逸漣 / 第59話
第34話 秘密のドレス
採寸は午後の光がやわらぎ始めたころに始まった。
大きな窓から差し込む冬の終わりの陽は白く淡く、裁縫室の空気を冷たいまま照らしている。火鉢の火はパチパチと可愛らしく爆ぜ、部屋には布と紙の乾いた匂いだけが残っていた。
百合子はシミーズ一枚のまま、ボディ台の横に立っていた。
細い肩にかかる黒髪が、わずかに震えた。
「では、失礼いたします」
麗奈はそう告げて、細いメジャーを手に取った。
声はいつもと同じ穏やかさを保っていたが、指先だけがわずかに硬かった。
首元にメジャーを回すために近づくと、互いの呼吸が触れそうなほどの距離になる。
麗奈は視線を落とし、目盛を読み取った。
「三十三……」
小さく呟き、手の甲にメモをした。
その麗奈の顔を、百合子は息を詰めて見下ろしていた。
伏せた睫毛は長く、緩やかに反って影を落としている。
真剣な表情はいつもより大人びて見え、見慣れているはずの顔立ちが、なぜか知らない人のように思えた。
肩からバストへとメジャーが滑る。
布越しにかすかに触れる指の感触に、百合子の喉が小さく鳴った。
声を出してはいけないと思うほど、その音ははっきりと自分の耳に届く。
麗奈は気づかないフリをして、ただ淡々と数字を追う。
「百合子さん、バンザイしてくださいな」
百合子は言われるまま、両手を上にまっすぐ上げる。麗奈は背中に手をまわし、胸囲を測る。その慣れた手つきとメジャーがすり抜ける音──百合子は背筋に走る痺れを堪えて平静を保つ事だけに集中する。
──ただの採寸よ。
百合子は視線を遠くに投げ、意識を「ここ」から壁の向こうへと飛ばした。
次はウエストを測るため、さらに二人の身体と身体が近づく。
メジャーを引き締めるとき、二人の間にあったわずかな空間が消えた。
百合子は頬を染め、遠くに飛ばしたはずの視線がまた「ここ」に戻っているのに気づいた。
視界の端には必ず麗奈の姿が入り込んでいた。
すべての採寸が終わるころには、部屋の空気は湿度を増し最初よりも重くなっていた。
「……終わりましたわ」
麗奈は静かにメジャーを巻き取り、手の甲の数字を帳面に書き写す。
「百合子さん、アトリエにお戻りになって……絵の続きを描いてくださって大丈夫ですわ」
「えっと……あ……」
曖昧な返事のまま、百合子は……なぜだか動けない。
何かを待つように、その場に立ち尽くしていた。
麗奈はその様子を見て、わずかに息を吐いた。
百合子の乱れた髪を整えるように指を差し入れ、額の前で手を止める。
「では、また夕食まで……お励みくださいませ」
その言葉とともに、麗奈は百合子の額へそっと口づけた。
触れたのはほんの一瞬だけだったのに、百合子の頬はさらに熱を帯び、足元が覚束なくなる。
ふらつくようにして百合子は二階のアトリエへの階段を登る。その背を、麗奈は何も言わず見送った。
静まり返った裁縫室に残り、麗奈は作業台へ戻った。
型紙の線を見直し、鉛筆でわずかな修正を加えた。
頭の中には、先ほど測った数値が正確に並んでいる。
百合子の身体は、麗奈より小柄で、薄い。軽く抱き寄せれば折れてしまいそうなほど繊細だった。
無意識のまま、ピンで留めた布をまとったボディを抱きしめる麗奈。
布越しの冷たい感触が、先ほどの体温と混ざり合う。
春を待つ二月の終わり。
ドレスはあと、百合子の分を仕立てるだけだった。
秘密の結婚式の情景を思い浮かべると、喉の奥でかすかな旋律が生まれかける。
しかし麗奈はそれを声にする前に、静かに飲み込んだ。
針を取り上げ、再び布へと向き直る。
二人の春を迎える為の手仕事は、一針一針、楽しむように踊っていた。