逸漣 / 第36話

第20話 過去という茨(2)

 朝起きると、百合子は麗奈を抱きしめたままの形でスヤスヤと眠っていて、子供みたいな寝顔をしていた。 「可愛い……夢の中では、お母さんだったのに」  麗奈は百合子の毛布と布団を直して、ベッドを降りた。  ──朝餉を作ろう。ちゃんと、元気に暮らそう。このまま閉じこもっていたら、山岸に負けた気がする──  麗奈はいつも通りメイド服に着替え、身支度をする。いつも通り、階段を静かに降りる。いつも通り台所に立ち、いつも通り豆腐とワカメの味噌汁を作る。いつも通りネギを刻む……「痛っ」    いつも通りじゃない、指先の痛みと滲む赤い血。  ──嫌、負けたくない──  麗奈は左人差し指を口に含んだ。    午前中と午後に、蕎麦屋のお兄さんは通り、声を掛けてくれた。  麗奈は玄関側の窓を少し開け、ミシンをカタカタと踏んでいた。百合子は二階のアトリエで絵を描いていた。  麗奈は気が気でないのに、いつも通りみたいな日を送ろうとしていた。  幸いこの日は何も無く一日を終えることが出来た。  山岸が訪れたあの日から五日目、裁縫部屋の少し開いた窓を覗く男が現れた。  ……山岸だった。 「きゃぁぁぁぁぁ!」  麗奈の悲鳴が自然に笛のように鳴り、百合子がそれを聞きつけて二階から降りてきてしまった。 「おい、売女。玄関を開けろよ」  麗奈が木枠の窓を閉めようとしても、山岸が力任せに開けようとし、窓はガタガタと音を立てるばかり。 「麗奈、どうしたの!」 「そっちもべっぴんさんだな。よぉ、一緒に可愛がってやろうか」  男はニヤリと笑い、窓が枠から外れガラスが飛び散った。『ガシャン!』という大きな音に緊張が走り、身体が固まってしまう二人。  ──百合子を守るためなら、私が身を挺してでも──  その時、百合子が咄嗟に手にした箒で「小手!」と言いながら窓から差し入れた手を叩き、叫んだ。 「警察を呼んだわ、器物破損の現行犯よ!」  恐怖に震えながらも百合子の視線は強く、覚悟が滲む。胸の奥がじんわり熱くなり、メイドが主人を守るべきなのに、百合子の勇気に麗奈の目が潤んだ。  百合子の声に、近所の人が集まって来た。 「貴様、何者だ?女の家に押し込むつもりか」  髭を蓄えた老人が、着物をたくし上げ駆けつけてくれた。 「ちょっとぉ、ガラス割れてるわよ!お巡りさん、こっち、こっちー!」 と隣の家のおばさんがお巡りさんを呼んで、お蕎麦屋さんと共に走ってきた。   「麗奈になにかしたら、ワタクシが許さないわ!」   百合子の声は震えているが、全身から揺るがぬ決意が伝わってくる。  山岸は一瞬怯み、苛立ちを滲ませながらも、力で押し切れないことを悟った。 「あー、めんどくせぇな」  と怒鳴り、山岸はしぶしぶ手を抜いた。  その後、駆けつけたお巡りさんに山岸は交番に連れていかれた。  山岸には妻子があり、大きな会社の社長だったため、ガラス代を弁償し二度と麗奈と百合子に近づかないと念書を書いたそうだ。  玄関先で警察の報告を聞き、二人は頭を下げて見送った。  警察が帰った後、玄関で百合子は麗奈の肩をそっと抱き寄せた。    その手から百合子の恐怖と緊張が伝わってくる。 「麗奈……強くは無いけれど、ワタクシがあなたを守りますから。安心なさって」  早まる呼吸を整えようと、二人で深呼吸を繰り返す。  百合子の頬を伝う雫に、麗奈の胸が痛む。指でそっと拭い、髪を梳かす。額を重ねる瞬間、互いの鼓動と吐息が溶け合い、恐怖と緊張が少しずつ解けていった。  百合子は声が震えるのを抑えながら、電話で弁護士に相談しておいた。 「これで……終わってくれると良いのだけれど……」   麗奈は割れたガラスを片付け、カレンダーの紙を二重に重ねテープで貼り付けた。  指先でテープを滑らせながら、ため息が漏れる。  ガラス屋さんは明日、直しに来てくれることになった。  ◇  夜が訪れ、暖炉の火が赤く揺れる。  ソファに腰掛ける二人の輪郭を、柔らかな影が縁取っていた。  百合子は麗奈の傍を片時も離れず、手を握り合う。震えていた二人の指先も少しずつ柔らかさを取り戻していく。  麗奈は百合子の肩に頭を乗せ……声を震わせた。 「百合子さん、本当にごめんなさい。私の過去が……この幸せな生活を壊されてしまうのではないかと……」  小さな声でつぶやく麗奈の髪を指先で梳かしながら百合子は微笑んだ。 「謝らないでいいのよ。ワタクシは麗奈さえ傍に居てくれたら幸せなの。怪我もなく、大事にならなくて良かったわ」  二人は少しの間、火の揺らめきだけを見つめていた。  山岸と対峙した麗奈、箒で戦おうとした百合子。互いを守ることだけを考えて行動したことが、胸に深く響く。  その一方で、男性に暴力を振るわれたら抗えない非力さも痛感する。安全なはずの我が家の脆弱さが露呈した事件の影が、静かに落ちる。 「なにか家を強くできないかしら」 「窓なんてカレンダーで塞いでますし、心許ないですわね」  あんなに怖がっていたのに、二人は何故か笑えてしまう。 「こんなに温かい町なんですね……百合子さん」 「ワタクシは絵ばかり描いていて、知らなかったわ。ご近所付き合いは母親とばあやに任せきりだったから……」 「明日、ご近所のみなさんに配るお菓子を作りましょう」と麗奈が提案すると、百合子は喜び、二人は微笑み合った。    火の揺らぎがゆっくりと部屋を照らす中、二人は手を重ね、吐息を感じ合い、心を静かに鎮めた。  恐怖を乗り越えた余韻が、まるで日常の柔らかい光のように二人を包み込む。  その夜、外の風も遠く、暖かさと二人がいつも通りでいられる幸福が居間に残った。

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