Zeφyr(ゼファー) / 第5話

4、選ぶということ

【【4、選ぶということ】】  ——翌日。  大学のキャンパス。昼休み前の賑やかな時間帯。  蒼が講義室を出たところで、声をかけられた。 「一ノ瀬」  振り向くと、そこに立っていたのは藤原悠真だった。 「ちょっといい?」 「うん」  悠真の様子は、昨日よりも少しだけ緊張しているように見えた。二人で静かな廊下の端へと移動する。 「昨日の告白なんだけど」 「……うん」 「返事を急かすつもりはないよ」  悠真はそう前置きをしてから、まっすぐに蒼を見つめた。 「でも、その前に聞きたいことがある」 「なに?」 「高橋にも……告白された?」 「…………」  蒼のわずかな沈黙と表情だけで、悠真は悟ったようだった。 「……やっぱりか」 「どうしてわかったの?」 「飲み会のとき」  悠真は苦笑する。 「あいつ、一ノ瀬のことしか見てなかったから」 「…………」 「それに、昨日俺が告白したとき、高橋いただろ」 「え?」 「自販機のところ」  蒼は目を丸くした。 「気づいてたの?」 「途中でな」  悠真は壁に背中を預ける。 「あの顔見たらわかるよ」 「どんな顔?」 「この世の終わりみたいな顔」 「…………」  妙に想像がついてしまい、蒼は言葉を失う。 「で」  悠真が蒼をじっと見つめる。 「やっぱり、そのあと高橋も言ったんだな?」  蒼は少し迷ってから、そっと頷いた。 「……うん」 「そっか」  悠真は一度目を伏せた。数秒の静寂のあと、不意に顔を上げる。 「じゃあ俺、ちゃんと言っておく」 「?」 「それでも、俺は諦めない」  迷いのない、まっすぐな瞳だった。 「高橋が一ノ瀬と五年一緒にいるのは知ってる。俺じゃ勝てないくらい、一ノ瀬のこと知ってるのもわかってるよ」  それでも、と悠真は言葉を継ぐ。 「好きになった時間の長さで、最初から勝負が決まってるわけじゃないだろ?」 「…………」 「俺は俺で、一ノ瀬に好きになってもらえるように頑張るから」  悠真が少しだけ笑ってみせた。 「だから、俺のこともちゃんと見てほしい」  そのとき——。 「——ちゃんと見るって、なにを?」  聞き慣れた声が廊下に響いた。二人が振り向くと、そこには缶コーヒーを片手に持った遥陽が立っていた。 「…………藤原」 「高橋」  一瞬にして、二人の間の空気が変わる。遥陽は迷いのない足取りで、蒼のすぐ隣まで歩いてきた。  昨日までなら、間に割り込んで適当な冗談を言い、場を流して終わらせていただろう。  けれど、今の遥陽は違っていた。  悠真が静かに尋ねる。 「一ノ瀬に聞いた?」 「何を」 「俺が告白したこと」 「知ってる」 「じゃあ話が早いな」  悠真は遥陽をまっすぐに見据えた。 「俺、高橋に遠慮する気はないから」 「…………」  遥陽が一瞬だけ黙り込む。 そして—— 「そっか」  意外にも、ふっと笑った。 「俺も」 「え?」 「五年分のアドバンテージがあるからって、余裕ぶるのはやめた」  蒼が思わず遥陽の顔を見上げる。今の遥陽は、昨夜のように照れて逃げ出すような男ではなかった。 「藤原」 「何」 「悪いけど」  遥陽は蒼の隣に堂々と立つ。身体が触れ合う距離ではないけれど、その存在感は揺るぎない。 「俺も、蒼が好きだ」  本人のすぐ隣で、初めて人前でなにひとつ隠さずにはっきり言葉にした。 「だから、譲る気ねえよ」 「……望むところだ」  悠真も不敵に笑う。 「でも、決めるのは一ノ瀬だからな」 「当たり前だろ」  二人の真剣な視線が、同時に蒼へと向けられた。 「…………」  当事者である蒼だけが、その場に取り残される。  遥陽。五年間、ずっと一番近くにいた親友。昨日初めてデートをして、手を繋いで、また一緒にデートしてみたいと思えた相手。  そして悠真。まだお互いのことをよく知らないけれど、どこまでも誠実にまっすぐに自分を好きだと伝えてくれた相手。 「……あの」  蒼は意を決して口を開いた。 「二人とも」 「ん?」 「なに?」 「僕を挟んで勝負みたいにするの、やめてくれる?」 「…………」 「…………」  遥陽と悠真は顔を見合わせた。 「……ごめん」 「悪い」  ほぼ同時に頭を下げる二人を見て、蒼は小さくため息をつく。 その横で、遥陽がボソッと呟いた。 「でも、負けねえから」 「聞こえてるよ、遥陽」 「はい」  緊張が解けたように、悠真が吹き出した。 「高橋って、一ノ瀬には本当に頭が上がらないんだな」 「うるせえ」  こうして、五年間止まっていた関係の中に、はっきりと二人目の恋が割り込んできた。  そして何より、昨日まで恋なんてどこか他人事だった蒼自身が——初めて『誰かを好きになるとはどういうことか』を真剣に考え始めることになった。  その日の午後。  三限の講義が終わり、蒼はノートパソコンと資料をバッグに仕舞うと、一人で講義室をあとにした。  遥陽とは次の講義が別で、悠真もまた別の棟へ移動している。  廊下を歩きながらスマホを取り出すと、画面には遥陽からのLINEの通知が届いていた。 『四限終わったら正門な』  続けて、すぐに次のメッセージが送られてくる。 『昨日のプリクラ、スマホケースにも入れようか悩んでる』 『やっぱキモい?』  画面を見つめたまま、蒼は思わずふっと笑ってしまう。『好きにしたら?』と呆れつつも愛おしさを込めて返信しようとした、まさにその時だった。 「あの、一ノ瀬くん」 「?」  名前を呼ばれ、蒼はスマートフォンから視線を上げた。  そこに立っていたのは、見覚えのない男子学生だった。 いや——完全に見覚えがないわけではない。同じ講義を何度か受けている顔だ。ただし、名前までは知らない。 黒髪で背が高く、落ち着いたコーディネートの服装。どちらかといえば静かで大人しそうな雰囲気を纏っていた。 「今、ちょっと時間大丈夫……?」 「僕……?」 「うん」  男子学生の表情は硬く、声もかすかに震えている。明らかに緊張しているのが伝わってきた。 「……大丈夫だけど、なに?」 「あのさ」  男子学生は周囲を伺うように一通り視線を巡らせてから、意を決したように息を吐いた。 「突然こんなこと言われても、困るとは思うんだけど……」 「…………」  その言葉を聞いた瞬間、蒼の胸の奥で嫌な予感がした。昨日から今日にかけて、既に何度か聞いたことのあるような前置き。 「俺、一ノ瀬くんのこと……前からずっと気になってて」 (……また……?)  蒼が言葉を失っていると、男子学生は懸命に言葉を繋ぐ。 「去年の英語の講義、一緒だったの覚えてる?」 「……ごめん、あんまり……」 「あ、いいんだ! ほとんど話したことなかったし!」  男は慌てたように手を横に振って苦笑いした。 「でも、俺は結構覚えてて……ずっと話しかけようと思ってたんだけど、なかなか勇気が出なくて」 「…………」 「それで昨日、一ノ瀬くんが飲み会にいたって友だちから聞いたんだ。……あと、藤原が告白したって噂も」 「え?」  蒼は思わず声を漏らした。 「噂が広まってるの……?」 「大学って、こういう噂広まるのほんと早いから……」  男は困ったように微笑むと、今度はまっすぐに蒼のアイスブルーの瞳を見つめた。 「だから……俺も何もしないまま諦めたら絶対後悔すると思って。……俺とも、一回デートしてくれないかな?」 「…………」  三人目。  昨日まで、蒼にとって『恋愛』なんてどこか他人事で、自分にはあまり関係のないものだと思っていた。 それが、わずか二十四時間ほどの間に怒涛の勢いで押し寄せている。  六年間片思いをしてくれていた、一番大切な親友。 同じゼミの学友でしかなかった、藤原悠真。 そして今、名前すら知らない同じ学部の男子学生。  一気に三人だ。 「……あの、えっと……」  突然の事態に蒼が困惑して固まっていると——。 「あ、一ノ瀬くん!」  今度は甲高い女性の声が飛んできた。同じ講義を受けていた女子学生二人組が通りかかる。 「ん? なにして——」  二人は足を止め、その場の光景に視線を巡らせた。 緊張した面持ちの男子学生。困り果てた様子の蒼。廊下の隅には、妙に張り詰めた空気が漂っていた。 「…………あ」  片方の女子学生が、瞬時にピンと来たように目を見開いた。 「もしかして告白されてる!?」 「ちょっ……!?」  男子学生の顔が、一瞬で真っ赤に染まる。 「えっ、また!?」 「またってなに!?」  思わぬ言葉に、蒼は思わず聞き返した。 「だって昨日、藤原くんが一ノ瀬くんに告ったって話、もうみんな知ってるよ?」 「あと、高橋くんもでしょ?」 「——な、なんで!?」  蒼が素で叫ぶと、女子学生二人は目を丸くした。 「え、違うの?」 「…………」  違わない。全然違わないのが、一番タチが悪い。 「ほらー!」 「やっぱり本当だったんだ!」 「待って、待ってよ……!」  蒼が必死に制止しようとするも、女子二人は完全に面白がっているようだった。  まさにその時—— 「——蒼?」  最悪と言ってもいいタイミングで、聞き慣れた声が響いた。  遥陽だ。しかも、その隣にはなぜか悠真まで並んで歩いてきている。 「…………」 「…………」  蒼の身体が完全に凍りついた。  歩み寄ってきた遥陽の視線が、その場の状況を冷静に捉えていく。 心底困ったような顔で固まる蒼、妙にはしゃいでいる女子二人組、そして——顔を真っ赤にして立ち尽くす知らない男。 「…………何これ」  低い声で呟く遥陽の隣で、悠真も怪訝そうに眉をひそめた。 「一ノ瀬、何してんの?」  女子学生の一人が、待ってましたと言わんばかりに嬉々として報告する。 「この人も一ノ瀬くんに告白してたの!」 「「——は?」」  遥陽と悠真の声が、恐ろしいほど綺麗にハモった。 「…………」  突然現れた二人の醸し出す圧に、男子学生が引きつった顔で視線を向ける。 「……藤原と、高橋……?」  遥陽はゆっくりと蒼へ視線を戻した。 「……蒼」 「僕に言わないでよ!」 「いや、俺まだ何も言ってねえよ!?」  蒼の悲痛な叫びに遥陽が突っ込んでいると、悠真がすっと男子学生の方へ踏み出した。 「お前も一ノ瀬のこと好きなのか?」 男子学生はたじろぎながらも強く頷いた。 「……悪いかよ?」 「悪くはないけど」  悠真は呆れたように頭を掻いた。 「今日の昼、俺と高橋で『お互い遠慮しない』って話まとまったばっかりなんだけど」 「そんなの知るかよ」 「そりゃそうだわな」  そんなやり取りの中、遥陽が黙り込んで視線を巡らせた。 「…………」  悠真を見る。蒼を見る。 見知らぬ男を見る。 もう一度蒼を見る。  そして——心底参ったように頭を抱え込んだ。 「……何でこうなるんだよっ……!」 「え?」 唐突な遥陽の叫びに全員の声がハモる。 「俺、ここまでたどり着くのに五年かかったんだけど!?」  絶望混じりの遥陽の大声に、周りにいた女子も含めて全員から笑いが巻き起こる。 「笑い事じゃねえって!」  隣で悠真まで吹き出しているのを見て、遥陽は顔を顰めた。 「藤原、お前そこ笑うところじゃねえだろ!」 「高橋、そこ張り合うところじゃないと思うけど」 「お前は一日で告白したんだから黙っとけ!」 「一日で言った俺の方が行動力あるだろ」 「それ昨日から俺に一番効くやつだからマジでやめろ!」 「……あの」  二人の不毛な争いを前に、三人目の男子学生が完全に引いた様子で声を上げた。 「俺……帰った方がいい?」 「待って!」  蒼が声をあげて呼び止める。 全員の視線が一斉に蒼へと集まった。 「…………」  蒼は細いフレームの眼鏡をそっと押し上げ、深々と息を吐き出した。 「まず」  全員を順番に鋭い視線で射抜く。 「僕を勝手に争奪戦の商品みたいに扱うのはやめて」 「はい……」  遥陽が真っ先に小さく縮こまる。 「ごめん」  悠真も素直に頭を下げた。 「……悪い」  三人目の男も気まずそうに目を逸らす。 「それと」  今度は、ニヤニヤしながら様子を見ていた女子二人へと向き直った。 「僕のプライベートな話、なんでたった一日で学内ニュースみたいに広まってるの?」 「ご、ごめんなさい……!」  蒼の本気で困ったような雰囲気を察して、女子二人は謝りながらその場を去っていった。  残された男三人と、蒼。  一瞬、気まずい沈黙が落ちる。遥陽がひょいと手を挙げた。 「……質問していい?」 「なに?」 「こいつ誰?」  全員の視線が、三人目の男へと向けられる。 「…………」  蒼も改めて見つめた。 「……そういえば」  男の顔が派手に引きつる。 「俺……告白してから、まだ名乗ってなかった……」 「順番がおかしすぎるだろ!」  遥陽がすかさず容赦のない突っ込みを入れた。 「……《《桜| さくら》》《《井| い》》《《湊| みなと》》。国際教養学部の三回生です」  桜井は改めて呼吸を整え、蒼の澄んだアイスブルーの瞳をまっすぐに見つめた。 「……一ノ瀬。さっきの話、返事は急がなくていいから」  その言葉に、遥陽と悠真が即座に反応する。 「さっきの話?」 「……デートに誘った」 「…………」  二人は同時にスッと目を細めてお互いを見る。 「高橋」 「藤原」 「今だけ一時休戦する?」 「奇遇だな。俺もまったく同じこと考えてた」 「勝手に協定結ばないでって言ってるでしょ!」  蒼の呆れた悲鳴が廊下に響き渡る。  ——昨日まで。 一ノ瀬蒼の大学生活は、いろいろあれどまずまず平和だった。  どうやらその平穏は、今日この瞬間をもって終わりを迎えたらしかった。  そして遥陽は……この時ようやく痛感することになるのだった。  高校でも大学でも、嫌でも目立ってしまう蒼を、五年間も親友として一番近くで独占できていたこと自体が——奇跡のような幸運だったのだと。  ——その日の午後。  四限の講義が始まる頃には、蒼のスマホはもはや直視するのも躊躇われる惨状を呈していた。  机の上で、バイブレーションの重い振動と通知音がひっきりなしに蒼を刺す。  ピコン。 『一ノ瀬くんって彼氏いるんですか?』  ピコン。 『突然ごめんなさい! 同じ学部の——』  ピコン。 『藤原くんに告白されたって本当?』  ピコン。 『高橋くんとも付き合ってるって聞いたんだけど』 「…………」  蒼は小さく息を吐き、スマホの画面を伏せた。細いフレームの眼鏡の奥で、アイスブルーの瞳が戸惑う。  どうして、たった一日でこうなってしまったのだろう。昨日までは、まだ穏やかで静かな日常があったはずなのに。  もともと、プラチナブロンドの髪やアイスブルーの瞳、華奢で目立つ容姿のせいで、視線を集めたり声をかけられたりすること自体には慣れていた。だが、今日は明らかに異質だった。昼休みに廊下で巻き起こったあの大騒ぎ——悠真と遥陽、そして桜井までが入り乱れたあの不毛な応酬を聞きつけた野次馬たちが、面白半分で連絡を寄越してきているのだ。  講義が終わり、重い足取りで廊下へ出た時もそうだった。 「あ、一ノ瀬くん」  知らない女子学生が、伺うような視線を向けながら足早に近づいてくる。 「ごめんね、ちょっと聞きたいんだけど……高橋くんと——」 「ごめんなさい」  蒼は珍しく、相手の言葉を毅然と遮った。普段なら気を使って最後まで話を聞くところだが、今は限界だった。 「今、そういう話……したくないんだ」 「あ……ごめんね」  引き下がる女子学生の背中を見送りながら、壁に背をもたれかけ、蒼は深く溜め息をついた。 「……疲れた」  その時。 「蒼」  聞き慣れた低い声に弾かれたように顔を上げる。そこに立っていたのは遥陽だった。いつもならチャラチャラとした笑みを浮かべて軽快に近づいてくるはずの遥陽が、今は冗談の欠片もない真剣な面持ちで佇んでいる。 「スマホ、見せて」 「え?」 「DM、山ほど来てるだろ」 「……なんでわかったの?」 「俺のところにも来てるから」  遥陽が自分のスマホ画面を見せる。そこには、『一ノ瀬と付き合ってるってマジ?』『高橋って一ノ瀬狙ってたの?』といった無遠慮なメッセージが延々と並んでいた。遥陽は眉間に深い皺を刻み、悔しそうに吐き捨てる。 「これ、もう笑えねえな……」 「…………」 「俺らが廊下で騒ぎ立てたのも悪かった。蒼、マジでごめん」  どこまでも自分を責めようとする遥陽の真っ直ぐな誠実さに、蒼が首を振ろうとした——その時。 「俺も悪い」  後ろから、悠真が低く落ち着いた声をかけながら歩み寄ってきた。さらにその後ろからは、どこか決意を秘めた表情の桜井まで姿を現す。 「……俺も、すまん」 「…………」  突然勢揃いした三人を前に、蒼はびっくりして半歩後ずさった。 「な、なんでみんな揃ってるの……?」 「藤原と途中で出くわしたんだよ」  と遥陽が言えば、 「俺は高橋を見かけたからついてきた」  と悠真が肩をすくめる。  遥陽は悠真と桜井を順番に眺めると、表情を引き締めた。そこに先ほどまでの『恋敵』として張り合うような棘はない。 「とりあえずさ。蒼のこと面白半分で探って回ってる奴らには、俺たち三人から一切何も話さない。それで統一しようぜ」  悠真が力強く頷く。 「賛成。余計なことは言わない方がいい」  桜井も静かに口を開いた。 「俺も、なにも話さない」  三人の意思が固まったのを確認し、遥陽は蒼の方へと向き直った。その瞳には、蒼への痛いほどの気遣いが宿っている。 「蒼、お前もDMなんて気にしなくていいからな」 「でも……みんな僕の返事を待ってるんじゃ……」 「でも、じゃねえ」  少し強めの口調。だが、すぐにその声は包み込むような優しさを帯びる。 「見ず知らずの奴ら全員に気を使ってたら、蒼の身体がもたねえだろ。なんなら全部無視しろ。お前が罪悪感を持つ必要なんて一つもねえよ」 「…………」  遥陽の力強い言葉に、蒼の胸の奥に凝り固まっていた緊張がふっと解け、肩の力が抜けていくのがわかった。  夕刻。橙色に染まり始めた大学の正門前。  問題は、そこで起こった。  遥陽が当然のような顔で声をかける。 「じゃ、蒼。帰ろうぜ」  しかし、すかさず悠真がその横に並び立った。 「一ノ瀬。駅まで一緒に帰らないか?」 「え?」  さらに、桜井までが控えめながらも歩み寄ってくる。 「俺も、ちょうど方向が同じなんだ」 「…………」  遥陽の眉根がぴくりと跳ね上がった。 「お前らなあ……」 「高橋だけが当然みたいに隣をキープしようとするの、ズルくないか?」 「俺と蒼は昔からずっと一緒に帰って——」  と言いかけて、遥陽は言葉を呑み込んだ。  昨日までなら、その言い分で押し通せたはずだった。自分は誰よりも近い『親友』だったから。  けれど、今は違う。三人とも蒼に好意を告げ、同じ土俵に立ったのだ。そして何より、誰を選ぶかという選択権は、すべて蒼の側にある。  遥陽はぎゅっと一度目を閉じ、溢れ出そうになる独占欲を必死に押し殺すと、静かに目を開けた。 「……わかった」 「遥陽……?」 「蒼が決めろ」 「え?」  悠真もその提案を受け入れるように頷いた。 「そうだな。それが一番公平だ」  桜井も異論はないように深く頷く。 「俺も、一ノ瀬くんの意思に従うよ」  突然、三人の視線が自分に集中し、蒼は思わず後ずさった。 「え、待って……四人で一緒に帰ればいいんじゃないの……?」 「それでもいいけどさ」  悠真がどこか悪戯っぽく、けれど真摯な目を向けて微笑む。 「でも今日は、一ノ瀬が誰と帰りたいと思ってるのか、ちゃんと聞いてみたい」 「…………」  蒼は黙り込んだ。  遥陽と、悠真と、桜井。  誰か一人を選べば、選ばれなかった二人を拒絶することになる。優しく素直な性格の蒼にとって、誰かを傷つける選択をするのは何よりも心が痛むことだった。 「僕は……」  喉がキュッと縮こまり、言葉が続かない。  悠真はまっすぐな瞳で蒼の答えを待っている。桜井もまた、静かに決着を望むような眼差しを向けている。  そして遥陽だけは——少し離れた場所でポケットに手を突っこみ、蒼に圧力をかけないよう、じっと俯いて黙っていた。 (どうしよう……)  蒼の頭の中で、思考がぐるぐると渦巻く。  悠真は素敵な人だと思う。行動力があって真っ直ぐで、蒼の容姿だけでなく内面もちゃんと見ようとしてくれている。  桜井だってそうだ。今までずっと遠くから見つめることしかできなかったのに、今日、大きな勇気を振り絞って想いを伝えてくれた。  断りづらい。傷つけるような行動をしたくない。  ——けれど。 (……違う)  蒼の胸の奥で、小さな呟きが灯った。  今、問われているのは『どうすれば傷つけないで済むか』という問題ではない。 『自分が、誰と一緒に帰りたいのか』という、極めて簡単な自分の意思だ。  そう気づいた瞬間、霧が晴れるように答えが見えた。迷う必要なんて、最初からどこにもなかった。  蒼はすっと顔を上げた。 「…………遥陽」 「……え?」  名前を呼ばれた遥陽が、信じられないものを見るように目を見開く。 「僕、遥陽と帰る」  正門前に、しんと静かな沈黙が落ちた。 「…………」  遥陽は何も言えずに固まっている。  悠真は一瞬だけ、寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに潔く笑ってみせた。 「……そっか」  桜井もどこか寂しげに苦笑する。 「ハハ……即決されたら、もっと諦めがついたんだけどな」 「ごめん、なさい……」  申し訳なさに蒼が思わず俯きかけると、悠真がそれを制した。 「一ノ瀬、謝るのは違うだろ」 「え……?」 「お前が自分の意思で選んだんだ。堂々としてろよ」  桜井も優しく頷く。 「そうだよ。俺たちが選ばせたんだからさ」 「…………」 「じゃあな、一ノ瀬。また明日」  二人は未練を断ち切るように背を向け、それぞれの帰路へと歩き出していった。蒼はその背中が小さくなるまで見送り、ぽつりと呟く。 「……やっぱり、傷つけちゃったかな」  すると、背後から低く柔らかい声が降ってきた。 「蒼」  振り向くと、遥陽が困ったように、けれど愛おしさを隠しきれない目で蒼を見つめていた。 「それ、たぶん今のお前が一番やっちゃダメな考え方」 「……遥陽」 「誰かを選ぶってことはさ、選ばない誰かが出てくるってことだろ?」  蒼が黙り込むと、遥陽はそっと手を伸ばし、蒼の額を指先で小突いた。 「全員を傷つけないで済むような答えを優先して、お前自身が本当はどうしたいのかを後回しにするのは違うと思うぞ」 「……うん」 「だからさ」  そこで一瞬、遥陽は気まずそうに視線を手元へ落とし、頬をうっすら赤く染めた。 「俺を選んだことを、悪いことみたいに思うなよ」 「…………」 「俺は……」  溢れ出しそうになる笑みを必死に抑え込もうとしながら、遥陽は噛み締めるように言った。 「死ぬほど、嬉しいんだから」 「……ふふ、顔に出てるよ」 「そりゃ出るわ! ガッツポーズかましたいくらいだわ!」  蒼が耐えかねたように吹き出し、遥陽も笑った。  夕日に照らされる街並み。高校生で親友になってからずっと、幾度となく重ねてきた二人きりの帰り道。  けれど、二人の間に流れる空気は、昨日までと比べて違うものになっていた。 遥陽は歩きながら問いかけた。 「蒼」 「ん?」 「……なんで俺だった?」 「え?」 「いや……ちゃんと聞きたくなって」  遥陽は照れくさそうに頭の後ろをガシガシと掻きながら、横目で蒼を盗み見る。 「藤原でも、桜井でもなく……俺と帰りたいって思ってくれた理由」 「…………」  蒼は少しだけ首をかしげ、自分の胸の奥の熱を探った。けれど、やっぱり答えは一つしかなかった。 「遥陽といるのが、一番落ち着くから」  遥陽の足が、ピタリと止まった。 「それに……」  蒼も立ち止まり、振り返って遥陽を見上げる。 「昨日のデート、すごく楽しかったし……今日も、遥陽と一緒に帰りたかったんだ」 「…………」  遥陽は言葉に詰まり、赤くなった顔を隠すように俯いた。 「……遥陽?」 「……待って」 「また? 固まりすぎだよ」 「今日も脳内の処理に時間がかかってんだよ……っ」  蒼がおかしそうにクスッと笑うと、遥陽は両手で顔を覆ってしまった。けれど、その指の隙間から覗く頬は真っ赤に染まり、嬉しさを隠しきれずに口元が緩んでいる。 「……六年」  ぽつりと、掠れた声が漏れた。 「なに?」 「六年片思いして……」  遥陽がゆっくりと手を下ろし、蒼のアイスブルーの瞳をまっすぐに見つめ返す。そして、一歩だけ距離を詰める。 「昨日やっと告白できて……今日、お前が自分の意思で俺を選んでくれた」  その声が、わずかに震えている。 「これ……期待するなって方が無理だからな?」  蒼は眼鏡のフレームをそっと触ると、悪戯っぽく微笑んだ。 「期待していいって、昨日言ったじゃん」 「————ッ」  遥陽が息を呑み、絶句した。 「……蒼」 「なに?」 「お前……昨日より破壊力増してない? マジで俺の心臓もたねえんだけど!」 「知らないよ、そんなの」  楽しそうに笑いながら、蒼はくるりと背を向けて先に歩き出した。 「あ、待てって!」  すぐに遥陽が長い足で追いつき、二人の影が夕日に長く伸びて重なる。  昨日までであれば、遥陽の方から遠慮がちに尋ねていたかもしれない。 『手、繋いでもいいか?』と。  しかし今日は、蒼の細い指先が、迷うことなく遥陽の手に触れた。  遥陽は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに愛おしさを噛み締めるように、その小さく華奢な手を優しく、けれど解けないようにしっかりと握りしめた。  繋ぎ合わされた手から、じんわりと熱が伝わってくる。  昨日よりもほんの少しだけ縮まった二人の距離が、夕暮れの帰り道を甘く彩っていた。

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