Zeφyr(ゼファー) / 第3話

3、初デート

【【3、初デート】】 「…………」  蒼はしばらく何も言わなかった。  遥陽も急かさない。さっき『今すぐ答えなくていい』と言ったばかりだ。  それでも遥陽の心臓は、まるで判決を待つ被告人のようにドックンドックンとうるさく鼓動していた。  やがて、蒼が白い頬をほんのりと赤く染め、眼鏡のフレームに手を当てる。 「……じゃあ」 「ん?」 「今日……ちゃんと、デートしてみたい」 「…………」  その瞬間、遥陽の動きがピタリと止まった。 「……はい?」 「だから」  蒼はますます顔を真っ赤にしながら、それでも逃げずに遥陽を見つめ返す。 「僕、恋愛とか……正直まだよくわからないし」 「うん」 「遥陽のことも、今までずっと親友だと思ってたから……いきなり恋人になれるかって言われたら、僕にはわからない」 「……うん」  遥陽は固まったまま、ただ静かに聞いている。 「でも」  蒼は少しだけ視線を落とし、はにかむように言った。 「遥陽と……『デート』するのは、してみたい」  数秒間、遥陽の頭が真っ白になる。ややあって、唸り声のような呟きが漏れる。 「……マジで言ってる?」 「何回言えばいいの」 「いや、だって……っ」  遥陽は思わず両手で顔を覆った。 「フラれる覚悟決めて腹括って告ったんだけど俺……っ」 「振ってないよ?」 「だから困ってんだろ!!」 「なんで困るの!?」  遥陽は耐えきれずに破顔した。胸のつかえが取れたような、心底ほっとした笑顔だった。 「……わかった、ありがとう」  顔を上げる。 「じゃあ、告白の返事は保留な」 「いいの?」 「いい」  即答。 「藤原のことも含めて、ちゃんと蒼が考えて決めればいいよ」  そこで一瞬だけ、胸の奥の嫉妬が顔を出した。 「……まあ、できれば俺を選んでほしいけどさ」 「遥陽」 「今のは独り言! 聞かなかったことにしろ!」  それから、遥陽は手首を捻って腕時計を見た。 「まだ八時前か」  遥陽の表情がガラリと変わった。  いつもの明るくて少し強引な顔。けれど、その瞳の奥には隠しきれない歓喜と緊張が滲んでいる。 「よし」 「?」 「一ノ瀬蒼くん」  遥陽は妙に改まった所作で、テーブル越しに右手をすっと差し出した。 「これから俺と、初デートしてください」 「……ご飯、もう食べ終わっちゃうけど」 「今までは親友としての飯!」 「そうなの?」 「ここからデート!」  相変わらずの強引な屁理屈だ。  蒼はクスクスと小さく笑いながら、差し出された大きな手を見つめた。  そして、自分の細く華奢な手を、その大きな手に重ねた。 「……よろしくお願いします」 「……」  遥陽が目を見開いて再び固まる。 「遥陽?」 「……いや」  重ねられた手を見る。  蒼を見る。  また、繋がった手を見る。 「……俺さ、手ぇ出しておいて何だけど」 「うん」 「マジで握り返してもらえると思ってなかった……」 「じゃあ、離す?」  蒼が照れたように自分の手を引こうとした。 「待って待って待って!!」  遥陽が反射的に強く蒼の手を握り返した。 「あぶねえ……っ!」 「なにが?」 「せっかく繋いだのに手放すかよ!」  口にしてから、ハッと息を飲んで動きを止めた。  テーブルの上で握り合う手。  男子高校生の頃と比べて遥陽の手は大きく筋ばり、蒼の小さな手を包み込めるほどだ。  今までも、触れたことなら何度だってあった。  混雑した電車で抱え込むように庇った。  人混みで腕を引いた。  肩を組んで冗談を言い合った。  ふざけて頭をくしゃくしゃに撫で回した。  でも。  これは、全然違う。  明確な意志を持って——恋人候補として、手を繋いでいる。  蒼の指先が、微かにピクッと動いた。  たったそれだけの触れ合いで、遥陽の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。 「……やべ」 「ん?」 「蒼」 「なに?」 「俺、たぶん今日めちゃくちゃダサいわ」 「いつもとそんなに変わらないよ」 「それは俺がいつもダサいって事ですね!?」  蒼が吹き出し、遥陽も降参したように笑った。  支払いを済ませ、二人で店を出る。  夜風が心地よく吹き抜ける中、アパートへ向かうルートとは逆方向へ、二人は並んで歩き出した。 「どこ行くの?」 「んー……」  遥陽が周囲を見渡す。 「ゲーセンでも行くか?」 「初デートがゲームセンター?」 「いいだろ。俺らっぽくて」 「ふふ。確かにそうだね」  街灯の光の下を、並んで歩く。  さっきテーブルの上で繋いだ手は、会計の際に一度離してしまった。  今は『親友』だった頃と同じように、少しだけ間を空けて隣を歩いている。  けれど。  遥陽の右手が、身体の横で妙に所在なさげにゆらゆらと揺れていた。 「……」  隣を歩く蒼の横顔を見る。  自分の右手に視線を落とす。  また蒼を見る。 「……なに?」 「いや……」  数歩、足音だけが重なる。 「…………」  また、チラッと見る。 「遥陽?」 「……あのさ」  遥陽にしては珍しく、酷く歯切れが悪い。 「もう一回……手、繋いでいいか?」  親友だった頃までなら、こんな許可絶対に求めなかった。  告白してからは。  肌が触れ合うことのすべてに、特別な意味が宿ってしまう。  六年間の片思いを隠し通してきた男。  その真剣な好意を受け止め、新しい一歩を踏み出した男。  二人の関係の『名前』は、まだついていない。  それでも今夜、間違いなく二人はそれを——『初デート』と呼ぶことにした。  遥陽は真っ赤になった顔を背けながら、おずおずと大きな手を差し出した。 「……一応、デート中だし」  差し出された遥陽の大きな手を、蒼はしばらく見つめていた。  遥陽は『デート中』と言っているくせに、そわそわと落ち着かない様子で視線を微妙に泳がせている。  さっき自分から告白までした男とは思えない弱気な態度だ。  蒼は少しだけ考えると、差し出された手に触れる——のではなく。  自分から、遥陽の大きな右手の中に手を滑り込ませてギュッと握りしめた。 「……!」  遥陽の指が、びくっと大きく跳ねる。  蒼はそのまま、お互いの指と指を深々と絡め合わせた。 「デートなら、繋ぐんでしょ?」 「…………」 「遥陽?」  返事がない。  不審に思って顔を覗き込むと。  遥陽は思いきり顔を真横に逸らしていた。 「……こっち向いてよ」 「無理」 「なんで?」 「今は絶対に無理」 「さっき自分から繋いでいいかって聞いたのに」 「それとこれとは話が完全に違う!」 「何が違うの?」 「蒼からこんなグイグイ来られるなんて聞いてねえ!!」  遥陽の顔が、耳まで真っ赤に染まっている。 「…………」  蒼が眼鏡の奥からじっと見つめる。 「遥陽、照れてる?」 「照れてねえ」 「耳、真っ赤だよ」 「……酒のせい」 「酔い覚めたでしょ」 「暑いんだよ」 「もう夜だよ?」 「……うるせえ!」  焦りまくる姿に、蒼がくすっと笑った。 「遥陽、かわいい」 「——お前な!」  耐えかねてようやく遥陽が振り向く。  その瞬間、遥陽がピタリと止まった。  夜、街灯の柔らかな光の下。  自分としっかりと手を繋ぎ、嬉しそうに蒼が笑っている。  高校一年の春。  体育館に向かう途中、遠くから眺めることしかできなかった存在。  高校二年で、初めてまともに言葉を交わした。  意気投合して、一番親しい友達になった。  大学も同じになって。  ずっとずっと、並んで隣を歩いてきた。  でも——こんなふうに手を繋いで歩いたことは、一度もなかった。 「……蒼」 「ん?」  かたく強張っていた遥陽の表情が、ゆっくりと柔らかく解けていく。 「俺さ」  指を絡めた手に、少しだけ力を込めて握り返す。 「今、めちゃくちゃ嬉しい」  からかうでもなく。  お調子者のフリをして誤魔化すでもなく。  ただまっすぐに、胸の中の熱い本音だけを口にした。 「……すげー嬉しい」 「……うん。よかった」  蒼の何の気なしの返事に、また遥陽が言葉を詰まらせて黙り込む。 「…………」 「今度はなに?」 「いや……」  遥陽は降参したように笑った。 「やっぱお前、ずるいわ」 「なにもしてないよ?」 「その無自覚なのが一番たち悪いんだよ」 「なにそれ。ひどいなあ、もう」  二人はそのまま、夜の街を並んで歩き出した。  絡めた手は、決して離さない。  少し歩いて、ゲームセンターへ到着する。  自動ドアが開いた途端、派手な電子音とポップな音楽が押し寄せてきた。 「さて」  遥陽が繋いだ手を、顔の高さまで持ち上げる。 「問題です」 「なに?」 「これからゲームをするには、この手を離さなければいけません」 「そうだね」 「…………」 「……離さないの?」 「……ちょっと惜しくなってさ」 「ふふ」  仕方なく、名残惜しそうに指をほどく。  遥陽は自分の右手をどこか寂しそうに眺めていた。 「何したい?」  蒼が店内を見回す。  最新のクレーンゲーム。  大音量の音楽ゲーム。  賑やかなメダルゲーム。  若者が並ぶプリクラ機。  いろんな筐体が並んでいる。  その中で——蒼の視線が一瞬だけピタリと止まった。  クレーンゲームのガラスの向こう。  大きな、ふわふわした茶色い犬のぬいぐるみ。  遥陽はその些細な目の動きを見逃さなかった。 「……あれ?」 「え?」 「欲しいのか?」 「別に」 「今、絶対欲しそうに見てただろ」 「見ただけだよ」 「ふーん」  遥陽が口端を吊り上げて笑う。 「じゃ」  ポケットから財布を取り出す。 「彼氏候補、高橋遥陽くんの実力を見せますか」 「彼氏候補って自分で言う?」 「候補くらいには入れておいてくれよな!」  チャリン、と硬貨を投入する。  一回目。  ウィーンと動いたアームが、犬の頭を優しく撫でて終了。 「…………」  蒼が耐えきれずに吹き出した。 「今の何?」 「……ウォーミングアップだよ、ウォーミングアップ」  二回目。  犬の身体が少しだけ浮く。  三回目。  またアームが頭を撫でる。 「遥陽、もしかして下手?」 「黙って見てろ! こういうのはな、アームのクセを見極めてからが本番なんだよ!」 「クセ?」 「そう!」  四回目。六回目。九回目。十二回目。 「……遥陽」 「何だよ」 「もう普通に買った方が安くない?」 「ここまで突っ込んどいて引けるか!! 男のプライドがかかってんだよ!」  完全に意地になっている。  そして——十五回目。  アームが絶妙な角度で引っかかり、犬がころんと落ちた。 「——っしゃああ!!!」  遥陽が本気でガッツポーズを決める。 「見たか蒼!」 「千五百円……」 「金額を計算すんな!」  取り出し口から大きな景品を引っ張り出し、蒼の胸元へポンと差し出す。 「ほら」 「僕に?」 「欲しそうに見てただろうが。お前以外に渡す奴いねえよ」  蒼が茶色い犬のぬいぐるみを受け取る。 「ありがとう」  大きなふわふわのぬいぐるみを嬉しそうにぎゅっと抱きしめる姿を見て、遥陽は満足そうに目を細めた。 「……かわいいな」 「かわいいね」  遥陽の動きが、一瞬固まる。 「……いや、両方」 「え?」 「何でもない!」 「またそれ」 「今日は許せって」  まだ恋人同士になったわけではない。  あの真剣な告白の返事だって、もらっていない。  それでも遥陽にとっては——六年間胸に秘め続けた、大好きな人との初めての特別な『デート』だった。  そしてたぶん。  この甘くて愛おしい夜のことを、二人は一生忘れない。  遥陽の視線が、賑やかなゲームセンターの奥で不意に止まった。 「…………」 「遥陽?」  蒼が大きな犬のぬいぐるみを愛おしそうに抱えたまま、その視線の先を追う。  視線の先にあったのは——最新型のプリクラ機だった。 「……撮る?」 「プリクラ?」 「うん」  遥陽は呟くように言ってから、少し照れたように口元を緩めた。 「俺らさ、写真ならスマホの中にも大量にあるじゃん」  高校時代の賑やかな文化祭。  桜が舞っていた大学の入学式。  いつもの仲間たちで遊びに行ったとき。  ふざけて変顔をした写真も、二人だけで並んで映った写真も、数え切れないほどアルバムに眠っている。 「でもさ」  遥陽がまっすぐ蒼を見る。 「今日撮る写真は……今までとはちょっと意味が違うだろ」 「違う?」 「初デートの写真」 「…………」  蒼の白い頬が、じわっと熱を帯びて赤く染まっていく。  遥陽はそれを見て、つられたように真っ赤になった。 「……あー、嫌なら無理にとは言わねえけど」 「撮る」 「え」 「せっかくの機会だし」 「…………よし」  遥陽の顔が、パッと太陽のように明るくなった。 「撮ろう」  撮影ブースのカーテンをくぐる。  機内の狭い空間に二人で並ぶと、いつも以上に互いの距離が近く感じられた。  蒼は胸元に犬を抱え、遥陽はそのすぐ隣に立つ。 『撮影が始まるよ! 位置についてね!』  電子的な明るい音声ガイダンスが流れ始めた。 「うわ、もう始まる!」 「遥陽、距離近い」 「ブースが狭いんだって!」 『3、2、1――』  一枚目。  遥陽が蒼の華奢な肩へ自然な動作で腕を回した。  パシャ。  フラッシュが焚かれる。 「……これ、普通にいつもの俺たちの写真じゃん」 「確かに。いつもこんな感じだね」 『次のポーズ!』  二枚目。  モニターには、二人で手を合わせてハートを作る見本ポーズが映し出された。 「…………」 「…………」  二人して、思わず息を詰めた。 「……蒼」 「なに」 「やる……のか?」 「遥陽がやりたいなら」 「その言い方、めちゃくちゃずるくね!?」  カウントダウンの数字が減っていく。時間がない。 「ほら、早く!」  遥陽が照れを殺して、片手で半分のハートを作る。  蒼も慌てて反対側から、小さな手を合わせた。  指先と指先が、微かに触れ合う。  パシャ。 「…………」  画面が変わっても、遥陽の手は動かなかった。 「写真、終わったよ?」 「分かってる」 「じゃあ手、離して」 「……あと二秒」 「なんで?」 「いいから」 『次のポーズ!』 「次きた!」 「うわっ」  三枚目。  今度の指示は『顔を近づけて!』。 「…………」  またしても、二人して声を失う。 「これ……」  遥陽がチラッと蒼を見る。 「どうする?」 「顔を近づけるんでしょ?」 「そうだけど……っ」  蒼がためらいもなく、素直に遥陽の肩口へと身体を寄せてきた。 「……っ」  遥陽の心臓が激しく跳ね上がる。 「蒼、待っ……!」  遥陽も顔を寄せる。  近い。  肩と肩が隙間なく触れ合っている。  触れ合いそうな頬と頬の距離も、ほんのわずか数センチ。  遥陽が耐えかねて、反射的に隣の蒼の顔を見つめた。  蒼も驚いたように、遥陽の瞳を見つめ返す。  パシャ。 「…………」  撮影終了の電子音が鳴る。  二人とも、カメラレンズを全く見ていない。  互いの顔を、至近距離で見つめ合っている写真。 「……これ」  遥陽が画面に表示されたプレビューを見て、頭を抱えた。 「めちゃくちゃ恥ずかしくないか……?」 「そう?」 「俺の顔、よく見てみろよ」  画面の中の遥陽は……熱を孕んだ瞳で蒼の顔をじっと見つめている。 「……好きな奴を見る顔って、こんな分かりやすいんだな」  そう言った直後に猛烈に恥ずかしくなって手で顔を覆う。 「消す?」  蒼が画面の削除ボタンに指を伸ばす。 「絶対消さない!」  即答だった。 「これは確実に保存だろ」 「保存なんだ」 「当たり前だ!」  撮影を終え、隣の落書きコーナーへ移動する。  蒼が電子ペンを手にした。 「なに書く?」 「まずは日付だろ」 「今日の日付?」 「そう」  遥陽がペンの端を持ち、画像の隅に日付を迷いなく書き込む。  そしてそのすぐ下。  一瞬だけ手を止め、一気にペンを走らせた。 『初デート』 「遥陽!?」 「いいじゃん!」 「恥ずかしいよ!」 「記念だろ、記念!」  蒼が焦って消しゴムツールで消そうとする。 「待て待て待て!」  遥陽が慌てて蒼の細い手首を掴んで止めた。 「これは絶対に残す!」 「やだ!」 「なんでだよ!」 「誰かに見られたら恥ずかしいってば!」 「俺と蒼しか見ねえよ!」 「遥陽が見るでしょ!」 「俺が見る分にはいいだろ!?」  狭いコーナーで、二人して笑いながらペンを取り合う。  結局。 『初デート』  の文字は、そのまま写真に残った。  電子音の溢れるゲームセンターを出る。  遥陽はプリントアウトされたばかりの小さなシールを、歩きながら何度も何度も眺めていた。 「……遥陽」 「ん?」 「さっきからずっと見てる」 「いいだろ、別に」 「そんなに気に入ったの?」 「気に入った」  遥陽は三枚目の写真に視線を落とす。  至近距離で互いを見つめ合っている写真。 「俺さ」  少しだけ、遥陽の声が低く柔らかくなった。 「これ……たぶん一生宝物にする」 「大袈裟だなあ」 「大袈裟じゃねえよ。本気だ」  遥陽はポケットから自分の革財布を取り出した。  カードを入れる透明なポケットを開くと、丁寧にプリクラを滑り込ませる。 「ほら」 「そこに入れるの?」 「常備決定」 「恥ずかしいって……」 「俺の財布なんだから俺の自由だろ」  そう言って満足そうに財布をしまうと、遥陽は再び前を向いて歩き出そうとして——急に足を止めた。 「……あ」 「なに?」  蒼も立ち止まり、不思議そうに遥陽を見上げる。  遥陽がゆっくりと蒼を見た。 「蒼、今日……楽しかったか?」  少しだけ不安そうな声音。 『ただの親友』から『一人の男』として蒼に自分を見てもらうための、初めてのデート。  遥陽にとっては、五年間で最も愛おしくて楽しくて仕方ない時間だった。  でも——蒼はどうだろうか。 「…………」  返事をじっと待つ遥陽の顔は、いつもの明るくて少しチャラい男の顔ではなく……好きな男の答えを固唾を飲んで待つ、ただの21歳の恋する男の顔だった。  蒼は、遥陽の問いかけに少しだけ目を丸くした。 『今日……楽しかったか?』  いつもの遥陽なら、『当然楽しかっただろ?』くらい誇らしげに言いそうなのに。  今は違う。蒼の答えを、本気で気にしている様子だった。 「……楽しかったよ」 「…………そっか」  遥陽の肩から、分かりやすく力が抜ける。 「よかった……」 「そんなに心配する事?」 「当たり前だろ」  遥陽は困ったように苦笑する。 「俺は六年越しの初デートだけど、蒼からしたら今日いきなり親友に告られて、そのまま連れ回されてんだから」 「連れ回されたとは思ってないよ」 「そう?」  蒼は茶色い犬のぬいぐるみを胸元で抱き直した。少し照れて眼鏡を触りながら、言葉を紡ぐ。 「楽しかったから……また遥陽とデートしたいし」 「…………」  遥陽の足がぴたりと止まった。 「遥陽?」 「……もう一回言って」 「やだ」 「なんで!?」 「聞こえてたでしょ」 「聞こえたけど確認したい!」 「聞こえたならいいじゃん」  蒼がくすっと笑って歩き出す。 「ちょ、蒼!」  遥陽が慌てて追いつく。  少しの間を置いて、遥陽が呟いた。 「……蒼」 「ん?」 「それ、期待していい?」  遥陽の声から、いつもの軽さが消えていた。 「またデートしたいって」  遥陽が真剣に蒼を見つめる。 「俺のこと……親友じゃない意味でも、知ろうとしてくれてる?」 「…………」 「別に、今すぐ好きになれって意味じゃねえよ」  遥陽は少しだけ笑ってみせた。 「ただ、もし俺ひとりだけ浮かれてたら、さすがに恥ずいから確認」  蒼は歩きながら考えを巡らせる。  昨日まで、遥陽は『高校からの大親友』だった。  今日、その遥陽から六年間好きだったと告白された。  戸惑いが全くないわけではない。  でも、嫌ではなかった。  手を繋ぐことも。  一緒に遊ぶことが『デート』になることも。  遥陽から『好き』と言われることも。  むしろ——。 「……うん」 「え?」 「知りたいと思ってるよ」  蒼はまっすぐに遥陽を見る。 「親友じゃない遥陽も」 「…………」 「だから、期待していいよ」 「…………マジか」 「うん」  遥陽は慌ててそっぽを向いた。そのまましばらく無言が続く。 「……遥陽?」 「今こっち見んな」 「なんで?」 「顔がニヤけてる」 「見たい」 「絶対嫌」  蒼が覗き込もうとすると、遥陽はあからさまに顔を逸らした。 「やめろって!」 「見せてよ」 「蒼!」  笑いながら逃げようとして追いかけっこになる。  結局、蒼に顔を覗き込まれた。 「……ほんとだ」 「だから言っただろ!」 「すごい嬉しそう」 「嬉しいに決まってんだろ!」  遥陽が足を止める。そして今度は、照れて顔を赤くしながらも蒼から目を逸らさなかった。 「六年好きだった奴から、『期待していい』って言われたんだぞ?」 「…………」 「嬉しくないわけねえだろ」  蒼も頬が熱くなり、少し顔を赤くする。  遥陽はそれを見て、ふっと優しく笑った。 「……じゃあ決定」 「なにが?」 「次のデート」 「もう?」 「善は急げ」  ポケットからスマホを取り出す。 「水族館、映画、遊園地……あ、蒼ってプラネタリウム好きそう」 「好き」 「即答じゃん」 「行きたい」 「じゃあプラネタリウム」  遥陽が嬉しそうにスマホへ入力しようとして——ぴたりと手を止めた。 「……ストップ」 「ん?」 「今度はちゃんと最初からデートって言って誘う」  スマホをポケットにしまい、わざわざ蒼の正面へ回り込む。 「一ノ瀬蒼くん」 「はい」 「次の休み、俺とプラネタリウムにデートしに行ってください」  蒼は思わず吹き出した。 「……はい」 「っしゃ」  遥陽は嬉しそうに小さくガッツポーズをする。 「藤原には悪いけど」  遥陽は蒼の手を取ると、するりと指を絡めた。 「俺、ここから本気でいくから」  今度はもう——親友という場所に隠れるつもりはなかった。  交差点が見えてきた。  あと数分も歩けば、今日のデートが終わってしまう。  遥陽はさっきまで次のプラネタリウムの件を楽しそうに話していたのに、交差点へ近づくにつれて少しずつ口数が減っていった。 「…………」 「遥陽?」 「ん?」 「静かになった」 「そう?」 「うん」 「……まあ、な」  遥陽はどこか曖昧に笑った。  交差点までやってくる。ここから先は、二人の帰る方向が違う。  いつもの二人なら、『じゃ、また明日』とそれだけであっさりと終わる場所だった。  けれど、今日は違う。  繋いでいた手が、離れない。 「……遥陽?」  蒼が手元を見つめる。遥陽も、繋いだままの手を見つめている。 「…………」 「信号、変わっちゃうよ?」 「わかってる」 「じゃあ……」  蒼がほんの少しだけ手を引こうとした、その瞬間。  きゅっ。  遥陽の手に力がこもり、強く握り直された。 「……待って」 「?」 「あとちょっとだけ」  いつもの軽い調子ではない、低く落ち着いた声。遥陽は繋いだ手を見つめたまま、小さく息を吐き出した。 「今日さ」 「うん」 「俺、たぶん人生で一番楽しかった」 「大袈裟だよ」 「大袈裟じゃねえって」  遥陽がようやく顔を上げ、蒼の瞳をまっすぐに見つめる。 「六年間、ずっと夢見てた事がやっと叶ったから」  好きだと伝えること。 親友としてではなく、デートをすること。 こうして手を繋ぐこと。  その全部。 「だから……」  言葉を詰まらせ、遥陽は言い淀む。 「…………」 「なに?」 「これ言ったら、重いかな」 「言ってみないとわからないよ」 「それもそうか」  少しだけ苦笑いを浮かべ、遥陽はもう一度蒼を見つめた。 「……今日、まだ帰したくねえって言ったら困る?」 「…………」 「いや、変な意味じゃなくて!」  蒼が黙り込むと、遥陽はすぐに慌てて手を振った。 「もうちょっと一緒にいたいってだけ! カフェに行ってもいいし、その辺をブラブラ歩くだけでもいいから!」  必死に弁解してから、遥陽は恥ずかしそうに苦笑した。 「……なんか今日の俺、余裕なさすぎだな」 「いつもはあるの?」 「あるわ!」 「そうかな」 「あるって!」  くすっと蒼が笑う。その笑顔につられるように、遥陽の表情も柔らかくなった。 「……でも」  遥陽の表情が、再び少しだけ真面目なものに戻る。 「今日は無理」 「なにが?」 「好きって言ったあとに、手を繋いで、デートして」  絡めた指をそっと動かす。 「普通に『じゃーな』って別れられるほど、俺は器用じゃねえんだよ」  隠すことのない、まっすぐな本音だった。 「あと十分だけ」 「十分?」 「うん」 「なにするの?」 「何もしない」  遥陽はすぐ近くの公園に視線を向けた。 「ベンチに座って喋るだけ」 「それだけ?」 「それがいい」  結局、約束の十分は三十分になった。  二人はどうでもいい話をたくさんした。  今日撮ったプリクラの話。 クレーンゲームで取った犬のぬいぐるみにつける名前。 次のデートで行くプラネタリウムの話。 高校時代、遥陽が蒼の誕生日の一か月前からこっそり計画を立てていたという裏話。放課後に二人で受験勉強をした時の笑い話。  そして——。 「……やべ」  遥陽がふと時計を見て、声を漏らした。 「帰らないと」 「うん」  二人はベンチから立ち上がる。  今度こそ、交差点の前。 「蒼」 「ん?」 「今日はありがとな」 「僕もありがとう。楽しかったよ」 「……うん」  遥陽が笑う。手はもう離れている。  それでも最後に、遥陽は蒼の頭へそっと手を置いた。いつもみたいに雑に撫でまわしたりはしない。一度だけ、愛おしそうに優しく触れる。 「また明日」 「また明日、遥陽」  蒼が横断歩道を渡っていく。 遥陽は蒼の姿が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。 「…………」  蒼の背中が見えなくなると、遥陽は財布からまたプリクラを取り出して眺めた。 「…………っしゃ」  誰も見ていないところで、遥陽は小さくガッツポーズを決めた。

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