逸漣 / 第46話

第25話 雨に濡れて

 朝から雨がシトシトと、まるで絹糸のように降り続いている。窓に打ちつける雫は淡く反射し、昼の光を柔らかく散らす。雨音が部屋に絶え間なく響き、薄暗い静かなリズムとなって二人を包み込む。  昨日の夜の興奮の分だけ、麗奈の落胆は大きく、ベッドから起き上がる気力もなかった。  百合子はお弁当のバスケットを抱え、そっとベッドの横に腰を下ろした。 「仕方ないじゃない。お弁当でも食べない?お家で食べても麗奈のご飯は美味しいわよ」  悲しい気持ちで百合子を見つめていると、ぽつり、ぽつりと、麗奈の中の雨の記憶が零れ落ちた。 「……実家は伊豆で農家をしていましたの。貧しい家で……雨が降ると作業が出来ない父親は安酒をさんざんぱら飲み、私や弟たち、母親に暴力をふるうの。雨が降ると思い出して……憂鬱な気持ちになるんですの」  麗奈の髪を優しく撫でながら、百合子は静かに相槌を打つ。雨音の間に混ざる二人の息遣いは、互いにじんわりと伝わる。  同情ではなく、ただ受け止められる心地よさに、麗奈の胸が少し温かくなるのを感じた。 「特に昨日は楽しみで楽しみで……高揚していたから、いつもより落ち込んでしまって」  百合子は麗奈の髪をそっとかきあげ、頬に触れる優しい口づけの雨を降らす。耳の奥に届く様な、ちゅっと鳴る優しい雨──。 「麗奈の雨の思い出を、ワタクシが書き換えてもよろしいかしら」  百合子の問いかけに麗奈は瞬きをひとつ、唇をわずかに震わせた。 「……書き換えて、くださるのですか……?」  そのかすれた声は、シトシトと降る雨音に溶けてしまいそうなくらい小さかった。   「……百合子さん」  麗奈の声は、戸惑いと期待の間で揺れていた。吐息は湿った空気の中で確かに熱を帯び、雨粒が窓ガラスに当たる音と呼吸が混ざり、互いの鼓動を包み込む。  長い口づけの後……そっと唇が離れると、百合子の唇は首筋へ──雨のしずくのように、柔らかく、ゆっくりと麗奈を濡らしていく。  麗奈の指先は無意識にシーツを握りしめ、体が小さく震えた。  百合子の手が麗奈の背をなぞり、薄布越しに体温を確かめるたび、息遣いはさらに湿り気を帯び、互いの吐息が絶え間なく絡み合う。  外では雨風が強くなり、木が大きく揺れる影をつくる。窓ガラスを伝う雫は絶え間なく滴り落ち、部屋全体に静かで湿った色彩を描く。  部屋の中は、二人の息遣いと体温で確かに熱を帯び、雨音さえも熱を帯びた囁きのように聞こえる。  百合子は一度、麗奈の瞳を見つめた。その瞳は「もう後戻りしない」と告げるように光った。  麗奈も小さく頷き、そっと目を閉じる── 「……麗奈」  二人の間に残された隙間は消え、太腿が触れ、膝が絡むたび、体の奥に熱が集まる。呼吸は短く、深く、互いの吐息は甘さと湿り気を帯びて混ざり合う。  互いの体温が溶け合い、外の世界は雨音だけに遠ざかる。この瞬間だけが永遠のように続けばいいと、二人は同じ願いを抱いた。  全てを委ね、全てを受け入れた時、雨の日の記憶は確かに塗り替えられた。  ――甘く、熱く、決して忘れられない初夏の正午。

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