今無 ヅイ / 第7話

第7話 パンはお守りではありません

 翌朝、粉が届きました。  大きな荷です。  白粉。  黒麦粉。  細挽き粉。  粉袋が、ちゃんと粉袋らしい姿で並んでいます。  たいへん安心します。  粉袋は、やはりふっくらしているほうがよいです。 「これで全部です」  リオさんが荷台の横で言いました。  今日は走っていません。  少なくとも、私の見えるところでは。 「ありがとうございます」 「昨日より道も乾きました。車輪も替えたので」 「よかったです」  私は一袋ずつ受け取り、厨房へ運びました。  ガルドさんがいれば、大袋を一人で動かそうとするなと言われるところです。  いません。  でも、言われる気がします。  ですので、リオさんと二人で運びます。  職人さんの注意は、本人がいない時にも少し残ります。  便利です。  少し怖いですが。  最後の一袋を下ろしたところで、私は袋の端に触れました。  少し湿っています。 「リオさん」 「はい」 「ここ」 「あっ」  リオさんの顔がすぐに曇りました。 「すみません。昨日の積み替えの時かも」 「中までですかね」  二人で袋を確かめます。  端の布は湿っています。  でも、奥までは入り込んでいないようです。 「大丈夫です」 「本当ですか」 「この袋から先に使います」 「すみません」 「粉は届きました。それだけで、世界は少しよくなります」  私は湿った端をもう一度見ました。 「ただ、よくなったあとも仕事は残ります」  リオさんは少しだけ笑いました。 「親方も同じようなこと言います」 「粉屋さんもですか」 「届いたら終わりじゃない、って」 「その通りですね」  粉は届いたらパンになります。  勝手にはなりません。  残念です。  私は湿りのある袋に印をつけ、仕込み板を書き直しました。  丸パン、通常。  黒麦パン、通常。  甘い薄焼きパン、少し多め。  保存パン、追加。  胡桃パン、二つ。  きのこ注意。  最後の一行は、まだ残っています。  そろそろ消してもよい気もします。  でも、もう少しです。  実績を見ます。  リオさんを見送り、私は湿った袋の粉から使い始めました。  全部が傷んでいるわけではありません。  状態を見て、使えるところから使います。  問題があるものは、全部捨てればよい。  そういうわけでもありません。  扱い方があります。  人も、パンも、粉も。  少し似ています。  午前の店は、久しぶりに棚が賑やかでした。  丸パン。  黒麦パン。  甘い薄焼きパン。  胡桃パン。  保存パン。  昨日まで少なかったものが戻ると、棚まで少し安心した顔に見えます。  私はそう思いました。  棚は返事をしません。  助かります。  からん。  扉のベルが鳴りました。  入ってきたのは、若い冒険者さんが二人でした。  どちらも見覚えはありません。  一人は短槍を背負い、もう一人は小さめの盾を持っています。装備はまだ新しく、でも買ったばかりというほどではありません。  二人は棚を見て、保存パンを見て、それから私を見ました。 「あの」 「はい」 「帰ってこられるパン、ください」  私は少し考えました。  何を言われたのかは、わかりました。  意味もわかります。  でも、商品名としては知りません。 「ありません」  二人が固まりました。 「え」 「帰ってこられるパンは、ありません」 「あの、でも」 「ここのパンを持っていった三人が、昨日ちゃんと帰ってきたって」 「はい。帰ってきました」 「だから」 「パンのおかげではありません」  少し強く言いすぎたかもしれません。  二人の顔が、少ししぼみました。  私は言葉を足します。 「パンは、お守りではありません」  保存パンを一包み取り、カウンターへ置きました。 「食べものです」 「食べもの」 「はい」  短槍の人が、少し困ったように保存パンを見ました。 「じゃあ、意味ないんですか」 「あります」 「あるんですか」 「食べものには、意味があります」  私は包みを開き、中身を見せました。  黒麦の小さな丸パン。  香草の薄焼き。  硬めの細長いパン。  小さな甘い欠片。 「お腹が空くと、考えるのが少し雑になります。喉が乾くと、歩くのも話すのも嫌になります。疲れると、確認をひとつ飛ばしたくなることがあります」  二人は黙って聞いています。 「保存パンは、そのうち少しを防ぎます」 「少し」 「はい。少しです」  私は包みを閉じました。 「でも、その少しが大事な日があります」  小さな盾の人が、自分の水袋を見ました。 「じゃあ、食べれば帰れるんじゃなくて」 「食べると、帰るための準備が少し減らずに済みます」 「準備」 「水も必要です。地図も必要です。道も見ます。天気も見ます。危ないと思ったら戻ります」  私は二人を見ました。 「信じるなら、パンではなく、準備を信じてください」  二人は、しばらく何も言いませんでした。  少し重かったでしょうか。  でも、ここは軽くしてはいけないところです。  帰ってこられるパン。  もし本当にそんなものがあるなら。  昔の私は、たぶん探したと思います。  どこにでも行ったでしょう。  いくらでも払ったかもしれません。  でも、ありません。  ないものを、あると言って売ることはできません。  それはパン屋の仕事ではありません。 「……保存パンは、欲しいです」  短槍の人が言いました。 「ありがとうございます」 「一包みで」 「お二人ですか」 「はい」 「今日の予定は」 「東の丘です。薬草の採取」 「日帰りですか」 「昼すぎには戻る予定です」 「水は」  二人は顔を見合わせました。  それから、それぞれ水袋を出します。 「二つずつあります」 「地図は」 「あります」  小さな盾の人が鞄から取り出しました。  油紙に包まれています。 「よいです」 「あと」  短槍の人が、少しだけ言いにくそうにしました。 「きのこは、拾わないほうがいいですか」  私は二人を見ました。 「なぜ、それを」 「ギルドで言われました。採取対象じゃないものを勝手に拾うなって」 「よい講習です」 「パン屋でも言われるって聞きました」  そうですか。  もうそこまで来ましたか。  私は仕込み板を見ました。  きのこ注意。  文字が少し誇らしそうに見えます。  気のせいです。 「知らないきのこは、拾わないほうがよいと思います」 「わかりました」 「知っているきのこでも、依頼と関係なければ、今必要か考えてください」 「はい」 「食べられるかどうかだけでなく、持って帰る意味があるかも」 「意味」 「はい」 「わかりました」  よい返事です。  二人は保存パンを一包み買いました。  ついでに丸パンも二つ。  出発前に食べるそうです。 「帰ってこない成功より」  私は銅貨を受け取りながら言いました。  二人が顔を上げます。 「帰ってくる失敗のほうが、次のパンを買えます」  二人は、少しだけ笑いました。 「失敗してもいいんですか」 「失敗しないほうがよいです」 「ですよね」 「でも、帰ってきてください」 「はい」  それで十分です。  二人はパンを鞄へ入れ、店を出ていきました。  からん。  扉の向こうで、二人は一度立ち止まりました。  水袋。  地図。  保存パン。  それぞれを確認してから、ギルドへ向かいます。  よいです。  私は少しだけ安心しました。  帰ってこられるパンはありません。  でも、帰るための準備はできます。  それなら、パン屋にも少し手伝えます。  昼前になると、店の端の席に見覚えのある三人が座りました。  ルッツさん。  ミーナさん。  トビアさん。  今日は講習の合間だそうです。  ルッツさんは報告書の紙を睨み、ミーナさんは横から何かを直し、トビアさんは甘い薄焼きパンを食べています。  紙の上には、何度も書き直した跡があります。 「字が読めるように書けって言われました」  ルッツさんが言いました。 「昨日も言っていましたね」 「今日はもっと言われました」 「大事なことは、何度でも言われます」 「フィーネさんもですか」 「踏み台の上で向きを変えるな、と」 「同じですかね」 「似ています」  たぶん。  ミーナさんが顔を上げました。 「さっき、ギルドで聞きました」 「何をですか」 「私たちが帰ってきたの、パンのおかげって噂になってるって」 「なっています」 「違いますよね」 「違います」  三人がそろってうなずきました。  よいです。  本人たちがわかっています。 「でも、甘いパンは助かりました」  ミーナさんが言いました。 「最後に食べたら、少し元気が出ました」 「それはパンの仕事です」 「地図が濡れたのは、パンのせいじゃないです」  ルッツさんが言いました。 「はい」 「道を間違えたのも」 「はい」 「きのこを拾ったのも」  ミーナさんが言いました。  三人がトビアさんを見ました。 「僕です」  トビアさんが認めました。  たいへんよいです。 「パンは、そこまで万能ではありません」 「フィーネさんのスキルは万能ってついてますけど」  トビアさんが言いました。 「小さな、もついています」 「あ」 「大事です」 「はい」  そこは大事です。  万能だけ取ると、かなり誤解があります。  ちょうどその時、店の扉が鳴りました。  からん。  リナさんです。  三人を見つけると、まず報告書を見ました。 「ルッツさん、その字は」 「直します」 「読めるように」 「はい」  たいへん早いです。  リナさんは私のところまで来ると、棚の保存パンを見ました。 「噂、聞きましたか」 「聞きました」 「すみません。講習で三人の例を出したのが、少し広がったみたいで」 「パンのおかげで帰った、まで育っています」 「そこまで」 「噂は、パン生地より勝手にふくらみます」 「発酵止められませんかね」 「難しいです」 「ですよね」  リナさんは小さくため息をつきました。 「ギルドで話したのは、準備の話です。保存食を持っていたこと。雨の中で無理に戦わなかったこと。依頼品を守って戻ったこと。地図の扱いは反省点」 「きのこは」 「反省点です」  トビアさんが少し小さくなりました。 「でも」  リナさんは続けました。 「結果として、保存食や水や地図を意識する人が増えるなら、悪いことばかりでもありません」 「パン屋で確認される、という噂になっています」 「それも聞きました」 「困ります」 「困りますか」 「ここはパン屋です」 「はい」 「水袋屋でも、地図屋でも、きのこ屋でもありません」 「きのこ屋では絶対にないですね」 「はい」  そこは強く言えます。  私はパン屋です。  それ以上でも、それ以下でもありません。 「ただ」  私は少し考えました。 「それで準備する人が増えるなら、少しくらいはよいです」 「少しくらい」 「はい」 「では、ギルドでも訂正しておきます。パンは生還を保証しません、と」 「お願いします」 「そのうえで、保存食は持ちましょう、と」 「たいへんよいです」  リナさんはうなずきました。 「きのこも」 「お願いします」  トビアさんが、報告書へ視線を落としました。  聞こえなかったふりです。  聞こえています。  午後になるころには、妙な流れができていました。 「水、二袋」 「はい」 「地図、油紙」 「よいです」 「きのこ、拾わない」 「たいへんよいです」  パンを買いに来た冒険者さんが、自分から報告していきます。  私は聞いていません。  聞いていませんが、答えます。 「東の街道。水多め。地図あり」 「はい」 「保存パン二つ」 「ありがとうございます」 「きのこは」 「聞いていません」 「拾わない」 「よいです」  妙です。  たいへん妙です。  パン屋なのに、客さんが水袋と地図ときのこの話をします。  でも、悪い気はしません。  少しだけです。 「フィーネさん」  ミーナさんが店の端から呼びました。 「はい」 「なんか、広まりましたね」 「広まりました」 「トビアのせいもありますよね」 「少し」 「僕だけですか」 「雨と、地図と、パンと、トビアさんです」 「多いですね」 「理由はひとつとは限りません」  トビアさんは少し考えてから、甘い薄焼きパンを食べました。  よい判断です。  夕方、朝の二人が戻ってきました。  短槍の人と、小さな盾の人です。  朝より少し汚れています。  でも、歩き方はしっかりしています。  私は棚の向こうから顔を上げました。 「おかえりなさい」 「ただいまです」  二人は少し照れたように笑いました。 「依頼は」 「終わりました。これから報告です」 「では、先にギルドへ」 「はい。その前に一つだけ」  短槍の人が言いました。 「水、多めでよかったです」 「そうですか」 「重かったですけど」 「はい」 「地図の油紙も、出すたび面倒でした」 「はい」 「でも、濡れませんでした」 「よかったです」  小さな盾の人が続けました。 「きのこは拾いませんでした」 「たいへんよいです」 「何個かありました」 「見つけても拾わないことはできます」 「今日覚えました」  よいことです。  二人はギルドへ向かいました。  私はその背中を見送ります。  朝より少しだけ、準備が自分たちのものになった背中です。  パンが守ったわけではありません。  水が全部を解決したわけでもありません。  地図だけでも足りません。  でも、ひとつずつ重ねれば、帰るための助けにはなります。  店の奥では、ルッツさんたちがまだ報告書を書いていました。 「トビアさん」 「はい」 「きのこ注意は、もう少し残します」 「いつ消えますか」 「拾わない実績が増えたら」 「何回ですか」 「まだ決めていません」 「厳しい」 「きのこよりは、たぶん優しいです」  ミーナさんが吹き出しました。  ルッツさんも笑います。  その笑い声に混じって、外の空気が少し変わりました。  先に気づいたのは、リナさんでした。  ちょうどギルドから出てきたところで、通りの向こうを見ています。  次に、店の前を歩いていた冒険者さんが足を止めました。  向かいの軒下にいたバルクさんも、少しだけ顔を上げます。  ガルドさんは店の端で黒麦パンを選んでいましたが、その手が止まりました。  騒がしくなったわけではありません。  むしろ、少し静かになりました。  人が道を空ける時の静かさです。 「どうしたんですか」  ミーナさんが窓の外を見ました。  誰かが、小さな声で言いました。 「羽根の……」  その先は、扉のベルに重なりました。  からん。  聞き覚えのある音ではありません。  でも、その前に聞こえた金具の音を、私は知っています。  歩く時に少しだけ鳴る、金属の留め具。  昔から変わらない音です。  私は手にしていた包み紙を落としました。  床の上で、一度だけ跳ねます。  店の扉が開きました。

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