今無 ヅイ / 第8話

第8話 羽根の鍵

 落とした包み紙は、床の上で一度だけ跳ねました。  私は、それを拾うのに少しだけ時間がかかりました。少しだけです。たぶん。  扉の向こうから、四人が入ってきます。  最初に見えたのは、大きな盾でした。  グウェンさんです。人ひとり隠せそうな盾を背負い、大きな体を少し縮めるようにして扉をくぐります。その後ろから、弓を背負ったローさん。軽い足取りと、あまり軽くない荷物。  続いてミーアさん。  最後に、クラウスさん。  顔を見るより先に、音でわかりました。  歩くたびに小さく鳴る、装具の金具。  昔から変わらない音です。 「フィーネ」  クラウスさんが言いました。 「いらっしゃいませ」  私は答えました。  クラウスさんが少しだけ止まります。 「……まず、それか」 「ここはパン屋ですので」 「そうだったな」 「ずっとそうです」  ローさんが横から顔を出しました。 「ちゃんと店主の顔してるな」 「以前からしています」 「昔は鍋の底をこすってる顔のほうが多かっただろ」 「昔の話です」 「三年前くらいじゃなかったか」 「昔です」  三年前は昔です。少なくとも、パン屋にとって三年はかなり長いです。  窯も変わります。棚も変わります。焼き方だって、少しずつ変わります。  ミーアさんが私の顔をじっと見ました。 「寝てるか」 「寝ています」 「食ってるか」 「食べています」 「顔色は」 「普通です」 「自己申告は信用しない」 「厳しいですね」 「お前相手ならこれくらいでいい」  ミーアさんはそう言って、ようやく少し笑いました。  この人は昔から、人の顔色を見るのが早いです。傷を見るのも、疲れを見るのも早く、見つけたあとはだいたい逃がしてくれません。 「とりあえず座るか」  ローさんが店の中を見回しました。 「空いてる?」 「窓際が空いています」  グウェンさんが椅子を見ました。  椅子も、グウェンさんを見ているように見えました。  たぶん、気のせいです。 「……これ、俺が座って大丈夫か」 「そちらはガルドさんが補強しています」 「俺用?」 「大きいお客さん用です」 「つまり俺用では」 「大きいお客さん用です」 「わかった」  グウェンさんは慎重に腰を下ろしました。  椅子は何も言いません。  きしみもしません。  強いです。  たいへん強いです。  私はあとで褒めようと思いました。  椅子を。 「で」  クラウスさんが棚を見ました。 「今日のおすすめを五つ」 「五つ」 「四人だぞ」  ローさんが言いました。 「俺は二つ食う」  グウェンさんが言いました。 「じゃあ六つだな」 「勝手に増やさないでください」  私は棚を見ます。  丸パン。  黒麦パン。  甘い薄焼きパン。  胡桃パン。  保存パン。 「丸パン二つ、黒麦パン二つ、胡桃パン一つ、甘い薄焼きパン一つなら、ちょうどよいです」 「じゃあそれ」 「スープも?」 「四つ」 「グウェンさんは大きい器ですか」 「できれば」 「追加料金です」 「知ってる」 「たいへんよいお客さんです」  私はパンを並べました。  四人とも、それを特別なものを見る顔では見ません。どれから食べるか、誰が何を取るか、スープへ浸すか、甘いものを最後に残すか。  そういう顔です。  それでよいです。  外では、羽根の鍵は特別です。  ギルドの中でも、たぶん特別です。  でも、店の中ではお客さんです。  パンを食べる人です。  クラウスさんが丸パンをひとつ取りました。 「いくらだ」 「全部まとめて、こちらです」  私は代金を告げました。 「命の恩人割引はありません」 「知ってる」  クラウスさんは、少しだけ笑いました。 「だから買いに来てる」  私は銅貨を受け取り、きちんと数えました。  命の恩人でも、パン代は払います。  それでよいです。 「英雄だって腹は減るからな」  ローさんが甘い薄焼きパンを指で持ち上げました。 「粉代も薪代も、英雄価格にはならない」 「ローさん」 「はい」 「英雄割増ならできます」 「やめよう」  ローさんはすぐに甘いパンを食べました。  判断が早いです。  グウェンさんは黒麦パンを半分に割り、スープへ浸しました。 「うまい」 「ありがとうございます」 「昔よりうまい」 「昔の話はしなくてよいです」 「昔のは焦げてた」 「食べられました」 「食べられたな」 「なら問題ありません」 「いや、かなり問題はあった」  ローさんが横から言いました。 「鍋の底までパンに見えてた時期あったよな」 「ありません」 「ある」 「ありません」 「クラウス」 「俺に振るな」  クラウスさんは丸パンを食べながら、少しだけ困った顔をしました。  ミーアさんが笑っています。 「まあ、今はちゃんとパンだ」 「昔もパンです」 「たぶん」 「ミーアさんまで」  ひどいです。  ですが、腹は立ちません。  少しだけです。 「にしたって」  ミーアさんが私の皿を見ました。 「お前、ちゃんと食ってるんだろうな」 「食べています」 「本当に?」 「昼にも食べました」 「何を」 「丸パンとバターを」 「それだけ?」 「確認も兼ねています」 「確認を食事に数えるな」 「食事を確認に数えているだけです」 「同じだ」  ミーアさんは呆れた顔をしました。 「そのうち痩せるぞ」 「痩せると少し困ります」 「何が」 「《小さな万能貯蔵》の容量が」  ローさんが顔を上げました。 「そこ、体格に影響すんの?」 「少しです」 「じゃあ食えば増える?」 「たぶん」 「便利だな」 「でも、歩いてる途中で痩せたらどうする」  ミーアさんが言いました。 「中身、こぼれるのか」  私は少し考えました。 「食べ歩きします」 「そうじゃない」  ミーアさんが額を押さえました。 「食べもの以外も入れろ」 「入れています」 「何を」 「バターとか」 「食べものだろ」  たいへん難しい注文です。  グウェンさんが、黙ってスープをおかわりしました。 「追加です」 「はい」 「大きい器で」 「追加料金です」 「知ってる」  よいお客さんです。  思っていたより、店の中は普通でした。  もっと何かを言わなければならないような気がしていたのかもしれません。昔のことを話すとか、助けてもらったことを改めて言うとか。  でも、四人はパンを食べています。  私はスープをよそっています。  今は、それで十分でした。  外の通りでは、まだ少し人がこちらを見ています。羽根の鍵がいるからでしょう。  ルッツさんたちも、店の端で静かになっていました。  トビアさんだけは甘い薄焼きパンを食べています。  よい判断です。  ローさんが窓の外を見ました。 「さっきから見られてるな」 「有名人ですので」 「俺らじゃなくて、グウェンが椅子を壊すか見てるんじゃないか」 「壊さない」  グウェンさんが言いました。 「椅子は大丈夫です」 「信用されてるの、俺じゃなくて椅子?」 「椅子です」 「そうか」  少し寂しそうです。  ですが、椅子はガルドさん製です。  信用があります。  クラウスさんが店の中をゆっくり見ました。  棚。  窯。  仕込み板。  窓。  入口。 「いい店だな」 「ありがとうございます」 「帰ってくる匂いがする」  私は、少しだけ手を止めました。 「パンの匂いです」 「そうだな」  クラウスさんは、それ以上言いませんでした。  私も言いません。  歩くたびに鳴る金具の音を、私は昔から知っています。  濡れた革の匂いも、泥の匂いも、冷たい手も知っています。雨の日になると、今でも少しだけ近くなるものがあります。  けれど、今、その音がする場所には窯があります。  粉の入った袋があります。  棚にはパンが並び、ガルドさんの椅子にはグウェンさんが座り、帰ってきた四人がスープを飲んでいます。  雨の匂いは昔と同じでも、ここはあの日ではありません。  私はもう、足音が来るのを待っているだけではありません。  帰ってきた人に出すパンを、焼けます。 「雨の日は」  クラウスさんが言いました。 「少しだけです」  私は答えました。 「少しだけ、思い出します。でも、パンは焼けます」  クラウスさんは、しばらく黙っていました。 「そうか」 「はい」  それだけでした。  ミーアさんが私たちを見比べ、ため息をつきました。 「二人して『少しだけ』か。信用ならんな」 「よく言われます」 「だろうな」  ミーアさんはスープを一口飲み、それからクラウスさんを見ました。 「気にするなとも、忘れるなとも言わんが、気負うなよ」  クラウスさんは何も言いません。 「あの子はもう、お前より飯を食う」 「……うそだろ」 「そこに驚くんですか」  私は言いました。 「お前、そんな食うのか」 「普通です」 「普通ではない」  ミーアさんが言いました。 「確認込みで食べるからな」 「確認は仕事です」 「便利な言葉だな」 「便利です」  クラウスさんが少し笑いました。  それで十分でした。  重いものをなくす必要はありません。  持てる重さにできればよいのだと思います。  グウェンさんが、空になった器を持ち上げました。 「もう一杯」 「追加料金です」 「知ってる」  たいへんよい流れです。  その時、扉のベルが鳴りました。  からん。  若い冒険者さんが一人、入口で止まりました。  店の中を見ます。  羽根の鍵を見ます。  少し固まります。 「……入っていいですか」 「店ですので」  私は答えました。 「どうぞ」  若い人は、まだ少し緊張したまま入ってきました。  ローさんが片手を上げます。 「気にすんな。俺らも客」 「は、はい」 「パン食ってるだけ」 「見ればわかります」 「そう?」  若い冒険者さんは少しだけ笑い、それから棚へ行って丸パンを二つ買いました。  普通です。  羽根の鍵がいても、有名な冒険者さんがいても、パン屋でパンを買う人がいます。  それでよいです。 「そういや」  ローさんが保存パンの棚を見ました。 「なんか妙な噂になってるらしいな」 「帰ってこられるパンですか」 「それ」 「ありません」 「知ってる」  ローさんはすぐにうなずきました。 「でも、保存食持つやつ増えたって聞いた」 「水と地図ときのこも確認されます」 「最後なんだ」 「長い話です」 「聞きたい」 「トビアさんに聞いてください」  店の端で、トビアさんが小さくなりました。  ローさんは楽しそうです。 「あとで聞こ」 「やめてください」  トビアさんが初めて強めに言いました。  成長しています。  主に危機察知方面で。 「でもまあ」  ローさんは笑ったあと、少しだけ声を落としました。 「面倒な準備するやつのほうが、だいたい長く残る」 「そうなんですか」  ルッツさんが思わず尋ねました。  ローさんはそちらを見ます。 「絶対じゃない。地図を包んでも迷う時はある。水持ってても怪我はする。保存食があっても魔物は消えない」 「はい」 「でも、面倒だからって一個ずつ捨てていくと、最後に困る」  ルッツさんも、ミーナさんも、真面目に聞いています。  トビアさんも甘いパンを食べながら聞いていました。 「生き残る方法って、派手じゃないんだよ。だいたい面倒」 「ロー」  クラウスさんが呼びました。 「何」 「若いのに余計なこと吹き込むな」 「正しいだろ」 「正しいから困る」  クラウスさんは三人へ向き直りました。 「ギルドで習ったことを先にやれ」 「はい!」  三人の返事が揃いました。  よいです。  英雄の言葉より、まずギルドの講習です。  午後の光が少し傾き始めたころ、四人はようやく席を立ちました。  グウェンさんの椅子は無事です。  たいへん立派です。 「保存パン、四つ」  クラウスさんが言いました。 「お持ち帰りですか」 「明日出る」 「どちらへ」 「北」  それ以上は聞きません。  必要なことは、ギルドのほうが知っています。  私は保存パンを四包み用意しました。 「水は」  口に出しかけて、やめます。  ローさんが笑いました。 「確認しないの?」 「皆さんに言う必要はありません」 「信用されてる」 「きのこは拾いますか」 「そこだけ?」 「大事です」 「拾わない」 「では大丈夫です」 「水と地図は?」 「ギルドで確認してください」 「ちゃんと線引いてるなあ」 「パン屋ですので」  私は保存パンを渡しました。  クラウスさんが代金を払い、グウェンさんが包みを持ちます。  四人が扉へ向かいました。  大きな盾。  弓。  見慣れた装具。  その手には、明日のためのパンがあります。 「また来る」  クラウスさんが言いました。 「はい」  私は答えました。  それから、少しだけ付け足します。 「ちゃんと帰ってきてくださいね」 「そうする」  ミーアさんが私を指さしました。 「お前もちゃんと食え」 「食べています」 「食べすぎるな」 「難しい注文ですね」 「そこは調整しろ」 「検討します」 「信用ならん」 「よく言われます」  ミーアさんは笑いました。  四人は店を出ていきました。  からん。  通りへ出ると、やはり少し人の目を集めます。  羽根の鍵。  強い冒険者さんたち。  たくさん依頼を終えて、たくさん帰ってきた人たち。  でも今は、パンの包みを持っています。  大きな夕食を買って帰る人たちにも見えました。  それでよいと思います。  英雄も、お腹が空きます。  だから、パン屋があります。  私は店の中へ戻りました。  まず、グウェンさんが座っていた椅子を確認します。  無事です。 「よく頑張りました」  小さく褒めました。  椅子は返事をしません。  よい椅子です。  ルッツさんたちも、そろそろ帰る時間でした。 「すごかったです」  ルッツさんが言いました。 「何がですか」 「羽根の鍵です」 「そうですね」 「普通にパン食べてました」 「お客さんですので」 「そういうものなんですね」 「そういうものです」  ミーナさんが、四人の出ていった扉を見ました。 「強い人でも、準備するんですね」 「すると思います」 「保存パンも買ってた」 「はい」 「なんか、ちょっと安心しました」 「そうですか」 「強くなったら、何もいらなくなるわけじゃないんだなって」  私は少し考えました。 「たぶん、必要なものを知っているから、長く続けられるのではないでしょうか」  私は冒険者ではありません。  ですので、そこまでしか言えません。  でも、長く帰ってくる人たちは、よく食べます。  よく確認します。  必要な時には、戻ります。  それくらいは知っています。  三人を見送ったあと、店の中が静かになりました。  私は棚を整え、残りを数えます。  丸パン。  黒麦パン。  甘い薄焼きパン。  保存パン。  明日の胡桃パンは、二つ焼けそうです。  仕込み板を書き直しました。  胡桃パン、二つ。  保存パン、多め。  甘い薄焼きパン、干し果物均等。  きのこ注意。  その下に、もう一行。  羽根の鍵、保存パン四包み済み。  確認です。  たいへん大事です。  パンは、お守りではありません。  準備も、お守りではありません。  それでも、水を持つこと。地図を包むこと。食べものを持つこと。危なければ戻ること。  そういう小さなことは、帰ってくるための助けになります。  私にできるのは、その中のひとつです。  パンを焼いて、棚へ並べて、必要な人へ渡すこと。  帰ってきた人に、おかえりなさいと言うこと。  それで十分です。  私は白墨を置き、窯の火を確かめました。  明日の粉はあります。  薪もあります。  干し果物も少しあります。  きのこは要りません。  朝になれば、また生地をこねます。  朝は、粉の匂いから始まります。  明日も、きっとそうです。  ベーカリー・アステルは、明日も開きます。

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