今無 ヅイ / 第5話

第5話 雨の日は、少しだけ

 雨の日は、ちょっとだけ思い出します。  濡れた革の匂い。泥を吸って重くなった裾。乾いた布を探す手。冷えた指先。扉の外で、足音が止まるまでの長い時間。  何を思い出すのかは、あまり言葉にしません。言葉にすると、形が決まってしまう気がするからです。  棚に置けるものなら楽です。  包み紙で包んで、名前を書いて、必要なら値段もつけられます。でも、そうできないものもあります。  そういうものは、少しだけ思い出して、それから横に置きます。  今日は、パン屋の仕事がまだ残っていますので。  最後のお客さんを見送ったあと、私は開店中の札を裏返しました。  店の床には、薄く泥の跡が残っています。さきほど一度拭いたので、あとは入口まわりを軽く仕上げれば十分です。  ルッツさん。  ミーナさん。  トビアさん。  三人がつけていった足跡は、もうほとんど消えていました。  それでよいです。  帰ってきた証拠を、床に残しておく必要はありません。  私は布を洗い桶へ入れ、厨房へ戻りました。  閉店後のパン屋は、明日のパン屋です。  まず、残りを数えます。  丸パン、二つ。黒麦パン、ひとつ。保存パン、三包み。  甘い薄焼きパンは売り切れ。  胡桃パンもありません。  次に、材料です。  白粉は少ない。黒麦粉はまだある。細挽き粉は少し。豆、塩、香草はあります。油は少なめですが、明日一日はもちそうです。  粉屋さんの荷は、まだ来ていません。  粉袋は歩いて来ません。  もう少し自立心があれば助かるのですが、難しいと思います。  私は仕込み板の前に立ち、明日の予定を書き直しました。  丸パン、少なめ。  黒麦パン、多め。  保存パン、六包み以上。  甘い薄焼きパン、少し。  胡桃パン、一つなら可。  きのこ注意。  最後の一行だけ、やはり少し浮いています。  仕込み板はパンの予定を書くものです。知らないきのこを焼く予定はありません。  でも、消しません。  ガルドさんには胡桃パンを二つ約束していました。  白粉の残りを見る限り、明日は一つが限界です。そのかわり黒麦パンをひとつ添えることにしました。  約束は、粉より軽く見えて、粉より重いことがあります。  たぶん、眉は動くでしょう。  そこは明日の私に任せます。  からん。  閉店後の店に、扉のベルが鳴りました。  入ってきたのはリナさんでした。外套の肩にはまだ細かな雨粒がついています。 「すみません。報告と、明日の相談だけ」 「どうぞ」  リナさんは入口でしっかり靴の水を落としてから、カウンターまで来ました。 「ルッツさんたちは、正式に依頼達成です。銀葉草は十束。怪我も軽傷でした」 「よかったです」  今度は、素直にそう言えました。 「ミーナさんの手も、ルッツさんの擦り傷も、洗浄と簡単な手当てで済みました。数日は無理をしないように伝えています」 「トビアさんは」 「きのこを鑑定してもらいました」  そこでしたか。 「毒ではありません。ただ、硬くて苦くて、食用にする意味がほとんどない種類だそうです」 「食べる意味があまりない」 「はい」  私は少し考えました。  たいへんよい言葉です。 「本人は残念そうでした」 「なぜでしょう」 「食べられるかもしれないと思っていたようです」 「食べないでくださいとは言いました」 「食べていないので、そこは褒めました」 「拾わないでくださいとも言いました」 「そこは指導しました」 「ありがとうございます」  トビアさんは、ちゃんと一歩ずつ学んでいます。  方向が少しきのこ寄りですが。  リナさんは書類鞄から、小さな紙を取り出しました。 「それから明日の朝ですが、雨で出発を延期した組がいくつかあります。南の森、東の丘、西の街道。朝にまとめて動きそうです」 「保存パンですね」 「はい。可能なら十包み。難しければ六包みでも十分助かります」  私は仕込み板と粉袋を見比べました。  六包みなら確実です。  十包みも作れなくはありませんが、その場合は店売りのパンがかなり減ります。朝の棚が、少し寂しくなります。 「六包みはできます。粉の小袋が今夜届けば八包み。大きな荷まで来れば十包みです」 「では、ギルドとしては六包みをお願いします。八包みできれば、追加で買い取ります」 「わかりました」 「無理はしないでください」 「無理ではなく、調整します」  リナさんが私を見ました。 「その言い方、少し信用できません」 「よく言われます」 「でしょうね」  失礼です。  ですが、反論しにくいです。 「乾パンならギルドにも備蓄があります。ただ、雨の翌朝に乾パンだけというのも」 「心が乾きます」 「少し」  乾パンは大事です。  命をつなぐには、とても頼りになります。  でも、命をつなぐものと、朝に人の顔を戻すものは、少し違います。  両方あったほうがよいです。 「明日は、三人にも追加講習をします」 「地図ですか」 「雨天時の地図の扱いと、報告手順。それから採取対象以外を不用意に拾わないこと」 「きのこですね」 「きのこです」  正式な講習項目になりました。  トビアさんは、一日でギルドの教育内容をひとつ増やしたようです。  なかなかできることではありません。  褒めてよいかは、わかりません。  リナさんを見送ったあと、私は粉を量りました。  足りないものを数える。  足りるものも数える。  白粉は少ない。  黒麦粉はある。  豆もある。香草もある。塩も水もあります。  私の手もあります。  眠気も少しあります。  最後のものは、数えないことにします。  黒麦粉と白粉を合わせ、保存パン用の生地を作りました。  保存パンは、派手なパンではありません。ふっくら甘いわけでもありませんし、窯から出した瞬間が一番おいしいパンでもありません。  でも、鞄の中で崩れにくい。  腹に残る。  時間が経っても、ちゃんとパンの顔をしている。  それが、このパンの仕事です。  私は生地を押し、畳み、向きを変えて、また押しました。  雨の日は、ちょっとだけ思い出します。  昔の私は、足りないものばかり数えていました。  何がない。  誰がいない。  どこへも行けない。  何も返せない。  そういう数え方です。  今の私は、粉を量ります。  水を量ります。  塩を量ります。  明日の保存パンを数えます。  足りないものは、今もあります。  でも、足りるものもあります。  その違いがあれば、明日のパンは焼けます。  私は六包み分の生地を仕込み、布をかけました。  これで最低限はできます。  あとは、粉が来れば増やせます。  来なければ六包みです。  できることを済ませると、少しだけ気持ちが軽くなりました。  からん。  また扉のベルが鳴りました。 「アステルさん!」  リオさんでした。  肩に小さな粉袋を担ぎ、髪も外套も雨で濡れています。  そして、息が上がっています。 「走りましたね」 「少しだけ!」 「少しだけ、は信用できません」 「すみません!」  私はまず粉袋を受け取りました。  布が二重に巻かれ、その内側には油紙があります。外側は濡れていますが、粉までは湿っていません。 「大丈夫です」 「よかった……」  リオさんが大きく息を吐きました。 「全部は無理でした。親方が、朝までのつなぎにこれだけ先に持っていけって」 「十分です。これで八包みにできます」 「本当ですか」 「はい」  小さな粉袋です。  でも、今の私にはたいへん立派に見えました。  粉袋は自分では歩いて来ませんでした。  リオさんが運んできました。  それなら、自立心がなくても許します。 「夕食は食べましたか」 「まだです」 「では、これを」  私は残っていた黒麦パンをひとつ包みました。 「帰ってから食べてください。歩きながらは駄目です」 「ありがとうございます」 「走りながらは、もっと駄目です」 「はい」  今日は長く引き留めません。  粉屋さんも、きっとまだ仕事が残っています。 「それから」 「はい」 「知らないきのこは拾わないでください」 「拾いません!」  たいへんよい返事でした。  私は少し安心しました。  リオさんを見送り、届いた粉を厨房へ運びます。  袋を開けると、粉の匂いがしました。  白く、やわらかく、少し甘い匂い。  雨とも、泥とも違います。  明日の匂いです。  私は仕込み板を書き直しました。  保存パン、八包み。  丸パン、少なめ。  黒麦パン、多め。  甘い薄焼きパン、少し。  胡桃パン、一つ。  黒麦パンを添える。  きのこ注意。  明日も開店。  十包みではありません。  棚も少し寂しくなるでしょう。  それでも、八包みできます。  できない十包みより、できる八包みのほうが役に立ちます。  私は届いた粉を合わせ、保存パン二包み分の生地を増やしました。  押す。  畳む。  回す。  また押す。  生地は少し重いです。  雨の日の生地です。  そう思えば、付き合い方もわかります。  最後の生地に布をかけたころ、外の雨はかなり細くなっていました。  私は灯りを落とす前に、仕込み板をもう一度見ました。  保存パン、八包み。  明日も開店。  きのこ注意。  雨の日は、ちょっとだけ思い出します。  でも今日は、思い出しただけではありません。  残りを数えて、明日のぶんを決めて、粉を受け取って、八包み分を仕込みました。  それなら、十分です。  私は白墨を置きました。  朝は、まだ来ていません。  でも、少しだけ近づきました。

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