今無 ヅイ / 第9話

パン屋、仕入れに

 粉は、同じ袋に入っていても、いつも同じではありません。  白くて、細かくて、パンになる。  そこまでは同じです。  でも、触れば少し違います。水を入れれば、もっと違います。  今日の粉は、いつもより少し水を欲しがりました。  私は生地を押しながら、指先に返ってくる感触を確かめます。固いわけではありません。悪い粉でもありません。ただ、いつもの分量では少しだけ生地が締まりました。  水を足します。  ほんの少し。  もう一度こねると、今度は素直にまとまりました。 「あなた、少し違いますね」  生地は返事をしません。  よいことです。  粉までしゃべり始めたら、パン屋はかなり忙しくなります。  私は丸めた生地に布をかけ、粉袋の札を見ました。  いつもの粉屋さん。  いつもの白粉。  ただし、仕入れ元の印が少し違います。  王都の近くには、いくつか粉を挽く場所があります。麦そのものも違いますし、石臼も違います。挽き方が変われば、粉も変わります。  私はそのあたりを、知識としては知っています。  でも、実際に見たことはあまりありません。  パン屋をしているのに。  少し悔しいです。  からん。  店の扉が鳴りました。 「おはようございます、アステルさん」 「おはようございます、リオさん」  粉屋の使いのリオさんでした。  今日は走っていません。  たいへんよいです。  肩にも粉袋はありません。代わりに、帳面と小さな荷札の束を持っています。 「昨日の粉、どうでした?」 「使えます。ただ、少し水の入り方が違います」 「あ、やっぱり」  リオさんは、納得したようにうなずきました。 「ミルバの粉です」 「ミルバ」 「西の水車町です。いつものところが臼を止めてる間、あっちから多めに回してもらってて」  私は粉袋をもう一度見ました。  たしかに札の端に、小さな水車の印があります。 「水車で挽いているんですか」 「はい。川沿いに大きいのが何基かあります。うちの親方、明後日そっちへ行くんですよ」 「仕入れですか」 「粉と麦の確認です。新しい挽き方を試してるところもあるらしくて」  新しい挽き方。  私は、少しだけ手を止めました。 「どんなものですか」 「僕は詳しくないです。粗い粉を混ぜるとか、外側を残すとか、なんかいろいろ」 「いろいろ」 「親方に聞くと長いです」 「それは聞きたいですね」 「長いですよ?」 「長くても」  粉の話です。  パン屋としては、大事です。  それに。 「ミルバには、パン屋さんもありますか」 「ありますよ。水車の近くに何軒か」 「どんなパンを焼きますか」 「えっと」  リオさんが少し考えました。 「硬いの」 「硬い」 「あと、丸いの」 「丸い」 「大きいのもあります」 「情報がたいへん広いですね」 「すみません。食べる専門なので」 「それは大事です」  食べる専門家は、いろいろなところにいます。  バルクさんもそう言っていました。 「でも、宿場のほうに、汁につけて食べるパンがあります。あれはうまいです」 「汁につける」 「そのままだと、かなり硬いです」  かなり。  そこは少し気になります。  硬いパンには、硬い理由があります。  保存のため。  運ぶため。  汁につけるため。  その土地の暮らしに合わせた結果かもしれません。  でも、硬いものは硬いです。  食べてみないとわかりません。  私はリオさんを見ました。 「明後日、ミルバへ行くんですよね」 「はい」 「何日くらいですか」 「王都から荷馬車で一日。向こうで一泊して、次の日に仕入れと確認。帰りがもう一日ですね」  三日。  三日です。  私は店の中を見ました。  窯。  棚。  仕込み板。  丸パン。  黒麦パン。  保存パン。  いつも通りです。  いつも通りだからこそ、三日という数字が急に大きく見えました。 「……私も、行けますか?」  言ってから、自分でも少し驚きました。  リオさんも驚いています。 「アステルさんが?」 「はい」 「ミルバへ?」 「はい」 「店は?」  そこです。  たいへん正しい質問です。  私はもう一度、店の中を見ました。  ベーカリー・アステルは、明日も開きます。  ずっと、そうしてきました。  雨の日も。  粉が少ない日も。  棚が少し寂しい日も。  開けられるなら、開けます。  三日閉める。  それは、思っていたより大きなことでした。 「……閉めます」 「いいんですか」 「まだ、よくありません」 「よくないんですか」 「今、考えています」 「はい」  リオさんは、それ以上急かしませんでした。  よい人です。  店を閉めると、パンは売れません。  いつもの朝に来る人が困ります。  保存パンを買う人もいます。  リナさんは夜勤明けに黒麦パンを食べます。  ガルドさんは胡桃パンを買います。  バルクさんは、たぶん大量に食べます。  店を三日閉める。  その三日間、ここにはパンがありません。  でも。  私は粉袋を見ました。  今日の粉は、いつもと少し違いました。  水を少し多く入れたら、ちゃんとまとまりました。  違う粉には、違う扱い方があります。  それを知るには、触るだけでも足りません。  どこで挽かれているのか。  どんな麦なのか。  そこで何を焼いているのか。  私は、ほとんど知りません。  パン屋なのに。  それも、少し困ります。 「リオさん」 「はい」 「粉屋さんの親方に、同行してよいか聞いていただけますか」 「聞きます」 「邪魔なら、断ってください」 「たぶん大丈夫だと思いますけど」 「たぶん、は少し不安です」 「アステルさんが言います?」 「私が言うからわかります」 「なるほど」  リオさんは帳面に何かを書き込みました。 「今日戻ったら聞いてきます」 「お願いします」 「パン屋さんが仕入れについてくるの、親方は喜ぶと思いますよ」 「そうですか」 「粉の話、長くできますから」  そこですか。  少し心配になりました。  でも、聞きたいです。  長くても。  リオさんが帰ったあと、私は生地を窯へ入れました。  いつもより水を少し多く吸った粉。  焼き上がりはどうなるでしょう。  待っている間も、頭の中には三日という数字が残っています。  三日休業。  書いてみると、さらに大きく見えそうです。  ですので、まだ書きません。  昼前に、ガルドさんが来ました。  いつものように店の中を見て、踏み台を見て、それから棚の胡桃パンを見ます。 「二つあるな」 「あります」 「やっとだな」 「お待たせしました」  私は二つ包みました。  ガルドさんが銅貨を置きます。 「今日の粉、違うな」  私は顔を上げました。 「わかりますか」 「匂いが違う」  さすがです。 「ミルバの粉だそうです」 「西の水車か」 「知っているんですか」 「木工で何度か行った。水車の補修もある」 「パンは食べましたか」 「そこか」 「大事です」  ガルドさんは少し考えました。 「硬い」 「リオさんも言いました」 「汁につけるとうまい」 「それも言っていました」 「なら、聞くことないだろ」 「自分で食べる必要があります」 「そうか」 「はい」  私は少し迷ってから言いました。 「明後日から三日、店を閉めようと思います」  ガルドさんの手が止まりました。 「どこ行く」 「ミルバです。粉屋さんの仕入れについていけるなら」 「仕入れか」 「はい」 「なら行け」  早いです。 「店、閉まりますよ」 「三日だろ」 「三日です」 「四日なら?」 「少し長いです」 「一月なら?」 「困ります」 「なら三日くらい行け」  ガルドさんは胡桃パンの包みを持ち上げました。 「店は逃げん」  短い言葉でした。  私は店の中を見ました。  窯。  棚。  踏み台。  ガルドさんの作ったものが、いくつもあります。 「でも、お客さんが」 「三日前から書いとけ」 「困る人もいます」 「別のパン屋で買う」  少し胸に刺さりました。  でも、正しいです。  王都には、パン屋がうちしかないわけではありません。  ベーカリー・アステルが三日閉まっても、王都からパンが消えるわけではありません。 「帰ってきたら、また焼けばいい」  ガルドさんが言いました。 「はい」 「胡桃は二つ」 「そこは変わらないんですね」 「四つでもいい」 「増やさないでください」  ガルドさんは少しだけ笑って帰っていきました。  そのあと、リナさんが昼食を買いに来ました。  黒麦パンと豆のスープです。 「三日、お休みしようと思います」  私は、スープをよそいながら言いました。  リナさんは一度だけ手を止めました。 「珍しいですね」 「ミルバへ仕入れを見に行きます」 「いいじゃないですか」  こちらも早いです。 「ギルド前のパン屋が三日閉まります」 「はい」 「困りませんか」 「困る人はいると思います」  リナさんはあっさり言いました。  やはり困ります。 「でも、事前にわかっていれば対応できます。保存食はギルドにもありますし、周辺の店もあります」 「そうですね」 「むしろ、突然倒れて一週間閉まるほうが困ります」 「倒れません」 「そうならないためにも、時々休んでください」  何か話が変わりました。 「仕入れです」 「はい。休業を伴う仕入れです」 「遊びではありません」 「もちろんです」  リナさんの顔が、少しだけ笑っています。  信用されていない気がします。 「三日前から掲示してください。ギルドにも貼っておきます」 「そこまでしていただけるんですか」 「朝に『パン屋が閉まってる』と職員へ聞きに来る人を減らしたいので」 「なるほど」  たいへん実務的でした。  安心します。  昼を過ぎたころ、リオさんが戻ってきました。  今日は本当に走っていません。 「親方、いいって言ってます」 「本当ですか」 「ただし、荷馬車なので速くないです」 「大丈夫です」 「道も、途中はあんまりよくないです」 「歩くところもありますか」 「たぶん」 「それも大丈夫です」 「宿は普通です」 「大丈夫です」 「パンは硬いです」 「それは食べます」 「そこだけ返事が早いですね」  大事ですので。  これで決まりました。  明後日から三日。  私はミルバへ行きます。  粉を見ます。  水車を見ます。  麦を見ます。  パンも食べます。  最後のものだけ少し目的が増えた気もしますが、仕入れです。  研究です。  たぶん。  私は仕込み板の隅に、新しい文字を書きました。  三日休業。  その下に日付。  さらに、店の入口へ出す札も用意します。  仕入れのため、三日間お休みします。  四日目の朝から、通常営業です。  書いてしまいました。  三日休業。  やはり少し落ち着きません。  開店中の札より、ずっと大きな文字に見えます。  でも、決めました。  夕方になるころには、常連さんにも少しずつ伝わり始めました。 「三日閉めるの?」 「はい」 「どこ行く」 「ミルバへ」 「遊び?」 「仕入れです」 「何食うの」 「まだ決めていません」 「食うんだな」  そこは否定できません。  歩けば、お腹が空きます。  知らない土地へ行けば、知らないパンがあります。  パン屋として食べない理由がありません。  閉店後、私は旅に持っていくものを作業台へ並べました。  着替え。  水筒。  お金。  小さな帳面と筆記具。  保存パン。  発酵種を少し。  それから、おやつ。  おやつは必要です。  歩きますので。  私は荷物を見ました。  多すぎる気もします。  でも、《小さな万能貯蔵》があります。  全部は入りません。  小さな、ですので。  大事なものを少しだけ入れます。  発酵種。  途中で使うぶんのパン。  傷ませたくないもの。  それくらいです。  着替えまで入れようとすると、パンの場所が減ります。  それは困ります。  私は小さな帳面を開きました。  ミルバで見るもの。  粉。  麦。  水車。  石臼。  パン。  最後だけ、少し大きく書きました。  確認しやすくするためです。  たいへん大事です。  店の中は、いつもと同じでした。  窯があります。  棚があります。  踏み台があります。  明日も一日は、いつも通り開けます。  その次の日から、三日だけ閉めます。  少し不安です。  でも、少し楽しみでもあります。  私は歩くのが、嫌いではありません。  食べるのも、かなり好きです。  そして今回は、どちらも仕事です。  たいへん都合がよいです。  私は旅支度を端へ寄せ、明日の仕込み板を確認しました。  丸パン。  黒麦パン。  保存パン。  甘い薄焼きパン。  胡桃パン。  そして、その下に小さく書き足します。  旅用。  明日は、旅に持っていくパンを焼きます。

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