Zeφyr(ゼファー) / 第9話

8、ベクトル

【【8、ベクトル】】  翌朝。早い時間に大学の学生相談窓口から連絡が入った。 「……遥陽」 「ん……」 「起きて、遥陽」 「あと五分……」 「大学から連絡」 「起きた」  遥陽は跳ね起き、一瞬で目を覚ました。  二人で画面を覗き込む。 『昨日の件について、緊急で確認したい事項ができました。可能であれば登校前に折り返しお電話をください』  遥陽がすぐに発信ボタンを押す。蒼はその隣で固唾をのんで見守っていた。  数分間。スマホから聞こえる担当職員の声を聞くうちに、遥陽の表情が急速にこわばっていく。 『……それ、本人に直接確認したんですか?』  蒼が息を呑む。久世のことだ。 『はい……はい。……わかりました』  そして—— 『……え?』  遥陽が言葉を失い、その場で固まった。  蒼が心配そうに袖を引く。 「どうしたの……? 遥陽?」  遥陽は返事もできないまま通話を切った。 「……久世」 「うん……」 「匿名アカウントは自分じゃないって、あいつは強く否定したらしい」 「……そうなんだ」 「でも」  遥陽の顔色から温度が消えていた。 「確認の途中で……あいつ、蒼についての新しい情報を話したって」 「え……? なにを……?」 「……高校の時」  遥陽が蒼の瞳をまっすぐに見つめる。 「蒼への手紙が、机の中だけじゃなくて……一回だけ、靴箱にも入れられてたって」  蒼の思考が止まった。遥陽の言葉で、記憶の奥底からそれが浮かび上がってくる。 「…………」 「蒼……覚えてるか?」 「……思い出した。一度だけ……靴箱に入ってたことがあった……」  それは、蒼自身が昨日は思い出せなかった出来事だった。大学の職員にも、高校側にも、そして隣にいる遥陽にも話していない事実だ。 「なんで……久世くんがそれを知ってるの……?」 「わかんねえ……ただ、あいつは……」  遥陽が蒼を見ながらゆっくりと続ける。 「手紙の文面まで正確に言ったんだそうだ。『今日も遥陽くんと帰るの?』って」  蒼の顔から一気に血の気が引いた。 「どうして……なんでそんなこと……」  久世本人は『自分は犯人じゃない』と否定している。なのに、当事者しか知り得ない手紙の内容を知っていた——。  その日の午前。二人は講義を終えると学生相談窓口へ向かおうとしていた。大学側は、久世への再度の聞き取りを進めている最中だった。  だがその直前、予想外の事態が起こった。  廊下に出た蒼の後ろから、低い声がかけられた。 「一ノ瀬」  聞き覚えのない、けれどどこか耳に残る声。振り返ると、一人の男が立っていた。自分たちと同じくらいの年齢に見える。  蒼には見覚えがない。だが、遅れて教室から出てきた遥陽が、その男を見た瞬間に足を止めた。 「…………は?」  男が遥陽を見つめ、うっすらと笑みを浮かべる。 「久しぶりだな、高橋」  遥陽が目を見開いた。 「……東……!?」  蒼が男を二度見する。 「え……?」  海外へ行ったはずの、高校時代の盗撮疑惑の男、東恭介。その本人だった。 「なんで……お前がここに……」  遥陽が一歩前に出て、蒼を庇うように立つ。  東はそれには意に介さず、蒼へと視線を向けた。 「一ノ瀬。……久世のこと、調べてるんだろ?」  遥陽の顔色が変わる。 「お前……なんでそれを知ってる!?」 「まあ落ち着けよ」  東は昔と変わらない軽い調子で片手を上げた。 「俺はただ話に来ただけだ」 「お前、海外にいるんじゃなかったのかよ!」 「半年前に帰ってきた」 「……半年前から日本にいたってことか」  遥陽が鋭く追及する。大学側に『蒼を遠くから撮影している不審人物がいる』と相談が入ったのは今年の五月。東が帰国した時期と重なる。  遥陽の警戒心は一気に高まった。 「東。……蒼の写真、高校の時から盗撮してただろ」 「…………」 「先生に注意された記録も残ってんだよ!」 「……ああ、そうだな」  東はあっさりと認めた。蒼が息を呑む。東は少しだけ気まずそうに目を伏せた。 「その件については、素直に謝りたい。一ノ瀬、昔は勝手に撮って悪かった」 「……どうしてそんなことしたの?」  蒼が尋ねると、東は困ったように苦笑した。 「綺麗だったから。……最初は、ただそれだけだった」  遥陽が低い声で問い詰める。 「『最初は』ってどういう意味だ?」  東が遥陽をまっすぐに見つめ返した。 「途中から……久世の方が気になりだしたからだよ」 「……は?」 「久世の奴、あからさまに変だったんだ」 「どういう意味だよ!」  東は周囲を見渡した。講義終わりの学生たちが続々と廊下を通り過ぎていく。 「ここじゃ話しにくい。場所変えないか?」  遥陽は即座に拒絶した。 「断る。話すなら大学の職員立ち会いのもとで話せ」  東は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに肩をすくめた。 「警戒心強いな。……まあいいや、その方が俺も助かる」  蒼が東の顔を見つめる。 「東くん……匿名アカウントのこと、なにか知ってるの? 僕にずっと写真を送ってきてる人」 「…………」  東はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。 「……たぶんな」  遥陽の瞳が鋭く光る。 「何なんだよ、思わせぶりに言うな!」 「断定はできないよ。でも……」  東は蒼を見つめ、声を一段と低く落とした。 「もし高校の時と何も変わってないなら……久世は、一ノ瀬のことが好きなんじゃない」 「…………?」  蒼も遥陽も、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。  東は、まっすぐに遥陽を見た。 「高橋。久世が執着してたのは——【【お前だよ】】」 「…………は?」  遥陽の顔から、すっと表情が消えた。  東は淡々と話を続けた。 「久世にとって一ノ瀬は……大好きな『高橋』を自分から奪い去った、憎い邪魔者だったんだよ」  遥陽が蒼という存在を見つける前。久世と遥陽は、中学時代からずっと一緒にいることの多い友人だった。  そして——遥陽が蒼に一目惚れをした、あの日から。  その頃から、久世の中で何かが少しずつ歪み始めていたのかもしれない。  大学側は、東の申し出を受けてすぐに彼を学生相談窓口へ案内した。  蒼と遥陽は別室の待合スペースで待機することになった。東が『職員立ち会いで話す』ことに同意したため、三人だけで話す状況は避けられた。それでも、廊下に漂う重苦しい緊張感は消えなかった。  防音の施された会議室。  テーブルを挟み、二名の担当職員と東、その向かい側に蒼と遥陽が並んで腰掛けた。  担当職員が、手元の資料に視線を落としながら静かに確認を始める。 「東さん。高校時代、一ノ瀬さんを本人の許可なく盗撮していた件についてですが……これは事実ということで間違いありませんか」 「はい」  東は迷わず答えた。 「俺が撮りました」 「撮影の理由は何ですか」 「当時、一ノ瀬が学内でとにかく目立ってたからです。……まあ、綺麗だったし、写真に収めておきたかった。最初はただそれだけです」  隣で聞いていた遥陽の眉根がぴくりと動いた。握りしめた拳に力がこもる。蒼がそっと遥陽の膝に手を置くと、遥陽はゆっくり息を吐き、口を挟むのを思い留まった。 「それらの写真は、現在も保有していますか」 「スマホのストレージに一部残ってます」 「それらを第三者へ譲渡、あるいは送信したことはありますか」  その問いが向けられた瞬間、東の口が止まった。 「…………あります」  遥陽が思わず顔を上げる。 「誰に——」 「高橋さん」  職員が制する。 「こちらから確認しますので、静かに。……東さん、誰へ渡したのですか」  東は一度だけ蒼へ視線を向け、静かに口を開いた。 「久世です」 「…………っ」  蒼の指先が、膝の上でかすかに震えた。 「それは、いつ頃のことですか」 「高二の秋頃です」 「久世さん側から写真を求められたのですか」 「最初は……」  東は言葉を選ぶように少し間を置いた。 「『一ノ瀬の写真とか持ってないの?』って、あいつから聞いてきました」 「それで渡したのですか」 「何枚か送りました。でも……俺が一ノ瀬を撮ってるのを知ってから、久世の様子が変になって……色々聞いてくるようになったんです」  遥陽が東を強く睨みつける。 「どこにいたか。誰といたか」 「…………」 「特に——」  東の視線が、まっすぐに遥陽へ向けられた。 「——『高橋と一緒だったか』って」  遥陽の表情が強張った。 「……何で、俺なんだよ」 「俺も最初は、久世が一ノ瀬に片思いしてるんだと思ってたんですよ」 「…………」 「でも、違った」  東は目を細め、当時のことを思い出すように続けた。 「文化祭の少し前だったと思います」  放課後の教室で、久世と二人で話していた時のことだ。東が何気ない口調でこう言った。 『今日も一ノ瀬の奴、高橋と仲良く帰ってたぞ』  そう言った瞬間——久世の顔から表情が消えたのだという。 『……また?』 『うん。あいつら最近ずっと一緒じゃん』 『……仲いいんだね』 『…………』  そして久世は、ぽつりと冷えた声で呟いた。 『……蒼さえ、いなくなれば』  東はそこで一度言葉を切った。 会議室の中に、重い静寂が落ちる。 「……続けてください」  職員が促す。東はゆっくりと遥陽を見つめた。 「『蒼さえいなくなれば、遥陽は僕のところに戻ってくるのに』……って」 「…………っ!」  遥陽が完全に固まった。蒼も息を呑み、血の気の引いた遥陽の横顔を見つめた。  東は淡々と言葉を重ねる。 「俺、その時に初めて理解したんですよ」 「…………」 「久世が執着して見ていたのは、一ノ瀬じゃない」  視線が遥陽へと突き刺さる。 【【「高橋。……お前だったんだよ」】】  遥陽は一言も発することができなかった。  中学時代、いつも自分の隣にいた久世。高校でも同じクラスになった久世。そしてあの春の入学式——遥陽は遠くの蒼を見つけ、一目で惹かれた。 『——たぶん俺、あの子のこと好きになるわ』  あの日、照れ隠しに口にした自分の言葉を、隣にいた久世はどんな表情で聞いていたのだろう。  職員が仕切り直すように尋ねた。 「東さん。先ほど『匿名アカウントについて心当たりがある』とおっしゃっていましたね。具体的に説明していただけますか」 「これを見てください」  東はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をテーブルの中央へ提示した。 そこに表示されていたのは、高校時代のメッセージアプリの履歴だった。 『一ノ瀬の写真、もう送らないから』 『なんで』 『先生にバレてスマホ見せろって怒られた』 『写真、消したの?』 『一部だけな』 『残ってるの、全部送って』  東が画面を操作し、さらに履歴を遡っていく。 『何に使うんだよ』 『見てるだけ。……遥陽と一緒にいる時のやつ、ないの?』 『二人で帰ってる写真とか、文化祭の時の写真とか……遥陽が一ノ瀬のこと見つめてるやつ』 「…………っ」  遥陽の拳が強く握りしめられる。職員が尋ねた。 「これが、今回の一ノ瀬さんに届いている匿名アカウントと繋がる証拠ですか?」 「これだけじゃありません」  東はさらにアプリを切り替え、別の画面を表示させた。 「半年前、俺が海外から日本に戻ってきた時です」  久世から、唐突に連絡が入っていた。 『帰ってきたって聞いたよ。久しぶり。昔の写真、まだ持ってる?』  東はそのメッセージを不気味に思い、無視したという。しかし数週間後、久世から再びメッセージが届いた。 『蒼、まだ遥陽と一緒にいる』 「…………っ」  蒼の背筋に冷たい汗が滲んだ。 『大学でも、ずっと一緒だ』 『やっぱり蒼がいると、遥陽は僕のところに戻ってこない』  そして、約一ヶ月前のメッセージ。 『そろそろ、分からせないと』  そこでやり取りは途絶えていた。 「…………」  職員たちの表情が強張った。 「東さん。このやり取りのデータを、大学側で記録として保持させてもらってもよろしいですか」 「ええ、構いません」 「一ノ瀬さん、高橋さん」  職員が二人をまっすぐに見つめた。 「この段階では、もはや大学内部だけの問題として扱うべきではありません」  蒼が静かに頷く。 「……はい」 「これまでのDM、盗撮写真、そして東さんが提供してくださった記録をすべて提出資料としてまとめます。速やかに警察へ相談し、ストーカー事案として対応を進めましょう」  遥陽も掠れた声で応じた。 「……お願いします」 「そして重ねて言いますが、久世さん本人への接触や問い詰めは、絶対に避けてください」 「わかりました……」  その後、三人はそれぞれ別室へ分けられた。大学側が、証言内容を個別に確認するためだ。  蒼の部屋では、高校時代の匿名の手紙、消えたジャージ、最近届いた不審なDMや盗撮写真の時系列が改めて確認された。遥陽の部屋では、久世との中学時代の関係、高校入学後の変化、最近久世から接触がなかったかを確認された。東の部屋では、写真撮影の経緯と久世への送信、保存されていたメッセージの確認が行われた。  夕方。  すべての確認が終わる頃には、蒼は心身ともにひどく疲れていた。重い扉を開け、相談室をあとにする。  静まり返った廊下の向こう。壁に背を預けて立っていた遥陽が、蒼の足音に気づいて顔を上げた。  視線が交差する。 「……蒼」 「遥陽……」  遥陽が歩み寄り、蒼の顔を覗き込んだ。 「終わったか?」 「うん……遥陽も?」 「ああ」  二人とも疲れきっていて、笑う余裕すらなかった。 「……帰ろっか」 「うん」  東とは大学側の判断で時間をずらして帰ることになった。大学からも『状況が動くことで相手が予想外の行動に出る可能性があるため、絶対に単独行動はしないように』と強く念を押されていた。  二人は身を寄せるようにして、キャンパスを後にした。

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