逸漣 / 第2話

第2話 新しい風、蕎麦の湯気

 今にも母親が声をかけるのではないかと思うほど、生活の匂いもそのままの母親の部屋に足を踏み入れた百合子。  埃を払い、古いビスケットの缶をそっと開けると、中には母親の写真や手紙、使い古された小物たちが静かに眠っていた。  母親が好きだった可愛らしい香水の殻瓶。形もお洒落で、蓋を開けると懐かしい香りが指先からふわりと肺にまで広がる。  すると百合子の睫毛がじんわりと濡れていく。 「あなたにあげるわね」と母親が言っていた、宝石箱とビスケットの缶だけを自室に残して、他は弁護士が手配した業者がすべて引き上げていった。  百合子は自室の鏡台に、そのひとつひとつを並べ、亡き母との記憶をじっくりと味わっていた。 ――母はどんな思いでこれを残してくれたのかしら。  窓から注ぐ陽の光が、宝石に反射して瞬く。その瞬間、母親の笑顔を思い浮かべた。    正午を過ぎた頃、がらんとした我が家に、小さなスーツケースを携えた麗奈がやって来た。  彼女の柔らかな栗色の髪が午後の陽を受け、まるで薄金の絹糸のように艶やかに靡き、輝いていた。   「……百合子さん。お掃除、私にも手伝わせていただけますか?」  声は驚くほど穏やかで、少し低く……百合子の耳の奥をくすぐるようだった。  目元には少しだけ疲れの影が浮かび、しかしひとたび微笑めば、麗奈の周りの空気だけを、ふわりと華やかに変えてしまう。  それを見た瞬間――この人は、きっと他の誰にも似ていない。百合子はそう直感した。  彼女の身に纏う空気は、育ちの良さでも純粋さでもない。  夜を知っている女性の、生きるために身につけた静かな気品――。   威圧感のない柔らかな視線に、百合子は甘やかされて何不自由なく育ち、何も成し遂げていない自分を見透かされているような、刺し込む痛みを感じた。 「……ええ、お願いするわ」  喉がかすれたのを悟られないように、言葉を整えるのがやっとだった。  麗奈は大きく微笑み、「さあ、やりましょう」と袖を少し捲り上げる。  ――その時、埃や古い記憶……母の死で溜まっていた澱が薄まり、麗奈という名の“生きた風”が吹き込んで、澄んだ空気に変わっていった。  二人は箒を手に取り、広い居間の古びた床を掃き始めた。   「茶殻を撒いてから掃くと、ほこりが舞わなくていいですよ」 麗奈が教えた通りに、百合子はおそるおそる真似をした。  細かな茶殻は舞わず、静かに床をなぞるように箒が進んでいく。  「ほら、綺麗になりますでしょう……」   百合子は目を輝かせ、 「本当!埃が舞わないのね」  と、無邪気な声をあげてしまった。  百合子は照れを隠すように、部屋の角へ箒を導いていく。かすかな擦れる音が部屋の静けさを和ませた。  「本当に……何もしてこなかったのね」  麗奈は微笑み、百合子に視線を向けるが、一瞥しただけで掃き掃除を続けた。 ――その言葉は、責めるような言葉ではなく、百合子の無力さを柔らかく包み許すような余韻を残し、百合子の胸の奥はきゅうと締めつけられた。  一階の掃除が終わると、次は二階に荷物を運び込む。麗奈は細い腕で、重いスーツケースを懸命に担ぎ、階段を登っていった。  二階の棚に置かれた小さな置時計がカチカチと静かに響き、なぜか緊迫感が増した。  その音に、今日一日の出来事がそっと記憶に刻まれていく。  母親の部屋に麗奈を案内しようとした百合子は、ふと足を止めた。  父の愛人を――母の部屋へ?  ――目の前に広がる記憶の香りが、切なさをより深くする。どうしてこんな運命を背負うことになったのか、とため息が漏れた。  麗奈はそんな彼女の沈黙を察したように、そっと言葉を紡いだ。  「そこは……百合子さんの大切な場所なのではありませんか?」   その優しい声に、百合子は少しだけ肩の力が抜けた。  二人で百合子の荷物を母親の部屋に運び込み、麗奈の荷物を百合子の部屋へ運び込んだ。   ――自分の部屋を開け渡すと、何か恥ずかしい気持ちになった。しかし彼女の気遣いや、その手が差し伸べられることは、少し心強く感じた。  二階は東南側の角部屋に、今日から百合子の部屋となる十畳の空間。  隣は麗奈の部屋、その向かいには斜めの天井を持つアトリエ。  天窓からは柔らかな光が差し込み、昼間は絵を描くには申し分ない。  さらにその隣には水洗トイレがあった。 「二階にも水洗トイレがあるなんて……本当にお金持ちのお家なのね」  当時の一般家庭には珍しいようで、目を丸くした麗奈が少し可愛らしかった。  ──そんな一面を見てしまうと情が移りそうで嫌だわと、百合子は目を逸らした。  夕陽が藍色へ沈む頃、とりあえずの生活はできるほどになった。 「今日はもう…疲れましたわ」  百合子はソファに沈み込み、乱れた前髪を指で払った。  麗奈は窓の外をちらりと仰ぎ、疲れた声で言った。 「冷えてきたから、暖かいお蕎麦にしましょうか?」  「そ、そうですわね…ええと、出前…?」 「はい。きっと近くにお蕎麦屋さんがありますよ」   百合子は玄関にある電話台から蕎麦屋のお品書きを探しながら、生活感のない自分を取り繕っていた。  「…引っ越し蕎麦、というものですわね」 「ええ、初日にはちょうどいいわ」  三十分もすると元気な声と共に、蕎麦が届けられた。湯気の立つ丼を前に、まだよそよそしい距離を保ちながら、二人で初めての夕餉を取ることになった。  同じ屋根の下で、こうして向かい合うことに、何とも言えない違和感と不安が胸を占めていた。  麗奈は箸を手に取り、慎重に蕎麦をすくい小さな口でするすると啜っていた。  湯気の向こうに麗奈の顔が浮かぶ。彼女の何気ない仕草のひとつひとつが、百合子の胸の辺りに小さな波紋を広げていく。  唇を窄め、蕎麦を啜る時の伏せた睫毛の影。蕎麦ツユに濡れて光る唇。かすかな肩の動きが、抗えない熱を伝えてくるようで――じっと見るなんて失礼だとわかっている。しかしどうしても目が離せないのだった。  ――父親の愛人。憎むべき女性。  それなのに抗えない気持ちが燃えては揺れて、百合子の中をざわつかせていた。 「どうかされましたか?」  慌てて視線を逸らし、咄嗟に話を逸らす百合子。 「…い、一味…ありませんこと?」  戸棚を探しても見つからず、手持ち無沙汰に席に戻った。 「今度、買っておきますね」  必要のない一味を諦め、湯気に揺れる麗奈の姿をまた、百合子はただ見つめてしまうのだった。  麗奈と二人で過ごす初めての夜は、百合子の緊張だけを残し、掃除で澄んだ空気に包まれながら静かに過ぎていった。

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