今無 ヅイ / 第10話

第10話 パン屋、歩きます

 旅の日の朝も、粉の匂いから始まりました。  ただし、今日は店を開けません。  窯の火は小さめです。焼いているのも売りものではなく、私が持っていく丸パンと、粉屋さんたちへ渡す朝食ぶんだけでした。  入口には、昨日から札を出しています。  三日間、お休みします。  仕入れに行ってきます。  四日目の朝から、いつも通りです。  何度読んでも、少し落ち着きません。  店はあります。  窯もあります。  鍵もあります。  それなのに、自分で閉めて出ていきます。 「……三日です」  札に言ってみました。  返事はありません。  よい札です。  私は焼き上がった丸パンを布の上へ並べました。旅の途中で食べるぶんをいくつか《小さな万能貯蔵》へ入れ、残りは紙に包みます。  焼きたてをそのまま持って歩けるのは便利です。  ただし、入る量は多くありません。  便利と無限は、違います。  店の中を最後に一周しました。  窯よし。  水よし。  粉袋よし。  窓よし。  戸締まりよし。  踏み台は床の上。  よし。  上には乗っていません。  ガルドさんがいなくても、確認するところまで習慣になりました。  少し悔しいです。  鍵をかけ、私は鞄を背負いました。  いつもなら、ここから開店です。  今日は違います。  道の向こうにある粉屋さんへ向かいます。  歩き始めると、少しだけ気持ちが軽くなりました。  私は歩くのが好きです。  店にいるのも好きですが、足を動かしていると、頭の中に詰まったものが少しずつ整理されていきます。  そして、歩くとお腹が空きます。  たいへん合理的です。  粉屋さんの前には、すでに荷馬車が止まっていました。  荷台には空の粉袋、縄、油布、それから仕入れに使うらしい木箱が積まれています。  リオさんが、その横で荷紐を確認していました。 「おはようございます!」 「おはようございます」 「本当に来ましたね」 「行くと言いましたので」 「店、閉めてきたんですよね」 「はい」 「大丈夫ですか」 「今、少しだけ後ろを見たくなりました」 「戻ります?」 「戻りません」  言葉にすると、少し決まりました。  荷馬車の前から、低い声がします。 「アステルさんか」  粉屋の親方でした。  何度か店で顔を合わせていますが、こうして仕事着で見ると印象が違います。太い腕に粉の白さが残り、腰には帳面と小さな秤が下がっています。 「今日は世話になる」 「こちらこそお願いします」 「粉の話は長いぞ」 「聞いています」 「覚悟は」 「あります」 「ならいい」  リオさんが横から小さく言いました。 「本当に長いですからね」 「楽しみです」 「強い」  何がでしょう。  粉の話です。  パン屋なら、聞きます。 「荷物はそれだけか」  親方が私の鞄を見ました。 「はい」 「三日だぞ」 「はい」 「軽いな」 「小さいものは、少し入れられますので」  私は胸元を軽く叩きました。  《小さな万能貯蔵》です。 「なるほど」  親方はそれ以上聞きませんでした。  粉屋さんは、粉袋の大きさには詳しいですが、人の持ち物の中身にはあまり口を出さないようです。  よいことです。 「じゃあ出るぞ」  馬車が動き始めました。  王都の朝は、もうかなり賑やかです。  店を開ける人。  荷を運ぶ人。  ギルドへ向かう冒険者さん。  いつもの道です。  ただ、自分がいつもの場所にいないだけです。  ギルド前を通る時、少しだけベーカリー・アステルのほうを見ました。  閉まっています。  当然です。  私が閉めました。  入口の札が、小さく見えます。 「フィーネさん!」  向かい側から声がしました。  リナさんです。  ギルドの入口で手を振っています。 「行ってらっしゃい!」 「行ってきます!」  少し大きな声を出しました。  朝の通りで声を張るのは、あまり得意ではありません。  でも、悪くありませんでした。  その少し先では、ガルドさんが腕を組んで立っています。  何も言いません。  私を見る。  荷馬車を見る。  私の靴を見る。  最後に鞄を見る。 「荷物は」 「重くありません」 「踏み台は」 「持っていきません」 「ならいい」  そこですか。 「行ってきます」 「行ってこい。帰ったら胡桃パン二つ」 「覚えています」 「忘れるな」 「忘れません」  ガルドさんは、それだけ言って手を上げました。  見送りは短いです。  でも、ちょうどよいです。  王都の西門を出ると、道が急に広く見えました。  建物が減ります。  空が大きくなります。  遠くまで道が続いています。  私は荷馬車の横を歩きました。 「乗らないんですか」  リオさんが荷台から聞きます。 「まだ歩きます」 「まだ?」 「疲れたら乗ります」 「一日ありますよ」 「知っています」 「好きなんですね、歩くの」 「好きです」  これは、すぐ答えられます。  歩くのは好きです。  急がなくてよい道なら、もっと好きです。  畑の横を通ります。  青い麦。  もう少し育った麦。  土の色が違う畑。  水の入り方が違う畑。  王都にいると、粉は袋に入って届きます。  でも、袋に入る前は畑にあります。  当たり前です。  知っています。  知っていますが、見ると少し違います。 「このあたりの麦も使いますか」  私は親方に尋ねました。 「使う。王都周りは春麦が多いな。もう少し西へ行くと土が変わる」 「粉も変わりますか」 「変わる。麦が違えば変わる。乾かし方でも変わる。挽き方でも変わる」 「水車でも」 「変わる」  親方の声が少し大きくなりました。  始まりました。 「石臼はな、回す速さが」  リオさんが荷台で目を閉じました。  まだ眠いのでしょう。  たぶん。  私は聞きました。  石の違い。  回転の速さ。  外側をどこまで残すか。  粒をそろえるか。  何度挽くか。  粉は白いものだと思っていました。  もちろん、白粉は白いです。  でも、その白さになるまでには、かなりいろいろあります。 「焼き手は水加減を見るだろ」 「はい」 「挽くほうも、その先を見てる」  親方が言いました。 「パンになる粉か、麺になる粉か、菓子に使うか。全部同じに挽けばいいわけじゃない」 「なるほど」 「ミルバじゃ最近、そのあたりを細かく分け始めた」 「それを見に行くんですね」 「そうだ」  ようやく、今日の旅が少し形になりました。  粉を買う。  だけではありません。  何のための粉なのかを見る。  パン屋がパンを焼く前に、粉屋さんも粉を作っています。  その前には麦を作る人がいます。  当たり前ですが、店の厨房にいると見えにくいところです。  私は歩きながら帳面を出しました。 「歩きながら書くな」  親方に言われました。 「はい」  しまいました。  たいへん正しいです。  転ぶところでした。  ガルドさんがいなくても、注意する人はいます。  世界はよくできています。  昼前になると、道沿いの木陰で馬車を止めました。  馬にも休憩が必要です。  人にも必要です。  私はかなりお腹が空いていました。 「食べますか」  リオさんが聞きます。 「食べます」  たいへん早く答えました。  朝から歩きました。  当然です。  親方は荷台から硬めの旅パンと干し肉を出しました。  リオさんも水筒を開けます。  私は《小さな万能貯蔵》から、朝焼いた丸パンを取り出しました。 「……まだ柔らかい」  リオさんが言いました。 「はい」 「朝のまま?」 「だいたい」 「便利ですね」 「小さいですけど」 「でも旅にはいいなあ」 「そうですね」  私は三つ取り出しました。  自分のぶん。  リオさん。  親方。 「いいのか」 「同行代の一部です」 「同行代は取ってない」 「では、試食です」 「それなら食う」  粉屋さんです。  そこは早いです。  三人で丸パンを食べました。  朝焼いたパン。  道の途中。  木陰。  少し冷たい風。  店で食べる時とは、やはり違います。  同じ丸パンなのに、少し塩気を強く感じます。 「うまいですね」  リオさんが言いました。 「歩いたからです」 「そんなに変わります?」 「変わります」 「本当ですか」 「たぶん」 「たぶん」  親方が笑いました。 「パン屋でもそこは測れんか」 「お腹は秤に乗りませんので」  私はもう一口食べました。  おいしいです。  かなり。  歩くのはよいです。 「でも」  親方が丸パンの断面を見ました。 「この粉、昨日のミルバのだろ」 「はい」 「水、増やしたか」 「少し」 「やっぱりな」  私は顔を上げました。 「わかりますか」 「粉を売った側だからな」 「私は焼いた側です」 「だから二人でわかる」  親方は残りを食べました。  短い言葉でした。  でも、少し面白いです。  粉屋さんが粉を見る。  パン屋がパンを見る。  同じものを、違うところから見ています。  その間に、生地があります。  昼食のあと、私はしばらく荷馬車に乗りました。  歩くのは好きです。  でも、全部歩く必要はありません。  好きと無理は、別です。  荷台の端に座ると、足が少し軽くなりました。  景色も変わります。  少し高いところから見る畑。  遠くの林。  川へ下っていく道。  馬車の揺れは、思ったより大きいです。 「眠れますよ」  リオさんが言いました。 「寝ません」 「みんな最初はそう言います」 「寝ません」  しばらくして。  少しだけ目を閉じました。  少しだけです。  たぶん。  目を開けると、景色が変わっていました。  道の横を大きな川が流れています。  水の音が、馬車の車輪よりはっきり聞こえます。 「ここからミルバの水系だ」  親方が言いました。  私は荷台から身を乗り出しかけて、やめました。  危ないです。  普通に見ます。  川沿いには、小さな水路が何本も分かれていました。  畑へ入るもの。  下流へ戻るもの。  そして、遠くに大きな木の輪が見えます。 「あれですか」 「水車だ」  一つではありません。  二つ。  三つ。  もう少し向こうにもあります。  川の流れを分け、それぞれの水車がゆっくり回っています。  ごう、ごう、と低い音がします。  王都では聞かない音です。  近づくほど、空気にも少し違う匂いが混じってきました。  水。  濡れた木。  麦。  粉。  それから。 「パンの匂いがします」  私は言いました。 「するな」  リオさんも鼻を動かしました。 「町に入ればもっとしますよ」 「どこですか」 「何がです?」 「パン屋さん」 「まだ町にも入ってないです」 「場所だけでも」 「宿取ってからです」 「はい」  少し残念です。  でも、正しいです。  馬車は川沿いの道を進みます。  やがて、低い石壁と木造の家々が見えてきました。  屋根の向こうでは、水車が回っています。  荷馬車も多いです。  麦袋を積んだもの。  粉袋を積んだもの。  空袋だけを積んだもの。  町そのものが、大きな粉屋さんのようです。  門を抜ける前から、粉の匂いがしました。  私は鞄の中の帳面を確かめます。  粉。  麦。  水車。  石臼。  パン。  見るものは、たくさんあります。  食べるものも、たぶんあります。  私は荷馬車を降りました。 「ここから歩きます」  リオさんが言いました。 「はい」 「元気ですね」 「休みましたので」 「寝てましたもんね」 「少しだけです」 「結構寝てましたよ」 「少しだけです」  そこは譲りません。  私は町へ向かって歩き出しました。  水車の音がします。  粉の匂いがします。  どこかでパンが焼けています。  知らない町です。  でも、少しだけ知っている匂いがします。  私は歩くのが好きです。  食べるのも好きです。  今日は、その両方が仕事です。  たいへんよい出張だと思います。

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