逸漣 / 第35話

第19話 過去という茨(1)

 夕餉の食材を買いに出かけた麗奈は、商店街でふと、人混みの中に見覚えのある影を見つけた。その男の視線が自分を追っていることに気づいた瞬間、心臓が跳ねた。  遠回りして帰ったにも関わらず、男はさも自然に麗奈を追いかけ、家までついてきてしまった。玄関を施錠しても背筋が凍り、その場に立ち尽くしていた。  玄関の戸を隔てて、男の低く緊張感のある声が響いた。 「おまえ、麗奈だろ。覚えていないか?俺だよ、良く買ってやった山岸だよ」  麗奈は息が詰まり、背中にじんわり汗が滲んだ。心の中で恐怖と怒りが渦巻き、理性で押し留めようとするが、体は固まったまま動けなくなる。 「また……以前のように楽しみたい。金なら払う」  下衆な笑い声と荒い息遣いが、戸越しでも生々しく絡みつき、麗奈の喉元が鋭く締め付けられた。 「おまえ、戦争成金に買われたと聞いたけどよ、あの爺さん死んだんだってな。そろそろお前も身体が寂しい頃だろ?」  言葉の刃が胸を深く刺す。麗奈は怒りと恐怖で全身が震えた。  心臓はまだ早鐘のように打つ。しかし、家を知られた以上、何か対処をしなくてはならない。百合子を巻き込むわけにはいかないのだ。覚悟を胸に押し込み、玄関を開いた。    山岸は麗奈の強い視線と対峙しても、軽薄な笑みを浮かべていた。  山岸が麗奈の体を掴もうとする。麗奈は右手で山岸の手を払うが、山岸の目はギラリと光り、止めるつもりはなさそうだった。  その時、自転車に乗った蕎麦屋の出前が通る。 「お、お蕎麦屋さん、出前をお願いしたいの、待って!」  蕎麦屋のお兄さんが自転車を止めて引き返すと、山岸は「チッ」と舌打ちをし、 「まあいいさ、また来るよ麗奈」ときた道を引き返していった。 「……大丈夫かい、あの男……何者なんだい」 「し、知らない人ですの。怖かった……」  蕎麦屋のお兄さんは、蕎麦の注文をメモし、 「毎日このくらいの時間に通ってやるよ。お巡りさんにも一声かけておく。この街の人間はよぉ、情が深えよ。安心しな」  蕎麦屋を見送った後、麗奈は腰が砕けて玄関の土間に崩れ落ちる。膝の震えが止まらない。  山岸も怖いが、もし百合子を巻き込むようなことがあったらどうしたら良いのだろう……と考えるだけで、動悸が激しくなっていく。  四時を告げる柱時計のポーン……という音が四つ鳴り、麗奈は我に返った。  ちょうどその頃、百合子が画材店から帰ってきた。 「麗奈……どうしたの。顔色が悪いわよ」  麗奈は髪を直しながら、百合子を見つめる。 「少し疲れが出てしまって……あ、今日は出前を取らせていただきましたわ」  少しだけ麗奈を見つめる百合子。 「……そんなに疲れているなら、ベッドで休んだらどうかしら。風邪かも」  百合子は手のひらを麗奈のおでこに当てた。 「大丈夫ですわ……少しソファで休みますね」  麗奈は今、一階を留守にするのが恐ろしくて、ソファで休むことにした。すると百合子が膝枕をすると誘った。  ──百合子を守りたいのに、私が甘えていてどうするのかしらと──  麗奈の口角が少し上がる。 「麗奈……そばにいるからね。あ、出前の事じゃないわよ」  二人は微笑み、肩の力がすこしだけ抜けていく。百合子の手が優しく麗奈の髪を梳くように撫でると、麗奈は少しだけ微睡んだ。  夕闇迫る黄昏時、蕎麦屋のお兄さんが呼び鈴と共に「こんばんは、蕎麦屋ですー」と声を掛けてくれた。  山岸に怯えて、玄関を開けにくいだろうと気を遣ってくれているのを感じる。 「いいわ、麗奈。ワタクシが出るわね」  お財布を持ち、玄関に向かう百合子。 「毎度!最近物騒なんで、気ぃつけてくださいよ。戸締りしっかりしてな!」 「え、はい……」 「毎度あり!」  百合子は蕎麦を二つ受け取り、少し驚いた顔をした。 「麗奈、聞いた?最近、物騒って何かしら。泥棒でもあったのかしら?」  麗奈は何も言わずに、食卓へ向かう。  いつもはラジオで薄く音楽でも掛けながら夕餉にするのだが、今日はそんな気分にならず、「さあ、頂きましょうか」と百合子を席に付かせた。  百合子は時折、麗奈の顔色を伺いながら、蕎麦を啜り、かぼちゃの天ぷらを齧る。  麗奈は本当は食欲などないのだけれど、百合子を心配させたくない一心で蕎麦を啜り、つゆで流し込む。 「麗奈……今日は銭湯に行く日だけれど……やめておいた方がよろしいかしら?」  麗奈は蕎麦を啜りながら、ひとつ頷く。  百合子は心配そうに麗奈の顔を見つめた。  今日は丼を洗って外に出しておくと、湯浴みもせずに床に着いた。  百合子も自室へ向かう。 「麗奈……ひとりで眠れる?」 「はい……大丈夫です」  隣り合う部屋にそれぞれ入っていく。 「おやすみなさい。何かあったら直ぐに呼んでね」 「ありがとうございます。百合子さん、おやすみなさい」  麗奈はベッドに潜り込むが、今日の山岸の「また来るよ」という言葉が繰り返し頭に響いて気が気でなかった。  急に戸締りや火の元が気になり一階へ行く。一つ一つ点検し、また自室に戻る。 窓を開け、近くに不審な者が居ないか確かめてから閉める。  鼓動がいつまでも早く、心のゼンマイを巻き続けるように、麗奈は全く落ち着かない。  廊下に出て百合子の部屋をノックしようとするが、もう寝てるかもしれないと引き返す。  またベッドに潜るが、山岸の声に悩まされ、立ち上がり百合子の部屋の前に行く。   こんな事を数回繰り返した後、結局ノック出来ぬまま自室のベッドに横たわった。   暗がりは山岸に襲われそうで、電灯を付けたまま眠る努力をした。  小説の内容も頭に入らないのに、文字を眺めていると、麗奈の部屋のドアをコンコンと叩く音がした。 「はい……」  ドアを開ける百合子の顔は、とても心配そうだった。 「麗奈……一緒に寝てもいい?」  百合子は麗奈の願いを先に口にした。  百合子に包み込まれ、やっと安堵した気持ちと、今日のことを言わなくてはならないという気持ちが入り交じる。 「何か……あったのでしょう?」 「はい……昔の……客を見かけてしまって……」  百合子は麗奈の背を優しく撫で、それ以上は聞かなかった。  温もりと鼓動が麗奈を包み込み、その夜、麗奈は小さな子供に戻った夢を見た──  百合子は夢の中では、麗奈のお母さんになっていて、ヨシヨシと頭を撫でてくれた。

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