今無 ヅイ / 第4話

第4話 甘いパンは三等分できません

 雨の日の夕方、店の床は忙しくなります。  泥。  水。  草の葉。  小さな枝。  濡れた靴の跡。  それから、冒険者さんのため息。  最後のものは掃けません。  布で拭いても残りますし、外へ捨てることもできません。ですので、そういう時は温かいものを出すのが一番です。  ため息は、パンで少し軽くなることがあります。  少しだけです。  ベーカリー・アステルの窓には、雨粒が細かく張りついていました。  石畳を走る馬車の車輪が、水を跳ね上げます。向かいの冒険者ギルドでは、大扉がいつもより何度も開いていました。  戻ってくる人。  雨具を借りに出る人。  門番へ何かを聞きに行く人。  いつものギルド前より声は多いのに、どこか落ち着きません。  私はカウンターの下を確かめました。円パンと、少し形の曲がった甘い薄焼きパン。  雨が強くなってから、すぐ使えるように出しておいたものです。  使わなければ、それでよいです。  使う理由が来ないほうが、本当はよいのです。  からん。  扉のベルが鳴りました。  入ってきたのはリナさんでした。  外套の肩が濡れています。書類鞄は胸に抱えられ、そこだけは雨からきっちり守られていました。 「フィーネさん」 「はい」 「南の森へ出た三人、まだこちらには?」 「来ていません」  リナさんは小さくうなずきました。 「南門にも確認しました。出発記録はあります。帰還はまだです」 「予定は昼でしたね」 「はい。ただ、初めてに近い依頼なら遅れることはあります。道を間違えることも、雨で歩みが鈍ることも」  声は落ち着いています。  落ち着いていますが、軽くはありません。 「日没までに戻らなければ、確認の範囲を広げます。近くの採取組や見張り小屋にも声を回します」 「大きな魔物の報告は」 「今のところありません」 「それは、よかったです」 「はい」  よかった。  でも、全部がよかったわけではありません。  三人はまだ帰ってきていませんので。  リナさんは店の奥に置いた布とお湯を見ました。 「準備していたんですか」 「使わないほうがよい準備です」 「そうですね」 「もし、こちらに先に来たら」 「歩ける状態なら、ギルドへ連れてきてください。怪我がひどければ、その場で人を呼んでください」 「わかりました」 「治療は」 「ギルドと治療院の仕事です。私はパン屋です」 「はい。それでお願いします」  リナさんは一度だけ窓の外を見ました。  雨は弱まりません。 「戻ってきます」 「はい」  そう答えた時でした。  向かいのギルドの前で、誰かが声を上げました。  内容までは聞こえません。  ただ、その直後。  通りの向こうから、三つの影が走ってきました。  剣。  杖。  弓。 「……来ました」  私より先に、リナさんが言いました。  三人は雨を切るように通りを渡ってきます。  朝とは、まるで違う姿でした。  髪は濡れています。  革具には泥。  服の裾は水を吸って重くなり、靴には草と土がまとわりついていました。  剣の少年の頬には擦り傷。  杖の少女は片手に布を巻いています。  弓の少年の矢筒には、小さな枝が刺さっていました。  そして、その手には。  きのこがありました。  知らないきのこです。  私は見ました。  弓の少年も、私を見ました。 「食べてません!」  第一声がそれでした。  たいへん大事な報告ではあります。  ですが、ほかにも言うことはあると思います。  三人は店へ飛び込みました。  からん、ではありません。  がたん、と扉が鳴りました。  剣の少年が息を切らしながら言います。 「ただいま戻りました!」  ここはギルドではありません。  パン屋です。  私はそれを訂正しませんでした。 「おかえりなさい」  そう返すと、三人の顔が少しだけ緩みました。 「まず、そこにいてください。床はあとで拭きます」 「すみません」 「床は拭けば戻ります」  私は布を三枚出しました。 「手と顔を。濡れたままだと冷えます」 「はい」 「怪我は」 「擦り傷だけです」  剣の少年が答えました。  本人の「だけ」は、あまり信用しすぎないほうがよいです。 「痛いところは」 「膝と、肘と、頬です」 「よく転びましたね」 「はい」 「よく起きましたね」  少年は少しだけ目を丸くしました。  それから、泥だらけの顔で笑いました。 「はい」  杖の少女は、濡れた帽子を両手で持っています。 「手を見せてください」 「大丈夫です」 「大丈夫な人は、見せられます」  少女は少し迷ってから、巻いていた布をほどきました。  手のひらに擦り傷があります。  深くはなさそうですが、泥が入っています。 「洗ってもらったほうがよいです」 「はい」 「治療院で」 「はい」  私は、弓の少年を見ました。  正確には、その手のきのこを見ました。 「それは」 「拾っただけです」 「食べていませんね」 「食べてません」 「袋は」 「分けました」  小さな袋を見せてくれました。  食料とは別です。  そこは朝の話を覚えていたようです。 「よいです」 「よいですか」 「食べなかったところは」 「拾ったところは」 「少しよくないです」 「はい」  評価は分けたほうがよいです。  ちょうどそこへ、リナさんが近づきました。  雨の中を走ってきた三人より、ずっと落ち着いた足取りです。 「まず、名前を確認します」  三人の背筋が伸びました。  剣の少年が言います。 「ルッツです」  杖の少女が続きます。 「ミーナです」  最後に、弓の少年。 「トビアです」  これで、三人の名前がわかりました。  朝に出ていった背中に、名前がつきました。  名前がつくと、少し重くなります。  でも、帰ってきた名前です。  それなら、よい重さです。 「依頼品は」  リナさんが尋ねます。  ルッツさんが、胸に抱えていた袋を差し出しました。 「銀葉草です」  ミーナさんが答えます。 「十束、あります」  リナさんは袋を開き、手早く中を確認しました。  一束。  二束。  三束。  十束。  少し濡れていますが、ひどく傷んでいるものはなさそうです。 「依頼数は満たしています」  三人の肩が、同時に下がりました。  緊張は、肩にたまりやすいです。 「何がありましたか」 「道を間違えました」  ルッツさんが言いました。 「地図が濡れて」  ミーナさんが続きます。 「川を一本、違うところだと思ってしまって」 「僕は違うかもって言いました」  トビアさんが言いました。 「その時は『たぶん』だった」  ミーナさんが言いました。 「たぶんでした」  トビアさんは認めました。  よいことです。  たぶん、をたぶんと言えるのは大事です。 「魔物との遭遇は」 「小さい獣が一匹。牙がありました」 「戦いましたか」 「逃げました」  ルッツさんの声が少し小さくなりました。  リナさんは、すぐにうなずきます。 「それで正解です」 「でも」 「初めてに近い依頼。雨。道迷い。依頼品あり。その状態で、無理に戦う理由はありません」  ルッツさんは口を閉じました。 「逃げる判断ができたなら、それはよい判断です」 「……はい」 「怪我は治療院で確認。依頼品はギルドで正式受領。報告書もそこで書いてください」 「はい」  リナさんはそこで一度止まりました。  三人が少し身構えます。 「それから」 「はい」 「報告前にパン屋へ入った件は、あとで話します」 「すみません!」  三人がそろって頭を下げました。  その勢いで、水滴が床に落ちます。  床は、あとで拭きます。 「ただし」  リナさんの声が、少しだけやわらぎました。 「戻ってきたことは、よかったです」  三人は顔を上げました。  泣きそう、というほどではありません。  でも、さっきより少しだけ幼く見えました。  私はお湯を入れた器を三つ並べました。 「手を温めてください」 「でも、ギルドへ」 「冷えた手では報告書も書けません」  リナさんが言いました。 「少し温めてから来なさい」 「はい」  三人は器に手を添えました。  湯気が顔に当たります。  冷えていた指先が、少しずつ人の色へ戻っていきます。  私は丸パンを三つ出しました。  雨が強くなってから、すぐ渡せるようにしておいたものです。 「こちらも」 「え」 「濡れた手でも持てる丸パンです」  ルッツさんが財布へ手を伸ばしました。 「お金」 「あとで大丈夫です」 「でも」  その時です。  ぐう、と音がしました。  店の中が、ほんの少し止まりました。  ルッツさんのお腹です。  たいへん正直な音でした。  ルッツさんの顔が赤くなります。 「すみません」 「謝る音ではありません」  私は丸パンを差し出しました。 「生きて帰ってきた人は、お腹が空きます」  三人は黙ってパンを受け取りました。  最初にルッツさんがかじります。  次にミーナさん。  最後にトビアさん。  少しの間、誰もしゃべりませんでした。  雨の音。  ギルド前の声。  湯気。  丸パンを噛む音。  それだけです。  私は、その音を聞いていました。  パンは傷を治しません。  濡れた地図も乾かしません。  迷った道を戻すこともできません。  でも、帰ってきた人の手の中で役に立つことはあります。  それで十分です。 「朝の甘いパン」  ミーナさんが言いました。 「途中で食べました」 「そうですか」 「最後のほうで。疲れて、ちょっと足が重くなった時に」  ミーナさんは丸パンを持ったまま、小さく笑いました。 「あれを食べたら、本当に少し歩けました」 「それはよかったです」 「ただ」  ルッツさんが口を挟みました。 「ただ?」 「あれ、三人で分けたんですけど」 「はい」 「干し果物が多いところがあって」  なるほど。  私は少しだけ嫌な予感がしました。 「揉めました?」 「少しだけ」  ルッツさんが言いました。  少しだけ。  信用ならない言葉です。  私はミーナさんを見ました。  目をそらしました。  トビアさんも見ます。  目をそらしました。  ルッツさんは丸パンを食べました。  かなり揉めたようです。 「前衛が一番体力を使うので、多いところをもらってもいいと思ったんです」  ルッツさんが言いました。 「銀葉草を見つけたのは私です」  ミーナさんが言いました。 「僕は、きのこを食べませんでした」  トビアさんが言いました。 「それは当然です」  リナさんが言いました。  たいへん正しいです。  トビアさんの肩が少し落ちました。  私はカウンターの下から、小さな包みを出しました。  雨が降り始めたころ、少し形が曲がっていたので取り分けておいた甘い薄焼きパンです。  三人の目が、同時にそちらへ向きました。  たいへん正直です。 「これは、少し形が曲がったものです」 「売りものじゃないんですか」  ミーナさんが尋ねます。 「売れます」 「売れるんですか」 「味は同じですので」 「じゃあ」 「今日は確認用です」 「確認」 「三等分の確認です」  私は甘い薄焼きパンを紙の上へ置きました。  干し果物は、たしかに片側へ少し寄っています。  これは、よくありません。  争いの種です。  食べものの中には、干し果物は入っていてよいです。  争いの種は、あまり入れたくありません。  私は果物の多い部分を細く切り、それを三つに分けました。  残りの生地も、三つ。  完全に同じではありません。  でも、最初よりはかなりましです。 「どうぞ」  三人は、それぞれ自分のぶんを受け取りました。  ルッツさんは、何も言わずに食べます。  ミーナさんも食べます。  トビアさんだけが、少し自分のぶんと他の二人のぶんを見比べました。 「トビアさん」 「はい」 「見比べると、また揉めます」 「はい」  トビアさんは、すぐに食べました。  よい判断です。 「おいしいです」  ミーナさんが言いました。 「ありがとうございます」 「森で食べた時もおいしかったんですけど」  ルッツさんが少し考えながら言います。 「今のほうが、なんか、おいしいです」 「帰ってきたからかもしれません」  三人は少し黙りました。  私は甘いパンの残りを片づけます。 「同じパンでも、食べる場所と体の具合で味は変わります。雨の中で食べるパンと、店の中で食べるパンも違います」 「どっちがいいんですか」  トビアさんが尋ねました。 「どちらも大事です」  私は言いました。 「でも、安心して食べるパンは、なるべく多いほうがよいと思います」  三人は、今度は少しだけ穏やかな顔でうなずきました。 「さて」  リナさんが、小さく手を叩きました。  三人の背筋が伸びます。 「手も温まりましたね」 「はい」 「パンも食べましたね」 「はい」 「では、ギルドへ。正式報告、依頼品の受領、怪我の確認、報告手順の復習です」 「はい」 「それから、トビアさん」 「はい」 「そのきのこも」  トビアさんは、小さな袋を大事そうに持ち上げました。 「食べられますか」 「見てからです」 「毒ですか」 「見てからです」 「おいしいですか」 「見てからです」 「トビア」  ミーナさんが言いました。 「諦めよう」 「はい」  少しだけ、諦めたようです。  三人は財布を出しました。  丸パン三つと甘い薄焼きパン。  冷えた手で銅貨を数えようとしています。  リナさんが、それを止めました。 「今回は、ギルドで立て替えます。帰還直後の確認補助として処理します」 「いいんですか」  ルッツさんが尋ねます。 「今回だけです」 「ありがとうございます」 「次からは、まず報告」 「はい!」  返事はよく揃っています。  そのうち、行動も揃うとよいです。  私は残っていた丸パンを三つ、ひとつの包みにしました。 「これも持っていってください」 「またパンですか」 「報告書を書くと、お腹が空くことがあります」  リナさんがうなずきました。 「あります」 「字を書くのも仕事です」 「大事な仕事です」  ミーナさんが包みを受け取りました。 「ありがとうございます」 「今度は、報告のあとで来ます」  ルッツさんが言いました。 「お待ちしています」 「きのこは」  トビアさんが言いました。 「できれば拾う前に、ギルドの講習を思い出してください」 「拾う前」 「はい」 「わかりました」  少し不安です。  でも、一歩前進です。  主に、きのこ方面で。  三人はリナさんに連れられて店を出ました。  からん。  今度は、ちゃんとベルが鳴りました。  雨の中へ、四つの背中が出ていきます。  リナさん。  ルッツさん。  ミーナさん。  トビアさん。  朝より泥だらけです。  朝より疲れています。  朝より少しだけ、静かです。  でも、帰ってきた背中です。  それは、とてもよい背中でした。  扉が閉まると、店の中には雨の音と、少しだけ甘い匂いが残りました。  私は床を見ました。  泥。  水。  草の葉。  小さな枝。  靴跡。  たいへんです。  でも、少しだけ嫌ではありません。  生きて帰ってきた足跡です。  床は、拭けば戻ります。  私は布を取り、入口から順に拭き始めました。  森の泥は、街の床へ来ると少し居座りたがります。  困ります。  今日は少しだけ許します。  カウンターの下を片づけると、甘い薄焼きパンの小さな欠片がひとつ残っていました。  干し果物は入っていません。  ただの端です。  私は少し考えて、食べました。  確認です。  生地の焼き加減は悪くありません。  ただ、明日は少し工夫したほうがよさそうです。  私は仕込み板に書き足しました。  甘い薄焼きパン、多め。  干し果物、均等。  それから、少し迷って、もう一行。  きのこ注意。  まだ早い気もします。  ですが、遅いよりはよいでしょう。  雨はまだ降っています。  粉の荷も、まだ全部は届いていません。  明日の朝を考えると、少し難しいです。  でも。  ルッツさん。  ミーナさん。  トビアさん。  三人は帰ってきました。  私は床の最後の泥を拭き取り、布を絞りました。  店の中には、丸パンの匂いが残っています。  帰ってきた人がいる日は、それだけで少し店が明るく見えます。  私は開店中の札を見ました。  そろそろ閉める時間です。  もう少しだけ開けておくことにしました。  今度は、ちゃんと理由があります。

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