今無 ヅイ / 第3話

第3話 ドワーフ製の踏み台

 雨が降りそうな日は、パン生地が少し重くなります。  湿気のせいだと思います。  たぶん。  私の手が少し慎重になるせいも、あるかもしれません。  理由はひとつとは限りません。パンも、人も、空も、だいたいいくつかの理由を抱えています。  昼の山が過ぎるころには、朝よりずっと空が低くなっていました。  南から来た灰色の雲が、王都の屋根をゆっくり覆っています。ギルド前を行き交う人たちも、時々足を止めて空を見上げるようになりました。  私は店先に出て、小さな丸卓を壁際へ寄せました。  ベーカリー・アステルの前には、二人が座れるだけの小さな席があります。  天気のよい日にパンとスープを食べるには、悪くありません。  静かかと聞かれると、困ります。  王都冒険者ギルドの斜め向かいで静かな場所を求めるのは、川魚に羽根を求めるようなものです。  鎧は鳴ります。  馬車は通ります。  依頼に成功した人は笑いますし、失敗した人はだいたい声が大きくなります。  それでも、外の風に当たりながら食べたい人はいます。  人には、それぞれちょうどよい騒がしさがあるようです。  私は椅子を一脚ずつ店内へ運び、最後に卓を軒下へ押し込みました。  重いです。  持ち上げるのは無理なので、押します。  できないことは、できる形にするとよいです。  たぶん、だいたいの仕事はそうです。  厨房へ戻ると、今度は棚の上に置いた塩壺が目に入りました。  手を伸ばします。  届きません。  背伸びをします。  やはり届きません。  私は少し考えてから、厨房の隅にある踏み台を引き寄せました。  ドワーフのガルド親方が作ってくれたものです。  厚い木板。  太い脚。  角は丸められ、底には滑りにくい革が張ってあります。  踏み台としては、たいへん立派です。  たぶん、私より丈夫です。  私は床にきちんと置き、ぐらつかないことを確かめてから乗りました。  塩壺を取ります。  ついでに、その隣の粉袋を少し手前へ寄せました。  ほんの少しです。 「降りろ」  厨房の入口から声がしました。  私は塩壺を持ったまま固まりました。  ガルドさんが立っています。  灰色の髭。  太い腕。  眉間のしわ。  たいへんわかりやすい顔です。 「こんにちは」 「降りろ」 「はい」  挨拶ではごまかせませんでした。  私は塩壺を作業台に置き、ゆっくり踏み台を降ります。  急いで降りると、それはそれで怒られます。  職人さんの注意には、逃げ道が少ないです。 「今、上で粉袋を動かしたな」 「少しだけです」 「少しだけ、は信用ならん」 「よく言われます」 「言われるだろうな」  ガルドさんは私の返事より踏み台のほうが大事らしく、すぐその前にしゃがみ込みました。  四本の脚を順番に押す。  角を確かめる。  床との当たりを見る。  最後に少し揺らす。  踏み台は、ほとんど動きません。 「踏み台は悪くない」 「たいへんよい踏み台です」 「使うやつが悪い」 「そこまでではないと思います」 「粉袋を持ったまま上で向きを変えるなと言ったな」 「今日は変えていません」 「今日は、か」  また失敗しました。  正直は大事ですが、職人さんの前では時々たいへん危険です。 「気をつけています」 「気をつけてるやつは、届かん物を取るたびに横着せん」 「塩壺は取りました」 「粉袋も動かした」 「少しだけ」 「それをやめろ」 「はい」  私は素直にうなずきました。  粉袋と一緒に床へ落ちるのは、たしかに困ります。  私も困ります。  粉も困ります。  床も、たぶん驚きます。 「今日は、踏み台を見に来たんですか」 「それもある」 「それも」 「雨が来る。看板の金具を締めに来た」  ガルドさんは立ち上がり、店先へ向かいました。  店の外へ出る前に、入口の扉を一度開け、閉めます。 「蝶番は問題なし」 「ありがとうございます」 「看板は昨日見た時に少し遊んでた」 「遊んでいたんですか」 「隙間があったってことだ」 「楽しそうな意味ではないんですね」 「看板が勝手に遊び始めたら、まず俺を呼べ」 「そうします」  ガルドさんは道具袋を持って外へ出ました。  私は厨房へ戻ります。  棚の塩壺を下へ置き、今度は粉袋を数えました。  白粉。  黒麦粉。  細挽き粉。  白粉は、だいぶ減っています。  袋の下のほうが、すっかり細くなっていました。  粉袋は、ふっくらしている時のほうが安心します。  人間を粉袋と比べるのは、少し失礼かもしれません。  私は紙に残りを書き出しました。  白粉、少ない。  黒麦粉、まだある。  細挽き粉、少し。  胡桃、少し。  干し果物、ある。  豆、ある。  塩、ある。  油、少し。  香草、少し。  バター、ある。  こうして見ると、足りないものばかりではありません。  白粉は心配です。  でも、黒麦粉はあります。  豆もあります。  塩もあります。  足りないものを数えるのは大事です。  けれど、足りるものを数えないと、明日の予定は立ちません。  私は仕込み板を見ました。  丸パン。  黒麦パン。  甘い薄焼きパン。  保存パン。  胡桃パン。  全部をいつも通り焼くのは、少し難しそうです。  粉の荷は、今日届く予定でした。  予定です。  予定という言葉は、とても便利です。  予定通りにならなかった時にも使えますので。  店先から、金属を締める音がしました。  ガルドさんが看板を直しています。  この店を始めたばかりのころも、よく同じ音を聞きました。  三年前です。  私は、古いパン屋の跡を借りました。  窯は煤で真っ黒。  棚は少し傾いていて、扉は開けるたびに大きな声を出しました。  雨の日には、店の隅から水も落ちました。  それでも、窯がありました。  厨房がありました。  通りの向こうには冒険者ギルドがありました。  私は、ここでパンを焼くことにしました。  パン屋になるには、パンを焼ければよい。  そう思っていた時期が、私にもあります。  三年前ですが。  実際には、窯を直す人が必要でした。  棚を直す人も。  扉を直す人も。  粉を届けてくれる人も。  帳面の書き方を教えてくれる人も。  銅貨を払ってパンを食べてくれる人も。  パンを焼くのはパン屋の仕事ですが、パン屋だけでパン屋はできません。  そのあたりは、店を始めてから知りました。  ガルドさんは、最初からだいたい知っていたようです。  少し悔しいです。  からん。  扉のベルが鳴りました。 「アステルさん!」  入ってきたのは、粉屋の使いのリオさんでした。  まだ若い男の子です。  髪が跳ねています。  息も上がっています。  走ってきたようです。 「リオさん。お水を飲みますか」 「いただきます!」  返事がたいへん早いです。  私は水を一杯出しました。  リオさんは両手で受け取って、一気に飲みます。  飲み終わるのを待ってから、私は尋ねました。 「粉の荷ですか」 「はい。すみません。今日の夕方……遅ければ、明日の朝になります」  やはり。  私は少しだけ、厨房の粉袋を見ました。 「馬車の車輪ですか」 「昨日、ぬかるみで傷めたみたいで。朝から替えてるんですけど、荷も積み直してて、道も悪くて」 「怪我をした方は」 「いません。馬も大丈夫です」 「それなら、よかったです」  粉が遅れるのは困ります。  とても困ります。  ですが、人や馬が怪我をしたより、ずっとよいです。  粉袋だけが自分で歩いてくれば、もっとよいのですが。  歩いては来ません。  粉袋には、もう少し自立心を持ってほしいです。  無理だとは思います。 「親方が、小さい袋だけでも先に出せないか考えてます」 「無理はしないでください」 「でも、アステルさんのところ、ギルド前だから朝が早いだろうって」 「はい。困ってはいます」  リオさんの顔が、すぐに曇りました。  いけません。  若い人は、パン生地ほどではありませんが、かなり顔に出ます。 「困っていますが、怒ってはいません」 「すみません」 「道が悪いのは、リオさんのせいではありません」 「でも、荷を積む時に少し片寄ったかもって」  リオさんは言いにくそうに続けました。  なるほど。 「では、次は片寄らないようにしてください」 「はい」 「それから、走りすぎないでください」 「はい」 「転ぶと、粉より先にリオさんが困ります」 「はい」 「少し座ってください」 「次の店にも知らせないと」 「水を一杯飲んだ人は、少し座ってから歩きます」 「歩きますか」 「走りません」 「はい」  私は小さめの丸パンをひとつ取り、紙に包みました。 「食べながらは歩かないでください」 「え」 「走りながらも駄目です」 「はい」 「次のお店に着いてから食べてください」 「これ、もらっていいんですか」 「はい。粉屋さんの使いが倒れると、粉がもっと遅れます」 「それは困ります」 「たいへん困ります」  リオさんは真剣にうなずきました。  理由が粉だと、納得が早いです。  パン屋と粉屋は、そのくらいでよいのかもしれません。  店先から戻ってきたガルドさんが、リオさんを見ました。 「粉屋の小僧か」 「はい!」 「走ってきたな」 「……はい」 「走って帰るな」 「はい!」 「返事だけはいいな」 「すみません!」  リオさんは、また頭を下げました。  忙しい人です。  主に首が。 「看板、終わったぞ」  ガルドさんが私に言いました。 「ありがとうございます」 「次の雨くらいなら保つ」 「次の次は」 「その前に見る」 「お願いします」  私は代金代わりではありませんが、棚から黒麦パンをひとつ取りました。 「ガルドさんも」 「何だ」 「確認です」 「何の」 「味の」  ガルドさんは少しだけ眉を動かしました。 「買う」 「はい」  無料では受け取りません。  そういう人です。  私は黒麦パンを包み、きちんと銅貨を受け取りました。  リオさんも、丸パンを大事そうに鞄へ入れます。 「では、次のお店へ行ってきます」 「歩いてください」 「はい!」 「早歩きまでです」 「はい!」 「返事だけにならないように」 「はい!」  少し不安です。  リオさんは店を出ていきました。  からん。  扉の向こうで、最初の数歩は普通でした。  私は見ています。  十歩くらいで少し速くなりました。  まだ走ってはいません。  信じることにします。  ガルドさんも外を見ていました。 「若いな」 「はい」 「走るぞ、あれ」 「言わないでください」 「走る」 「信じています」 「何を」 「早歩きまでです」 「そうか」  ガルドさんは、たぶん信じていません。  私も、少しだけです。  店の中へ戻り、私は仕込み板を書き直しました。  丸パン、少なめ。  黒麦パン、多め。  甘い薄焼きパン、少なめ。  胡桃パン、たぶん明日。  保存パン、減らさない。  最後の行を見ていると、ガルドさんが横から言いました。 「保存パンは減らさんのか」 「はい」 「昼に売れる甘いパンのほうが、銅貨は出るぞ」 「はい」 「粉も使う」 「はい」 「なら」 「帰ってくる人のぶんは、焼きたいです」  私は仕込み板を見たまま言いました。  少し間がありました。  ガルドさんは何も聞きません。  ただ、棚に残っている保存パンを見ました。 「そうか」 「はい」 「なら、こねろ」 「はい」 「ただし、無い粉までこねるな」 「できません」 「お前なら何とかしようとする」 「粉は生み出せません」 「なら安心だ」  それは、安心なのでしょうか。  私は少し考えましたが、たぶん褒められてはいません。  外の空が、また低く鳴りました。  今度は、朝より近い音です。  店先を歩いていた人が、何人か空を見上げました。  風も少し冷たくなっています。 「来るな」  ガルドさんが言いました。 「来ますね」  私は入口へ行き、軒下の卓が十分に奥へ入っているか確かめました。  椅子は店内。  看板はガルドさんが締め直しました。  泥落としの板も出しておきます。  雨の日は、雨が降ってから準備すると遅いことがあります。  パンも同じです。  お腹が空いてから粉を挽き始めるのでは、少し遅いです。  ぽつ。  石畳に黒い点ができました。  ひとつ。  ふたつ。  みっつ。  そのあとは、数えられなくなりました。  雨は、数えられるうちは雨粒です。  数えられなくなってからが、雨です。  通りを歩いていた人たちが、一斉に足を速めました。  屋根の下へ入る人。  外套をかぶる人。  ギルドへ駆け込む人。  馬車の御者さんも、手綱を少し急がせます。  私は店の扉を少しだけ細く開け直しました。  閉めません。  まだ営業中です。  それに、朝の三人も帰ってきていません。  南の森。  銀葉草。  剣の少年。  杖の少女。  弓の少年。  昼には戻る予定でした。  予定は大事です。  でも、雨は予定表を読みません。  森も、たぶん読みません。 「心配か」  ガルドさんが言いました。 「少しだけです」 「少しだけ、は信用ならん」 「よく言われます」 「だろうな」  昨日も似たことを言われた気がします。  少しだけ、は便利な言葉です。  便利な言葉は、時々使いすぎます。 「ギルドが見てる」 「はい」 「門もある」 「はい」 「お前は」 「パンを焼きます」 「なら、そうしろ」  ガルドさんは黒麦パンの包みを持ち上げました。 「俺も戻る」 「お気をつけて」 「そっちもな」 「店の中です」 「踏み台がある」 「気をつけます」 「上で向きを変えるな」 「はい」  最後までそこでした。  ガルドさんは雨の中へ出ていきました。  歩幅は大きくありませんが、足取りは安定しています。濡れた石畳でも、ほとんど滑りません。  ドワーフの歩き方です。  少しうらやましいです。  店の中に戻ると、雨音が急に大きく聞こえました。  屋根。  窓。  石畳。  庇。  いろいろなところを雨が叩いています。  私は厨房へ入り、残っている粉をもう一度見ました。  白粉は少ない。  黒麦粉はある。  甘いパンは減らす。  胡桃パンは明日。  保存パンは減らさない。  できることは、あります。  私は白粉と黒麦粉を量り、次の生地を作りました。  店の奥には、《小さな万能貯蔵》に入れた朝の丸パンが二つあります。  何かに使う予定があるわけではありません。  でも、残してあります。  理由は、まだありません。  窓の向こうでは、雨でギルドの大扉が少しぼやけて見えました。  誰かが出てきます。  違いました。  誰かが入っていきます。  それも、朝の三人ではありません。  私は生地を押しました。  畳みます。  回します。  また押します。  心配しすぎると、パンが固くなる。  ガルドさんが昨日、そんなことを言いました。  本当かどうかは知りません。  でも、手元がおろそかになるよりは、覚えておいたほうがよさそうです。  雨の音が続きます。  私は保存パン用の生地を丸め、布をかけました。  それから、カウンターの下に乾いた布を数枚置きました。  お湯を沸かします。  濡れた人が来た時に使えます。  使わなければ、明日の掃除に回せます。  丸パンも二つ、すぐ出せるようにしておきます。  使わなければ、私が食べます。  確認です。  たいへん大事な確認です。  私は最後に、甘い薄焼きパンを一枚だけ別にしておきました。  少し形が曲がっています。  売れないほどではありません。  でも、今日はそういうことにしました。  雨の向こうから、理由が歩いてくるような気がしました。  その時に、手ぶらでいるわけにはいきませんので。

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