白井黒也 / 第27話

第27話「言えなかった言葉」

あの日を境に、莉夢は俺の前から姿を消した。 それから数日が経った。 担任からクラスのみんなに告げられたのは、親の急な転勤で莉夢が転校することになった、という話だった。 もちろんそんなものは嘘で、本当の理由を知っているのは俺とセシリア先生くらいだろう。 莉夢は悪魔の試験に合格できず、魔界へ帰った。 教室では、これまでと変わらない日常が続いている。 クラスメイトたちはいつものように話し、チャイムが鳴れば授業が始まる。 ただ一つ変わったのは、俺の隣だった。 ふと目を向けた先に、莉夢の姿はない。 授業中だというのに平然と話しかけてくる声も、退屈そうに頬杖をついている姿もなく、そこには空っぽの席だけが残されている。 俺はその席から逃げるように窓の外へ視線を移すと、青い空には白い雲が流れていた。 あいつなら、こんな空を翼を広げて飛んでいたんだろうか。 そんなことを考えてしまい、俺は息を吐いた。 ◇ ◇ ◇ 放課後。 中庭のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めていた。 昼間は青かった空も、今は沈みかけた夕日に照らされ、茜色に染まり始めている。 校舎から聞こえていた生徒たちの声も少しずつ遠ざかり、中庭には静かな時間が流れていた。 別に、ここに用があったわけじゃない。 すぐに帰ってもよかったのに、なんとなくそんな気分にはなれなかった。 このまま家に帰って、いつも通りに過ごす。 けれど、突然窓の外から莉夢が現れることも、当たり前のように俺の部屋へ上がり込んでくることも、もうない。 「隣、よろしいですか?」 聞き覚えのある声に目をやると、そこにはセシリア先生が立っていた。 「……どうぞ」 俺が少し横へ詰めると、セシリア先生は空いた場所に腰を下ろした。 それからしばらく、どちらも何も話さなかった。 俺と同じように夕暮れの空を眺めていたセシリア先生が、やがて静かに口を開く。 「……行ってしまいましたね」 「そう、ですね」 誰のことを言っているのか、聞き返す必要なんてなかった。 「随分と静かになってしまいました」 「あいつ、うるさかったですからね」 いつもなら、もっと呆れた調子で言えたはずだった。 けれど今は、自分でも分かるくらい声に力がない。 セシリア先生はそんな俺を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。 再び沈黙が訪れ、夕暮れの中庭に遠くから運動部の掛け声だけが響いてくる。 しばらくして、セシリア先生がぽつりと尋ねた。 「お別れは、ちゃんとしましたか?」 「…………」 その問いに、すぐ答えることができなかった。 遊園地に行った日のことは、鮮明に覚えている。 観覧車を降りてからも、莉夢はいつもと変わらなかった。 俺もなるべく普段通りに振る舞って、最後までいつもの俺たちでいようとした。 けれど、結局――。 「……できなかったんです」 ようやく出てきた言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。 「ちゃんと別れようとは思ってました。最後くらい、いつも通りに送り出そうって。でも……できませんでした」 「あいつが魔界に帰ることは分かってたんです。だから、最後くらいちゃんとしなきゃって……そう思ってたのに」 そこまで口にしたところで、胸の奥に押し込めていたものが少しずつ溢れてくる。 「契約しなかったことを後悔してるわけじゃありません。あそこで契約したら、きっと違うと思ったから」 それだけは、今でも変わらない。 俺が望んでいたのは、契約なんかで莉夢を縛ることじゃなかった。 膝の上で組んでいた手に、自然と力が入る。 「でも……もっと、ちゃんと言えばよかった。莉夢に伝えなきゃいけないこと、他にもあったのに……俺、何も言えなかったんです」 口にするたび、これまで曖昧だった気持ちが少しずつ形になっていく。 あいつがいなくなってから、何度も考えた。 どうしてあんなに離れたくなかったのか。 どうして契約なんかじゃなく、莉夢自身の意思でそばにいてほしかったのか。 「俺……あいつのこと、好きだったんです」 初めて、その気持ちを言葉にした。 「好きだったから、一緒にいたかった。契約とか、悪魔とか、そんなの関係なくて……ただ莉夢に、そばにいてほしかった」 もう少し早く気づいていれば……いや、きっと気づいていた。 それを認めて、言葉にすることができなかっただけだ。 「なのに俺、最後まで言えなかったんです。好きだって……たったそれだけのことが」 声が震えそうになり、唇を噛んだ。 セシリア先生は慰めるでもなく、励ますでもなく、ただ黙って俺の言葉を聞いてくれていた。 やがて、握っていた拳から力を抜くと、大きく息を吐いた。 「……すみません。こんなこと、先生に言っても仕方ないですよね」 「いいえ。仕方のないことではありませんよ」 セシリア先生は穏やかな声でそう答えると、俺の方へ身体を向けた。 「私は天使ですが、一教師でもあります。生徒の悩みを聞くのも大事ですから」 「……先生らしいこと言うんですね」 「失礼ですね。私はいつだって立派な教師ですよ」 少しだけ不満そうに返すその姿は、いつものセシリア先生だった。 さっきまで抱えていたものを吐き出したせいだろうか。 そんなやり取りをしていると、張り詰めていた気持ちも、少しずつほぐれていく。 セシリア先生は再び正面へ向き直ると、夕暮れに染まった空を見上げた。 「それに、莉夢さんは別れを告げれば、辛くなってしまうと思ったのかもしれません」 「莉夢が……?」 「ええ。だからこそ、あえて何も言わずに去ることを選んだのではないでしょうか」 俺もつられるように空へ目を向ける。 別れを告げたら、辛くなる。 そんなの、俺だって同じだった。 もし莉夢が目の前で「さよなら」なんて言っていたら、俺はちゃんと送り出すことができただろうか。 あの時の自分を思い返してみても、とてもそうは思えなかった。 だからといって、何も言わずにいなくなっていい理由にはならない。 「……勝手な奴だ。突然現れて、突然去っていくんですから」 口から出たのは、そんな憎まれ口だった。 けれど、不思議と莉夢を責める気にはなれない。 「そうですね。そこも含め、駄悪魔ですね」 「……先生、最後くらいもう少しいい言い方してやってくださいよ」 「嫌です」 間髪入れずに返ってきた。 あまりにもいつも通りの答えに、思わず小さく笑ってしまう。 莉夢がいなくなってから、こんなふうに笑ったのは初めてだった。 それからしばらくして、俺たちはベンチを立った。 「それでは、私は職員室へ戻りますね」 「はい……ありがとうございました」 「どういたしまして。少しでも気持ちが楽になったのなら、教師として何よりです」 そう言って、セシリア先生は校舎の方へ歩いていく。 その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、俺も鞄を肩に掛け、中庭をあとにした。 話を聞いてもらったおかげか、さっきまでより足取りは少しだけ軽くなっていた。 それでも、莉夢がいなくなったという事実は変わらない。 その日は寄り道もせず、一人で家へ帰った。
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