今無 ヅイ / 第2話

第2話 五銅貨の丸パン

 パンの値段は、難しいです。  安ければよい、というものでもありません。高ければえらい、というものでもありません。  安くしすぎると、粉と薪と塩と私の手が困ります。高くしすぎると、お客さんの財布と顔が困ります。  どちらも困らせすぎると、店は長く続きません。  ベーカリー・アステルの丸パンは、ひとつ五銅貨です。  角のパン屋さんなら、普通のパンが三銅貨で買えます。ですので、うちの丸パンは少し高いです。  少し、です。  たぶん。  少しと思いたいです。  私は棚に並んだ丸パンを見ました。  朝に焼いたぶんは、表面の熱がほどよく落ち着いています。焼きたての香りは少しやわらぎ、そのかわり、手に持った時のしっかりした重さが出てきました。  このくらいの時間の丸パンも、私は好きです。  焼きたては、もちろんおいしいです。  けれど、冒険者さんが森や丘で食べる時、いつも窯から出したばかりとは限りません。鞄に入れられ、歩くたびに揺られ、外の風に当たり、手袋をしたまま割られることもあります。  朝に買って、昼に食べる。  昼に食べるつもりが、夕方になる。  それでも、まだちゃんとパンでいること。  それが、うちの丸パンの仕事です。  昼前になると、ギルド前の通りは朝とは違うにぎわいになりました。  朝は、これから出ていく人が多いです。  昼前になると、戻ってきた人、出発が遅れた人、依頼を選び直す人、朝食を食べそこねた人が混ざります。  最後の人たちは、だいたい少し機嫌が悪いです。  仕方ありません。  空腹は、人の心に小さな角を生やします。  からん。  扉のベルが鳴りました。  入ってきたのは、大きな盾を背負った冒険者さんでした。  バルクさんです。  肩幅が広く、腕も太く、背中の盾は店の扉より少し強そうに見えます。実際には、店の扉もガルドさんが直してくれたので、かなり丈夫です。  ですが、盾と比べるのは少し気の毒です。 「嬢ちゃん、丸パンを六つ。黒麦を二つ。あと豆のスープ」 「おはようございます、バルクさん。朝食ですか」 「昼飯の前の何かだな」 「朝は食べましたか」 「食った」 「では、昼食前の何かですね」 「そう言った」  バルクさんは、いつも通りの顔でうなずきました。  冒険者さんの胃袋には、時々、暦とは別の時間があります。  朝食。  朝食のあと。  昼食の前。  昼食。  夕食までのつなぎ。  夕食。  夜食。  保存食の確認。  全部、食事です。  私は丸パンを六つ包み、黒麦パンを二つ切りました。豆のスープは、大きめの器によそいます。 「甘い薄焼きはあるか」 「あります」 「二枚」 「おやつですか」 「差し入れだ」 「どなたへの」 「俺への」 「それは、おやつでは」 「自分を大事にするための差し入れだ」  たいへん立派な理屈です。  少しだけ見習ってもよいかもしれません。  私は甘い薄焼きパンを二枚包みました。  バルクさんは包みを受け取り、豆のスープだけは窓際の席で食べていくことにしたようです。大きな体で椅子に腰を下ろすと、座面が少しだけ沈みます。  でも、きしみません。  ガルドさんの仕事です。  強いです。  しばらくして、もう一人、若い冒険者さんが店に入りました。  革鎧は新しすぎず、古すぎず。腰の短剣もきちんと手入れされています。昨日登録しました、というほどではありませんが、長年の冒険者という顔でもありません。  何度か依頼をこなし、そろそろ自分なりのやり方ができ始めた頃。  そんなふうに見えました。  若い冒険者さんは棚の前で少し悩み、それから丸パンの札を見ました。  五銅貨。  視線がそこで止まります。  よくあることです。  パン屋は、パンを見られるのも仕事です。  値札を見られるのも仕事です。 「あの」 「はい」 「ここの丸パンって、五銅貨なんですよね」 「はい」 「角の店だと、三銅貨で買えますよね」 「買えます」 「えっと、何が違うんですか」  たいへんよい質問です。  値段を聞くのは、悪いことではありません。財布の中身は無限ではありませんし、使うなら理由を知りたいのは自然なことです。  ただ、パン屋としては少し緊張します。  粉と薪と塩と手間を、言葉だけで説明するのは難しいのです。  私が口を開く前に、窓際から低い声がしました。 「野外で食えばわかる」  バルクさんです。  若い冒険者さんが振り向きました。 「あ、バルクさん」 「ニコか」 「こんにちは」 「飯は食ったか」 「まだです」 「なら先に食え。腹が減った頭でパンの値段を考えるな。だいたい間違える」  少し乱暴ですが、少し正しいです。  ニコさんは困ったように笑いました。 「でも、二銅貨違うと」 「違うな」  バルクさんは、黒麦パンをスープに浸しながら言いました。 「街の中で、今すぐ食うなら三銅貨のパンでいい。うまい店もある。俺も買う」 「はい」 「だが、森に持っていくなら話が変わる」  バルクさんは、包みの中から丸パンをひとつ取り出しました。  大きな手の中では、丸パンが少し小さく見えます。 「ここのは潰れにくい。固すぎない。水が少なくても飲み込みやすい。腹に残る。スープにつけても溶けすぎない。それで、次の日の朝に食っても、まだパンの顔をしてる」 「パンの顔」 「あるだろ」  ニコさんは私を見ました。  私はうなずきました。 「あります」 「あるんですか」 「パンにはあります」  ニコさんは、少し真面目な顔で棚の丸パンを見ました。  パンの顔を探しているのかもしれません。  見えたかどうかは、わかりません。 「安いパンが悪いってわけじゃない」  バルクさんは続けました。 「街で食うなら、やわらかくて軽いのもうまい。焼きたてならなおさらだ。だが、鞄に入れて歩いて、昼を逃して、夕方になって、それでもまあ食える。野外じゃ、その『まあ食える』が大事だ」 「まあ食える、ですか」 「大事だ」  バルクさんは、たいへん真面目に言いました。  私は少しだけ胸を張りました。  パン屋として「まあ食える」と言われて胸を張るのは、少し違う気もします。  でも、野外での「まあ食える」は、かなり高い評価です。 「腹が空ききってから食うと、細かい味なんかわからん時もある」  バルクさんは丸パンを割りました。 「だが、噛んだ時に、ちゃんと食ってる感じがするかどうかはわかる。ここのは、それがある」  ニコさんは黙って聞いていました。  それから、もう一度棚を見て、銅貨を取り出します。 「丸パンを一つください」 「はい」  私はひとつ包みました。 「今、食べますか」 「はい」 「では、こちらでどうぞ」  ニコさんはカウンター近くの小さな席に座り、包みを開きました。  丸パンを両手で持ち、最初の一口をかじります。  少し強めに噛む。  薄く張った表面が切れ、中のやわらかい生地が見える。  ニコさんは、そのままゆっくり噛みました。  バルクさんは何も言わずに見ています。  私も、見すぎないように見ました。  パン屋は、お客さんが最初の一口を食べる時、少しだけ緊張します。  窯に入れる時とは、また違う緊張です。  ニコさんは飲み込んでから、少し考えました。 「ちゃんと食べてる感じがします」  私は、思わず笑いそうになりました。  たいへんよい感想です。  華やかな言葉ではありません。  香りがどうとか、焼き色がどうとか、そういうものでもありません。  でも、冒険者さんが言う「ちゃんと食べてる感じ」は、とても大事です。 「ありがとうございます」 「あと、思ったより重いです。悪い意味じゃなくて」 「はい」 「腹に入る感じがするというか」 「それを狙っています」 「これなら、歩けそうです」  そう言って、ニコさんはもう一口食べました。  バルクさんが満足そうにスープを飲みます。 「だろ」 「バルクさんが作ったわけじゃないですよね」 「俺は食う側の専門家だ」 「専門家なんですか」 「長く生きてる冒険者は、だいたい食う側の専門家だ」  それは、少し説得力があります。  生きて帰ってくる人は、食べることを軽く見ません。  少なくとも、バルクさんは見ません。  かなり重く見ています。  主に量を。  ニコさんは丸パンを半分ほど食べたところで、棚の保存パンを見ました。 「明日、東の丘に行くんです」 「採取ですか」 「はい。朝から昼過ぎまで。道はそんなに悪くないって聞いてます」 「東の丘は、風が強い日があります」 「風ですか」 「はい。喉も乾きますし、パンも乾きます」 「水は多めに持ちます」 「よいと思います」  ニコさんは少し考え、銅貨を追加で出しました。 「保存パンも一包みください」 「はい」  私は保存パンを棚から取りました。  黒麦の小さな丸パン。  香草の薄焼き。  硬めの細長いパン。  それから、小さな甘い欠片。 「一包み八銅貨です」 「お願いします」 「疲れきる前に食べてください。全部を最後まで残すと、最後にしか役に立ちません」 「なるほど」 「保存食は保存するためのものですが、保存しすぎると、ただの荷物になります」  ニコさんは真剣にうなずきました。  横でバルクさんも、なぜかうなずきます。 「そうだ。食う判断を遅らせるな」 「はい」  バルクさんが言うと、私より少し重みがあります。  体重の話ではありません。  たぶん。  ニコさんは丸パンを食べ終え、保存パンを鞄にしまいました。 「ありがとうございました」 「お気をつけて」 「はい」  からん。  扉のベルが鳴ります。  ニコさんの背中は、朝の三人より少しだけ慣れて見えました。  けれど、慣れている人にも食べものは必要です。  慣れは空腹を消してくれません。  むしろ、慣れた人ほど、食べるタイミングを知っているのかもしれません。 「いい買い方だ」  バルクさんが言いました。 「そうですね」 「財布は痛いだろうが」 「はい」 「痛い財布なら、帰ってきてからまた稼げる」  バルクさんは残りの丸パンを包みに戻しました。 「帰ってこなきゃ、財布も痛がれん」 「バルクさん」 「何だ」 「それは、少し重いです」 「丸パンも少し重いだろ」 「そういう重さではありません」  バルクさんは、少しだけ笑いました。  たぶん、わざと軽く言ったのでしょう。  重いことを、重いまま置かないために。  冒険者さんは、時々そういう言い方をします。  私はまだ、あまり上手ではありません。  パンなら少しできます。  重い粉をこねて、食べられる形にすることなら。  そのあと、昼の忙しさが一気にやってきました。  ギルドから出てきた人が丸パンを二つ。  薬師見習いさんが黒麦パンを追加でひとつ。  馬車の御者さんが細長いパンを四本。  少し眠そうな魔法使いさんが、甘い薄焼きパンを見て、財布を見て、また甘い薄焼きパンを見ました。 「一枚ください」 「はい」 「半分はあとで食べます」 「よい判断です」 「たぶん全部食べます」 「それも、よくある判断です」  人は、甘いものを半分だけ残すのがあまり得意ではありません。  私も得意ではありません。  ですので、あまり人のことは言えません。  棚の丸パンが減り、黒麦パンも少しずつ減っていきます。  私は厨房と店を行ったり来たりしながら、包み紙を折り、スープをよそい、銅貨を数えました。  忙しい時間は嫌いではありません。  手を動かしていると、余計なことを考えずに済みます。  ただし、忙しすぎるとパンを焦がします。  それは困ります。  昼の山が少し落ち着いたころ、私はようやく自分の昼食を思い出しました。  パン屋も食べます。  食べないと、パン屋は動きません。  私は厨房に戻り、胸元の小さな木箱に触れました。 「出します」  朝しまっておいた丸パンがひとつ、手の中に戻ります。  《小さな万能貯蔵》。  朝のパンを、昼まで朝の顔のまま残すくらいならできます。  私は丸パンを割りました。  まだ、朝の香りがします。 「確認です」  誰もいない厨房で、小さく言いました。  これは昼食ですが、確認でもあります。  スキルの具合を確かめることは大事です。  パンの状態を確かめることも大事です。  つまり、食べることは仕事です。  たいへん便利な理屈です。  小さな皿にバターをひとかけ出しました。  これも《小さな万能貯蔵》に入れておいたものです。冷えすぎず、やわらかすぎず、パンに塗るにはちょうどよい状態でした。  丸パンにバターを塗り、一口食べます。  外は薄く張りがあり、中はやわらかい。  塩は少し控えめ。  バターの香りが、粉の甘さを持ち上げます。  よいです。  たいへんよい確認です。 「何が確認だ」  背後から声がしました。  私は振り向きました。  厨房の入口に、ガルドさんが立っています。  灰色の髭。  太い腕。  たいへん疑わしそうな目。  いつからいたのでしょうか。  ドワーフの親方は、足音が重いはずです。  重いはずなのに、時々たいへん静かに現れます。  不思議です。 「味の確認です」 「昼飯だろ」 「味の確認を兼ねた昼食です」 「昼飯だな」 「はい。昼食です」  正直は大事です。  ガルドさんは、私の手元の丸パンを見ました。 「朝のやつか」 「はい」 「具合は」 「よいです。朝の香りが残っています」 「ならよし」  ガルドさんはそう言いながら、今度は厨房の踏み台を見ました。  見ています。  たいへん見ています。 「今日は上で向きを変えたか」 「変えていません」 「粉袋は」 「持っていません」 「よし」 「確認ですか」 「確認だ」  確認は大事です。  ガルドさんもそう思っているようです。  私は少し安心しました。  ガルドさんは店の奥から外を見ました。 「空、重くなってきたな」  私も窓のほうを見ます。  朝は明るかった南の空に、少しずつ雲が増えていました。まだ雨というほどではありません。ただ、遠くの空が朝より少し低く見えます。 「降りますかね」 「わからん」 「親方でも」 「俺は大工だ。雲まで直せん」 「それは残念です」 「直せたら高く取る」 「でしょうね」  ガルドさんは短く鼻を鳴らしました。  私は残りの丸パンを食べました。  昼食です。  確認です。  どちらでもあります。  外を見ると、通りを歩く人が時々空を見上げています。  朝、南の森へ向かった三人は、まだ戻ってきていません。  昼には戻る予定だと言っていました。  とはいえ、昼はまだ終わっていません。  私は時計代わりの鐘を待つほどでもないと思い直し、胸元の木箱に触れました。  朝の丸パンが、あと二つあります。  小さなバター。  香草が少し。  大した量ではありません。  大した量ではありませんが、何もないよりはよいです。  私は木箱から手を離しました。 「気になるか」  ガルドさんが言いました。 「少しだけです」 「少しだけ、は信用ならん」 「よく言われます」 「だろうな」  ガルドさんは、それ以上は聞きませんでした。  私は昼の皿を片づけ、手を洗います。  心配していても、パンは焼けません。  いえ。  正確には、心配していてもパンは焼けます。  ただし、手元がおろそかになると困ります。 「心配しすぎると、パンが固くなるぞ」 「本当ですか」 「知らん」 「今、かなりもっともらしかったです」 「なら、こねろ」 「はい」  私は生地台へ戻りました。  粉を打ち、次の丸パンの生地に手を入れます。  押して。  畳んで。  回して。  また押す。  窓の外では、雲がゆっくり南から近づいていました。  まだ雨は降っていません。  まだ、理由もありません。  それでも私は、朝の丸パンをあと二つ、《小さな万能貯蔵》の中に残しておくことにしました。  使わなければ、私が食べればよいです。  確認になります。  たいへん大事な確認です。  私は次の生地を丸めました。  店の外では、冒険者さんが行き交っています。  帰ってくる人。  これから出ていく人。  まだ戻らない人。  ベーカリー・アステルは、その斜め向かいで今日も開いています。  空が少し暗くなっても。  丸パンは、ちゃんと焼き上がります。

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