須藤 / 第2話

第二話:川越、時の鐘と風鈴の音色

 東松山への旅から、ちょうど一ヶ月ほどが過ぎた、七月上旬の木曜日。  定時を少し過ぎた頃、|結衣《ゆい》は退社準備をしながら、今月の誤差なしで締まった経費データをひとつ確認した。入社当初は|些細《ささい》なミスのたびに深呼吸していたが、最近はミスそのものが減ってきた気がする。|橋本《はしもと》さんに「最近落ち着いてきたね」と言ってもらえた時は、正直ほっとした。  東松山の旅から一ヶ月。職場で|凛《りん》さんとすれ違うたびに、あの時隣で感じた熱や、風の匂いがふっと蘇る。目が合って軽く|会釈《えしゃく》するだけの関係なのに、以前よりずっと、その一瞬が大切に感じられていた。 「お疲れさま、|高柳《たかやなぎ》さん」  階段のあたりから声がして顔を上げると、凛さんが三階から上がってくるところだった。伝票の束をこちらに差し出す。 「お疲れさまです」 「先月の備品の件、ありがとう。処理が早くて助かった」 「いえ、当然のことなので」  結衣は笑顔で受け取った。凛さんがすぐに戻りかけたところで、ふと口を開いた。 「あの……先輩」  凛さんが振り返る。 「先月、東松山に一人で行ってみました。やきとり、やっぱり美味しかったです」  凛さんは一瞬だけ目を丸くして、それからゆっくりと微笑んだ。 「そうなの。行けたんだ」 「はい。先輩のおかげで、少し勇気が出て」 「よかった」  たったそれだけの言葉なのに、凛さんの「よかった」には、なんというか、重みがある。 「来週の土曜日、空いてる?」 「え、はい!」 「今度は私が案内したいところがあって。川越、行ったことある?」 「ないです!」 「じゃあ、行こうか」  凛さんは特に大げさにもなく、ごく自然に言った。今度は自分から誘ってくれた——そのことが、結衣の胸の中でずっとあたたかく残った。  約束の土曜日。|梅雨《つゆ》の合間の、蒸し暑いけれど空は青い一日だった。  |池袋《いけぶくろ》駅の|東武東上線《とうぶとうじょうせん》のホームで待っていると、凛さんがこちらに気づいて手を振った。  今日の凛さんは、空気をはらむようなスカイブルーのノースリーブシャツに、黒のテーパードパンツを合わせていた。腕にはシンプルなシルバーの時計が光り、肩にかけたネイビーのキャンバストートが軽やかだ。  対する結衣は、七月の強い日差しを意識して、アプリコット色のコットンワンピースを選んでいた。手には丸いカゴバッグを持ち、頭には白いリボンの付いた麦わら帽子を被っている。 「おはようございます!」 「おはよう。……高柳さん。今日は一段と夏らしいね。そのワンピース、色がとても綺麗」 「ありがとうございます! 先輩も、そのブルー、すごくお似合いです」 「ありがと。……さあ、急行がちょうど来るから、乗ってしまおう」  川越まで東武東上線の急行で約三十分。窓側に並んで座ると、結衣はスマホを開いた。 「川越って、江戸時代に栄えた城下町なんですよね! 『|小江戸《こえど》』って呼ばれていて、時の鐘とか蔵造りの街並みが有名みたいです」 「高柳さんは本当に下調べが丁寧ね」  凛さんはそう言いながら、バッグから冷たい麦茶のペットボトルを取り出して、そっと結衣の膝の上に置いた。 「あ……ありがとうございます。私もマイボトルにお茶を持ってきたんですけど」 「いいの。こっちはミネラルも入ってるから、熱中症対策。……結衣、今日はほうじ茶?」 「はい! さすが、よく分かりましたね」  さらりとした、でも自分をよく見てくれているのが伝わる気遣い。それが凛さんらしくて、結衣は少し照れながら受け取った。自分も同じように、凛さんのブラックコーヒー好きを覚えていることが、なんだか誇らしく思えた。  川越駅を出て、まず二人が向かったのは「時の鐘」だった。蔵造りの街並みに入ると空気が変わる。観光客と地元の人が入り混じり、石畳の路地には懐かしいような温かさがある。  木造の重厚な|鐘楼《しょうろう》を前に、凛さんが目を細めた。 「この木組み、すごいね。江戸時代から変わってないんでしょ? こんなに複雑な構造がそのまま残ってるのって、設計の完成度が高い証拠だと思う」 「鐘の音も聞きたいです! えっと……一日に四回、六時と十二時と十五時と十八時に鳴るみたいですよ」 「じゃあ、夕方に聞けるかな」  凛さんは少し楽しそうに言った。  蔵造りの街並みは、どこを切り取っても絵になった。黒漆喰の重厚な外壁が軒を連ねる光景に、結衣はただただ見入る。 「この色の組み合わせ、見て。瓦の灰色、漆喰の白、木材の黒。三色だけでここまで格調のある景色になるの、すごいと思わない?」 「言われてみると……確かに」 「色数を絞るって、デザインでいちばん難しいことのひとつなんだよね。この街の人たちは何百年もかけてそれをやってきた」  結衣は凛さんの言葉に引き込まれながら、改めて街並みを眺めた。さっきまでただの「古い建物」だったものが、急に別の顔を持ち始める気がした。 「一人旅も好きだけど、高柳さんの視点が入ると、今まで見落としていた発見があって新鮮だわ。あなたの隣を歩いていると、街の色が一段と鮮やかに見える気がする」  その言葉が、さっきの絵のような景色よりもずっと眩しく感じられて、結衣は少しだけ早足になった。  街並みを歩いていくと、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。「|菓子屋《かしや》|横丁《よこちょう》」だった。|駄菓子《だがし》屋が軒を連ね、色とりどりのお菓子が並んでいる。 「懐かしい! きなこ棒だ! 先輩も食べますか?」 「じゃあもらおうかな」  結衣はきなこ棒を一本手に取り、凛さんに差し出した。凛さんがそれを受け取る時、二人の指がほんの一瞬だけ触れた。  結衣は気にしていないふりをしながら、内心少しだけ動揺した。 「先輩って、甘いもの好きですか?」 「和菓子は好きだよ。洋菓子はあまり食べないけど」 「意外です。コーヒーはブラックで飲むタイプのイメージでした」 「なにそれ」  凛さんが珍しく笑った。こんな風に楽しそうに笑ったのを見たのは、初めてかもしれない。  その後、本川越駅の前からバスに乗り、川越氷川神社のバス停で下車した。新河岸川沿いを少し歩くと、高さ十五メートルもあるという巨大な朱色の鳥居が見えてくる。 「あ、先輩、知ってますか? ここ、朝早くに来ると『縁結び玉』っていうお守りがもらえるんですよ」  結衣がスマホの画面を見せながら言うと、凛が「ああ、聞いたことある」と頷いた。 「身を清めた巫女さんが拾い集めた境内の小石を、一つずつ大切にお祓いして包んだもの、なんですって。一日二十体限定で、早朝から並ぶ人もいるくらい人気なんですよ」  事前に予習しておいて良かった。凛さんの興味深そうに聞く表情をみて思った。 「今日はもう夕方だから無理ですけど、いつか見てみたいですよね」 「そうね。……また今度、ね」  その「また今度」という言葉が、小さく結衣の胸を締め付けた。  二人が境内に入った瞬間、風が吹いた。  チリン、と一つ鳴った。それからもう一つ、またもう一つ。見上げると、頭上に無数の風鈴が吊るされていて、風が来るたびに波のように音が広がった。 「わあ……」  結衣は思わず立ち止まった。声が出なかった。  凛さんも黙って、その音を聞いていた。  しばらく、二人とも何も言わなかった。風鈴の音が途切れ途切れに続いて、それ以外は静かだった。不思議と、沈黙が重くなかった。 「……心地いい」  凛さんがそっとつぶやいた。 「はい」  結衣も小さく答えた。  気づくと、凛さんの肩と自分の肩が、ごく自然に隣り合っていた。少し迷ったけれど、結衣はそのままにした。 「先輩、なんだかいつもよりリラックスしてるように見えます」 「そうかな」 「なんだか、表情が柔らかい気がして」 「高柳さんといると、自然と肩の力が抜けるのかもしれない」  凛さんは前を向いたまま、静かにそう言った。 「……ゆ」  凛さんが何かを言いかけてやめた。そんな気がした。  凛さんはすぐに視線を落とし、強く唇を噛んだ。それから、先ほどまでの穏やかな空気とは一変して、少しだけ低い、自分を律するような声で言い直した。 「行きましょうか、高柳さん。遅くなるといけないし」  凛さんは特に理由を説明することもなく、少し早足で歩き出した。  結衣はその背中を追いかけながら、凛さんが飲み込んだ言葉が何だったのか、そしてなぜ彼女の背中がこんなにも孤独に見えるのかを、ずっと考えていた。一瞬だけ通じ合ったと思った心が、また少しだけ遠くに離れてしまったような、言いようのない切なさが胸に広がった。  結衣は返せる言葉が見つからなくて、ただうなずいた。それで十分な気がした。  縁結び玉は、残っていなかった。 「次は、朝早く来てみる?」と凛さんが言った。 「はい。その時も、先輩と一緒に来たいです」  結衣は正直に言った。凛さんは「そうしよう」と、特に特別な様子もなく答えた。  蔵造りの街並みに戻ったころ、低く重い音が街に響き渡った。 「あ、六時の鐘ですね!」  結衣が振り返ると、凛さんもその場に立ち止まって、静かに耳を澄ませていた。鐘の|余韻《よいん》がゆっくりと消えていく。 「何百年も、同じ音で時間を知らせてきたんだね」 「変わらないものって、なんだか安心しますよね」  凛さんは少し考えてから、「そうかも」とつぶやいた。  その後、事前に調べておいた老舗のうなぎ屋に入った。|暖簾《のれん》をくぐると、醤油と甘いタレの香りがふわりと広がる。通された座敷は使い込まれた木の温もりがあり、結衣は少し背筋を伸ばしつつも、ほっと一息ついた。 「川越のうなぎは、お醤油の香ばしさがたまらないですね!」 「うん、美味しい。このタレの味、どこか懐かしい気がする」  凛は丁寧に|うな重《じゅう》を頬張り、小さく目を細めた。 「……さっきの時の鐘、ずっと考えてたんだけど」 「鐘、ですか?」 「ええ。何百年も変わらない音で鳴り続けるって、すごいことだなって。私たちの仕事、特にデザインの世界は、常に『新しいもの』を求められるじゃない?」  凛は箸を置き、お茶を一口含んだ。 「昨日いいと思ったものが、今日はもう古くなっているかもしれない。そんな変化の激しい世界にいるせいか、ああいう|普遍的《ふへんてき》なものを見ると、少しだけ羨ましくなるの」  その言葉は、初めて聞くデザイナーとしての悩み、あるいは、凛の核にある寂しさのようなものに触れた気がした。 「でも、私は今の凛さんのデザイン、大好きですよ。新しくても、どこか凛さんらしい丁寧さと、優しさが伝わってくる気がして」  結衣は自分の言葉が少し恥ずかしくて、慌ててうなぎを口に運んだ。  凛は一瞬、驚いたように手を止めたが、すぐにふっと表情を和らげた。 「……ありがとう。高柳さんにそう言ってもらえると、なんだか救われる気がする」  凛は少しだけ間を置いて、続けた。 「今日、誘ってよかった。一人で来たら、きっとこんなに深くこの街のことを考えられなかったと思う」 「私も、誘ってもらえて本当に嬉しかったです」  お互いに少し照れながら、それでも二人の間に流れる空気は、さっきの風鈴の音色みたいに心地よく澄んでいた。  帰りの東武東上線は、夕焼けの光の中を走った。  今日は前回と違って、凛さんは眠らなかった。窓の外をぼんやり眺めながら、穏やかに微笑んでいる。その横顔が、いつもの職場の凛さんより、ずっと柔らかく見えた。 「先輩、今日はありがとうございました。川越、素敵な街でした」 「私も楽しかった。高柳さんと来られてよかった」  凛さんはそう言って、また窓の外に目を戻した。  結衣も視線を窓に向けた。空との境が夕焼けでオレンジ色に広がっている。上空は深い青に変わり始めていた。  しばらくして、隣からなんとなく視線を感じた。  ちらりと横を向くと、凛さんが自分をじっと見つめていた。目が合うと、凛さんは小さく目を見開いてから、すぐに窓の外に視線を戻した。表情はいつものように涼しげだ。でも、その耳たぶが夕焼けのせいか、ほんの少し赤くなっているように見えた。 (……なんで、あんな風に見てたんだろう)  結衣は窓ガラスに映る自分の顔を確認してみたが、特に変なものは付いていない。ただ、凛さんが飲み込んだあの「音」と、今の視線が、胸の奥をずっとくすぐり続けていた。  池袋で乗り換えて、越谷レイクタウン駅への武蔵野線に乗り込む。車内はがらんとしていて、外が少しずつ暗くなっていく。  今日一日を、順番に思い返した。風鈴の音、蔵造りの街の静けさ、隣に並んでいた凛さんの肩。そして、あの視線。  (また行けたらいいな)  そう思いながら、夜の景色へ流れていく窓の外をぼんやりと眺めた。  つづく

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