逸漣 / 第1話

第1話 冷たい雨、黒いヴェールの女

 ——父親が亡くなったのは、秋の長雨がしとしと降り、少し憂鬱な肌寒い日だった。  屋敷の玄関に立っていたのは、黒いレースのヴェールをかぶった喪服の女性と弁護士。  この方が、父親の愛人——。  雨に滲み、まるで肖像画から抜け出してきたかのように美しい女性だった。  黒いヴェールの下で、白い指が小さく震えていた。  しかし彼女が顔を上げると、柔らかな瞳が、百合子の理性をかすめるような甘さを帯びて……  息を吸うたび、かすかに薔薇の香水と、父の残した時間が混ざったような匂いが鼻腔をくすぐる。  先程の震えは、見間違いだったのか。  あまりに完璧な微笑み方は、何故か人を恐れさせる。  目を合わせると、百合子の苦しい内心を麗奈に読み取られそうで――そっと視線を逸らした。   弁護士は手にした封筒を、百合子に差し出しながら言った。 「こちらは“麗奈”さんです。彼女は百合子様のお父上と内縁関係にありました。遺言には葬儀では百合子様が喪主として臨むこと、そして麗奈さんの生活の面倒を見ること。その二点が記されています」  ――わずかに空気がざわつき、百合子の心臓が早鐘のように打つ。 「……初めまして、百合子さん。麗奈と申します」  その声は艶のある響きで、理性の隙間をかすめて百合子の肌が粟立つ。  母親を三年前に亡くし、ばあやも引退してからは一人で屋敷を守ってきたが、自分一人の生活も満足に営めない生活力の無さ。百合子は食事も外食ばかりで、掃除も満足に出来ない。  ベッドのシーツをいつ替えたのか、記憶になかった。  葬儀もきっとまともにできないと、不甲斐なさで顔を上げられなかった。  「百合子様は喪主の立場ですが、進行はすべてこちらで取り仕切ります。ご安心ください」  百合子は弁護士の言葉に胸を撫で下ろしたが、肩は緊張で少し上がっていた。  愛人の色香に惑わされている場合ではない。頬をパンパンと自ら叩き、気を引き締めた。  葬儀当日、冷たい秋風の中、百合子はぎこちなくとも喪主として、参列者に挨拶し、どうにか声を振り絞った。  震える声で一礼するたび、隣に立っている美女は何者なのか、麗奈への好奇の視線が集中していることに気づく――  今、父親の愛人と身内と並んで頭を下げ続けている。百合子は卑屈に唇を引き攣らせ、「滑稽だわ」と独り言を溢した。  葬儀場の外では、麗奈の存在が参列者全員の興味を掻き立て、皆ヒソヒソと下衆なささやきを交わしていた。  式は滞りなく進み、弁護士の手際良い進行のおかげで、形だけは葬儀としてしっかりと整っていた。  心身の疲弊に足元がふらつくのを必死に堪えながら、百合子はこれを乗り越えなければならないのだと、重いため息を吐き出す。  屋敷に戻ると麗奈は静かに微笑み、 「百合子さん……本当にお疲れさまでした」  その声に疲労の色はなく、誇らしさと柔らかな温もりに満ちて、百合子を少しだけ癒した。  聞けば父親の看病もして、最期を看取ったのも彼女だそうだ。  ──全て出来ることはやった。そういう晴れやかさを彼女は纏っているように見えた。  実の娘の無関心さに、我ながら驚く。  母親を捨てた父親のお金で暮らしている百合子だが、母親とばあやとの暮らしは穏やかで、父親の顔色をうかがうこともなく快適だった。このまま何処かで、いつまでも父親は生きていると思っていた。    それが麗奈を前にすると、百合子の現実と向き合えていない幼さを突きつけられているようで、胃のあたりに鈍い痛みを感じた。    ——ワタクシなぞよりも余程、人として立派な方なのではないかしら。  百合子にそんな気持ちが生まれ、頭をもたげていた。  その後、遺産や書類の整理について弁護士と話す中で、麗奈はそっと百合子を見つめ、言った。 「アパートも、もう引き払うことになっていて……百合子さんが許してくださるなら、しばらくこちらに置いていただけませんか?」  その言葉に鼓動が早くなり、手のひらがじっとりと湿るのを感じた。  呼吸を整え……しばらくの沈黙の間、遺言書を読みながら考え込む。  確かに遺言にも麗奈の面倒を見るように書かれている。しかしそれは金銭面で面倒を見る意味だと思っていたので、百合子は少々面食らっていた。  麗奈が家を出なくてはいけないのは、近々の話らしい。 「……仕方がないですわね。承知しました。あなたの身の振り方が決まるまでは、数日ここにいても良いですわ」  弁護士は目を輝かせ、口角を片方だけ上げて微笑んだ。 「それは良かった!……失礼。こちらとしては、仕事が早く進んで誠に助かります」  秋の空気は時間と共に、冷たくなっていく。雨の匂いが屋敷の中にも漂っていた。  壁にかかる柱時計の針の音が、重い空気を揺す。  急な事ばかりで頭が追いつかないが、複雑な胸の内は泡立っては消える波打ち際のように寄せては返し、百合子は「ただ、前を向くしかない」……そう思い手を固く結んだ。  ──なぜ穢らわしい父の愛人と暮らさないといけないのかしら。  しかし麗奈さんも変わった方。  少しの葛藤も表さず、あんなにも冷たいほど美しい表情のままで、娘であるワタクシに……よくもそんなことが言えるものね──  この怒りに似た感情も、両親とも亡くなった今となっては、全て終わったことと思った方が楽になれる。  ……百合子は他人事とでもいうように、窓の外の雨を眺めているフリをしていた。

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