Zeφyr(ゼファー) / 第10話

9、見えてきた答え

【【9、見えてきた答え】】  帰り道。  夕暮れ時の街並みを歩く二人の間には、ほとんど会話がなかった。普段なら他愛もない話で場を和ませる遥陽が、珍しく固く口を閉ざしたまま歩いている。 「…………」  蒼は隣を歩く遥陽の横顔を盗み見た。 「遥陽」 「ん?」 「……大丈夫?」 「…………大丈夫」  明らかに無理をしている声だった。 「嘘」 「…………」  遥陽が力なく苦笑した。 「蒼には、ホント全部お見通しだな……」 「五年一緒にいるからね」 「それ、俺の専売特許だったのに」  ほんの少しだけ笑ったものの、その笑顔はすぐに消えてしまった。 「……俺さ」 「うん」 「ずっと、考えてたんだ」 「なにを……?」  遥陽は前を見つめたまま、絞り出すように呟いた。 「……もし、俺があの入学式の日……蒼のことを好きにならなかったらって」  蒼の足が止まった。つられて遥陽も足を止める。 「……なに、言ってるの?」 「久世のことだよ」  遥陽が苦しそうに自嘲の笑みを浮かべた。 「俺が入学式で蒼を見つけて……好きになって。二年生で蒼と親友になって、毎日二人で過ごすようになって……それで、俺は久世と疎遠になった」 「…………」 「もし……俺が蒼を好きにならなかったら」  遥陽が痛みに耐えるように目を伏せた。 「久世も、あんな風に狂わずに済んだんじゃないか……って。蒼だって、こんな怖い目に遭わずに済んだはずなんだ」 「…………」 「ジャージだって……気味の悪い手紙だって、写真だって……全部——」 「……それは、嫌」  遥陽の言葉が途切れた。 「……え?」  蒼自身、自分でも驚くほど早く言葉を返していた。頭で考えるより先に、心が強く拒んだのだ。 「嫌だよ」 「蒼……?」 「遥陽が僕を好きにならなかった世界なんて……絶対、嫌だ」  遥陽が瞳を大きく見開いて蒼を見つめる。  蒼は頬を熱くしながらも、逸らしそうになる視線を必死につなぎ止めた。 「そんなの……絶対に嫌」 「…………」 「久世くんが何をしたのかは、まだ全部わからないよ。……でも、遥陽が僕を好きになってくれたことは、絶対に悪いことじゃない」  言葉を重ねるほど、蒼の声に力がこもっていく。 「僕と親友になってくれたことも」  蒼は一歩、遥陽へ近づいた。 「……好きって言ってくれたことも」  遥陽の瞳が激しく揺れた。 「今日まで、ずっと僕の隣にいてくれたことも」  蒼はまっすぐに遥陽を見つめた。 「僕は、何一つ嫌じゃない」  息を吸い込んで。 「……むしろ」  言葉が詰まり、赤くなった顔を伏せそうになるのを堪える。 「……すごく、嬉しいんだ」 「…………っ」 「遥陽が、僕のことを好きでいてくれたこと……全部」  遥陽は息を呑み、絶句した。 「だから……」  蒼は恥ずかしそうにしながら、けれど固い意思を込めて言った。 「『好きにならなかったら』なんて、二度と言わないで」 「……蒼……」 「僕は……遥陽に好きになってもらえて、本当によかったと思ってる」  二人の間に静かな沈黙が落ちた。 「…………」  遥陽が突然、両手で顔全体を覆った。 「……またそのリアクション?」  蒼が尋ねる。 「ちがっ……」  声がかすかに震えている。 「今回のは……ちょっと、待って……」 「…………?」  蒼はそこで気づいた。いつもなら照れ隠しでふざける遥陽の肩が、微かに震えていたのだ。 「……遥陽?」 「ん……」 「こっち向いて」 「……無理。今見せられない」 「遥陽ってば」  蒼はそっと伸ばした手で、遥陽の腕を優しく引っ張った。 「…………」  ゆっくりと顔を上げた遥陽の目は、うっすらと赤く潤んでいた。 「……泣いてるの?」 「泣いてねえよ」 「目、真っ赤だよ」 「……今日はそういう突っ込み、マジでナシにしてくれ……」 「…………」  蒼は静かに口をつぐんだ。そして自分からそっと手を伸ばし、遥陽の大きな手を握りしめた。 「…………」  遥陽が重なった自分の手元を見つめる。 「……蒼」 「なに?」 「俺……」  言葉を詰まらせながら、遥陽が本音をこぼした。 「今日……ずっと、怖かったんだ」 「…………」 「久世が怖いとかじゃなくて……俺が蒼を好きになったせいで、蒼の人生を滅茶苦茶にしてしまったんじゃないかって……」 「してないよ」  迷いのない即答だった。 「全然、してない」  蒼は握りしめた手にぎゅっと力を込めた。 「遥陽と一緒に過ごした高校生活、すごく楽しかった」 「…………」 「大学に入ってからの毎日も」  一歩、距離を詰める。 「初めてのデートも」 「…………」 「今日も……」  まっすぐに遥陽を見上げる。 「怖いこと、たくさんあるけど……遥陽が隣にいてくれるから、僕は大丈夫」  その言葉を聞いた瞬間、遥陽の目からぽろりと一滴の涙がこぼれた。 「……あ」  遥陽自身が一番驚いたように目を見開く。 「マジか……」  蒼も目を見張った。 「遥陽が……泣いた……」 「実況すんなって……」 「だって……珍しすぎるから」 「俺だって泣く時は泣くわ……」 「初めて見た」 「見るなよ……!」 「無理」 「蒼!」  遥陽が顔を逸らそうとするのを、蒼はじっと見つめた。そして、そのままそっと遥陽の腕の中に額を預けた。 「…………」 「……蒼?」 「……今日も」  小さなおねだりだった。 「また……僕の家に泊まる?」  遥陽の動きが止まった。 「……いいのか?」 「うん」 「昨日も泊まったぞ?」 「知ってる」 「二日連続だぞ?」 「知ってる」 「俺……本当に帰れなくなるぞ?」 「……帰りたいなら、帰ればいいじゃん」 「そこは引き止めろよ!」  蒼が耐えきれずに笑い、遥陽もようやくいつもの柔らかい表情を取り戻した。  夜。蒼のアパート。  三日目ともなると、遥陽の歯ブラシが洗面所のコップの中に当たり前のように並んでいた。 「…………」  蒼がじっとそれを見つめている。 「何見てんだ?」 「……遥陽の歯ブラシ」 「おう」 「……普通にあるなと思って」 「昨日買ったからな」 「なんか……すごく変な感じ」 「俺も」 「…………」 「…………」  二人は洗面所の鏡越しに顔を見合わせた。 「……なんか同棲してるみたいだな」  遥陽がふざけて言うと、 「してない」 「はい」  即座に冷静なトーンで否定された。  リビング。  今夜は二人とも、事件に関する警察や大学の資料を開くことはしなかった。大学側からも『今夜は新たな連絡があっても、緊急性が高くない限りは明日まとめて確認しましょう』と言われていた。  ソファと毛布。昨日と同じ組み合わせ。けれど今夜の蒼は、自分から迷わず遥陽の隣へ腰掛けた。 「…………」  遥陽が不思議そうに見つめてくる。 「なに?」 「いや……」 「?」 「三年前の俺だったらさ……この距離で蒼が自分から隣に座ってくれただけで、一週間くらいテンション上がりすぎて生活に支障が出てたなって」 「大袈裟だなあ」 「マジだって」 「今は?」  遥陽は少しだけ照れくさそうに笑った。 「めちゃくちゃ嬉しいけど……それ以上に、すごく安心する」 「…………」  蒼もつられるように笑った。 「……僕も」 「え?」 「遥陽が隣にいると……すごく安心する」 「…………」 「あ、また固まった」 「今日はもう、俺の心臓をキャパオーバーさせるの勘弁して……」  蒼がくすくすと笑いながら、遥陽の肩にそっと頭を乗せた。遥陽も自然にその細い身体を引き寄せる。 「蒼」 「ん?」 「さっきさ……『好きになってもらえてよかった』って言ってくれただろ?」 「……言ったね」 「それって……」  遥陽は尋ねかけ——けれど、途中で自分から言葉を飲み込んだ。 「……ううん、やっぱいい」 「気になるよ。なに?」 「いいって」 「遥陽」 「…………」  蒼が顔を上げると、遥陽はどこか困ったような、愛おしそうな笑みを浮かべていた。 「だって今聞いたら……俺、今すぐ答えが欲しくなりそうだから」 「…………」 「昨日言っただろ。蒼が俺を恋愛として好きなのかどうか、自分でもまだわかってないって」 「……うん」 「なら……」  遥陽の手が蒼の柔らかいプラチナブロンドの髪を優しく撫でた。 「蒼が自分の気持ちに気づくまで、俺はいくらでも待つよ」 「…………」 「六年待てたんだから、いくらでも待てる」 「……またそのカード使う」 「こればっかりは本当に使わせろよな」  蒼はふっと柔らかく笑った。 「……うん」  少しの沈黙のあと、蒼は再び遥陽の肩に頭を預け、聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で囁いた。 「……でもね」 「ん?」 「昨日より……今日の方が、遥陽のこと好きだと思う」 「…………」  遥陽の全身が固まった。蒼はそのまま数秒待つ。 「……遥陽?」 「…………」 「生きてる?」 「……今、完全に召天した」 「また?」 「今のは過去最大級の威力だった……」 「大袈裟だなあ」 「お前最近、無自覚に俺のこと殺しに来てないか!?」 「そんなつもりないよ」 「それが一番怖いんだよ……!」  蒼が声を上げて笑い、遥陽も降参したように笑った。  しばらくして、部屋の中に穏やかな静寂が戻る。  遥陽がぽつりと呟いた。 「……ありがとな」 「なにが?」 「……俺を選んでくれて」  昨日の夜、恐怖の中で身を寄せる相手として。今日の夕方、傷ついた自分を支える相手として。そして——少しずつ、特別な『一人の男』として。  蒼は言葉では返さず、毛布の中で静かに遥陽の手を探した。指先が触れ合い、遥陽がその手を優しく包み込む。蒼もまた、ぎゅっと握り返した。  今夜も二人は、同じソファで身を寄せ合いながら夜を明かす。 それはもう、事件の恐怖から逃げるためだけではなかった。  お互いの隣が、自分たちの意思で選び取った大切な場所になり始めていた。  ——翌朝。  蒼がうっすらと意識を取り戻したとき、最初に感じたのは心地よい体温だった。 「…………」  暖かい。  自分の頬のすぐ近くから、規則正しく穏やかな寝息が聞こえてくる。  薄目を開けると、すぐ目の前には遥陽のしっかりとした胸元があった。毛布の中で、二人の身体はぴったりと寄り添っていた。 「…………あ」  昨夜の記憶が、静かに脳裏に蘇る。  二人でソファに並んで座り、事件の不安を打ち明け合い、手を繋いだまま疲れて眠ってしまったのだった。  三夜続けて同じように並んで朝を迎えているはずなのに、今朝の感覚は過去二日とまったく違っていた。  遥陽はまだ深く眠っている。  いつも太陽のように明るくて、誰とでも親しくなれて、蒼の前ではどこか余裕のある『頼れる親友』に見えていた遥陽。けれど昨日の夕方、自分を守ろうと必死になりながら、初めて目の前で涙を流した。 『——もし俺が、蒼を好きにならなかったら』  そんな苦しそうな呟きに、自分は頭で考えるより先に反射的に言葉を返していた。 『——それは嫌』 「…………」  蒼は、すーすーと息を立てる遥陽の寝顔をじっと見つめた。  高校一年の春の入学式。遥陽はその日からずっと、自分を特別に好きでいてくれた。 二年生で親友になってからも。大学へ入ってからも。 六年という長い時間の中で、ずっと。  でも蒼にとっての遥陽は、『好きだ』と打ち明けられるまでは、疑いようもなく『なんでも話せる親友』だった。  それなのに、たった数日で自分の中のなにかが急速に変わり始めている。  遥陽と手を繋ぐこと。……少しも嫌じゃない。  遥陽に抱きしめられること。……心から安心する。  遥陽と二人で過ごすこと。……どんな時間よりも愛おしい。  誰と一緒に帰りたいかを選んだ時。……遥陽を選んだ。  誰にそばにいてほしいか。……頭に浮かんだのは、やっぱり遥陽だけだった。  そして昨夜、自分は自分から言ったのだ。 『——昨日より、今日の方が遥陽のこと好きだと思う』 「…………っ」  思い出した途端、顔が一気に熱くなった。 (僕……なんてこと口にしてたんだろ)  遥陽は案の定、『精神的に死んだ』とか『過去最大の威力』とか、大騒ぎしていたけれど。  でも今、改めて自分の胸に問いかけてみても、あの言葉に嘘や誤魔化しは一つもなかった。 「…………」  蒼は毛布の中で、遥陽の寝顔をもう一度見つめ直す。 『男性を恋愛として好きになる』ということ。その感覚は、今の自分にはまだよくわからない。  でも。  もし、好きな人の隣にずっといたいと思う気持ちが『恋』なら、自分は間違いなく遥陽の隣にいたい。  好きな人に触れられることが嬉しいと思うのが『恋』なら、遥陽に手を握られるのは嬉しい。  好きな人から『好き』と言われて心が震えるのが『恋』なら——自分は、本当に嬉しかった。 「……もしかして」  掠れた声で、小さく呟く。 「僕……」  そこまで口にして、ハッと息を飲んだ。 「…………」  静かに遥陽の顔を見る。 【【「……もう、遥陽のこと……好きなのかな」】】  声に出した瞬間、胸の奥で心臓がドクンと大きく跳ねた。 「……っ!」  慌ててぎゅっと唇を噛む。遥陽は——? 「…………」  規則正しい寝息のまま、動かない。眠っている。 「……よかった……」  ほっと胸を撫でおろす。 まだ、本人に直接言えるほど自分の中で整理できていない。けれど、昨日までの『わからない』という迷いの中から、ほんの少しだけ答えが見え始めていた。  その時だった。 「……ん……蒼……」 「……っ!?」  遥陽の大きな身体がわずかに動いた。 「……んー……」 「…………っ」  蒼の身体が一瞬で強張った。遥陽が重い瞼をゆっくりと開き、その瞳が薄く蒼をとらえる。 「……ん……おはよ……」 「……お、おはよう」 「何……?」  掠れた寝ぼけ声のまま、遥陽が蒼の顔をまじまじと見つめてくる。 「なんか顔……赤くね?」 「赤くない!」 「そう……?」 「うん」 「…………」  遥陽はまだ目が覚めきっていない様子で、ふにゃりと眉を下げた。そして—— 「……もうちょっと……」 「え?」  遥陽は再びゆっくりと目を閉じると、毛布の中で繋がれていた手をぎゅっと握り直した。 「……あと五分……」 「…………」  蒼は二人の重なる手を意識した。 昨日までなら、その体温にただ安心していた。でも今は、胸の奥がくすぐったくてたまらない。 「…………」  蒼はその手を振りほどかなかった。むしろ、ほんの少しだけ自分からも指先に力を込め、ぎゅっと握り返した。

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