須藤 / 第3話

第三話:大宮氷川神社と、二人の歩幅

 川越への旅から、さらに三週間ほどが過ぎた、八月のはじめだった。  その日の夕方、|凛《りん》さんが四階に伝票を届けに来た。受け取った後、|結衣《ゆい》が「あの、次はどこに行くんですか?」と聞いた。以前だったら、絶対に自分からは聞けなかった言葉だった。 「大宮、行ったことある?」 「一人では……ないです。乗り換えで通ったことはありますけど」 「だよね。今度の土曜、大宮氷川神社に行こうと思ってたんだけど、どう?」 「行きます!」  思わず早口になってしまい、結衣は少し照れた。凛さんは小さく笑って「じゃあ、大宮駅の東口で」と言い残して三階へ戻っていった。  斜め後ろの席の橋本さんが、キャスター付きチェアを滑らせて隣にきた。 「水野さんってクールで近寄りがたいけど、素敵よね」  凛さんの後ろ姿を追いながら橋本さんが言った。  近寄りがたいわけではないけれど、確かに時々壁を感じることがある。結衣は東松山や川越を思い出しながら言った。 「素敵な人ですよ」  凛さんとの旅行は誰にも話していない。秘密にしているわけではないけれど、大切にしておきたかったから。 「水野さんもいろいろあったから。でも落ち着いてよかった」 「え? いろいろ?」  肝心なことは話さずに橋本さんは自席に滑っていった。その日はずっとそのことが頭の隅に引っかかっていた。  土曜の朝。越谷レイクタウン駅を発った武蔵野線は、南浦和でいつも通り京浜東北線につながる。今日は池袋方向ではなく、反対の大宮方向へ。慣れた乗り換えなのに、なんだか気分が違う。  大宮駅の東口に出ると、凛さんがすでに来ていた。 「おはようございます!」 「おはよう。今日は蒸すね」  今日の凛さんは、鮮やかなロイヤルブルーのサマーニットに、白のタイトスカートを合わせていた。後ろに深くスリットが入ったスカートは都会的で、少し背伸びをしたような大人っぽさがある。肩には黒い小さなメッセンジャーバッグを斜めにかけていた。  対する結衣は、クリーム色のカットソーに、マスタードイエローのロングフレアスカート。歩くたびに裾がふわりと揺れるのが自分でもわかる。手にはお気に入りのキャンバストートを持ち、足元は歩きやすさを重視して黒のスポーツサンダルを履いていた。 「……そのスカート、マスタードイエローが効いていて素敵ね。高柳さんによく似合ってる」 「えへへ、ありがとうございます。先輩こそ、そのブルー、すごく格好いいです!」  少し早めに川口を出てきたのだろう、川口から大宮は京浜東北線でほんの十分ほどだ。  八月の大宮は、空気が重かった。駅のホームには新幹線の発着音が繰り返し響いていて、東京とも埼玉の他の街とも違う、独特の活気がある。 「大宮ってこんなに大きいんですね……!」 「ターミナル駅だからね。でも、ここから先は全然違う顔があるよ」  凛さんが先を促すように歩き始め、結衣は半歩後ろをついていった。  東口を出てすぐ、まっすぐな道が伸びていた。 「わあ……これが|氷川《ひかわ》|参道《さんどう》ですね。こんなに長いとは思わなかったです」  ケヤキの並木がずっと続いている。二キロにわたる参道は、日本一長い参道のひとつとされていると、昨日調べた時に知った。木漏れ日が地面に|零《こぼ》れ、|砂利《じゃり》を踏む音が心地よく響く。駅前の喧騒《けんそう》が、歩くほどに遠ざかっていった。 「先輩って、一人旅が好きなんですよね」  参道を半分ほど歩いたところで、結衣は思い切って言った。 「うん。なんで?」 「なんとなく、先輩を見てると……誰にも邪魔されない時間が必要な人なんだなって。私、うるさかったかな、ってたまに思って」  凛さんが歩みを緩めた。 「……そんなことない。むしろ、高柳さんといると知らなかったことをたくさん知るから、楽しいよ」  結衣は少し照れて俯いた。  しばらく無言で歩いた後、凛さんがぽつりと話し始めた。 「私、昔は誰かと一緒じゃないと、どこにも行けないタイプだったんだ」  結衣は顔を上げた。 「でも……仕事で大きな失敗をして、ひどく落ち込んで、しばらく誰とも会いたくなかった。そんな時に、ふらっと一人で電車に乗って、知らない町で歩いてみたんだ。誰にも気を遣わなくていいし、どこで止まってもいい。それがすごく楽だった」 「……そうだったんですね」  結衣は黙って聞いていた。凛さんが仕事で失敗をした、ということ。それが一人旅の始まりだった、ということ。知らなかった過去が、今目の前にある人の輪郭に、少しずつ重なっていく。 「その時に初めてわかった。一人でいる時間って、自分と向き合う時間なんだなって。それから一人旅が好きになって、少し自分の心に余裕ができた気がした」 「先輩が、最初から一人旅が好きだったわけじゃなかったんですね」 「うん。でも、高柳さんと来るようになって、また違う気づきがあって」 「一人で来るのと、二人で来るのとじゃ、同じ景色が全然違って見えるんだよね。ゆ……」  不意に、凛さんが何かを言いかけて口を噤んだ。ハッとしたように、慌てて視線を泳がせている。 「……由緒ある場所だからかな。高柳さんが喜んでくれると、私も嬉しくなるし」  凛さんはそう言って、ゆっくりこちらを見た。強引な言い換えに、自嘲気味な笑みが一瞬だけ混ざり、何故か結衣の胸をチクリと刺した。 「……私も、もっといろんな場所に先輩と行ってみたいです」  胸の痛みを誤魔化すように、思ったよりも早口で言ってから、少し大胆だったかなと思った。凛さんは柔らかく微笑んだだけだった。気づけば、二人の歩幅がいつの間にかぴったり合っていた。  参道の終点に、朱塗りの荘厳な鳥居が現れた。くぐると、武蔵一宮氷川神社の広大な境内が広がっていた。参拝客で賑わっているが、聞こえるのは風の音と砂利を踏む足音ばかりで、静けさがある。  手水舎で手を清めてから、結衣が「先輩、あっちに何かあります!」と声を上げた。  朱塗りの美しい橋が架かる神池だった。 「この橋、人間界と神様の場所を分ける境界線なんだって。渡ることで、心を清める意味があるらしいよ」  凛さんがそう言って橋を一歩踏み出す。 「心を清める……」  結衣も後に続く。確かに、橋を渡りきる頃には、あたりの賑わいが嘘のように遠のき、隣にいる凛さんの体温だけがはっきりと感じられるような気がした。  欄干から覗き込むと、池の中に悠々と泳ぐ鯉と、甲羅干しをする亀が見えた。 「亀だ。かわいい……」 「ほんとだ。なんだか、時間がゆっくり流れてるみたい」 「この朱色、朝焼けの最後の光を吸い込んだみたいね。池の緑と空の青に映えて綺麗だ」  凛さんは橋の色をじっと見ていた。 (先輩らしいな……でも今日、いつもより表情が柔らかい気がする)  二人は並んでしばらく池を眺めた。  御神木の前では、二人とも自然に足が止まった。幹が何人がかりでも抱えきれないほど太く、樹齢千年を超えると言われている。見上げると、頭上まで枝が広がって、緑の天井のようだ。 「なんだか、パワーをもらえた気がします」 「私も。千年も、ここに立ってるんだよね」  凛さんの声には、いつもより少し温かいものが混じっていた。  本殿に参拝した後、結衣が末社の列を見つけた。 「先輩、九社まとめてお参りすると縁結びのご利益があるって書いてあります!」 「じゃあ、ちゃんとお参りしないとね」  二人並んで、小さなお社を丁寧にひとつずつ回った。手を合わせながら、結衣はこっそりと祈った。何を祈ったのかはうまく言葉にできなかった。  凛さんが何を祈ったのかは、わからない。  おみくじは、結衣が末吉、凛さんが大吉だった。 「やった! 先輩、大吉ですよ!」 「ほんとだ。高柳さんも、これからいいことあるよ」  凛さんはそう言いながら、ふっと手を伸ばして結衣の肩にそっと触れた。たった一瞬のことだったが、その重さと温かさが、結衣の肩にしっかり残った。  凛さんはすぐに手を引っ込め、まるで熱いものに触れたかのように、指先を自分のポケットに隠した。 「あの……先輩」  結衣は意を決したように凛さんを見た。 「これからも、一緒に旅してくれますか」  凛さんは少し驚いたような顔をして、それから静かにうなずいた。 「もちろん。行くよ、高柳さん」  参道そばの茶屋に立ち寄ったのは、境内を出た後だった。木の長椅子が並ぶ、こじんまりした店だ。みたらし団子を二本ずつ頼んで、木陰のベンチに腰かけた。 「串が焦げてて美味しい」 「タレが思ったより甘くないですね。でも、それがいい」  二人でゆっくり食べながら、今日歩いた場所の話をした。どの鯉がいちばん大きかったか、御神木の前に立った時に何を感じたか。ぽつぽつと続く会話が、静かな午後に溶けていった。 「人に昔の話したの、初めてだったかも」 「そうなんですか?」 「うん。でも、高柳さんになら話してもいいかなって」 「……嬉しいです」  帰りは、大宮駅から京浜東北線に乗った。  凛さんは川口まで、結衣は南浦和まで同じ電車だ。シートに並んで座ると、窓の向こうに夕暮れが広がっていた。暑い一日だったのに、今は少し風が通る気がする。 「今日、先輩のこと少し知れた気がします」  結衣が言うと、凛さんは少し意外そうな顔をした。 「そう?」 「はい。なんだか……いつもより近くに感じました」  凛さんはすぐには答えなかった。窓の外を眺めて、少し間を置いてから言った。 「……それは、よかった」  声が少し、低かった。喜んでいるようでもあり、同時に、自分に言い聞かせているようでもあった。  南浦和に着いて、結衣がドアに向かおうとすると、「また来週」という言葉が背中にかかった。 「はい!」  振り返ると、凛さんはもう窓の外を向いていた。でもその横顔は、やっぱり少し柔らかかった。  ホームに降りて武蔵野線に乗り換えながら、結衣は「また来週」という言葉を何度も頭の中で繰り返した。  つづく

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