アカトキ / 第3話

参話目:エゾムラサキ

渡会…視点主。ひょろい。 里中…後輩。今回はほぼ出ない。 こいと…湯屋『瀬野屋』の看板娘。お転婆。 住職…近所の山寺の主。生臭系坊主。 犬…腹ペコ。可愛い。 江ノ本…渡会の亡友。何だかんだ世話好き。 おかみさん…お隣さん。犬好き。 エゾムラサキ(蝦夷紫)…ムラサキ科ワスレナグサ属、別名はミヤマワスレナグサ。日本唯一のワスレナグサ属の在来種。北海道と本州中部に分布しており、開花時期は本来5~7月ですが自生場所が北海道等の寒冷地域だからですね。なので少し早めの時期に開花をズラしました(舞台の想定は関東中部の為)
弥生の終わりの頃。後輩の里中が持って来て呉れた仕事のお陰で、少しばかり懐が潤った。身入りがあるのは素直に喜ばしい。  其処で前回の礼も《《兼| か》》ね、里中に美味い肉でも喰わせてやろうかと思っていたのだが…多忙であるらしく断られてしまった。 「僕には構わずに、《《滋養| じよう》》に良いもんたぁんと食って下さいな」  そう言って新しい仕事の原稿だけ私に渡すと、ばたばたと帰ってしまう。長居したそうではあったが、時間が許さなかったらしい。  床の間の掛け軸を見ながら、名残惜しそうに去って行った。矢張り江ノ本に逢いたいのだろう。  残された私は《《扨| さて》》如何するかと思案する。  金を貯め込める余裕も無いので、此処は彼の《《弁| べん》》に従って使って仕舞う事にした。快気祝いと洒落こんで、美味い肉でも買いに行こう。  肉屋は駅一つ《《跨| また》》いだ先にある。《《克| かつ》》て暮らしていた下宿先の駅と、今住んでいる旧江ノ本《《邸| てい》》の間である。  付近には下宿時代に《《足繫| あししげ》》く通っていた湯屋もあるので、折角なので入って行く事にする。  江ノ本邸には風呂場があった。此の時代だと珍しいかもしれない。恩師は綺麗好きだったので、彼が建てたのだろう。  しかし独り暮らしの《《不精| ぶしょう》》故に、まだ使った事は無い。此れでは宝の持ち腐れと言える。  家族暮らしなら《《兎| と》》も《《角| かく》》として、独りだと面倒さが如何しても勝ってしまうのだ。其の為大きめの桶に湯を沸かして溜め、洗う等して過ごしていた。  風呂が嫌いな訳ではない。寧ろ下宿時代は湯屋に通うのが楽しみでもあった。 「嗚呼、暖かくなったなぁ」  今日は陽が暖かい。ほんのりと風に冷ややかさはあるものの、陽光が紛らわしてくれている。  此処二日程雨が降り、少しばかり気温が下がっていたが其れも止んだ。お陰で庭の草木は《《艶々| つやつや》》とより色めいて来ている。目の保養としては大変に素晴らしい。  駅に向かう道すがら、他所よその庭に見覚えのある背の低い花を見つけた。あれは私も知っている。  すくりと伸びた《《茎| くき》》の先に薄青の淡い花弁が複数連なり、ゆらゆらと風に揺られていた。《《花冠| かかん》》の喉の辺りに黄色の目がちょんと添えられており、それがまた愛らしさを増している。  確かエゾムラサキ、と言う名では無かっただろうか。私の故郷でもよく見かけた花だった。  幼少の頃、母に連れられ《《桑畑| くわばた》》で葉を《《摘| つ》》んでいた際、足元に咲いていた花の名を尋ねた。其の時の記憶が残っていたのだろう。  遥かに昔の、ちょっとした思い出である。少しばかり感傷的な気持ちになった。  しかし何時までも他所様の庭を眺めるのも失礼だろう、我に返って先を急ぐ。  電車を使わずに徒歩でのんびりと進み、《《漸| ようや》》く湯屋に着いた。大きな看板には、『《《瀬野屋| せのや》》』と書いてある。湯屋の名前である。  《《暖簾| のれん》》を《《潜| くぐ》》ると、番台に座っていた少女が私を見てあッと声を上げ身を乗り出した。 「渡会さん、お久しぶりね」 「うん。久しぶり、《《こいと| ・・・》》ちゃん」  三十年続く湯屋を切り盛りしている、親父の娘さんである。名をこいとと言う。  笑うと《《笑窪| えくぼ》》が出来、《《溌溂| はつらつ》》とした明るさから大人気の看板娘である。  銭を受け取ると、こいとは私に顔を近付けた。心配そうな顔をしている。 「渡会さん暫く来なかったけど、入院してたって本当?」 「あぁ、ちょいとね…」  彼女がまだ十にも満たなかった頃から知っており、湯屋の親父に抱えられながら店番を共にしていたのが懐かしい。  最初に会った時は啓次ちゃんと名で呼ばれていたが、年頃になって来たからか最近は姓の方で呼ばれるようになった。  近親ですらないし店番をする彼女にしか会った事が無いが、子を持つ親の気持ちを理解出来た気になる。少々、《《物寂| ものさび》》しい。 「其の…情けない話なんだが、冬の川に落っこちてしまって」  自分のみっともない失敗談を話すのも気が引けたが、訊かれた以上は答えねばならない。  気まずそうに頭を《《掻| か》》く私に、こいとはあれまと口を抑えた。 「そりゃ大変。じゃあ、其れで身体を壊しちゃったの?」 「そうなんだ、其れで肺をやってしまった。でもまぁ、今は元気になったよ」  ふぅん、とこいとは番台に頬杖を着いて私を見る。瞳に疑惑が浮かんでいる。  元気である事を示す為にほら、と《《力瘤| ちからこぶ》》を作って叩くと、面白かったのか彼女はふふふと笑った。恐らく作った割には大して膨らまなかったからだろう。  じゃあごゆっくり、と《《石鹼| せっけん》》を渡して先へ促してくれたこいとに笑い返し中へと進んだ。彼女とも長い付き合いだが、知り合ってから此の先《《漢| おとこ》》らしい姿なぞ一度も見せれていない気がする。  脱衣所で衣類を脱ぎ、浴場へと向かった。  身体を洗って大きなタイル貼りの浴槽へと足を差し込むと、じわりと痺れるように其処から熱が伝わる。此れが《《堪| たま》》らない。  ゆっくりと全身を《《浸| つ》》からせて腰を落ち着かせる。息を一つ吐いて壁に描かれた《《錦鯉| にしきごい》》のタイル絵を《《漫然| まんぜん》》と眺めた。 「嗚呼…」  身体の内側に、湯の温もりが沁み込むのについ声が上がる。  少し熱めではあるものの、入ってしまうと丁度良い。不思議な《《塩梅| あんばい》》である。  《《手拭| てぬぐ》》いをちょいと頭に乗せ、周囲の雑談を聞きながら心地良さに身を任せた。  昼前とは言えども湯屋の中は人が多い。芋洗い状態とまではいかないが、浴槽で思い思いに《《寛| くつろ》》ぐには少々狭いかもしれない。  ぽたり、と天井に付いた湯気が雫に成って浴槽に落ちた。《《撥| は》》ねた《《雫| しずく》》が頬に当たる。冷たい。  背中をゆったりと壁に傾け、目を瞑る。  久々の湯屋であったが、矢張りとても《《好| よ》》い。此の《《賑| にぎ》》やかな《《喧騒| けんそう》》と湯の心地良さは、此処に来なければ味わえないものだろう。  《《逆上| のぼ》》せないぐらいのぎりぎりまで、柔らかな熱さを楽しんだ。  湯から上がって身体を拭くと、心成しか《《肌艶| はだつや》》が良くなった気がした。恐らくは、簡単に流すだけでは取れなかった垢が落ちたのだろう。 「また来ないとなぁ」  引っ越し先からも其処まで遠い距離ではないので、同じ様に通い詰めても良いかもしれない。  服を着直して二階の休憩所に上がると、知り合いの坊主頭が《《碁盤| ごばん》》を眺めながら難しい顔をしていた。五十代程の、《《矍鑠| かくしゃく》》とした男である。  旧江ノ本邸の近所にある山寺の主なのだが、酒も肉も好むと言う生臭坊主の《《権化| ごんげ》》が《《如| ごと》》し人物である。  《《俗世| ぞくせ》》に染まらなければ《《衆生| しゅじょう》》を理解出来ん、と言われたが本当に其れが理由なのだろうか。  しかし此れでも祭事を《《確| しか》》と執り行う上に、《《檀家| だんけ》》に説法も垂れるらしい。  人徳はあるのだろう。《《一休宗純| いっきゅうそうじゅん》》の生まれ変わりなのかもしれぬと冗談半分に思っている。 「こんにちは、《《碁打| ごう》》ちですかな」  そう声を掛けると、住職はおゥと私に向かって手を挙げた。こっちへ来いと手招きされたので、碁盤を挟んで座る。  彼は私と同じ様に湯屋が好きであるらしく、定期的に入りに来ている。そして二階で碁打ちをして帰るのが、日々の楽しみであるらしい。  その為、自然と常連である私とも顔見知りになった。 「さっきまでしていたが、相手が帰ってしもうた。渡会さん、ちょいと相手になって行かんか」  碁打ちが趣味であるらしい彼は、趣味なのもあって強い。今までも何度か相手を務めたが、勝った試しがない。  いや、《《抑々| そもそも》》私が弱いだけなのだが。 「そりゃ構いませんが、私では勝負になりませんよ」 「なァに《《一局| いっきょく》》務めてくれればそれで良いわ。こてんぱんにのされてな、其の戦術を参考にしてみたいのだ」  成程そう言う事か。確かに試しの相手としては丁度良いかもしれない。  断る理由も無かったので一局相手になった。矢張り、負けた。 「予定があるのか」  席を立つ際に《《名残惜| なごりお》》し気に聞かれたが、流石に腹が空いて来ていた。 「ちと懐が潤いまして、快気祝いに肉を買うついでに来たのです。そろそろ腹が空いてしまった」 「何だ《《患| わずら》》っておったのか。ま、治ったなら《《兆畳| ちょうじょう》》よ。また会おう」  住職に《《暇| いとま》》を《《述| の》》べて下に降りる。番台を通る際に、こいとにまた来てねと笑顔で手を振られた。  彼女の笑顔が繁盛の《《秘訣| ひけつ》》なのかもしれない。誰だって、可愛らしい看板娘に笑いかけられたらまた通いたくなるだろう。  こいとにも別れを告げ、肉屋へと足を向ける。  一番高い肉を買おうと意気込んではいたのだが、高すぎて諦めた。身の丈に合った値段の肉を買う事にする。  だが牛の肉である。此れは誰が《《如何| どう》》見ても《《御馳走| ごちそう》》だろう。  此の処、一般家庭でも肉をおかずにする様になった。良い事だと思う。  何しろ肉は美味い。《《御一新| ごいっしん》》の前は肉食が禁じられていたと言うので、生まれた時代に感謝すべきかもしれない。  自然と帰路の脚も速くなる。  が、通りを歩いていた処で、《《何時| いつ》》の間にやら犬が一匹後を付いて来ている事に気付いた。  立ち止まって振り向くと犬も止まる。しかし追い払う仕草をしてもめげる様子もなく、私を見て首を傾げている。  黒毛の、中々に体格の良い犬だった。完全な黒と言う訳でも無く、赤味の強い《《褐色| かっしょく》》の毛が所々に混ざっている。此れは確か虎毛、と言うのでは無かっただろうか。  毛並みは悪いので飼い犬ではなさそうだが…やけに懐っこい気もする。念の為本人ならぬ本犬に尋ねてみる。  犬の視線が肉の袋に向いているので、私は大事を取って肉を頭の上に《《掲| かか》》げた。此れならぱくりと盗られはすまい。 「お前さん、何処から来たのだ。迷子か」  わん、と返事はされた。しかしわんでは判らない。我ながら阿呆だったかもしれないと気付く。  肉を動かすと犬の視線も其方に動く。如何にも、目当ては肉であるらしい。  だが唯でさえ《《薄給| はっきゅう》》の身で購入した貴重品である。流石に畜生にやるには惜しい。  曇りなき《《眼| まなこ》》が気になるが、此処は鬼になるべきだろう。 「済まんが、やれんのだ。此れは私が食う為の物だ」  頭かぶりを振ったがわんと鳴かれる。分かっていなさそうだったが、私は犬を気にせず帰路を急ぐ事にした。肉は頭に掲げた《《儘| まま》》にした。  振り返ると決意が揺らぎかねないので振り向かなかったものの、爪が地面を弾く音がずっとしている。諦めずについて来ているらしい。  扨困った。私も犬は嫌いではない。嫌いではないが、自分の食い《《扶持| ぶち》》すら困る様な三文文士は、犬一匹を《《養| やしな》》う程の銭を持っていないのである。  面倒を見きる自信が無いのだ。此ればかりは致し方あるまい。  我が家に帰り着き、其処でようよう振り返ったが犬の姿は無かった。諦めてくれたのだろうか。  なけなしの良心が痛んだが、其れでも腹は空く。後ろ髪を引かれつつも、台所で《《七輪| しちりん》》を探した。あれやこれやと《《納戸| なんど》》を引っ掻き回す。  あっさりと見つかり、折角なので縁側で庭を見ながら食う事にした。米はないが空腹が限界である。 「腹が空いたなぁ…」  網を温めている間にぼんやりと庭を見ていたら、隅の辺りに小さな薄青の《《群生| ぐんせい》》が目に入った。  おや、と近付いてみる。湯屋に行く前に見かけた、《《他所| よそ》》の家に咲いていた花と同じ気がする。  エゾムラサキだとは思うのだが…如何にも先の花と別物であるようにも見受けられる。花の茎や葉に、薄く産毛の様なものが生えているのだ。  他所の庭先で見かけたものは遠目だったが、生えていなかった。  では、何方かが記憶違いの別物なのだろうか。其れとも環境が違うだけの同一の存在なのか。  植物に関してはさっぱりである。遠い過去に見たエゾムラサキをもう一度思い出そうとしたが、絶妙に細部が判らない。  七輪の存在を忘れて思わず考え込んでいたのだが――聞き慣れた声がして我に返った。 「何をしているんだ」  江ノ本が七輪の傍らに腰掛けていた。何時の間に来たのだろうか。 「おお、江ノ本。丁度良かった、今から肉を食うのだ」 「肉か。たんと食え」 「お前も食わないか、良い肉だぞ」  里中にはやれなかったので、せめて江ノ本に共に食って貰いたかったのだが呆れた顔をされた。 「食えないのか」 「誰に何を勧めようとしているのだ。…で、何を考えていた。焼いている合間に話せ」  残念に思いながらも、七輪の網の上に肉を置く。じゅう、と言う音がして《《脂| あぶら》》がぱちぱちと弾けだした。煙から好い匂いが漂ってくる。  焼き具合を確かめつつ、口を開く。 「先程出掛けていた《《折| おり》》に、他所の庭で薄青の可愛らしい花を見かけたのだ」 「ほう」 「で、帰って来て気付いたのだが――同じ様な花が其処にもある」  薄青の花弁を指差すと、江ノ本は得心した様に頷く。 「あぁ、あれはエゾムラサキだ」 「矢張りエゾムラサキなのか」  しかしなぁ、と私は肉を裏返しながら続ける。 「他所で見かけた花とは、違うものである気がする。あっちは、茎や葉に毛が生えていなかったのだ」 「毛が…ならばお前が最初に見かけたのは、ワスレナグサじゃないのか」  ワスレナグサ。名前だけは覚えがあった。 「其の二つは…似ているのか」 「似てはいる、お前の言う様に違いはあるが」  庭の隅のエゾムラサキを見る。春の風にそよぐ姿は、遠目に見ても愛らしい。  しかし、最初に見た花が別の物だとは。  似てはいるにしても見間違えるとは、と自分に苦笑してしまう。 「思い出を辿って正解を導いた気でいたが…私の記憶力も当てにならないな」 「仕方が無いだろう、子供の頃の物だろうに」  珍しく《《慰| なぐさ》》められたが、其れよりも私の昔の記憶が郷里の頃であると言い当てられた事に驚いた。 「確かに幼少の記憶だが、如何して分かったんだ」 「…此方だとエゾムラサキの方が珍しいのだ。此の庭の物は、父がお前の郷里から種を持ち帰って植えたものだよ。其れから代々花を咲かせている」  郷里の。では、あれは。 「私と同郷なのか、あのエゾムラサキは」  産まれ落ちた場所から、こんなに遠く離れた場所で生きているのか。私と同じ様に。  何とも言い難い感情が胸の奥から湧き上がっていたが、肉が《《焦| こ》》げるぞと指摘され慌てて意識を戻す。  見ればこんがりと焼き目が付いていた。皿に移して持ち上げると、脂が滴る。思わず生唾が出た。 「ならば、私だけで食うぞ」  箸で摘まみ、口に運ぶ。一噛み毎に甘味のある脂が舌を刺激する。肉の旨味が口一杯に広がり、自然と顔が《《綻| ほころ》》んだ。  非常に美味い。久方ぶりの肉なのもあるが、矢張り高い肉は値段に見合った味がする。《《嚥下| えんか》》して直ぐにもう一枚箸に取った。うん、美味い。  其の様子を何が面白いのか、江ノ本はじっと見ている。《《咀嚼| そしゃく》》して飲み込みながら、私は《《些| いささ》》か後ろめたい気持ちになった。 「私だけで食うのが、申し訳ないぐらい美味いのだが…」 「俺だって肉は好きだ…おや」  ふと、江ノ本は玄関の方を覗くように身を乗り出した。手は休めないまま、私も其方を見る。  くりくりとした瞳の毛むくじゃらが、此方を見つめていた。先程の犬だ。  門を《《潜| くぐ》》り抜けて入って来てしまったのか。困った。  江ノ本の方を見ると、興味深そうに犬を眺めている。庭の《《闖入者| ちんにゅうしゃ》》に対して、《《咎| とが》》めるつもりは無いらしい。  しかし彼の好意に反し、犬は彼を見て尻尾を後ろ足の間に丸めて唸り出してしまった。怖いのだろうか。私の時は何とも思っていなさそうだったのに。 「ほう、感心なものだな。俺が何なのか判るのか」  そう言って身を乗り出すのを止めると、自分と私の間の七輪を見やる。嫌な予感がする。 「渡会、一切れ投げてやってやれ」 「えぇ…」  旧友の頼みと言えど流石に渋る。そも、与えてしまうと次からも与えねばならぬではないか。  私が嫌そうな顔で悩んでいるのを見て、江ノ本はにやりと笑った。此の顔は良い考えが浮かんだ時のものだ、何回も見た。 「そうさな…俺が食えぬ以上、俺の替わりに食わせてやって呉れないか」  そう言われるとしんみりして仕舞う。遣らねばならぬ気になった。  溜息を一つ吐き、腹を決める。  箸で一枚取り、其れを犬に見せた。すると唸るのを止め、犬は首を傾げる。 「仕方ないなぁ。…そら、江ノ本からだぞ。もう唸ってはいかんからな」  そしてぽい、と縁先の地面に放り投げてやる。途端にばっと走りよると、私達の目の前で勢いよく肉をぱくりと口に入れた。  犬にも肉の良し悪しは分かるのだろうか、美味そうに食っている。 「現金な奴だな」 「畜生はあれで良いのだ、下手な《《奸計| かんけい》》も働かん。…あれは此処に居着くだろう、名前を付けてやらんか」 「おいおい、私は年中懐の寒い貧乏物書きだぞ。自分一人ようよう食って行けるかぐらいだ」  此れは《《拙| まず》》い、完全に飼う流れになりかけている。私は慌てた。  そう断ろうとすると、江ノ本は頭を振った。 「なぁに何とかなるさ。それに、お隣のおかみさんは大層な犬好きだ。お前の《《窮乏| きゅうぼう》》も知っているだろうし、助けてくれるさ」  完全に他人任せではないか。 「そう言うお前は助けて呉れんのか。有難い《《通力| つうりき》》で私に作家としての才能を与えてくれるとか」 「俺にそんな大それた力は無いよ」  江ノ本は私の小言を意にも《《介| かい》》して居ない様子で、別の考え事をしている。 「そうさな――お前と俺の名から取ってジローは如何だ」 「ううん…嗚呼もう分かったよ。だが私には世話なんか到底出来ぬぞ、何せ私は《《甲斐性無| かいしょうな》》しだからな」  やったなジロー、と江ノ本が美味い肉を食って落ち着いたらしい本犬に笑いかける。  ジローと呼ばれた犬は、《《畏| かしこ》》まって座り直すとわんと一声得意そうに鳴いた。彼の言葉が解っているかの様である。  結局根負けしてしまった。こうもとんとん拍子で勝手に話を進まされては、私にはもう止めようもない。  一応、今の家主は私の筈なのだがなぁ。  不満を胸に抱きながらいじけて肉をひたすら食べていると、玄関先で声がした。おかみさんの声の様だ。  其の声を耳にすると、江ノ本は立ち上がった。掛け軸へと向かって行く。 「時間だ、俺はそろそろ戻ろう」 「もう帰るのか」 「あぁ、此れでも少々忙しい身なのだ」  寂しくなったが、また来いよと彼に声を掛けて見送った。其れに対してひらひらと手を振る後姿に、ジローも名残惜しそうに小さく吠える。  さて、待たせるのも《《宜| よろ》》しくは無い。残りの肉を口に詰め込み、おかみさんにはーいと返事をして玄関先へと足を向けた。 「渡会さん、《《今日| こんにち》》は。実は煮物を作り過ぎまして、良かったら…」  見ると美味そうな煮物だった。鶏肉がたっぷり入っており、彩りの《《根菜| こんさい》》も食欲をそそる色合いをしている。  礼を述べたが、おかみさんは立ち去らずそわそわと落ち着かなかった。ちらちらと、玉袖垣の向こうを気にしている。 「いえ、其の。先程、犬の声がしませんでしたか?」  おかみさんがそうおずおずと尋ねると、呼びましたかと言わんばかりにジローが私の横にやって来た。  此れ以上ないくらい、嬉しそうな顔をしていた。自分の事が話題に上がっているのを理解しているらしい。賢い犬である。 「あらまぁ、可愛らしい! この子、一体全体如何したのですか?」 「いえ、何と言いますか着いて来て仕舞いまして。…成り行きで面倒を見る事になったのです、大して懐に余裕も無いのですが」 「うふふ。《《功徳| くどく》》をお積み下さいませ、きっと良い事があります」  ジローの首回りをわしわしと撫でながら、おかみさんは真面目そうに告げる。  如何やら、此の手元の煮物は半分はジローの功績であるらしい。早速徳を積んだ成果が出たのかもしれない。 「其れにしても此方のおうちで犬の声がするなんてねえ。貴方のご同窓の――…此処のおうちの坊ちゃん、其の、お名前は何だったかしら」 「透一郎ですか」 「ええ、透一郎さんでしたね。亡くなられたとはお聞きしましたけど。…彼、犬好きだったのですよ」  江ノ本が。…確かにあいつは、共に道を歩いている時に犬とすれ違うと。しょっちゅう視線で追っていたが。  でも、彼らしいかもしれない。きっと、私の目の前では自分の意外な一面を見せたくなかったのだろう。別に良かったのだが。 「あいつがですか。…そうなのですね」 「此処のご主人、よく坊ちゃんを連れ立って遠出なさるから飼おうにも飼えなかったそうで。当時うちで飼ってた犬を、替わりに可愛がってくれてたんですよ」  懐かしいわねぇ、とおかみさんはにこにこしている。 「そう言えば、お名前はお決めになられたので?」 「はぁ。ジロー、にしようかと」  そう告げると、おかみさんはまぁ、と目を輝かせた。 「何て偶然なのかしら。昔うちで飼ってた犬と同じ名前なんて! まるで他人、いえ他犬とは思えないわ」  良い子ねジロー、とおかみさんは暫くジローの顔を揉むように優しく撫でまわしていた。如何やら本当に、おかみさんも大の犬好きらしい。  夕方、ジローに鶏の煮物を分けてやった。《《黄昏| たそが》》れる庭の隅に、慎ましく咲いたエゾムラサキを眺める。  そうか、透一郎。お前は此の家で、ジローを飼いたかったのか。  良かったな、と私は声に出さずにそう呟いた。
順レギュラーであるジロー君の登場です。彼は私の好きな犬種である甲斐犬をイメージしております。可愛いですよね、日本犬。 因みにエゾムラサキはワスレナグサの近親種ですが、そもそも生えてる場所は高山地帯か山深い場所なので殆ど見る事は有りません。まぁワスレナグサも近年だとあまり見かけませんが…。

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