  はて、あんな色は有ったかと近付いてみると、実が僅かに色づき始めていた。 「もうそんな時期かぁ。…嗚呼、此の辺りも熟れ始めている」  ウワミズザクラは夏の頃に実が赤味を増す。秋に差し掛かると、黒くなる程熟すのだが…小さい頃の記憶を少し辿る。  如何だったか。確か、真っ黒に熟し切った実を酒に漬けていた…様な…。 「確か、まだ赤い実も酒に漬けていた…かな」  赤い実の入った物と、黒い実の入った物、それぞれあった筈である。  蕾や若芽も塩漬けにすれば此れまた良い味わいになるのだが、流石に懸想して来た相手の若芽や蕾を越して早々取るのは躊躇われ、遣らず終いである。  そろそろ半年に届くのだから、実の収穫なら良いだろうか。ウワミズザクラとの会話は一切無いが、ある程度意思疎通は取れている。恐らくは。 「…ウワミズザクラよ。程良く熟れたなら、お前さんの実を酒に漬けてみても構わないかい。味わってみたいのだ」  私は余り酒を呑まないが、知り合いの大半は好む。日頃世話になっているし、果実酒を醸造するのには興味が有った。  其の問い掛けにうんともすんとも応えはなかったが、代わりに私の手に近い一房が下がる気配がした。  …此れは、お許しが出たと言う事で良いのか? 「有難う、今一つだけ貰わせてお呉れ。其の道に詳しい御仁に、上手な漬け方を訊いて来るから」  成る丈痛まぬ様に、可愛らしい一粒を慎重に摘む。  酒に詳しいのは山寺の和尚である。かの御仁は梅酒やら何やら手作りしているらしく、私より余程詳しいのである。坊主なのに。  無事に咲いたホテイアオイの話もしたいので、会いに行く事にする。  貰った若い実を懐紙に包み袖に入れ、庭の日陰で寝転んでいたジローに声を掛ける。 「ジロー、和尚の処に行くよ」  ジローは片耳だけ器用に此方に向けると、立ち上がって伸びをした。出番ですねと言わんばかりの顔で、私の前で尻尾を振る。  此れでは、何方が面倒を見られているのか判ったものではない。いや、事実ジローの方が頼りにはなる。  季節は夏真っ盛りだが、昨日と比べると今日は幾分か涼しい。お陰で外は歩き易かった。  最近気に入っている白いパナマ帽を被り、田圃の疎水沿いを進む。  空は澄み渡る様に晴れ、山の後ろには大きな入道雲が顔を覗かせていた。  蝉の時雨が、山の方角からわんわんと聞こえて来る。近くに居れば唯《《喧| やかま》》しいが、遠ければ其れは心地の良い《《斉唱| せいしょう》》である。  毛皮の厚いジローは夏の陽気に辟易していたが、彼も今日は過ごし易いらしい。にこやかな顔で、彼方此方と臭いを嗅いでいた。 「おぅい、和尚殿」  山寺に到着し、和尚の姿を探すものの見当たらない。外出しているのやも知れぬ。  庫裏の庭側にも回り込んでみる。何らかの作業で、気付いていないのだろうか。 「うーん、出直すか待つか…おや」  と、庭に見た事の無い花が咲いており、其方に意識が惹き寄せられた。  天に向かってすくりと真っ直ぐ伸びた茎に沿って、鮮やかな花が空へと存在を主張している。花は一重や八重など有り薄桃や真紅、白と色取り取りであった。  知らぬ花である。かなり特徴的な見た目だが、覚えが無い。 「綺麗な花だなぁ…」  唯、美しい花だったので感心しつつ暫し見惚れた。  そうやって自失していたのだが、ジローが小さくわんと吠えたので我に返る。  彼の方を見ると、何処かへと駆けて行ってしまった。 「ジロー?」  犬の足に追いつく筈も無く、ぽかんとしてたら置いて行かれた。追い付こうにも行方が知れぬ。  扠と如何するか。ジローを置いて帰っても、恐らく彼は一人で帰って来れるだろう。  しかし何だか坐りが悪いので、謎の花を肴に和尚を待つ事にする。  よいしょと縁側に座りさぁ落ち着こうとしたら、直ぐに聞き慣れた声がした。 「おうい、何をしておる」  振り向くと、いつもの茹で《《蛸| だこ》》頭が木々の隙間から覗いていた。 「嗚呼和尚殿、居らしたのですか。声を掛けても返事が無いので、てっきり外出しているのかと」 「なに、ちょいとな」  顎を掻きながら近付いて来た和尚は、周囲をきょろきょろと見回してから声を潜めた。 「処でお前さん、連れは如何したんだ?」 「連れ…ジローの事ですかね。さぁ、何処かへと行って仕舞いました」  まぁ心配無いでしょうと私が言うと、和尚はそうかと安堵した様子である。  何だか今日の彼は挙動不審な気もする。目が泳いでおり落ち着きが無い。 「もうし、お加減が優れぬのですか。歳ではあるのですし、余り御無理は…」 「や、何を言うか。嗚呼、イヤ…ちと頼みが有るのだ」 「頼みですか。私は力仕事等は、向いていませんが…」  自慢にもならないが私の貧弱さは私が一番よく知っている。和尚もよくよく知っている筈である。 「重いもんじゃァ無いさ。荷物が多くてな、向こうに置いて来てしもうた」  成程、一人では苦労するので頼もうとしているのか。日頃の礼も兼ねて遣るしかあるまい。  しかし小休憩をするつもりでいたので、縁側から離れるのも名残惜しい。もう少しだけ足を休ませる為に、私は取り敢えず目の前の名も知らぬ花達を指差した。 「判りました、往きますとも。ですが、発つ前に一つ訊いても良いでしょうか。彼の花の名は何と云うのですか、見た事が無いもので気になってしまって」  和尚は横目で鮮やかな花の一群を見ると、フゥムと暫し考えた後に答えた。 「アリャ何だったかな…確か、アサガオの一種だ」 「アサガオなんで?」  アサガオならば、《《蔦| つた》》が有る筈では無いのか。それとも、蔦の無いアサガオも在るのか。  疑問に思いはしたものの、早う早うと急かされたので渋々其処を発った。 「こっちだ、こっち」  山寺の裏手にある獣道を先導されながら進む。《《藪蚊| やぶか》》が居るので堪ったものではないが、手伝うと決めた以上着いて往くしか無い。  が、行けども行けども同じ景色で、目的地には一向に到着出来ぬ。此の山はそんなに広くは無い筈である。  此れは可怪しいと思ったが、つるつるの茹で蛸頭はどんどん進んで仕舞う。  只管歩き詰めで汗を拭いだした辺りで、流石に声を掛けた。 「お、和尚殿、ちょ、ちょっと待って下さい。さっきから、ずっと同じ景色ではありませんか」  すると漸く和尚は止まった。此方に振り向き、明らかに動揺している。 「そ、そうよなァ。何か、妙な物に惑わされたかもしらん」 「そんな…狐狸の類に化かされたと言う事ですか」  そうさな、と頷く和尚。背中に冷たい汗が流れる。  何時ぞやの自覚無き儘遠き地に往った記憶が蘇ったものの、上を見上げれば見慣れた木々の梢と午の夏空が覗いていた。恐らく場所は変わっていないのだろう。  しかし、同じ場所を永遠とぐるぐる廻らされては、人は何れ死んで仕舞う。  此れは困った事になった。こう言うのは和尚の十八番の筈なので、対処出来ぬか問うてみる。 「其の、何かしらの対処法とか無いので? こう言う手合いには、慣れていらっしゃるでしょう」 「うぅん…」  が、腕を組んで唸るばかりで頼り無い。  扨如何したものかと、取り敢えず手近な岩に腰掛けて一息入れた時だった。 「えっ…」  獣道の奥から、行き成り白い《《壺装束| つぼしょうぞく》》を身に纏った女人が現れた。  壺装束は平安の頃の一般的な女性の旅装束であり、今の時代には不適切な代物である。  唖然とする私を気にも留めず静々と近くに歩み寄ると、謎の女人は《《市女笠| いちめがさ》》に着いた《《垂| た》》れぎぬをふわりとずらし顔を覗かせた。  鮮やかな紅の唇とすぅと通った鼻筋、切れ長の瞳が垣間見え、其の視線に縫い留められる。  粉う事無き美女であった。人外の如き美しい者に視られるのは慣れていない。俄かに落ち着かなくなる。  が、落ち着かぬ私を差し置いて、彼女は私に向かって丁寧な御辞儀をした。 「渡会様、御困りでしょう。迎えに上がりました」  ささ、戻りましょうと固まる二名を一度通り過ぎ、再度振り向く。垂れ衣をずらして此方を覗く視線は、あくまで穏やかであった。  美しさに及び腰になりはしたものの、其の視線には妙な安心感がある。  まるで、見知った誰かの様な――…。 「…行きましょう、和尚殿。此処に居ても助かりません」  特に信用出来る要素は其れしか無かったが、私は立ち上がった。 「そりゃ構わんが…おいおい、あんな別嬪さんの知り合いが居たのか。水臭いじゃないか」 「いえ、初対面ですが…兎も角動かねば、事態は進展しないではありませんか」  妙に似合わない《《下卑| げび》》た笑みを浮かべつつ、和尚が耳打ちする。何だか厭な気分になり、成る可く和尚の方を見ずに女人の後を追う。  やがて、見慣れた山門が木々の隙間に遠く姿を覗かせた。  此れで一安心だ、と思った矢先彼女は再び振り返る。何事だろうと立ち止まったが、視ていたのは私の方では無い。  鋭い視線で和尚を見詰めていた。私に向けた優しい其れとは違い、敵対心が宿っている。 「貴方は戻る必要は無いでしょうに。家人に叱られる前に、立ち去りなさい」  言われた和尚は汗みずくで黙って仕舞った。私は訳が分からず、彼等を交互に眺めるしか無い。  気拙い沈黙が降りたが――其れに水が差された。 「む、探したぞ渡会殿。ジロー殿が助けを求めて――あ?」  山寺の方角から、以前一度だけ遭遇した男性が急ぎ足でやって来たのだ。《《橙| だいだい》》の《《袷| あわせ》》を着た優男である。  此の男、人では無い。知り合いだが、見知っているのは元の姿だけだ。  誰かは察してはいたが、あの出来事以来人に化けた姿は見ていなかったので、会うのは二回目ではある。  件の男は私に声を掛けた後、私の背後に居る和尚を見て固まって仕舞った。見られた和尚は目が泳いでいる。  若しや、化けた姿を飼い主に視られるのは拙かったのかと思いきや――…かぁっと言わんばかりに目を見開いて怒鳴った。 「戯けめぇッ!」  余りにも凄まじい剣幕であった。怒られていない私が吃驚するぐらいには。  当の怒鳴られた本人は、文字通り飛び上がってキャアと甲高い悲鳴を上げた。  そして、煙の如く其の姿は掻き消え…膝ぐらいの大きさの茶色い毛玉が、代わりに茂みへと一目散に飛び込んで行く。 「相済まぬ、用事が出来た故後は頼んだ白花の君よ!」  怒鳴り付けた男も、《《憤懣| ふんまん》》やる方無いと腕まくりをしたと思ったら、どろんと其の大きな姿を消した。  そうして馴染みの三毛猫も茂みに飛び込み、ガサガサと騒がしい音が遠ざかって行く。 ―きゅうんっ  少し経ってから、情けない獣の悲鳴が一度だけ谺して、山には再び静寂が訪れた。 「さ、参りましょう」  唖然とする私に、再度女人が手招きした。我に返っていそいそと歩き出す。  取り敢えず事情は察していそうなので、彼女に話し掛けた。 「其の、御仁。先程のは…」 「あれは《《狸| たぬき》》です。貴方を連れ出そうとしたのは、和尚様ではありませぬ」  矢張り和尚では無かったのか。妙な違和感がずっと在ったが、勘には従うべきだったか。 「ですが、あの狸は貴方を連れ出す前に失言を致しました。其れ故に、もっと上の存在に化かされたのです」  ほほう、中々込み入って来た。 「失言、ですか」 「…誰だって、愛しき相手を騙った上に、名前を間違えられては怒ります。あんまりですもの」 「名前…嗚呼」  思い出す。山寺を出る前に見知らぬ花の名前を訊いた。矢張り、あれはアサガオでは無かったか。  つまり、此の一件の犯人は…。 「唯、貴方を巻き込んだのは不本意だったのでしょう。彼女等は動く事までは叶いません。…其処で、《《僭越| せんえつ》》ながら私が出張った次第で御座います」 「成る程…」  やっと山門まで戻る事が出来た。安堵の息を一つ吐き、礼を述べようと彼女に視線を戻す。  と、何時の間にか息が掛かりそうな距離まで詰められており、心臓が一際大きく跳ねた。足音がしないので気付けなかった。  美しい顔は、困った様に眉毛を寄せ笑っていた。 「…私、貴方が御無事で安心しましたの。急行している間、貴方の指一本でもあれに持って行かれやしないか、ひやひやしておりした」  一応物書きなので、指一本でも持って行かれたら確かに困る。  《《観音菩薩| かんのんぼさつ》》の如き何とも慈しみ深い表情をされ、私は俄かに申し訳なくなった。 「其の、申し訳無い、ご迷惑をお掛けしまして。…もう少し、気を付けます」  そう返すと、女人はふるふると頭を振る。 「貴方は優しい御人ですから、例え疑わしくとも助けに往ったでしょう。だから、良いのです」  では此れにて、と深々と一礼し彼女は山門の向こうへと消えて行った。  私も同じ方向に行くのだから、此処で別れるのも妙な話だったが…潜った先には既に壺装束の姿は無い。  首を捻りながら立ち尽くす。  矢張り、彼女も人では無かったのだろう。しかし、あんな雰囲気の知り合いは居ただろうか。  疑問に思いつつ記憶を巡らせようとしていたが、其処で聞き慣れたわんと言う声がした。 「ジロー?」  見回すと、本堂の入り口にジローが立っていた。  普段、彼は本堂や庫裏の中には入ろうとしない。其れだけ弁えれる賢い畜生である。  が、如何したことか階段の上で動かない。和尚に対し失礼を働く道理はジローに無いので、此れは何かしら起きたか。  そう言えば、ジローが探していたと聞いた様な。 「如何したんだい」  慌てて彼へと駆け寄る。  もう一度わんと吠えると、尻尾を振って其の場から横に退く。  本堂に行って呉れと言わんばかりの態度だったので、其方を覗くと尼僧らしき人物が中心で蹲っているのが視えた。  荒く背中が上下しているので呼吸はしている。しかし苦しそうである。 「もうし、大丈夫ですか!」  急いで近寄ると、私の声が聴こえたのか顔を上げた。  二十代程の、まだ若い女性の顔が《《御高祖頭巾| おこそずきん》》から覗いている。顔色が悪く、球の汗が浮かんでいた。  暑いと言うよりも、恐らく具合が宜しくないのだろう。 「具合が悪いのですね。今直ぐ医者を――」  此処から一番近い医者は誰かと考えを巡らせていたが、肩を支えていた手を尼さんが掴んだ。  夏だと言うのに、其の手が酷くひんやりしている事に気付く。  彼女は目を瞑って頭を振ると、震える唇を開いた。 「せ、背中、背中を…」 「背中…支えましょうか、そ、其れとも《《摩| さす》》りましょうか?」  後者の問い掛けに、彼女は必死に頷く。  如何にも、医者を呼ぶよりも背中を摩って欲しいらしい。  其れならばとゆっくり摩ってやる。  深呼吸を繰り返すと、尼さんは合掌しながら念仏を唱え始めた。  お堂に厳かな経文が響く。  すると、見る見るうちに彼女の姿形が歪み変異していくではないか。  みすぼらしい身なりの痩せた童女、老いさらばえた老婆、落ち武者の様な男、身なりの良い服を着た老紳士…次々にぐにゃりぐにゃり尼さんの姿に戻っては、変化していく。  目の前でとんでもない事が起こり驚いて手を離そうとしたら、彼女は悲鳴にも似た声で叫んだ。 「続けて下さい!」  其の声に叱咤され、私は再び必死になって背中を摩る。  どれくらい摩っていたか判らない。どれ程力を加えていたかも判らない。  汗びっしょりになり良い加減手が疲れてきた頃、漸く変化は止まり元の尼さんの姿に戻った。  合掌していた手を床に付き、彼女は荒い息を吐いている。私も青息吐息である。  お互いに無言で息を整えていたが、先に尼さんの方が立ち上がる。  未だ具合は悪そうだが、此方を見下ろす顔色は随分と良くなっていた。 「お世話に、なりました…」  掠れた声で礼を述べると、よろめきつつも本堂から出て行く。  後には、私だけが残された。 「オウ、何しとるんだ渡会さんよ。本堂で座り込んで」  暫く疲労と混乱で自失していたが、和尚の声で我に返った。  振り向くと、和尚が腕を組み佇んでいた。其の背後ではジローが此方を窺っている。 「あ、お、和尚殿。…失礼ですが、本物ですか?」 「ハァ? …嗚呼、もしや何かが儂に化けていたか」  和尚は勘が良い。私が何に遭ったのか察しが付いたらしい。 「そんな処なんですが…迎えの方曰く、狸でしょうと」 「迎え? 寄越した記憶は無いなぁ、儂はお前さんが来とる事も知らなんだ」 「今時珍しい、壺装束の女人でした」  判らん、と首を捻る和尚。  如何にも、あの壺装束の女人は和尚の知り合いでは無いらしい。私個人の顔見知りなのか。  取り敢えず疲れておるだろうし庫裏で休めと言われ、其れもそうだと先程の謎の花が群生する裏庭へと足を運ぶ。  アサガオに間違われた庭の花達は、夏の陽光の下で静かに其の身を主張している。 「ホレ水だ。で、経緯を聞かせてくれ」 「私もまだ良く整理出来ていませんが…」  疲れた身に水が染み入る。  俄かに体の内側が潤ったのを感じながら、掻い摘みつつ仔細を話す。尼僧の御仁が去った辺りまで話し終えると、ははぁと得心した顔で和尚は苦笑した。 「そいつ等は、裏の山手に棲む狸達だな。姉と弟らしい」 「姉弟だったのですか」 「仲は良い様だが、姉は仏門に入って功徳を積んでおると聞く」  ははぁと一瞬納得したが固まる。  仏門。狸が。 「狸がですか。其の、真似事ではなく?」 「真似事だが、中々に慈悲深い奴だ。最近は伊予で徳信者の集まりが有った様で、姉狸は其の帰りだろう」  狸が仏門に入るとは。しかしまぁ、ジローも徳の高い犬なので可怪しくは無いのやも知れぬ。人に化けれるなら尚の事、狸は徳が積みやすかろう。  帰りに何ぞ良くない妄念を背負い過ぎて、神仏に助けを求めたのかなと和尚は呟く。 「で、では弟の方は? 和尚に化けていた狸は…」 「アリャ余り人は好かんらしい。寺にも顔は出さんが、姉は慕っておる。大方、迎えに往った処でお前さんと会い、咄嗟に姉から引き剥しに掛かったのかのう」  成程そう言う事か。  まず順序として、和尚が寺を留守にした。其処に、沢山の妄念に憑かれた姉狸が山寺へ向かい神仏の力を借りようとする。そしたら私がやって来て、迎えに来た弟狸が知らない人間を警戒する。姉狸を見付けられたくなかったので、咄嗟に寺の主たる和尚に化けて遠くへ誘導しようとした。  此れが始まりなのだ。  何やかんやで私を置いてけ堀にしたかったのだろうが、失言の所為で更に上手の存在に化かされ一緒に惑ってしまった。  其の後は推して知るべしか。  迎えに来た謎の女人の正体は知れず仕舞いだが、真相がある程度分れば誰も悪くは無い。此の件に悪者は居ない。  私は散々歩かされ延々と背中を摩る仕事を請け負い、疲れてはいたが。 「背中を摩ってやりましたが、あれは力に成れたのでしょうか」  唯一気になった点を零すと、和尚は笑った。 「成ったんじゃないか。礼は述べられたのだろう」  ならば、良いか。 「一件落着かね。…処で渡会さんよ、何ぞ用があって来たんじゃないのかね」  そうだった。果実酒の漬け方を訊きに来たのだ。  慌てて袖を探るが、其処に入れておいた油紙が無い。 「あれ、落として仕舞ったかな。油紙を入れておいたんですが…」 「油紙? 此れかね、庫裏の玄関に在ったぞ」  和尚の手には、見覚えのある畳まれた油紙が有った。  玄関に近付いた覚えは無かったが、風にでも吹かれて仕舞ったか。 「嗚呼、其れです。ウワミズザクラの実を持って来たのです」  事情を話すと、和尚の目が明らかに輝き出した。事、酒に関しては本当に目が無いのである。 「ウワミズザクラの酒かァ。上手く造れたなら、儂にも分けて呉れまいか」 「其のつもりですとも」  ちょいと待ってろと和尚が席を立つ。わざわざ紙に記して渡して呉れるらしい。  大層親切だが、酒に対する情熱が強すぎて苦笑して仕舞う。  沓脱石の直ぐ傍で昼寝をしているジローを暫く眺めていたが、にゃあと聞こえて其方を向いた。 「おお、タマやお帰り。…えぇと、用事は済んだかい?」  タマだった。山寺に棲み付く三毛猫である。  和尚が周囲に居ない事を確認して、こっそり尋ねると当然だと言わんばかりに胸を張る。 「ふふ、お疲れ様。…其の、タマや。あんまり弟狸を悪く思わないでお呉れ」  唯一の親族を大切に思う気持ちは、解らんでもない。  言われたタマは何だか不服そうではある。まぁ、タマもタマで和尚が大事なのだ。  其の和尚の姿を勝手に借りて人を騙そうとしたのだから、不満に思う気持ちも解る。  横に移動し手足を畳んで座ったタマの顎を擽ってやると、ごろごろと喉を鳴らした。労いも兼ねて暫く彼方此方と撫でてやっていると、和尚が戻って来る。 「どれ待たせたな。嗚呼其れと、玄関にまた何ぞ置いてあったぞ」  またとはな?   「お前さん宛だろう」  そう言って和尚が目の前に置いたのは、藤の弦で編まれた籠であった。 「此れは…山で採れた物でしょうか」  藤籠の中には、色取り取りの山菜がわんさか詰め込まれていた。摘みたてなのか全て瑞々しい。  ウワバミソウ、フキ、シソにヤマモモ…更にはワスレグサの蕾まで有る。其の中に見慣れぬ青紫の花が、二輪そっと添えられていた。 「そいつはタヌキマメの花だ。化かして悪かった、と言う彼等なりの謝意だろう」  何とまぁ。態々、山を駆けずり回って摘んで来たのか。  恐らく一匹だけの成果では無い。あの遣り取りから其処まで時は経っていないし、タヌキマメの名を知るのは人側の教養を持つ姉狸の方だろう。  ふらふらしながら去っていった背中を思い出す。  こんな事をせずとも、望まれれば何度でも背中を摩って遣ると言うに。 「何だか、貰うのが忍びない様な…」  私のすっかり同情しきった声を聞き、和尚がからからと笑った。 「騙された側なのに人が良いのう。ま、此の量はちと持て余すか…どれ、儂にも分けてお呉れ」  確かに和尚も迷惑は被っている。ならば此の狸達の謝意を分け合うのは、利があるか。  ならば、良いか。  自らの分をぽいぽいと手近な《《笊| ざる》》に入れ始めた和尚に、もう一つの話したかった事柄を喋る。  ホテイアオイが咲いた事を伝えると、彼の顔が柔らかく綻んだ。 「そうか咲いたか。嬉しかったろう」 「えぇ。毎日様子を見ていたので、感慨も《《一入| ひとしお》》です」  毎日睡蓮鉢を覗いて、水を変え、邪魔な浮草が増えたら取ってやる。そんな事を繰り返していた。  愛情かは兎も角、ホテイアオイに対して確かに情は湧いていた。  何かを育てる喜びも中々悪くは無い。問題は、私が物臭故に多くの物は育てられない点である。  ジローとホテイアオイ、自分の世話程度が限界であった。  彼が丹精込めて世話をしている庭を眺める。季節毎に咲く花は違う。七色の色彩を宿す和尚自慢の庭である。 「和尚殿は凄いですね。こんなに沢山の、生命の世話をしている」 「マァ慣れよ、慣れ。長く生きとりゃ慣れてくるさ」  ふと、気になる事を一つ思い出したので質問を投げた。 「和尚殿。庭に咲いた、あの背の高い花達の名は何と言うのですか」 「あれか、タチアオイさ」  存外に優雅な呼び名だった。すくりと伸びた、凛とした佇まいに似合っている。 「タチアオイ、と言うのですか。綺麗ですね」 「そうだろう? 手塩に掛けてるからなぁ、自慢の娘みたいな物さ」  何とも誇らしげな和尚を見る。  嗚呼成る程、此れは確かに和尚を騙ったのは悪手だったやも知れぬ。  鮮やかなタチアオイ達は、年頃の娘が寄り合う如く、さざめいて揺れていた。 「ふぅ…少しの予定が、長居して仕舞ったなぁ」  家に帰る頃には、日が傾こうとしていた。  藤籠と果実酒の作り方が書かれた紙を台所に置き縁側に出ると、何故かジローがウワミズザクラの傍らで休んでいた。  常日頃、彼は散歩を終えたら腹が空いていようと小屋で一休みする。其の流れをする方が落ち着くのだろう。なので、其処に居るのは不思議ではある。  そう言えば成果を述べねばと私も隣へ向かい――…ふと、橙の袷の男の科白を思い出す。  タマはうちにも来た事がある。知り合いであっても可怪しくは無い。  もしや。  そっと、小さく問うてみる。 「…※※白花の君※※?」  途端に、恥じらう様に枝葉が揺れた。  ゆらゆらと余韻を残す枝葉を見て確信する。確信はしたが、追求するのは止めた。  問うのは野暮天だ。  代わりに、ジローと二人で日が落ちきるまで彼女の傍らで庭を眺めた。  風が涼やかである。  …もうそろ、秋の気配が近付いている。
山寺の珍事回。タチアオイは私が好きな花なので、書けて楽しゅうございました。 狸可愛いですよね。可愛いので困らせたいと思います。

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