今無 ヅイ / 第6話

第6話 保存パン八包み

 ベーカリー・アステルは、明日も開きます。  と、昨夜の私は仕込み板に書きました。  ですので、開きました。  書いただけで窯に火が入るわけではありませんし、生地が勝手にふくらむわけでもありません。それでも、書いた日の朝は少しだけ手が動きやすい気がします。  雨は上がっていました。  石畳はまだ黒く濡れ、軒先からは時々、思い出したように水が落ちています。ギルド前の通りには、湿った木と革と土の匂いが残っていました。  そこへ、焼きたてのパンの匂いが混ざります。  最後のものは、うちの匂いです。  私は窯の前で、昨夜仕込んだ保存パンを並べました。  一包み、二包み、三包み。  四、五、六。  七。  八。  八包みです。  王国の歴史に残る数字ではありません。吟遊詩人さんが歌にすることも、たぶんないでしょう。  ですが、昨日の夜には六包みだったものが、リオさんの小さな粉袋のおかげで八包みになりました。  私の厨房では、十分に立派な数字です。  中身は、いつもより少し黒麦が多めです。  黒麦の小さな丸パンに、香草の薄焼き。硬めの細長いパンと、小さな甘い欠片。  干し果物は、かなり真剣に均等にしました。  争いの種は、少ないほうがよいです。  店売りの棚は、いつもより少し控えめでした。丸パンは少なめ、黒麦パンは多め、甘い薄焼きパンが少し。  そして、胡桃パンが一つ。  その隣には、黒麦パンを一つ置きます。  ガルドさんへの約束は二つでした。  ですが、昨日の私は仕込み板に「胡桃パン、一つ。黒麦パンを添える」と書きました。  今日の私は、それに従います。  明日の自分へ仕事を押しつけることはありますが、昨日の自分から押しつけられることもあります。  お互いさまです。  私は店の戸を開け、表の札を返しました。  開店中。  雨上がりの冷たい空気が、厨房の熱と混ざります。  向かいのギルドも、すでに朝から動いていました。延期になった依頼の組み直し、出発する人の確認、濡れた道の情報交換。扉が開くたびに、人と声が出入りしています。  からん。  最初に入ってきたのは、リナさんでした。 「おはようございます、フィーネさん」 「おはようございます」  リナさんの目は少し眠そうですが、昨日より顔色はよく見えます。  視線はすぐ、カウンターの上の包みに向きました。 「保存パンは」 「八包みです」 「八包み」 「はい」  リナさんの顔が、はっきり明るくなりました。 「六包みでも十分助かるところでした。ありがとうございます」 「リオさんが、小さい粉袋を届けてくれましたので」 「夜にですか」 「はい。走って」 「走りましたか」 「走りました」 「あとで言っておきます」 「なるべく優しくお願いします」 「内容によります」  少し不安です。  私は八包みをカウンターへ並べました。  リナさんは紐と札と数を一つずつ確認し、代金をきちんと数えて渡してくれます。 「確かにいただきました」 「これで、朝から乾パンだけという組は減らせます」 「乾パンは大事です」 「大事です。ただ、朝から乾パンだけだと、少し顔が乾きます」 「水では戻りませんか」 「人によります」 「それは難しいですね」  乾パンには乾パンの仕事があります。  保存パンには保存パンの仕事があります。  どちらが上というものでもありません。  ただ、雨の翌朝には、少し噛みやすいものがあったほうがよい気がします。  リナさんは八包みを大きな鞄へしまいました。 「ルッツさんたちは、午前の講習が終わったら来ると思います」 「今日も講習ですか」 「雨天時の地図、報告書、採取物の扱いです」 「きのこも」 「きのこも」  やはり入りました。  私は仕込み板を見ました。  きのこ注意。  消さなくてよかったです。 「かなりしょんぼりしていますが、別に依頼を止められたわけではありません。昨日の判断でよかったところも、きちんと説明されています」 「逃げたことですか」 「はい。無理に戦わなかったこと。それから、依頼品を守って戻ったこと」  叱ることと、褒めること。  どちらかだけでは、少し足りません。  パンでも、塩だけ入れて水を忘れると困ります。  たぶん、それに近いです。 「では、ギルドへ戻ります」 「お気をつけて」 「今日は晴れていますよ」 「晴れていても転ぶ人はいます」 「それはそうですね」  リナさんは笑って、八包みの保存パンを持って店を出ました。  朝のうちに八包みとも、棚から消えました。  少し寂しいです。  ですが、あのパンは棚に並ぶために焼いたわけではありません。  鞄に入って、道へ出て、必要になった時に食べてもらう。  そのほうが、よいです。  朝の客がひと段落すると、私は店売りぶんの保存パンを追加で仕込み始めました。  昨夜届いた粉を全部使い切るわけにはいきません。丸パンにも甘いパンにも必要です。  黒麦を少し多めにして、四包みぶん。  これなら昼前には焼けます。  生地を休ませていると、店の扉が鳴りました。  からん。  入ってきたのは、ルッツさん、ミーナさん、トビアさんでした。  三人とも、今日は乾いています。  それだけで、とても安心して見えました。  ルッツさんの頬には小さな布。膝と肘にも包帯があります。ミーナさんの手には、昨日よりきれいな布が巻かれていました。  トビアさんの矢筒には枝がありません。  きのこもありません。  たいへんよいです。  三人は入口でそろって頭を下げました。 「昨日は、報告前に来てしまって、すみませんでした」  ルッツさんが言いました。 「すみませんでした」  ミーナさんも続きます。 「きのこも、すみませんでした」  トビアさんが言いました。  きのこも正式に謝罪対象になりました。 「店の扉は、入るためにあります」  三人が顔を上げました。 「濡れていても、泥だらけでも、入ってはいけないわけではありません。ただ、昨日くらい歩けるなら、次から依頼の報告を先にしてください」 「はい」 「怪我がひどい時は別です。その時は、報告より先に助けを呼びます」 「はい!」  返事はよく揃っています。  昨日より少し声もしっかりしていました。  しょんぼりはしています。  でも、折れてはいません。  それなら大丈夫です。 「講習はどうでしたか」 「地図を油紙に包めって、すごく言われました」  ミーナさんが言いました。 「報告書は、読める字で書けって」  ルッツさんは少し遠い目をしています。 「大事ですね」 「はい」 「トビアさんは」 「採取対象じゃないものは、勝手に拾わない」 「はい」 「食べられるかわからないものを持ち帰らない」 「はい」 「あと、昨日のきのこは食べる意味があまりない」 「それも覚えました」  かなり覚えています。  よいことです。  トビアさんが仕込み板を見ました。  きのこ注意。  しばらく文字を見たあと、私を見ます。 「あれ、僕のことですか」 「きのこ全般です」 「僕も入ってますか」 「入っています」 「はい」  トビアさんは真面目にうなずきました。  ルッツさんが横を向きました。  ミーナさんは口元を押さえています。  二人とも、笑わない努力があまり上手ではありません。  ミーナさんが棚を見ました。 「甘い薄焼きパン、ありますか」 「あります」 「三つください」 「はい」  私は三枚を選びました。  大きさと焼き色。  そして、干し果物。  昨日より、かなり均等です。 「今日のは大丈夫です」 「何がですか」 「争いの種です」  三人の顔が少し気まずそうになりました。 「昨日のせいですか」 「昨日のおかげです」 「おかげ」 「偏ると揉める、という大事なことがわかりました」 「すみません」 「店の中で剣を抜かなければ、だいたい大丈夫です」 「抜きません」  ルッツさんは即答しました。 「よろしいです」  三人は銅貨を出して、甘い薄焼きパンを一枚ずつ受け取りました。  今度は見比べません。  少なくとも、目立つほどには。 「保存パンもありますか」  ルッツさんが尋ねました。 「朝の八包みは、ギルドへ渡しました。今、追加を四包み焼いているところです」 「一つ、取り置きできますか」 「明日、また依頼ですか」 「近場の採取を受けようと思っています」  ルッツさんは少しだけ姿勢を正しました。 「昨日みたいにならないように、今度はちゃんと準備して行きます」  ミーナさんも、うなずきます。 「地図も包みます。水も多めに」 「報告も先にします」  トビアさんが言いました。 「きのこは」 「拾いません」  早いです。 「では、一包み取っておきます」 「ありがとうございます」 「八銅貨です」  三人は顔を見合わせ、それぞれ財布を出しました。  ルッツさんが三枚。  ミーナさんが三枚。  トビアさんが二枚。  八銅貨。  きちんと足ります。  トビアさんが、なぜか少し胸を張りました。 「僕も二枚出しました」 「よいことです」 「昨日のきのこは、お金になりませんでした」 「でしょうね」 「食べる意味もなかったです」 「学びましたね」 「はい」  方向は少し不思議ですが、たしかに学んでいます。  私は銅貨を受け取りました。 「払える時は、払ってください」 「はい」 「払えない時に誰かが奢ってくれるなら、きちんと礼を言ってください」  三人がうなずきます。 「食べものを軽く見ないこと。それだけです」  ルッツさんが、少し考えました。 「それ、バルクさんも似たようなこと言ってました」 「そうですね」  バルクさんなら、もっと短く言います。  払えるなら払え。  払えないなら奢られろ。  どちらでも礼は言え。  乱暴ですが、たいへんわかりやすいです。  私はパン屋なので、少しだけやわらかく言います。  三人は店の端の席で、甘い薄焼きパンを食べ始めました。  昨日の話もしています。  川を間違えたところ。  地図が濡れたところ。  ルッツさんが転んだところ。  トビアさんがきのこを見つけたところ。  最後の話になると、ミーナさんの目が細くなりました。  トビアさんは黙ってパンを食べます。  よい判断です。  その間に、私は追加の保存パンを窯へ入れました。  ほどなくして、また扉が鳴ります。  からん。  今度はガルドさんでした。  店へ入ると、まず棚を見ます。  胡桃パン、一つ。  その横に、黒麦パン一つ。  ガルドさんの眉が動きました。 「一つだな」 「一つです」 「昨日より小さくないか」 「少しだけ」 「正直だな」 「大事です」  ガルドさんは胡桃パンを見て、それから厨房のほうを見ました。 「保存パンは」 「朝に八包み。今、追加で四包みです」 「なら、よし」  それだけでした。 「黒麦も添えます」 「知ってる。昨日書いてあった」 「見ていたんですか」 「見えるところに書いてただろ」 「そうでした」  ガルドさんは胡桃パンと黒麦パンを受け取り、きっちり代金を置きました。  その途中で、店の端にいる三人へ目を向けます。 「昨日の若いのか」  三人が背筋を伸ばしました。 「はい!」 「帰ってきたなら、まずよし」  三人の顔が少し変わりました。 「次は、もう少し上手く帰れ」  短い言葉でした。  でも、三人はすぐにうなずきました。 「はい」  ミーナさんが言いました。 「もう少し上手く帰ります」 「そうしろ」  私は窯を見ながら言いました。 「冒険者さんは、帰るのも仕事です」 「はい」  ルッツさんが答えます。 「昨日、わかりました」 「少しだけですけど」  ミーナさんが付け足しました。 「少しだけでも十分です。次に増やせますので」 「僕は、きのこを拾わないことも」  トビアさんが言いました。 「そこは、できれば一度で覚えてください」  店の中に笑いが起こりました。  トビアさんも、少し笑いました。  失敗は、笑えるところまで持って帰れれば、少しだけ扱いやすくなります。  忘れてよいという意味ではありません。  でも、ずっと重たいまま背負う必要もありません。  追加の保存パンが焼き上がりました。  冷ましてから、四包みにします。  一包みは、三人の取り置き。  残り三包みを棚へ並べました。  並べてすぐ、一人の冒険者さんが一包み買っていきます。  早いです。  保存パンは、棚にいる時間より鞄にいる時間のほうが長いのかもしれません。  それでよいです。  三人は取り置きの一包みを受け取りました。  ミーナさんはすぐに油紙を出し、包みの外側を包みます。 「今度は濡らしません」 「地図もですか」 「はい」 「報告書も」 「はい」 「よいです」  ルッツさんも水袋を確かめました。  トビアさんは何も拾っていません。  たいへんよいです。 「では、午後の講習に行ってきます」  ルッツさんが言いました。 「お気をつけて」 「今日はギルドの裏です」 「裏でも転ぶ時は転びます」  ルッツさんは、自分の膝の包帯を見ました。 「……はい」  説得力があります。  三人は店を出ていきました。  からん。  昨日より少しだけ落ち着いた背中が、通りを渡ってギルドへ戻っていきます。  剣。  杖。  弓。  装備はまだ新しいです。  歩き方も、まだ慣れているとは言えません。  それでも昨日よりは、少しだけ自分たちの荷物を気にして歩いていました。  たぶん、それで十分です。  私は店へ戻り、棚を整えました。  朝に焼いた保存パン八包みは、もうありません。  追加の三包みも、ひとつ減りました。  棚は少し寂しいです。  でも、悪くありません。  パンには、棚で待つ仕事もあります。  鞄に入って道へ出る仕事もあります。  今日の保存パンは、後者の日です。  窓の外では、雨上がりの道へ冒険者さんたちが出ていきます。  水袋を持って。  地図を包んで。  食べものを鞄に入れて。  私は、その道を決めることはできません。  魔物を追い払うことも、道に迷わないよう遠くから手を引くこともできません。  私はパン屋です。  ですので、パンを焼きます。  大きな粉の荷は、まだ届いていません。  明日の棚がどうなるかは、もう少し粉屋さん次第です。  それでも、今日焼けるぶんは焼けます。  私は次の生地を台へ出しました。  仕込み板には、まだ文字が残っています。  甘い薄焼きパン、干し果物均等。  保存パン、明日も。  胡桃パン、今度こそ二つ。  そしてきのこ注意。  最後の一行は、まだ消しません。  もう少しだけ、実績を見てからにします。

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