今無 ヅイ / 第1話

第1話 ギルド前の小さなパン屋

 朝は、粉の匂いから始まります。  まだ空が少し青く、通りの石畳が夜の冷たさを残している時間。私は厨房の戸を開け、昨日から休ませていた生地の様子を見ます。  パン生地は正直です。機嫌がよい時は、ふっくらと丸くなっています。少しすねている時は、重たく沈んでいます。人間より顔に出るので、私はわりと信用しています。 「今日は、いい子ですね」  そう言っても、生地は返事をしません。  返事をするパン生地があったら、それはそれで少し困ります。焼いてよいのか、まず相談が必要になりますので。  私は手を洗い、粉を打ち、丸パン用の生地を台に出しました。  ベーカリー・アステル。  それが、私の店の名前です。王都冒険者ギルドの斜め向かいにある、小さなパン屋です。  真向かいではありません。  真向かいだと、朝から鎧の音と怒鳴り声と馬車の音が少し多すぎます。斜め向かいでも十分多いのですが、少し斜めになるだけで、世の中にはほどよい距離というものが生まれます。  たいへん大事です。  店の看板には、星の形の焼き印と、丸いパンの絵が描いてあります。アステルは、星という意味だそうです。パン屋の名前としては、少し大げさかもしれません。  けれど、パンも星も、暗いうちから働きます。  ですので、まったく関係がないわけではないと思っています。たぶん。  私は小柄です。  自分で言うのも少し悔しいですが、事実です。粉袋を棚の上に置かれると、届きません。大きな鍋の底も見えません。窯の奥を見る時には、首を伸ばしても足りないことがあります。  ですので、厨房には踏み台があります。  ドワーフのガルド親方が作ってくれた、たいへん丈夫な踏み台です。普通の踏み台は、上に乗ると少しだけ不安になります。ガルドさんの踏み台は、上に乗ると、踏み台のほうが「任せろ」と言っている気がします。  実際には言いません。  踏み台まで返事をしたら、厨房がにぎやかすぎます。  私は踏み台に乗り、棚から塩の壺を下ろしました。  塩を量り、水を入れ、発酵種を加える。丸める。休ませる。また丸める。  朝の仕事は、毎日似ています。けれど、同じではありません。粉の乾き方も、窯の熱も、通りの風も、昨日より少しずつ違います。  昨日と同じつもりでいると、パンに怒られます。  パン生地は、口では怒りません。焼き上がりで怒ります。それはそれで、なかなか厳しいです。  窯に火を入れるころ、外の通りが少しずつ起きはじめました。  冒険者ギルドの大扉が開く音。馬車の車輪。鎧の金具。眠そうな声。元気すぎる声。  朝から元気すぎる人を見ると、私は少しだけ尊敬します。少しだけです。私には、粉を量る元気ならあります。  やがて、最初の丸パンが焼き上がりました。  小さめで、手に持ちやすく、外は薄く張りがあり、中はやわらかい。水が少なくても飲み込みやすいように、少しだけ工夫しています。  冒険者さんは、いつも落ち着いた場所で食べられるとは限りません。机も、椅子も、温かいスープも、きれいな皿も、森の中にはありません。  でも、鞄の中にパンは入れられます。  それなら、パン屋の出番です。  店の戸を開け、表の札を裏返します。  開店中。  この札を見ると、私は少し背筋が伸びます。  身長は伸びません。  背筋だけです。  からん。  最初のお客さんは、いつものようにリナさんでした。  冒険者ギルドの職員さんです。栗色の髪をきちんと結び、書類鞄を肩にかけています。今日は少し目元が眠そうでした。 「おはようございます、フィーネさん」 「おはようございます、リナさん。夜勤明けですか」 「はい。紛失届が三件と、酔った冒険者さんの仲裁が二件と、報告書の書き直しが四件ありました」 「朝から数が多いですね」 「夜から続いているので、正確には朝からではありません」 「それはもっと大変です」  リナさんは、ため息をひとつ落としました。  床には落ちません。  ため息は掃けないので、少し困ります。 「黒麦パンと豆のスープをお願いします」 「はい」  私は黒麦パンを切り、温めていた豆のスープを器によそいました。  黒麦パンは、丸パンより少し重いです。噛むと香りが出て、豆のスープによく合います。夜勤明けの人には、軽すぎるパンよりこちらのほうがよいことがあります。 「紛失届は、何を失くしたんですか」 「剣と財布と、帰る気力です」 「最後のものは、パンで少し戻るかもしれません」 「では、少し多めに噛みます」 「よく噛むのは大事です」  リナさんは窓際の席に座り、黒麦パンをスープに浸して食べ始めました。  ギルド職員さんは、冒険者さんほど外へ出るわけではありません。けれど、帰ってきた人を迎え、帰ってこない人を数え、書類を書き、怒る人をなだめ、泣く人に毛布を渡します。  ですので、リナさんもよく食べたほうがよいです。  食べものは、外へ出る人だけのものではありません。  そのあと、朝の店は少しずつにぎやかになりました。  大盾を背負った冒険者さんが、丸パンを三つ買っていきました。薬師見習いさんが、黒麦パンを一つと、硬めの細長いパンを二本。向かいのギルドへ急ぐ人が、戸口で丸パンを受け取り、そのまま駆けていきます。 「走りながら食べると危ないですよ」 「わかってる!」  わかっている人は、たまにわかっていない走り方をします。  心配です。  ですが、私はパン屋です。追いかけて止めるほど足は速くありません。  朝の棚には、丸パン、黒麦パン、細長いパン、甘い薄焼きパン、保存パンが並んでいます。  普通のパンなら、角の店では三銅貨で買えます。うちの丸パンは五銅貨です。少し高いです。  そのぶん、腹持ちと、崩れにくさと、森の二日目の朝に少しだけ強いです。  保存パンは一包み八銅貨。  黒麦の小さな丸パン、香草の薄焼き、硬めの細長いパンをまとめてあります。おいしい食事、というより、道の途中で心を人の形に留めるための包みです。  乾パンだけでよい、という方もいます。  それはそれで正しいです。  ですが、乾パンだけだと心が少し乾きます。心も、たまには噛みやすいものを欲しがるのです。  昼前には、ガルドさんが来ました。  灰色の髭を短くまとめた、ドワーフの親方です。店の椅子と棚と踏み台と、窯まわりの金具を直してくれた方でもあります。  何も買わずに店の中を見回すので、最初は少し怖いです。慣れると、だいたい何かを点検しているだけだとわかります。 「踏み台、ぐらついてないか」 「ぐらついていません」 「上で横着してないか」 「していません」 「粉袋を持ったまま向きを変えたり」 「今日はしていません」 「今日は、か」  ガルドさんの眉が動きました。  失敗です。  職人さんの前で、余計な正直さは危険です。 「気をつけています」 「気をつけろ。お前が落ちたら、パンより先に床が驚く」 「床にも迷惑をかけたくありません」 「ならいい」  ガルドさんは、黒麦パンを二つ買いました。  それから甘い薄焼きパンを一つ、少し迷ったあとで追加しました。 「おやつですか」 「確認だ」 「味の」 「そうだ」  ガルドさんは真面目な顔で言いました。  私も真面目な顔で包みました。  味の確認は大事です。  たいへん大事です。  ガルドさんが帰った少しあと、店の入口で三人の若い冒険者さんが足を止めました。  剣を下げた少年。  杖を持った少女。  弓を背負った少年。  三人とも、新しい革具の匂いがします。まだ体に馴染んでいない装備は、少しだけ背中から浮いて見えます。  ギルドのほうを見て、店の棚を見て、またギルドを見る。入りたいけれど、少し迷っている顔です。  私はカウンターの内側から声をかけました。 「いらっしゃいませ」  三人は、ほとんど同時に背筋を伸ばしました。 「こ、こんにちは」 「こんにちは。出発前ですか」 「はい。南の森へ。銀葉草の採取です」  剣の少年が答えました。  声は少し固いですが、ちゃんと前を見ています。初めての依頼か、初めてに近い依頼でしょう。  ギルド前のパン屋をしていると、そういう背中は少しだけわかります。  まだ、行きと帰りの重さが違うことを知らない背中です。 「保存パンをください」  杖の少女が言いました。 「一包みで足りますか」  三人は顔を見合わせました。 「昼には戻る予定なので」 「予定は大事です」 「はい」 「でも、お腹は予定表を読みません」  三人は少し黙りました。  私は保存パンを二包み、棚から出しました。 「三人なら、二包みをおすすめします。一包みでも足りますが、道に迷ったり、雨が降ったり、誰かが転んだりすると、急に少なく感じます」 「雨は降らないって」  弓の少年が言いかけました。  私は窓の外を見ました。空は明るいです。ですが、南のほうに少しだけ重たい雲があります。 「降らないとよいですね」 「……二包みください」  杖の少女が言いました。  よい判断です。  私は保存パンを二包み、カウンターの上に置きました。 「水袋はありますか」 「あります」  剣の少年が腰の水袋を見せました。 「予備は」 「えっと」  少女が自分の鞄から小さな水袋を出します。弓の少年も、少し遅れて見せました。 「地図は」 「ギルドでもらいました」 「濡れないように包んでください」 「はい」 「刃物は」 「あります」 「薬草を入れる袋は、食べものと分けてください」 「はい」 「知らないきのこは食べないでください」  弓の少年が、なぜか少し目をそらしました。  私は見ました。  弓の少年も、こちらを見ました。 「食べません」 「拾うだけでも、袋は分けてください」 「はい」 「なるべく拾わないでください」 「はい」  剣の少年と杖の少女が、弓の少年を見ました。弓の少年は、たいへん真面目な顔をしています。  真面目な顔は、時々あまり信用できません。  でも、今は信じることにします。 「すみません。パン屋さんなのに、いろいろ」  杖の少女が言いました。 「私はパン屋です」  私は保存パンの紐を整えながら言いました。 「ですが、ギルド前のパン屋です。ですので、少しだけ余計なことも言います」 「余計じゃないです」 「そうだとよいです」  私は二包みぶんの代金を受け取りました。  銅貨が十六枚。  三人で出し合ったらしく、少し数えるのに時間がかかりました。銅貨を大事に数える人は、たぶんパンも大事に食べます。  私はそういう人が好きです。 「それから」  私は棚の端から、甘い薄焼きパンを三枚取りました。  薄く焼いた生地に、干し果物を少し入れたものです。今日は端のほうが少しだけ形が悪いですが、味は悪くありません。 「これは、おまけです」 「えっ」 「いいんですか」 「形が少し曲がったので」  曲がったと言っても、少しだけです。  売れないほどではありません。  でも、今日はそういうことにします。 「疲れた時に食べてください。甘いものは、足を少しだけ前に出してくれます」  三人は、少しだけ顔を明るくしました。  これから森へ行く人の顔です。まだ怖さより、楽しさのほうが大きい顔です。それが悪いとは思いません。  楽しいと思えることは、足を前へ出します。  ただ、帰り道にも少し残っているとよいと思います。 「ありがとうございます」  剣の少年が言いました。 「ありがとうございます」  杖の少女も言いました。 「きのこは食べません」  弓の少年が言いました。 「それも大事です」  私はうなずきました。  三人は保存パンと甘い薄焼きパンを鞄にしまい、店を出ていきました。  からん。  扉のベルが鳴ります。  石畳の向こうに、三つの背中が並びました。  剣。  杖。  弓。  まだ少し新しい装備。少し弾む足取り。  ギルドの大扉の前で、三人は一度立ち止まり、それから中へ入っていきました。正式な出発報告をするのでしょう。  よいことです。  出発前の報告は大事です。帰ってきた時に、誰が帰ってきたかわかりますので。  私は店の中へ戻り、次の丸パンを窯から出しました。  焼き色はよいです。表面を軽く叩くと、こん、と小さな音がしました。  よい音です。  私はそのうち三つを布に包みました。  そして、胸元の小さな木箱に触れます。 「しまいます」  小さく言って、私は丸パン三つを《小さな万能貯蔵》にしまいました。  私のユニークスキルです。  名前は少し立派ですが、中はあまり大きくありません。馬車は入りません。粉袋も、大袋なら無理です。大きな盾も、たぶん入りません。  ですが、焼きたての丸パンを三つ、朝のまま夕方まで残すくらいならできます。  バターをひとかけ。  香草を少し。  誰かに渡すはずだった包み。  そういうものを、少しだけ守れます。  少しだけ。  でも、少しだけ守れるものがあるのは、悪いことではありません。  今日の夕方に使うかどうかは、わかりません。理由は、まだありません。けれど、パン屋にはそういう日があります。  私は木箱から手を離し、棚のパンを並べ直しました。  外では、冒険者さんたちが出ていきます。  北門へ向かう人。東の丘へ向かう人。南の森へ向かう人。帰ってくる予定の人。帰ってくるつもりの人。  誰も、帰らないつもりで出ていくわけではありません。  それでも、道はいつも予定通りではありません。  私は冒険者さんの背中に、祈りを投げるのがあまり得意ではありません。声にすると、少し軽くなってしまう気がするからです。  そのかわり、明日の朝もパンを焼きます。  帰ってきた人が、食べるものを選べるように。  これから出ていく人が、鞄に入れるものを選べるように。  ベーカリー・アステルは、今日も開いています。  王都冒険者ギルドの斜め向かいで。  少しだけ粉まみれの店主が、踏み台を使いながら。  朝は、粉の匂いから始まります。  明日も、きっとそうです。

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