逸漣 / 第25話

第16話 乙女の暮らし手帖(1)

 正月気分も抜けた頃、倉庫になっていたばあやさんの部屋を、麗奈は少しずつ片付けていた。  あらかた綺麗になった部屋の奥から、ミシンが出てきた。  麗奈は裁縫を習った事はないけれど、吉原の赤線でお姉さん方のお下がりのドレスのサイズを詰めたり、飾りを足したりした。大抵のことは手縫いで出来た。    べっちんのカバーを外すと、憧れのミシンが黒く重厚に光る。滑らかな曲線を撫でると、麗奈の胸はときめき踊った。  ミシンを支えるテーブルは木製の天板、装飾を施した金属の立派な脚。そして麗奈はペダルに足を恐る恐る乗せてみた。  踏板が傾き、それにつられるように大きな車輪が動き、針が上下する。  カタカタカタ……小さな振動が鼓動と重なって心地の良い時間を作る。  まさか、こんな立派なミシンに触れる事ができるなんて……胸いっぱいにキラキラした感激が込み上げる。  これで縫えるのだろうけれど、使い方がさっぱり分からない。  百合子が倉庫にやってきて、綺麗に片付いている様子に驚いた顔をしていた。 「麗奈、こんなところにいらしたの。あら、ミシン……」 「百合子さん、これはばあやさんの?」  百合子は思い出したように笑い、 「ワタクシが欲しがってね。さんざん駄々をこねて買って貰ったのに、すぐに飽きてしまって、ばあやに使って貰っていたの」  麗奈は「まぁ、贅沢な話」といつも思うが、百合子に嫉妬することはなかった。  百合子は屈託のない笑顔で嫌味なく話すので、「そうなのね」と穏やかな空気になり、誰もが微笑ましく思ってしまうのだった。 「麗奈、お裁縫はお好き?ミシン使ってくださらないかしら」 「こんなに立派なミシン、使ってもよいのですか?私、ミシンを触るのが今日が初めてなんですの」  百合子は思い立ったように玄関の横へ行き、電話台を探ると、手書きの連絡帳を取り出した。 「母のお友達が洋裁教室をされているの。もしよかったら習ってみない?」  麗奈はこんなに贅沢なミシンで、素敵なワンピースを縫う自分を想像してみた。大きな布をカタカタと手早く真っ直ぐに縫う   ──  ため息を零し、麗奈は頬に手を添えた。 「百合子さん、私、習ってみたいわ」 「そう良かったわ、じゃあ電話して聞いてみるわね」  百合子は母親の友達に近況を伝えたり、世間話をしたり。その後で麗奈が教室に通う約束を取り付けた。 「麗奈、必要なものはメモしたから、明日にでも買いに行きましょうね。教室は毎週月曜日よ」  生きていくための術でない、豊かな生活のための習い事に自分が行けるとは、一度も考えたことがなかった。  麗奈はまるで夢のようだと、空想に思いを馳せていた。   「麗奈はおおげさね。ワタクシのお洋服も作ってくださると嬉しいわ」  百合子は背中を撫でながら、麗奈の濡れた頬に口づけをくれた。  ◇  月曜日、百合子と共に中村さんのお宅へ行った。戸建てを囲む垣根に「ナカムラマチ子洋裁教室」と看板が立てられていた。 「おばさま、大変ご無沙汰しております」  百合子が挨拶をする。身のこなしが意外と洗練されていて、麗奈は百合子の新たな一面を見た気がした。 「峰子さんとこのお嬢さんね、よく来てくれたわね。どうぞおあがりになって」  玄関を上がり、麗奈は二人の靴を揃える。何部屋もある家に人の気配はなく、マチ子先生だけが住んでいる様子だった。  居間と仏間の襖を外した大きな一部屋には、ミシンが四台並んでいて、大きな作業台には見たことがない布の反物と、線や切り込みの入った不思議な形の白い紙が置かれていた。  これでお洋服を作るのだろう。麗奈は夢見心地のまま、部屋にあるもの一つ一つに見入っていた。 「麗奈さんが習いにきてくださるのよね」  マチ子先生が、クッキーを一切れ添えた紅茶を出してくださった。 「はい。ミシンを触ったのが、ついこの前で。使いこなせるようになりたいのです」  うんうんと、マチ子先生は相槌をしながら、優しい表情で話を聞いていた。 「ワタクシには、お裁縫の才能が全くなかったのですわ。麗奈をよろしくお願いいたします」  フフッと微笑む先生。 「峰子ちゃんからお聞きしてるわ。絵を描いていらっしゃるのよね。家の事なんて何もしてくれないって笑っていたわ」 「やだわ、お母様ったら。なんでも話しちゃうのだもの、恥ずかしいわ」 「女中さんが雇えるのだから大丈夫よ。麗奈さん、お嬢さんをよろしくお願いしますね」  麗奈は「はい」と返事をし、二人の会話を聞いていた。  そのうち、三人の生徒がやってきた。 「先生こんにちは」 「あら、新しい生徒さんですか?ごきげんよう」 「こんにちは、よろしくお願いいたします」  花嫁修業中の水田ミノリさん、若奥様の丸川陽子さん、五十代くらいの森和子さん。 「初めまして、藤崎麗奈です。よろしくお願いいたします」  麗奈は今までいた世界と違う人達に囲まれて、少し怖気付いているのを背筋を伸ばすことで耐えていた。 ——百合子さんの手を握りたい——  しかし、同性愛は禁忌とされている。とても教室の人達に知られる訳にはいかなかった。    それなのに百合子は「帰りに迎えに来るわね」と帰ってしまった。  麗奈は自分が、川から掬い上げられ、急に清潔で温度も保たれた淡水の水槽に入れられた魚のように感じた。  百合子のいないこの教室が、居心地が悪く息苦しかった。

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