白井黒也 / 第25話
第25話「早く契約してよ!」
二月も下旬。
朝晩の冷え込みは相変わらず厳しく、外へ出れば冷たい風が容赦なく吹きつけてくる。
それでも少しずつ日が長くなり、季節だけはゆっくりと春へ向かっていた。
そんな、とある日の放課後。
帰り支度を済ませ、席を立とうとしたところで、隣から声を掛けられた。
「結飛、ちょっと付き合いなさい」
「……なんだよ、急に」
鞄を手にした莉夢が、当然のように俺の前へ立っている。
「いいから。帰りにちょっと寄っていきましょ」
「どこに?」
「それは歩きながら考えるわ!」
「決めてないのかよ……」
呆れた声が漏れる。
相変わらずというか、なんというか。
「分かったよ。付き合えばいいんだろ」
「さすが結飛♪ 話が分かるじゃない」
「お前が強引なんだよ」
◇ ◇ ◇
俺と莉夢は、駅前のファストフード店に来ていた。
「ん~♪ やっぱり放課後のポテトは最高ね!」
「随分と幸せそうだな」
「当たり前でしょ。結飛も食べる?」
「いや、自分のあるからいい」
向かいの席でご機嫌にポテトを頬張る莉夢を眺めながら、俺も自分の飲み物に口をつける。
「そういえば結飛、何かやりたいこととかないの?」
「やりたいこと?」
「そう。どこか行きたいとか、何かしてみたいとか」
「急に聞かれてもなぁ……」
これといって思いつかず、俺は首を捻る。
すると莉夢は少し身を乗り出した。
「じゃあさ、何か欲しいものは?」
また随分と唐突な質問だ。
さっきから何が聞きたいのかよく分からない。
「お金とか、成績とか……あとは彼女が欲しいとか」
「最後のだけ随分具体的だな」
「た、例えばの話よ!」
莉夢は誤魔化すようにポテトを一本摘まむと、そのまま口へ放り込んだ。
別に欲しいものがまったくないわけじゃない。
新しい服だって欲しいし、金だってあるに越したことはない。
けれど、改めて聞かれると、すぐには思いつかなかった。
「で、どうなの?」
「どうって言われてもな……」
「何かあるでしょ? これだけは絶対に叶えたいって願いの一つくらい」
「……願い?」
その言葉に引っかかり、俺は莉夢を見る。
莉夢はポテトを持ったまま、じっと俺の返事を待っていた。
欲しいものではなく、叶えたい願い。
そこまで考えて、ようやくこいつの意図が見えてくる。
「お前、もしかして契約の話してる?」
「そうよ♪」
莉夢は待ってましたとばかりに笑みを浮かべた。
「どんな願いでも、この莉夢ちゃんが叶えてあげるわ。だから――私と契約しない?」
「しない」
「もー!!」
莉夢が不満そうに頬を膨らませる。
その反応も、以前なら何度となく見てきたものだった。
だけど――こうして莉夢と契約について話すのは、なんだか久しぶりな気がする。
「本当に何もないの?」
「魂と引き換えにしてまで叶えたい願いなんてないよ」
「むぅ……」
莉夢は考え込むように、手元のポテトへ視線を落とした。
「だったら、私が見つけてあげるわ。結飛がどうしても叶えたい願いをね!」
「前にもそんなこと言ってなかったか?」
「いいの! 今度こそ見つけるんだから!」
「はいはい」
適当に返しながら、飲み物に口をつけた。
まあ、莉夢が契約に拘るのは今に始まったことじゃない。
久しぶりにその気になっただけだろう。
◇ ◇ ◇
翌日――。
学校を出た俺と莉夢は、いつものように並んで帰り道を歩いていた。
「ねえ結飛。昨日の話、何か思いついた?」
「昨日の話?」
「願いよ、願い。何か一つくらいあるでしょ?」
「ああ……まだその話してたのか」
「まだって何よ! ちゃんと考えなさいよ!」
「なんで俺が契約するために考えなきゃいけないんだよ……」
昨日は久しぶりにその気になっただけだと思っていたけど、どうやら莉夢はまだ諦めていないらしい。
「……じゃあ、なんでそんなに嫌なのよ」
「は?」
思いがけない言葉に、隣を歩く莉夢へ目を向ける。
今まで何度も契約を迫られてきたけど、そんなことを聞かれたのは初めてだった。
「契約よ。結飛って、最初からずっと嫌がってるじゃない」
「そりゃ嫌だろ。願いを叶えてもらう代わりに、死んだら魂を渡すんだぞ」
「でも、その代わり願いは何でも叶うのよ?」
「それでもだよ」
その考えは、莉夢と出会った頃から変わっていない。
きっぱり答えると、莉夢はしばらく黙り込んだ。
視線を前へ戻し、俺の隣を歩き続ける。
「……ほんと、頑固なんだから」
やがて、莉夢が小さく呟いた。
「お前にだけは言われたくない」
そう返したものの、いつものように言い返してはこなかった。
昨日から、やけに契約に拘るな。
◇ ◇ ◇
そして、さらに翌日――。
放課後、靴を履き替えて昇降口を出ると、冷たい風が吹きつけてきた。
隣では莉夢が寒そうに肩をすくめながら、俺と並んで歩いている。
けれど、今日はいつもより妙に静かだった。
「ねえ、結飛……やっぱり、私と契約する気はない?」
「またその話かよ」
「いいじゃない。聞くだけなら」
「昨日も聞いただろ」
「昨日は昨日。今日は今日よ」
「そんな毎日聞かれても、答えは変わらないって」
俺がそう返すと、莉夢は少しだけ眉を寄せた。
「何か一つくらいないの? 私と契約してもいいって思える理由」
「ないよ。何度聞かれても、契約するつもりはない」
「……そう」
莉夢はそれ以上何も言わず、前へ視線を戻した。
昨日も、一昨日も同じ話をしていた。
久しぶりにその気になっただけだと思っていたけど、三日続けてとなると話は別だ。
それに――いつもの莉夢なら、断ればもっと食い下がってくる。
こんなふうに、あっさり引き下がったりはしない。
ここ数日感じていた小さな引っかかりが、はっきりとした違和感に変わる。
「……なあ、莉夢」
「なによ」
「お前、やっぱりなんかあっただろ」
「は? 別に何もないわよ」
莉夢はそう言って、俺から顔を逸らした。
「何もないわけないだろ。最近まで契約の話なんてほとんどしてなかったのに、ここ三日ずっとその話ばっかりじゃないか」
「何よ。私が契約の話をしたらおかしいわけ?」
「そういうこと言ってるんじゃない」
「じゃあ、どういうことよ」
莉夢の声が少し強くなる。
俺が聞きたいのは、ここ数日の莉夢に何があったのかだ。
「何か理由があるんじゃないのかって聞いてるんだよ」
「だから、何もないって言ってるでしょ!」
「だったら、なんでそんなにムキになってるんだよ」
「っ……!」
莉夢が言葉を詰まらせる。
俺たちの間に、それまでとは違う沈黙が落ちた。
さっきまで少し前を歩いていた莉夢も、今は俺の隣で足を止めている。
俯いたまま、何かを堪えるように唇を結んでいた。
別に、言い争いたいわけじゃない。
ただ、ここ数日の莉夢は明らかにいつもと違う。
それを何でもないと言われて、そのまま放っておく気にはなれなかった。
「……別に、怒ってるわけじゃないんだ」
さっきより声を落として、莉夢に話しかける。
「ただ、急にどうしたんだって気になってるだけだよ。何かあったなら、ちゃんと言ってくれ」
「……」
冷たい風が吹き抜け、長い髪を揺らしていく。
しばらくして、莉夢は小さく息を吐いた。
「……時間がないのよ」
「え?」
「だから……もう、あんまり時間がないの」
さっきまでの強い口調とは違う。
消え入りそうな声に、思わず莉夢の顔を見つめた。
「……どういうことだよ?」
「魔界から連絡が来たの」
莉夢は俯いたまま、ぽつりと答えた。
「私が受けてる試験、覚えてるでしょ?」
「ああ。俺を堕落させて、契約するってやつだろ」
「そう。その試験の期限が、もうすぐなの」
「期限……?」
そんなものがあるなんて、今まで聞いたことがなかった。
「期限までに結飛と契約できなかったら、試験は不合格。それで……私は魔界に帰らなきゃいけない」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
莉夢が魔界から来た悪魔なのだから、帰ること自体は何もおかしくない。
最初からずっと、こいつは試験のために人間界へ来ていたんだから。
それなのに――莉夢がいなくなる。
そう考えた途端、胸の奥がざわついた。
学校へ行けば隣の席にいて、放課後になれば当たり前のようについてきて。
くだらないことで言い合って、いつの間にか一緒にいることが日常になっていた。
その莉夢が、いなくなる。
「……いつなんだよ」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「あと一週間」
「一週間……?」
聞き返すと、莉夢は黙って頷いた。
いざ残された時間を突きつけられると、一週間というのはあまりにも短く感じた。
「そんなに急なのかよ」
そこで、ここ数日の莉夢の行動にも納得がいった。
「だから契約の話ばっかりするようになったのか」
「……うん」
莉夢は俺と目を合わせようとしなかった。
それなら、一つだけ疑問が残る。
「だったらさ、俺じゃなくてもいいんじゃないのか?」
「……え?」
「試験って、人間と契約すればいいんだろ? だったら残りの一週間で、別の誰かを探せば――」
「それは嫌」
さっきまで俯いていた莉夢が顔を上げる。
けれど、その先の言葉はなかなか出てこなかった。
「なんでだよ」
「……とにかく嫌なの。私は結飛と契約するって決めたんだから」
「でも、このままだと試験に落ちるんだろ?」
「それでも嫌なものは嫌なの!」
莉夢は強く言い切ると、そのまま俺に背を向けた。
「お、おい、莉夢?」
「もう知らない!」
呼び止める間もなく、莉夢は駆け出していく。
「ちょっと待てって!」
慌てて声を掛けたけれど、莉夢は振り返らなかった。
そのまま遠ざかっていく背中を、追うこともできずに見つめていた。
「……なんなんだよ」
どうして、そこまで俺に拘るのか。
それも気になった。
けれど今は、それ以上に頭から離れないことがある。
あと一週間で、莉夢は魔界へ帰るかもしれない。
その事実を前にして、どうすればいいんだろう。
いくら考えても、今の俺には答えが出なかった。