MIYA / 第39話

第39話 取下げ

 役場から便利堂へ電話が入ったのは、昼前だった。  地下書庫の棚が一台、壁から浮いているという。  「中の書類はこちらで出します。透さんは棚だけ触ってください」  地下へ下りながら、楓が先に言った。  「わかってる」  「前にも同じこと言いましたよね」  「何の話だ」  「公図を見たがったときです」  「見てない」  「見ようとはしました」  透は返さず、階段を下りた。  地下書庫には暖房が入っていなかった。壁際に並んだスチール棚の一つがわずかに前へ傾き、上側の固定金具が浮いている。  役場の職員が中身を別の棚へ移すまで待ち、透は脚立を立てた。  「今日直ります?」  楓が訊く。  「壁の中まで駄目になってなければ」  「駄目だったら?」  「別の日」  「今日直るほうでお願いします」  「俺に頼むところじゃないだろ」  楓はファイルを抱えたまま黙っていた。  透は金具を外した。穴が広がっているだけで、壁自体には問題なさそうだった。位置を少しずらせば固定できる。  工具箱から部品を出したところで、向こう側の棚が目に入った。  古い冊子が年代順に並んでいる。  町議会会議録。  背表紙に記された年を追っているうちに、黒瀬が口にした数字を思い出した。  十六年前。  「楓」  「はい」  「あれ、見られる?」  楓が視線を追った。  「会議録ですか?」  「十六年前の」  「公開扱いの資料なので、閲覧はできます」  そこで楓が透を見る。  「黒瀬さんですか」  「なんでわかる」  「十六年前なんて急に言い出す理由、今の透さんにはそれくらいしかないでしょう」  透はねじを締めた。  「修理終わってからな」  「それはこっちの台詞です」            ※  棚の固定を終えると、楓は閲覧用の机へ古い会議録を持ってきた。  「念のため言いますけど、これは公開されている資料だから出せます」  「わかってる」  「個人の記録は別です」  「頼んでないよ」  「先に言ってます」  楓は冊子を机へ置いた。  透は十六年前の目次から黒瀬巌の名を探した。  時間はかからなかった。  当時の議員名が並ぶ頁に、黒瀬の名前がある。  「議員だったんだな」  「そのころは、ですね」  楓はそれ以上説明しなかった。  透は祖父の控え帳にあった、もう一人の名前をメモに書いた。  十六年前に亡くなり、最後の言葉を黒瀬へ届けた人物だ。  「この人も探せる?」  楓は紙を受け取った。  「何の人です?」  「知らない」  「透さんが?」  「爺さんの帳面に名前があっただけだ」  楓はメモを返した。  「会議録に出ているかどうかなら、索引で確認できます」  二人で数冊を開いた。            ※  先に見つけたのは楓だった。  「これじゃないですか」  透が名前を確かめる。  同じだった。  陳情の一覧に提出者として記載され、その隣の紹介議員欄に黒瀬巌とある。  透は本文の該当頁を開いた。  河岸側の道路改修について、町へ対応を求めた陳情だった。  細かな事情までは読まず、まず日付と名前を確認する。  祖父の控え帳に並んでいた二人が、役場の記録にも並んでいた。  「知り合いだったみたいですね」  楓が言った。  「少なくとも、この件ではな」  黒瀬がなぜ最後の言葉の宛先になったのかまではわからない。  ただ、死ぬ直前になって突然名前を出した相手ではなかった。  透は次の頁を確認した。  「この陳情、どうなった?」  「その年は継続になってます」  「翌年は?」  楓が隣の棚を見た。  「待ってください」  次の年の会議録を机へ運び、同じ項目を索引から探す。  しばらく頁をめくったあと、楓の指が止まった。  「あります」  透は隣から覗いた。  同じ陳情だった。  処理欄には「取下げ」と記されている。  日付は八月。  透はその数字を見た。  十五年前の八月だった。            ※  少し前に開いた祖父の控え帳を思い出した。  十五年前の巻。  七月までは記録があり、八月から九月にかけて空白になっていた。  透は会議録の日付をもう一度確認した。  「透さん?」  楓が呼んだ。  「うん」  「何かあります?」  「爺さんの帳面も、このころだけ記録がない」  楓は会議録へ目を落とした。  「同じ八月?」  「そう」  それだけ伝えた。  陳情が取り下げられたことと、祖父が何も書かなかったことに関係があるとは限らない。  黒瀬自身が取り下げたのかどうかも、この頁だけではわからなかった。  楓は会議録を閉じずに言った。  「コピーします?」  「ああ」  「申請だけ書いてください」  透は渡された用紙へ必要事項を書いた。            ※  複写を待っているあいだ、楓は元の冊子を棚へ戻した。  「この先は、出せるものと出せないものがありますからね」  戻ってくるなり言う。  「わかってるって」  「住民票とか戸籍とか、そういう方向へ行かないなら大丈夫です」  「行かない」  「ならいいです」  楓は机の端を指で二度叩いた。  透には、その線を越えて何かを頼むつもりはなかった。  公開されているものを読む。  本人が話さないことまで追いかけるとしても、今はそこまでだった。  「透さん」  「何」  「昼は?」  「まだ」  楓が壁の時計を見る。  透もつられて見た。  二時を回っていた。  「棚の修理、終わったの何時でした?」  「知らない」  「十一時半です」  「そんな前か」  楓は複写機から出てきた紙を揃えた。  「食堂まだ開いてますよ」  「便利堂戻る」  「食べてから戻ってください」  「役場の仕事?」  「違います」  返事はすぐだった。  コピーを受け取り、透は結局食堂へ向かった。            ※  便利堂へ戻ると、千鶴が机で菓子を食べていた。  「遅かったですね」  「役場」  「棚の修理にしては長くないですか」  透は会議録のコピーを机へ置いた。  千鶴が袋を閉じた。  「やっぱり何か見てきたんじゃないですか」  「公開資料だよ」  「そこ強調しますね」  「大事だからな」  十六年前の祖父の控え帳を出し、該当する行を開いた。  亡くなった男から、黒瀬へ。  その二人の名前が、同じ年の町議会の記録にも残っている。  千鶴はコピーを読んだ。  「この陳情を黒瀬さんが議会に持っていったんですか」  「紹介議員になってる」  「で、次の年に取下げ」  「うん」  千鶴が日付を見る。  八月。  透は十五年前の帳面を出さなかった。  空白の時期はもう覚えていた。  会議録のコピーだけを折らずに、十六年前の控え帳へ挟んだ。  その年の記録には、黒瀬の名が一度だけ残っていた。

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