アカトキ / 第14話

拾肆話目:加密列(かみつれ)

渡会…視点主。優しい。 ジロー…忠犬。可愛い。 ジョン…渡会の文通仲間。英吉利人。 おかみさん…おとなりさん。 カミツレ…カミツレは和名でカモミールが通称。キク科シカギク属の一種で耐寒性一年草。広義に置いてカモミールと呼ばれる植物が数多くあるが、今回はジャーマン・カモミールの事を指す。欧州各地で伝統的に薬用植物として広く使われており、精油や化粧水、入浴剤、そして現代ではカモミールティーとして愛されている。消炎作用の他睡眠を改善する効果がある。日本には江戸時代に蘭学と共に伝来。花言葉は逆境に耐える、貴方を癒す、清楚等。
 長月《ながつき》の初め。  英吉利《イギリス》の知り合いから手紙が届いた。差出人の部分には、流暢《りゅうちょう》な文字で『John』と記されている。  向こうの国ではジョン、と読む。留学時代に世話になった家の、少年の名前である。  当時は十歳辺りだったので、もうとっくに立派な青年に成長しているであろう。  彼の顔が脳裏に浮かぶ。日本人と云う異分子そのものだったが、彼は妙に私に懐いていた。 「やぁ…、懐かしいなぁ」  ふわふわとした金髪の綺麗な童子だった。  宗教画の天の御使《みつか》いが如き愛らしい容姿で、大きくなったら如何なるのか想像力の乏しい私では全く脳裏に浮かばない。  家にあった楽器を既に幾つも弾きこなしており、ピヤノを演奏しながらよく自作の鼻歌を口遊んでいた記憶がある。  手紙の話が確かなら、今はもう名うての音楽家になっている筈だ。  ひっくり返して表を見る。  消印の日付は数か月前。海外からの手紙は、到着迄に相応の時間を要する。  無事に届くだけ儲け物と言えよう。  腰を落ち着かせる為に一旦縁側へ行く。作業の途中で郵便配達員に呼び出されはしたが、作業自体は別段急ぎでもない。  手紙の中身の方が気になる。 「えーと、む、封が固いな…」  ジョンは貴重な文通仲間であった。  尤も、最近は忙しい身なのか、余り手紙の遣り取りをしていなかったのだが。  最後に送ったのは私からで、簡単な近況と引っ越しの旨《むね》を告げて新しい住所を記した手紙を書いた。  初めの頃は幼い彼に気を遣って、英語で文通をしていた。  が、何時だったか日本の言葉を学び始めたと、拙い平仮名で手紙が来るようになった。  流石に漢字やら片仮名やらを使いこなせてはいないが、句読点は全く違和感が無い程度には習熟《しゅうじゅく》している。下手をすると私よりも字は美しい。  彼との手紙を見る度に、私も字をもう少し綺麗にせねばと思いはするが、大体数日で忘れる。  思い付きの戒《いまし》めなぞ身になった試しが無い。  腰を落ち着かせて、封筒を開いた。  微かな花の香りが鼻腔を掠めた。何とも馨《かんば》しい匂いだったが、何だったか。確か、ラベンダーだかラーヘンデルだかだったか。曖昧である。  津々浦々《つつうらうら》の思考を隅に追いやりつつ、便箋《びんせん》を広げる。   『こんにちは。おひさしぶりです、けいじおにいさん。』  相も変わらず、読みやすい綺麗な字である。  忙しくて手紙を書く暇が無かった事への陳謝《ちんしゃ》が書いてあり、気にしなくても良いのにと苦笑する。  私も私で筆不精なので、しょっちゅう手紙の返信は遅れ気味である。寧ろジョンの方が筆まめだ。  手紙には直近の家族の様子や音楽家としての仕事、好きな本の事が書いてあり…最後に、音楽の勉強も兼ねて日本に来る事が述べてあった。 「…ん?」  此方に来る?  もう一度読み直す。何時来るかを確認しないといけない。  秋の頃、とだけ書いてある。曖昧である。  だが仕方が無い。数か月前の手紙なので、明確な渡航期間はまだよく判らなかったのだろう。嵐や高波に見舞われると、船は大きく遅れる事もある。ましてや英吉利から日本への長旅である。 「そうか、此方に来るのか…」  早ければもう此方に着いているのだろうか。無事に船旅を終えれていると良いのだが。  ふと、私には会いに来て呉れるのか、と考える。  一応十年来の文通仲間である。手紙に書いているのだから、何れは会いに来て呉れる…とは思いたい。  しかしまぁ音楽家として日本に来るのだから、仕事と勉強で忙しいだろう。  何処に滞在するかも不明なので、此処より遥か遠方かもしれぬ。そうなると、同じ国に居たとしても会えるかは微妙である。   「到着した手紙ぐらいは、書いて呉れるかしら」  そう信じたい。信じたいが縦しんば会いに来て呉れたとて、如何せん貧乏三文文士の立場で盛大な持て成しは出来ぬ。  自分の飯すら怪しいと言うのに。精々蕎麦をたらふく奢れるか否かが限界だ。  ジョンの家は高名な音楽一家である。家の調度品は質が良い物だったし、庭も広々としていた。  何よりピヤノやらビオラやらの高い楽器を複数所持していたので、財力は推して知るべしである。  そんな家で伸び伸びと育った深窓《しんそう》の令息《れいそく》を、丁寧に持て成せないのは余りにも申し訳が立たない。  自分が情けなくなってくる。  私が少し落ち込んでるのを知ってか知らずか、黙って此方の様子を見ていたジローが近付いて来て、顎を私の太腿に置いた。  円らな団栗眼が励ましている様で、済まんなと言いつつ頭を撫でてやるとふす、と鼻息を漏らす。そうして私の直ぐ足元でドスンと横になる。好きにしろと言わんばかりの体勢である。  明らかに慰められている。飼い主としての威厳も無い。  …とは言え、落ち込んでいても仕方が無い。  ジョンの件は何れ彼から到着の手紙が来たらで良いだろう。来なかったら、其れまでである。来なかったら少し傷付くだろうが。  折角ジローが私の足元に転がっているので、思う存分毛皮を撫でまわしてから先程の作業に戻るとする。 「よし、遣ろう」  台所に移動して、襷《たすき》掛けをして気合を入れた。  目の前の笊《ざる》には、洗って乾かしておいたウワミズザクラの実が収まっている。  ウワミズザクラの酒を造ろうとしているのである。用意するものはウワミズザクラの実と、鉢氷《はちごおり》――此れは砂糖を氷の様に固めた物である――…後は、酒だ。鉢氷は隣のおかみさんが呉れて、酒は作り方を和尚に相談した際にお勧めの焼酎を貰った。  私が用意したのは酒を保存する瓶だけだ。其れも此の家の納戸を漁ると出て来た。運が良いと言うか、知り合いに良い人が多いと言うべきか。  対価に出来た酒をお裾分けする予定なので、此れで《《ちゃら》》になるのだろうか。  赤や黄色、黒に熟したウワミズザクラの実と砕けた鉢氷を交互に入れる。  全部入れたら、溢《こぼ》さない様に焼酎を静かに注ぐ。  余らせても困るので全て注いだ。  最後に、口に封をする。此れを涼しい場所に保管する。うちでは台所の土間が一番涼しい。  此れで仕舞いである。後は時の流れが何とかして呉れるだろう。 「うん、こんなものかな」  まだ焼酎の強い匂いしかしなかったが、一月か二月漬け込むとウワミズザクラ独特の香りが出てくるらしい。  彼の香りが酒に付いたらどんな風味になるのだろうか。私は普段酒を呑まない。極稀に愉しむ程度であり、おまけに和尚程酒に強くない。  しかし、酒の味が苦手な訳では無い。  貧乏人と雖《いえど》も風流を愛する性質なので、無事に出来たらウワミズザクラの木の下で酒を呑みながら月見でもしたいものだ。  …まぁ、私の知り合いは私が風流人を自称すると、概《おおむ》ね花より団子だろうと揶揄ってくるのだが。間違ってはいない。 「あたた…む?」  中腰で作業をしていたので腰が痛い。とんとんと腰を叩いていると、ふと玄関の方から聞き慣れぬ男性の呼び声がした。  声が小さいのかはっきりと聴こえて来ない。 「…ゴメン、く…ーい」  御免下さい、と言っているのだろうが何だか発音が可怪しい。日本人にしては妙な発話である。  鄙《ひな》びた地域の出の者は、訛りが非常に強い。かく言う私も幼少の時分は磐城《いわき》の訛りが大分強かった。慣れてきたのはかなり大きくなってからである。  磐城かはたまた薩摩《さつま》等の、遠き地方の客人だろうか。  が、私の知り合いで私よりも山深い郷の出身者は思い浮かばない。  首を捻りつつ、はーいと応えて玄関へ向かう。   「はいはい、お待たせしまし…た…」  玄関に立つ人物を見て私は固まった。  質の良い洋装の、瘦身の年若い紳士である。年の頃は二十代だろうか。  左手には弦楽器の入っているであろう皮の鞄、右手には可愛らしい黄色い花のハンケチーフで覆った藤篭を提げている。  鼠色の背広一式で、帽子も同じ色で統一されていた。  しかし衣類の地味な色とは反対に、ふわふわとした金色の鮮やかな髪と碧眼を彼は備えている。  彫刻の如きすうと通った高い鼻筋と、発色の良い薔薇色の頬と薄い唇。  以前見た事のあるビスクドール…西洋の磁器人形《じきにんぎょう》を思わせる、芸術的な風貌である。  恐らくは欧州――仏蘭西《フランス》か英吉利の、人間だろう。  偶さか日本の地で、こんな美貌の西洋紳士に会うとは思っておらず、脳味噌が混乱する。  が、何時までもそうしてはいられぬ。  道に迷って助けを請いに来られたのかと何とか我に返り、どもりながらも口を開いた。 「あ、嗚呼…えぇとその、何か、ご、御用でしょうか」 「Ah…ソノ」  青年は困った様に此方を見る。如何にも不安げな面持ちだったが、彼は迷いながらも私に問うてきた。 「…ケイジ、ワタライさん、デス…よね?」  おや?  何故か名前を知られていた。と、ふと朝に届いた手紙を思い出す。  金髪碧眼の青年。二十代。私の名前を知っている。  間違っていては失礼なので、私も私で恐る恐る問い返す。 「もしや君は、私の文通仲間である――ジョン君かい?」  途端に青年の表情が、ぱぁと輝いた。 「ハイ! お久しぶりデス、ケイジさん!」  そうしてばっと両手を広げる。  如何にも抱擁を交わしたかったらしいが、何方の手も塞がっていることを思い出したのか、途端に恥ずかしそうな顔になった。  背丈は私よりも大きいのだが、溌溂とした子犬を思わせる雰囲気がある。 「Oh…アノ、sorry――ゴメンナサイ。嬉しくて、ツイ」  I wish I |could be a gentleman《紳士で居たいのに》…、としょぼくれる姿に私は笑ってしまった。 「ふふ、大丈夫さ。久しぶりだねジョン君…其の、大きくなったなぁ」  記憶の中の彼は、私の腰程の背丈の愛らしい少年である。今の姿にも当然面影はあるが、随分と立派に成長していた。 「ケイジさんは、変わりませんネ」  喜びで上気した顔でまじまじと見詰められ、つい圧される。  世の御婦人方が大喜びしそうな美貌である、其れが目の前に居るのだ。落ち着けと言う方が無理だ。  一回りぐらい年の離れた相手に此れでは、先が思いやられる。まだ再会してそんな経ってないと言うに。  一つ咳払いをして気を取り直す。対面の青年は無邪気な仕草で首を傾げた。 「まぁその、立ち話も良くない。是非上がって呉れ」  彼を応接用の座敷に通すと、物珍し気に屋内を見回していた。奥のホテイアオイの掛け軸を眺めつつ、そろそろと机の前に座ろうとする。  そして何とか正座をしようとしていたが、上手く出来ないのかもぞもぞしている。苦戦している様子を見て助け舟を出した。 「嗚呼、無理しなくて良いよ」 「Hmm…ゴメンナサイ。ザゼンは、難しい」  此方に滞在するにあたって、叔母の家に世話になると手紙に書かれていたが…如何にも床に座る文化が在る家庭では無いらしい。英吉利のジョンの実家からして、親戚も此方で言う華族なのやも知れぬ。  本当は茶を淹れに行きたかったが、一先ず客人に腰を落ち着けて貰いたい。  半端な膝立ちの儘では居た堪れぬ。 「ほら、真似してご覧」  真似をして貰う為に対面に胡坐を掻いて座る。家主がそう言ったからか、ジョンも胡坐を掻いて漸く息を吐いた。 「アリガトゴザイマス、ケイジさん」 「《《I don't mind,Jhon.| 構わないよ、ジョン》》 そうだ、お茶を淹れてくるから待っていて呉れ」  そう告げて立ち上がろうとすると、お茶…と呟いた彼が慌てて私を止めた。 「Wait! お茶、お土産、アリマス!」 「お土産?」  何と、態々土産を持参して呉れたらしい。  ジョンは藤篭を机の中心に置き、ハンケチーフを取った。 「おお、此れは…もしや焼き菓子と紅茶かい?」  中には四角い缶が二つと、見覚えのある食べやすいように切られた焼き菓子。焼き菓子は恐らくキャロットケーキだろう、向こうで食べた記憶がある。  缶には『|TWININGS《トワイニング》』と言う文字の下部に、それぞれ『|Earl Grey《アールグレイ》』『|Chamomile《カモマイル》』と記されている。此れは上が社名で、下が茶葉の種類である。  アールグレイの缶は、以前ジョンの実家で見た事があった。飲んだ記憶がある。 「ハイ! お菓子は、|Aunt《アント》に焼いて貰いマシタ」  Auntは叔母と言う意味である。確か、手紙で叔母の家に世話になると書いてあった。その人に焼いて貰ったのか。  にこにことしていたジョンは、其処でちょっと恥ずかしそうな表情になった。 「…私は、ケイジさんと、イ、一緒に、Tea timeしたい、デス。…ダメ?」  駄目な訳が無い。断るつもりはもとより無いのだが、そんな捨てられた子犬の如き上目遣いをされると私も何だか照れ臭くなる。世の奥様方が一目見ようものなら、一瞬で虜になりそうな顔であった。私だけが此れを見ているのが勿体無いぐらいである。 「だ、駄目なものか。是非一緒に…嗚呼、でも如何するか」  此処で問題が起きた。我が家には急須はあれど、紅茶を淹れるティーポットが無い。何ならティーカップも無い。有るのは湯吞だ。  日本でも紅茶の栽培は始まっているらしいが、まだまだ庶民には手の届かぬ嗜好品なのだ。其れを淹れる専用の茶器など雲の上の存在である。 「うーん、急須で淹れても良いかい。英吉利の時の様な味わいには、成らなそうだが」  ジョンはキュウスと繰り返して首を捻っていたが、如何にか日本の茶器である事と味が変わるかもしれない事を伝えると構わないと快諾した。 「一緒に、ナンデモ。Ah…どちらに、シマス?」  ふむ。アールグレイはよく英吉利でお八つ時に飲ませて貰っていた。懐かしい記憶に浸るのも悪くは無いが、カモミールと言う名前の茶葉も気になる。 「ジョン君、こっちはどんなのだい」 「其れは|Herb《ハーブ》デス。ケーキと、美味しい」  Herbは大雑把に言うと、野草や草木の意である。詰まる所、薬草を煎じた茶であるらしい。  科白から察するに、菓子とは合う物なのだろう。 「成程。じゃあ此方にしよう」  カモマイルの缶を持って立ち上がる。湯を沸かさねばなるまい。 「ア、私も、手伝う」 「いかん、其れは駄目だ。君はお客さんなんだから、持て成させて呉れ」  不承不承で頷いた彼を宥め、私一人で台所へ向かった。 ―クワッ。  カモマイルを急須で淹れ、湯飲みと小皿も二つ盆に載せて座敷へと戻る。  其の際に鳥の声が聞こえた。何かが庭に来ているらしい。  はて此の鳴き声は鷺の類かと思いつつ、襖を開けた。 「や、お待たせ。湯を沸かすのに時間が…――」  次の光景に呆気に取られた。  ジョンは庭の方を眺めていた。表情は判別出来ない。  庭は秋の訪れを感じているのか、仄かに葉が色付いて来ている。否、其処は問題ではない。 ―クワッ。  池に白鷺が居たのだ。視線はジョンの方に向いており、見詰め合う形になっていた。  此の白鷺、池が気に入っているのか度々其処に佇んでぼうとしている事が多い。私の視線は、縁側に置いた睡蓮鉢へ自然と向かう。  矢張り、居ない。  …知人ならぬ知鳥なのだが、此奴は元々睡蓮鉢に描かれていた白鷺である。  見た目は其の辺の同じ白鷺と変わらないのだが、私は何故か見分けがついていた。  湯を沸かしに向かうまでは居なかった筈なので、何処かの時に出て来たのだろう。  …もしや、出てくる姿を見たのだろうか?  家主ですら睡蓮鉢から出てくる瞬間は視た事が無いのだが。  ジョンが引っ繰り返りはしないかと、不安になる。 「…え、えぇと、ジョン?」  取り合えず溢さぬ様に盆を机に置くと、ジョンは此方に気付いた。 「ア、お帰りなサイ。…アレは、|Heron《ヘロン》ですヨネ」 「あぁ、そうだね。白鷺《シロサギ》と此方では呼んでいるよ」  シロサギ、と復唱し不思議そうな顔で睡蓮鉢を指差した。白鷺は鳴くのを止めて呑気に羽繕いをしている。 「アノ、花瓶デスかね。あれから、出て来ました」  思いっきり目撃している。頭を抱えたくなる。 「あ、そ、そうなのかぁ。そうかぁ…」  何と説明すべきか困っていたが、ジョンは怖がるでも訝しがるでも無く無邪気に問うてくる。 「|Seelie Court《シリーコート》デス?」  Seelie Courtとは、彼方《あちら》の伝承に出て来る好意的な妖精の類である。  確かに人に対しては無害である。ちょっかいを出して来た河童は、容赦なく返り討ちにしていたが。 「うーん…私もよく解らないが、そう言う物なのかもなぁ。まあ、無害だよ」 ―クワッ。  私の科白を理解しているかは定かでないが、白鷺は一声上げると伸ばしていた首を引っ込めて目を瞑った。自分は無害だと告げている。殊勝な態度である。  其れを私と暫し一緒に眺め、ジョンはふふと笑った。 「良い子ですネ。Seelie Courtが、日本にも居るんだ」  世の理を超える光景を見ても驚かない彼を見て、私はふと思い出した。  ジョンはどうやら、物心が付く前に何者かに攫われた事があるらしい。何やら妖精に攫われて、帰って来たのだと聞いている。  此れはチェンジリング――…取り替え子と言う、欧州の伝承に纏わる物だろう。  人間の子供が連れ去られ、妖怪と取り替えられる話である。  当時の詳しい話は何も聞いていなかったが、彼の家族からはこれこう言う経緯が有るのでジョンが変な事を言っても気にしないでくれ、と釘を刺されていた。  子供時代のジョンは確かに何かが視えていた様で、庭の散策を共にしていると彼方に何が居る、其処にこんなのが居ると楽しそうに話して呉れた。  私は話半分に聞きつつ、気になる事は質問だけして特に否定も何もしなかったのだが――…だからこそ、ジョンに懐かれていたのやも知れぬ。 「…そうだ、お茶だ。苦くなってないと良いのだが」  我に返った私は、慌てて急須の中の具合を確かめた。淹《い》れ過ぎては苦くなってしまうだろう。 「Oh、スミマセン! お茶、アリガトゴザイマス」  ジョンは謝りつつ、持ってきた皿を並べて呉れている。  急須の蓋を開けると、ふわりと独特な香りが立ち昇った。  林檎に似た花の芳香である。優しい匂いに、心が落ち着く。 「好い香りだなぁ」  しかし、何だか嗅いだ記憶のある匂いだった。何処で嗅いだかはとんと思い出せない。  湯呑に注ぐと、日本の茶に似た色合いの液体が顔を出した。立ち昇る湯気の向こうには、淡緑が揺らめいている。 「Chamomile、好きです。|relax《リラックス》しマス」  湯呑を受け取り、ジョンは香りを嗅いだ。  カモマイルは心を落ち着ける効果でもあるのやも知れぬ。  キャロットケーキも小皿に分け、さてと茶会の準備が整った。  まずは一口、カモマイルの茶を啜る。  果実に近しい華やかな香りが鼻を抜け、舌の味わいは日本の茶より優しい苦みである。  今まで飲んだどの茶の類とも違うが、厭な味では無い。 「嗚呼、美味いなぁ」  不思議と心が安らぐ。  続けてキャロットケーキを一つ摘まみ、口に運ぶ。  美味い。仄かな人参と砂糖の甘みと、香辛料の香りが効いている。中に入っているのは乾燥した棗《なつめ》だろう、其れがまた味わいを深めていた。  舌触りはしっとりとしており、自然と茶が進む。  キャロットケーキは人参を使った焼き菓子である。英吉利ではスコーンと並んで茶会の主役であった。 「うん、此方も美味しいな。懐かしい気持ちになる」  昼飯を食い忘れていたのを今更思い出す。ついつい二切れ目に手を出した辺りで、ジョンが此方を微笑ましく見詰めている事に気付いた。  湯呑もキャロットケーキも、全く手を付けていない。 「君は食べないのかい、ジョン君」 「…ウン、食べます。貴方が、嬉しいの、嬉しい」  そう言われると少々照れる。ジョンは暫く私を眺めてから、漸く湯呑に手を付けた。  其の後、近況を語り合いつつ茶会を愉しんだ。  如何にもジョンは、来年の春に開校する女学校で、音楽教師として働く予定であるらしい。  三年ぐらいは此方に滞在するとの事。是非楽しんで行って欲しい。 「春までは、|Cousin《カーズン》の教師デス」  春までは従妹《いとこ》の専属教師になる様だ。 「嗚呼そうだ、ジョン君。住所は分かるかい、此方でも手紙の遣り取りをしたいのだが」 「ハイ。デモ、近いデスよ?」  近いとな。近所にそんな家が在ったかと思ったが、ふと思い出す。  楽器を持っていて、大きな家。そして英吉利の血が入った一族。  軽やかな風琴《ふうきん》の音が、頭の中で響いた。 「もしや、其の家に居る従妹とは…紗良さんと言う娘さんじゃないか?」 「Yes! …もしや、友達?」  友達と呼ぶには其処まで仲が良くはない。友達と知り合いの中間ぐらいの気もする。  そうか。ジョンの親戚なのか、あそこの娘さんは。  確かに瞳の色は異人の者だった。日本語が堪能なのは日本で生まれ育った故だろう。  思い出すに以前渡英が決まった際、近所の知り合いに宿泊先の世話は頼んだと恩師は言っていた。知り合いとは詰まる所、あの家の御主人――此の間遭遇した老紳士――…だったのだ。つくづく顔の広い御仁である。今度恩師にもまた手紙を書かねば。 「ケイジさんは…病気、どう?」  そう言えば、手紙には病み付いていた事を書いていた。  肺の病はすっかり治っている。引っ越しより少々前に手紙を出したので、まだ其の頃は病が残っていた。  そりゃあそうか。手紙に書いてそれっきりだったのだから、心配されるだろう。 「すっかり治ったよ。元気さ」 「それは、良かった」  ひ弱な細腕で力瘤を作って見せると、ジョンは安心した様な顔になった。もしや此度の訪問は、私の具合の確認も兼ねてなのやも知れぬ。  と、此処で庭からわんと聞こえて来た。如何やら昼寝していたジローが起きたらしい。控えめな声である。   「ジロー、起きたか」 「ジロー?」  虎毛の犬がのそのそと縁側から顔を覗かせると、青年の表情が明るくなった。 「Oh,cute!」  縁側に身を乗り出し、ジョンは私の方を見る。  ジローも見ると、慈愛に満ちた瞳で首を傾げた。  どうぞお好きな様に、と言う事なのだろう。 「撫でて遣って呉れ」  私の科白を聞き、ジョンはおずおずとジローの頭を撫でる。  ジローの毛は柔らかく、特に顔周りの毛はふわふわである。  最初はおっかなびっくりだったジョンも、大人しいのが分かったのかわしゃわしゃと両手を使って撫で回し始めた。 「良い子、良い子」  確かジョンの家には猫が居た。動物は好きなのだろう。  ジローも嫌がる様子が無いので、暫く彼の好きにして貰った。 「Ah…モウそろそろ帰らないと」  日が傾いてきた頃に、ジョンががっかりしながらそう言った。 「何、また会えるさ」  そう告げると、そうだとジョンは弦楽器の入った鞄を机に置いた。 「帰る前、弾きたい。ダメ?」  帰る前に一曲弾いて呉れるらしい。構いはしないのだが…確か弦楽器一つ取っても、私の一回の仕事分の何十倍もの値段がするのでは無かっただろうか。  そんな貴重な物を弾かせて良いのか迷う。しかし、うるうるとされると断れない。  まぁお隣のおかみさんも、変わった音色が聞こえて来たからと、怒りに来る様な狭量な御仁ではない。 「うん。是非聴かせて欲しいな」  何より、今の彼がどれ程の腕前になったのかを見せて欲しい。  昔は彼の演奏を、よく目の前で聴いていた。懐かしい心地になる。  私の許可を得て、ジョンはいそいそと鞄を開けた。  中から出て来たのはビオラと言う名称の弦楽器である。日本では余りお目に掛かる事の出来ない代物だ。  形状は三味線に近しいが、艶のある其れは膠《にかわ》が塗られた木で構成されている。演奏は撥《ばち》ではなく、弓で弦を弾いて音を出す。  たった一度だけ古いビオラを弾かせて貰った記憶があるが、まともな音すら出なかった覚えがある。其れだけ、弾き手の技術が求められる楽器なのだ。 「デハ、|serenade《セレナーデ》を」  数度音の確認をして、ジョンは立ち上がってビオラを顎に添えた。立ち姿は流麗である。  何時の間にやら寝ころんでいたジローも、池でぼうっとしていた白鷺も居住まいを正して彼を見詰めている。私も釣られて座り直す。  セレナーデとは、恐らくフランツ・シューベルトの白鳥の歌に入っている曲の一つであろう。英吉利に居た頃、演奏会に連れて行かれ其処で聴いた。  弓を構え、一呼吸置いてジョンが弦を弾く。添えた左手が繊細に弦をなぞり、其れが音楽と成る。  物悲しいとも取れる曲調だが、何処か優しい音色。  少し高い澄んだ音は、秋の空へと伸びやかに溶けて行く。  と。 「ん…?」  彼の演奏に其処に居る誰もが聴き入っていたが、縁側に立つジョンの後ろ。庭の中で、幾つかの植物達が規則正しく揺れている事に気付いた。ウワミズザクラも混ざっている。  風では無い。落ちる木の葉は一切吹かれていない。  庭の木々が、ジョンの演奏に合わせて揺れているのだ。まるで、音感を取っているかの様に。  植物に人間の作り上げた芸術が理解出来るかは判らないが――…、畜生ですら聞き惚れる名演奏家である。  彼等だって、愉しみたいのだろう。  演奏を終え一礼するジョンに、彼等の分まで精一杯の拍手を送りながら私は笑った。 「|Excellent《素晴らしい》!」  何時の間にやら、白鷺は睡蓮鉢の中に澄まし顔で戻っていた。 「ど、如何してもかい」  帰り際。  最後に玄関で抱擁《ほうよう》を強請《ねだ》られ、最終的に押し負ける事を観念しつつ小さな抵抗をする。 「|Please《お願い》…、ダメ?」  まぁ、英吉利では抱擁はそんなに恥ずかしい物では無い。親しい者同士ならば、家族間で遣る行為である。ただ、日本では余り馴染みが無いのだ。  そりゃ彼が童子だった頃は、遠慮無く抱擁を交わしたりしていたのだが。大人同士で遣るのは照れる。  …文化間の価値観の差みたいな物なのだが、無碍にするのは良心が痛む。  仕方が無い。照れ臭いのだが仕方が無い。此れも遠路|遥々《はるばる》、私を訪ねに来て呉れたジョンの為だ。 「其の…日本では馴染みが無いんだ」 「ハイ!」  両手を広げて待ちの体勢をすると、彼は荷物を置いてそっと私を抱擁した。  背丈も体格もすっかり追い越されてしまったので、ほぼすっぽりとジョンの腕の中に納まってしまった。力を籠めすぎない程度に、抱き締められる。  香水らしき匂いの中に、先程のカモマイルを感じた。彼はカモマイルが好きなのやも知れぬ。  それにしても、こんなに立派な青年になっているとは。月日とは驚くべきものだ。 「…アリガト、ゴザイマス」  感慨深い気持ちになりつつ、ジョンの腕から解放された。  寂しそうな顔の彼に苦笑する。今生の別れみたいな表情だったのだ。そんな訳は無い。 「何、また遊びに来て呉れ。それに、偶に君が世話になっている家の前も通るんだ」  ジローと会いに行くよ、と言うと漸く彼は表情を明るくする。 「ハイ。きっと、また」  最後に、彼の立ち去る背中を見えなくなるまでジローと見送った。何度か振り返って手を振る彼に、其の度に手を振り返しながら。  扨《さて》家の事をするかと玄関へと退散しようとして、直ぐに人の気配がした。 「こんにちは、渡会さん」 「嗚呼、おかみさん」  お隣のおかみさんである。手には沢山の茸が入った笊を抱えている。 「此れ、お裾分けです。焼いて醤油を垂らすと絶品ですよ」  茸は秋の味覚である。おかみさんの言う通り、網で焼いて醤油を垂らすと美味い。 「此奴ぁ美味そうだ…。有難う御座います」  礼を述べると、おかみさんは其の儘立ち去らずに首を捻る。 「…先程、聞こえて来た音楽は何ですか? 聴き慣れない曲でしたが…」  お隣にもあの演奏は聴こえていたらしい。立ち話も何なので、玄関内まで来て貰うべきか。  折角なので、おかみさんにもお土産の茶と菓子を御馳走するかと思い、彼女を招き入れる。  快諾したおかみさんが、玄関に一歩入った。あら、と目を瞑る。其の場で匂いを嗅いで、ほう、と息を吐いた。 「此れは、加密列《かみつれ》ですかね? 芳しい、好い香り…」  加密列。そうだ加密列だ。  薬売りの置き薬に入っている、痛み止めの一つにあった。そうか。其の時に嗅いだのか。   「存外。身近にあったのだなぁ」  そう嘯《うそぶ》く私を、おかみさんは不思議そうに見ていた。  ジョンの残り香は、数日経っても暫く其の場に残り続けていた。
文通仲間のジョン君登場回。彼はチェンジリングに遭った青年です。 鉢氷は今で言う氷砂糖の事。キャロットケーキは今でもあるお菓子です。美味しい。

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