逸漣 / 第22話

第13話 潮風の記憶

 朝食を食べ終えたとき、麗奈は少し迷うような目をして、静かに百合子に告げた。 「……百合子さん。数日、お暇をいただけますか?」 「どうなさったの、麗奈?」 「昔の知人の……お墓参りに……故郷に帰ります」  百合子はその言葉に思いを馳せたが、口にはしなかった。  “知人”の言葉の奥にある、深い何かが香り立つが、聞けば麗奈を追い詰めてしまう気がして、ただ笑って送り出すと決めた。 「気をつけてね。……おみやげ話を楽しみにしてますわ」  今生の別れでもないのに、握る手に少し力を込めてしまう百合子。  麗奈の手の冷たさが、百合子の手の温度と同じになるくらいに──二人はしばらく手を握ったまま、動けずにいた。  ◇  東京駅──列車は戦後の面影を残す古い車両で、木の座席に鉄の手すりがカタカタと揺れていた。  窓から差し込む午後の陽光は、揺れるガラス越しに車内を斑に照らした。麗奈は眩しさに目を細めた。  乗客が新聞や雑誌を広げると、インクと紙の匂いがする。弁当の匂い、人の匂い、そんなものが混ざり合って、走る電車の窓から入る風が吹き飛ばしてくれる。  駅ごとに響く汽笛と人々の足音が、旅のリズムを作っていた。  麗奈が座席の木のざらつきを指先で確かめていると、窓の外には海が広がっていた。  窓の隙間から風が吹き込むたびに、潮の香りが靡く髪に絡んでいく。  電車の揺れに合わせて、過去の記憶が波のように押し寄せた。  ──あの人と…過ごした日々。  窓の外を流れる田園風景と小さな漁村の家々が、まるであの頃の情景を再現するかのようだった。  古い木造の家々、干物屋の赤い看板、港に揺れる小舟──どれも鮮やかに胸に蘇る。  麗奈の心は二つに引き裂かれていた。  過去に刻まれた熱く切ない記憶と、東京で待つ百合子への思い。  手のひらに残る感触、髪を揺らす風、潮の匂い──五感すべてが、麗奈の思い出と現在を同時に描き出す。  麗奈は……過去に向かって走る電車を選んだ。今だけは少しだけ、現実を置いていこう。  ◇  南伊豆の海沿い。波は遠くで白く砕け、晩秋の潮の香りを運んでいた。  小高い丘に小さな墓があり、麗奈はそっと白い花束を供えた。  墓前で手を合わせながら、麗奈の瞳は遠くをぼんやり見ていた。  あの頃に帰ったような心持ちになり、小さな溜息をつく。 「あなたは、もういないのに……この潮の音を聞くと、あの頃の笑顔が浮かんでくるわ」  冷たい墓石を撫でると、側面に彼の名が刻んである。麗奈は喉の奥が締まり、肩が強ばるのを感じた。  蘇る記憶、夕闇に隠れて逢瀬を重ねたこと。田舎を出て一緒に東京に逃げようと約束してくれた神社の境内。そこでのあの人とした、初めての口づけ。  そして戦地へ送り出したあの日──  線香の煙が目に染みて、もう流しきったはずの雫が睫毛を伝った。 「……あのね、百合子さんってとても可愛い方なの。何にも出来ない人で、でも誠実で、絵を描く時だけはとっても素敵なのよ。  ──好きになっても良いと思う?」    海風が吹き抜け、麗奈の髪を大きく靡かせた。風の音が彼の声を届けてくれた気がして、麗奈は小さく頷いた。 「ありがとう。あなたと彼女を同時に抱えられない、不器用な私を許してちょうだいね」    海の近くの民宿に泊まった。麗奈は部屋で一人手酌をしながら、彼のことを思い出せるだけ振り返った。この地に思い出の全てを置いていくために。実家に寄ることもない。もうここには二度と戻ることはないだろう。     帰り道、漁港で干物や海産物を買う。  ──百合子さんはこういう物、好きかしら。私の育った町。好きだった人がいた町。そして、私が捨てた町。ここの物を最後に味わうなら、百合子さんと一緒に頂きたい──と麗奈は思った。  麗奈の過去の一部を知ってもらいたいような、一緒に分かち合って欲しいような気持ち。  南伊豆からの帰り道、麗奈は小さな駅の木造ホームに立つ。潮の香りと風に揺れる電線の音が、寂しさを連れてくる。 「もう行くわ、さよなら……」  麗奈が顔にかかる髪を手で払うと、離すまいと過去のように絡みついた潮風がサラリと振り払われたように感じた。  列車が滑り込むと、木の床を踏み、少し軋む座席に温もりを感じながら腰を下ろす。  窓の外に広がる海の光に、またあの人との日々がゆったり頭を掠めるけれど……  以前よりもほんの少し霞み始めていた。  指先で鞄を抱きしめ、潮風で乱れた髪をそっと整える。電車の揺れに合わせ、記憶の景色も静かに波打った。  東京に近づくにつれ、麗奈の手のひらに乗せたい、新しい宝物に想いを馳せる。  ◇  東京——  絵を描きながら麗奈の帰りを待つ百合子。  ずっと麗奈の面影が心を埋め尽くしていて、出し切るまで筆を止めることが出来なかった。それなのに描けども描けども、想いは溢れてどうしようもないのだった。  寝食を忘れて絵に没頭していた。少し目の前が白くなり、よろめいて床に手を付いたその時、麗奈が帰ってきた。 「やっぱり……私が傍にいないと、心配でたまらないわ」  待ち侘びた麗奈の優しい声とぬくもりが百合子をそっと包み込み、背中を撫でた。  麗奈の細く柔らかい腕に抱きしめられた百合子は、安堵と幸福に震えながら、その身を委ねる。    百合子は麗奈に支えられ、ベッドに入る。  麗奈はそのベッドの端に腰掛け、しばらく百合子の髪を撫でていた。  柔らかな指先の感触に、うとうとと眠りに誘われてゆく。    ──麗奈……夢の中でもこのまま、ずっとワタクシの傍にいて──

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