Zeφyr(ゼファー) / 第2話

2、一番一緒にいたい人

【【2、一番一緒にいたい人】】  キーンコーンカーンコーン——  講義終了を告げる重厚なチャイムの音が教室中に響き渡った。 「うあー……終わったー……」  遥陽は両腕を頭の上に伸ばして盛大に背伸びをすると、そのまま机へ勢いよく突っ伏した。 「蒼、ノート見せて」 「やだ」 「なんで!?」  即答され、遥陽がガバッと顔を上げる。 「遥陽、ノートに犬の絵を十匹描いてただけでしょ」 「十一匹な」 「もっとダメ」  蒼が呆れたように小さく息を吐き、自分のカバンにノートとテキストをしまっていると、前方からパタパタと足音が近づき、明るい女性の声が飛んできた。 「遥陽ー!」 「ん?」  遥陽が顔を上げると、同じゼミに所属している女子学生が二人、親しげな笑みを浮かべて駆け寄って来た。  そのうちの片方——綺麗なブラウン系のセミロングヘアの《《宮| みや》》《《下| した》》《《美| み》》《《咲| さき》》が、遥陽のデスクの脇に身を乗り出してくる。 「今日さ、ゼミのメンバーで飲みに行くんだけど、遥陽も来ない?」 「今日?」 「うん。駅前の居酒屋。七時からなんだけど」 「んー……」  遥陽がポケットからスマホを取り出し、スケジュールを確認するフリをする。美咲は遥陽の肩を慣れた仕草でポンと叩いた。 「おいでよー。遥陽がいる方が盛り上がるしさ」 「それ、俺をただの盛り上げ要員として呼んでね?」 「あ、バレた?」 「ひでえな、お前」  遥陽は白い歯を見せて明るく笑う。女子相手でも気さくでちょっとだけチャラく、軽妙な冗談でその場をパッと明るくさせる、いつもの遥陽だ。美咲も楽しそうに声を上げて笑っていた。  だが——次の瞬間。美咲の視線が、遥陽の隣で静かに荷物をまとめていた蒼へと移った。 「あ、一ノ瀬くんも来る?」 「僕?」  いきなり話を振られて、蒼は驚いたように瞳を瞬かせた。 『そうそう』と美咲はにこっと微笑む。 「ていうか遥陽、一ノ瀬くん連れてきてよ」 「……なんで俺が」 「だって、一緒にいること多いじゃん?」  美咲の言葉に同調するように、もう一人の黒髪ロングの女子まで『そうだよー』と身を乗り出してきた。 「一ノ瀬くんが来るなら、たぶん男子たちもめちゃくちゃ喜ぶよ」 「……男子も?」  遥陽の眉がぴくっと跳ね上がった。 「うん。この前もね、サークルの男子と一ノ瀬くんの話になった時『彼女いるのかな』って言ってたし」 「…………」  遥陽の顔からすうっと笑顔が消える。  美咲はそれに全く気づく様子もなく、言葉を続ける。 「あと女の子からも結構言われるよ。一ノ瀬くんって日本人離れしてて綺麗だし、話してみたいーって」 「へえー……」  遥陽の声から感情が抜け落ち、冷ややかな棒読みになる。 「蒼、大人気じゃん」  昼休みに男子学生からLINEを聞かれていた一件の苛立ちが、まだくすぶっているのだ。  美咲は蒼の方へと向き直り、ストレートに問いかけた。 「ねえ一ノ瀬くん、彼女いるの?」  ピタリ、と遥陽の手が止まる。 「……」  いきなりの問いに蒼が固まる。だがそれ以上に遥陽が固まっていた。 「それとも、今好きな人いるとか?」 「美咲」  あまりにストレートすぎる質問に耐えかねた遥陽が、強引に割り込む。 「お前、いきなり踏み込みすぎ」 「えー、いいじゃん別に」 「蒼はこういうの慣れてねえから。困ってんだろ」 「なにそれ。遥陽、保護者?」 「誰が保護者だ」  いつものチャラいおちゃらけ顔を作って笑いながら返す。けれど次の瞬間。 「じゃ、一ノ瀬くんも参加ね!」 「いや、まだ蒼なんも言ってねえだろ」 「でも遥陽も来るんでしょ?」 「俺は……」  遥陽は一旦言葉を切り、ゆっくりと蒼を見つめた。さっきまでの軽いお調子者の表情から、一途で真剣な男の目つきへとほんの少しだけ変わる。 「蒼が行くなら、行く」  美咲が『あはは!』と大きく笑い出した。 「なにそれ! ほんと遥陽、一ノ瀬くんのこと好きすぎでしょ」 「——は?」  遥陽の表情が凍りつく。 「高校からの親友なんだっけ? ほんっといっつも一緒だよね、二人って」  凍りついた表情を無理矢理作り笑いに変える。 「まあ、付き合い、長いからな……」  美咲にとっては、ただのよくある軽口。  だが六年間蒼に片思いをし続け、講義の前に嫉妬を爆発させたばかりの遥陽にとっては、ただの冗談なんかでは済まされなかった。  しかしそんな遥陽の気持ちなど女子たちは知る由もなく。黒髪ロングの女子が何かを思い出したように顔を上げた。 「あ、そうだ。一ノ瀬くん」 「え?」 「今日来る男子の中にね、一ノ瀬くんのこと紹介してほしいって言ってた子がいるよ」 「…………」  遥陽がゆっくりと顔を上げた。 「……紹介?」 「うん。たぶん一ノ瀬くんのこと、結構本気で気になってる感じだったよ」 『じゃあまたね、後でLINEして!』と手を振りながら、女子二人が教室の出口へと去っていく。  遥陽と蒼の間に、重苦しい沈黙が降りる。  遥陽は机に片手をつき、微動だにせず蒼を見つめている。 「…………蒼」  学食の時よりも、さらに複雑で、嫉妬や焦燥が混ざり合った痛切な表情。 「今日さ」  遥陽は少し躊躇ってから、蒼に問いかけた。 「飲み会、行く?」  口調こそ、必死に『いつもの遥陽』を装おうとしている。  けれど——蒼が何と答えるか固唾を飲んでその唇を見つめる眼差しは、遥陽の恋心を全く隠し通せていなかった。  蒼は少しだけ考えるように首を傾げ、じっと遥陽を見つめるとさらりと答えた。 「遥陽が行くなら、僕も行く」 「…………」  遥陽の大きな身体が硬直し、数回瞬きを繰り返す。 「え?」 「だから、遥陽が行くなら行くよ」  さっき、美咲たちに促された遥陽自身が口にした言葉。  ——蒼が行くなら行く。  それをそのまま、何でもないことのように蒼から返された。  遥陽はそのまましばらく黙り込み、湧き上がる感情を抑え込むかのようにゆっくり口元を手で覆い隠した。 「……お前さ」 「なに?」 「今日そういう日?」 「どういう日?」 「俺を殺しにかかるくらい喜ばせにきてる日」 「え?」  蒼は首を傾げたまま、本気で何もわかっていない無垢な顔をしている。  遥陽はとうとう耐えきれなくなり、こみ上げる愛おしさのままに蒼のプラチナブロンドのサラサラした髪をくしゃっと撫で回した。 「はいはい、わかった。じゃあ行こ」 「ちょっと、髪ぐちゃぐちゃになる……」 「ごめんごめん」  そう謝りながら、遥陽の目元は緩んでいて、傍目からでもめちゃくちゃ嬉しそうだった。 「美咲に連絡しとくわ。二人参加で」  ポケットからスマホを取り出し、画面を操作しながら歩き出した遥陽が、背を向けたまま小さくボソッと呟く。 「……俺が行くなら、か」  それは、蒼には到底届かないほどの小さな呟き。 「それだけで、今日一日……いや、一生生きてけるわ」  ——午後七時。  大学の最寄り駅近くにある、少し騒がしい大衆居酒屋。  ジョッキやグラスが威勢よくぶつかり合う音が響き、あちこちで歓声が上がっている。  遥陽は当然のように、最初から蒼の隣の席へ座ろうとした。  ——のだが。 「一ノ瀬、ここ空いてるよ! こっち来なよ」  遥陽より先に、一人の男が蒼の肩を軽く叩いた。 「…………」  遥陽の足が、ぴたっとその場で止まる。  その様子を向かい側で見ていた美咲が、クスクス笑いながら小声で突っ込んだ。 「遥陽、顔。顔に出すぎ」 「普通だけど?」 「全然普通じゃない。般若みたいな顔してる」  結局。  蒼のすぐ隣には、その男子学生——《《藤| ふじ》》《《原| わら》》《《悠| ゆう》》《《真| ま》》が首尾よく陣取った。  遥陽は押し出される形で、蒼の斜め向かいの席に座る羽目になる。 (なんでだよ……俺が蒼の横に座るはずだったのに……)  乾杯から十五分。  遥陽は周囲のゼミ生たちといつも通り気さくに話し、場を盛り上げていた。  ノリが良く、明るくて、よく笑う。誰から見ても『いつもの人気者の遥陽』だ。  ただし、その視線は数秒おきに蒼の隣へ鋭く向けられていた。 「一ノ瀬ってハーフなんだよね?」  藤原悠真が身体を蒼の方へ傾け、親しげに話しかける。 「うん、お母さんがイギリス人」 「やっぱり。青い目もそうだし顔立ちもめっちゃ綺麗だもんな」  遥陽の手の中で、ウーロンハイのグラスがピタリと動きを止めた。 (はい出た。顔褒めるやつ出た) 「そのプラチナブロンドの髪も地毛?」 「地毛だよ」 「へえ、すげえサラサラ。ちょっと触ってみてもいい?」 「——は?」  蒼が答えるより早く、遥陽の低く鋭い声がテーブルの上を通り抜けた。  一瞬会話が途切れ、場が静まり返る。悠真が目を丸くして遥陽を見た。 「……高橋?」 「いや」  遥陽はハッと我に返り、慌てていつものチャラい笑顔を作り直した。 「何でもない、全然何でもない」  美咲が手で口を被って必死に笑いを抑えている。  悠真は少し気まずそうに苦笑しながら、再び蒼を見た。 「ごめん。嫌なら全然いいんだけど」 「別に嫌じゃないけど——」  蒼が答えようとするが、斜め向かいからの視線が痛い。遥陽がウーロンハイを飲むふりをしながら、じっと穴が開くほど悠真の手元を見つめているのだ。  悠真は困ったように肩をすくめた。 「……高橋ってさ、一ノ瀬の彼氏?」 「ぶっ——!?」  遥陽が飲みかけていたウーロンハイを盛大に吹き出しかけ、激しくむせた。 「っ、げほっ……ごほっ……! 違ぇよ!!」 「だってさっきから俺が一ノ瀬と話すたび、ものすごい顔で威嚇してくるから」 「威嚇なんかしてねえ!」 「してるしてる。めちゃくちゃ見てる」  美咲が即座に裏切って追い打ちをかける。 「遥陽、今日店に入った時からずっと一ノ瀬くんのことしか見てないよー?」 「美咲お前、後で絶対に覚えとけよ……」  テーブル中にドッと大きな笑いが起こる。悠真も笑いながら『なんだよ驚かすなよ』と場を和ませた。  けれど——。  しばらくして酒が進み、全体の話題が別のグループへと散っていった頃。  悠真がそっと蒼へ身体を寄せた。  今度は、周囲の喧騒に紛れるような、小さく低い声。 「一ノ瀬」 「ん?」 「俺さ」  斜め向かいの遥陽の位置からは、周りのガヤガヤとした音に阻まれて会話までは聞き取れない。 「じつは今日、一ノ瀬が来るって聞いたから参加したんだ」  悠真は少し頬を赤く染め、照れくさそうに頭をかいた。 「……前から気になってはいたけど、もっとちゃんと話してみたくて」  そして、ポケットからスマートフォンの連絡先交換画面を表示させて差し出す。 「もし迷惑じゃなかったら、今度二人で飯行かない? LINE教えてよ」  斜め向かいの遥陽の耳には、悠真の言葉は届いていない。  だが、照れたように距離を詰める悠真の表情。  差し出されたスマホ。  無自覚に相手を見つめる、蒼の無防備な顔。  それだけで、向こうでどんなやり取りが行われているか、大体の察しはついた。 「…………」  遥陽の顔から、作りものの笑顔が消え去った。  高校の入学式で一目惚れして、高二で同じクラスになってから、遥陽はずっと『親友』という場所にいた。  その間に、こうして誰かが蒼の魅力に気づき、男として蒼を好きになり、踏み込んでくることなんて——当然あるのだ。 (……俺が、何も言わねえからだろ)  遥陽はコップをそっとテーブルに置いた。  いつもの強引さで間に割って入ることはしない。  今度ばかりは、胸を激しく締め付ける恐怖と嫉妬に耐えながら、蒼がどんな答えを出すのかを……ただ黙って見つめていた。 「……二人きりで?」  蒼が少し眉を下げ、首を傾げた。藤原悠真には見覚えがあったから初対面ではない。しかしそこまで親しい仲ではなかった。 「うん」  悠真は少し緊張した面持ちで微笑む。 「いきなり二人で飯行くのは嫌だった?」 「嫌っていうか……」  蒼はアイスブルーの瞳を少し泳がせ、首を傾げて考える仕草を見せた。 「……いきなり二人で……」 「あー、まあそうだよね。ごめん、焦らせちゃって」 「……ちょっと考えさせてもらっていい?」 「もちろん! 即答で断られなかっただけでも嬉しいよ」  悠真は心底ほっとしたように表情を緩めた。 「じゃあさ、またキャンパスで普通に話しかけてもいい?」 「うん。それは全然大丈夫」 「ありがと!」  会話はそこでひと区切りがついた。  ——斜め向かい。  遥陽は二人の会話を一切聞いていないフリを決め込みながら、手元の小鉢から枝豆を口へ運んでいた。 (……返事保留)  枝豆を一粒、口に放り込む。 (たぶんあれは即答で断ってない……)  二粒目。 (きっと『考える』だろ……いや何を考えるんだよ)  三粒目。 (いや、でも普通だろ。蒼が誰と飯行こうが自由だし……俺には止める権利なんて……)  四粒目を指先でつまみ上げようとした時。 「遥陽、それ俺の枝豆なんだけど」  隣の男子学生にジト目で突っ込まれた。 「……あ」  気づけば人の皿の枝豆を勝手につまんでいた。 「悪い、勘違いしてた」 「何ぼーっとしてんだよ、酒回った?」 「何でもねえよ、全然酔ってねぇって」  白い歯を見せて笑ってみせる。  それから飲み会は二時間ほど続いた。遥陽はいつも通りの軽妙な調子を取り戻し、話題の中心になってはくだらない冗談を飛ばして周囲を笑わせていた。  蒼が他の男子に話しかけられていても、もうさっきのように強引に割り込んで邪魔をすることはなかった。  午後九時過ぎ。 「じゃーなー! また大学で!」 「お疲れー!」  居酒屋の明るい看板の前で、がやがやと解散の挨拶が交わされる。  駅へ向かって歩き出す組。 『二軒目行こーぜ!』とカラオケへ流れていく組。  それぞれの方向へ散っていく学生たちの喧騒の中——。 「蒼」  聞き慣れた低い声が、静かに響いた。  振り返れば、遥陽が立っている。 「帰ろ」  当たり前のようにかけられた言葉があまりにも自然で。結局、最後に残ったのは遥陽と蒼、いつもの二人だった。  夜風がアルコールで火照った肌を優しく撫でる中、二人は駅へ向かって夜道を歩き出した。 「うあー……ちょっと飲みすぎたかも」  遥陽が長い両腕を頭の上にあげて伸びをする。 「遥陽、後半結構ペース早かったもんね」 「まあな。蒼は?」 「僕はそんなに」 「お前、酒強くないんだから無理すんなよ」 「遥陽ほど飲んでないよ」 「ザルな俺を基準にすんなって」  笑い合う。いつもの他愛ないやり取り。  けれどしばらく歩くうちに、遥陽の口数が急激に減り、静けさが二人の間に落ちた。 「遥陽?」 「ん?」 「どうしたの?」 「別に」  今日、これで三回目の『別に』だ。  蒼は歩みを緩め、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳を細めてじっと遥陽の横顔を見つめた。 「……何だよ」 「今日の遥陽、やっぱり変」 「俺はいつも変だろ」 「そういう意味じゃなくて」 「じゃあどういう意味だよ」  遥陽はへラッと口元を歪めて笑っている。  だが、高校二年生で同じクラスになってからずっと遥陽の隣にいる蒼にはお見通しだった。機嫌がいいとき、悪いとき、そして何か大きな感情を必死で隠して誤魔化そうとしているとき。  五年間という歳月は、誤魔化した笑顔の裏にある感情を嫌でも見通してしまう。 「なにかあったでしょ」  遥陽は観念したように、大きくため息を吐き出した。 「……藤原」 「え?」 「連絡先交換して……なんか誘われたんじゃね?」  蒼が大きく瞳を瞬かせる。 「……聞こえてたの?」 「まあ、ところどころな」  本当は、周りの雑音でほとんど聞こえていなかった。ただ二人の距離感と、悠真の照れた表情から察しただけだ。 「行くの?」 「まだ決めてないよ」 「そっか」 「考えるって言っただけ」 「……そっか」  それ以上は追及しない。  タイミング良く、前方にある横断歩道の信号が赤に変わった。  二人はアスファルトの上で並んで立ち止まる。夜の街を、車がヘッドライトの光を引いて目の前を流れていく。  遥陽はポケットに両手を突っ込んだまま、真っ直ぐ前方の赤信号を見つめていた。 「…………」  長い、重苦しい沈黙。  そして。 「蒼」 「ん?」 「もしさ」  言いかけて、遥陽の言葉がピタリと止まった。 「……いや、何でもねー」 「なに? 気になるんだけど」 「何でもねえって」 「またそれ……」 「悪い」  遥陽は自嘲気味に苦笑いを浮かべた。  本当は、今すぐ掴みかからんばかりの勢いで聞きたかったのだ。  ——もし、藤原がお前を好きだって言ってきたらどうする?  ——あいつと付き合う可能性とか、あんの?  ——そもそもお前……男も恋愛対象に入るのか?  胸の奥に溢れる問いかけは、山ほどあった。  けれど、そのどれもが『親友』という一線を決定的に越えてしまいかねないから、聞くことができない。  ピピッ、と音が鳴り、信号が青に変わる。 「行こ」  遥陽が先に足を踏み出し、再び二人で歩き始めた。  少し進んだところで、遥陽が前を向いたままぽつりと呟いた。 「……でも今日、蒼が飲み会来てくれて楽しかった」 「僕も、遥陽がいて楽しかったよ」 「そっか」  最後の『そっか』だけは、作り物ではなく素直に愛おしさを噛み締めるような声だった。  遠くに、街灯と駅の温かい明かりが見えてくる。  高校時代から何百回と歩いてきた、変わらないいつもの帰り道。  けれど遥陽の胸の奥には、藤原悠真という男の存在が、小さな棘となって深く突き刺さっていた。  五年間、『親友』から一度も動くことのなかった二人の関係が——少しずつ、しかし確実に動き始めようとしていた。  駅の階段を降り、夜のひんやりとした空気が漂うホームへと向かう。  ちょうど滑り込んできた電車のドアが開き、プシューッとエアの抜ける静かな音が響いた。 「お、タイミングいいじゃん」  遥陽は蒼の背中にそっと手を添えて車内へ促し、二人掛けのロングシートへと並んで腰を下ろした。  夜九時を回った車内は、朝の殺人的なラッシュが嘘のように静まり返っている。乗客の姿もまばらで、ガタゴトと揺れる窓ガラスには、隣り合って座る二人のシルエットがぼんやりと映し出されていた。 「……ふわぁ、眠……」  遥陽は長身を丸め、座席の背もたれへだらりと身体を預けた。 「飲みすぎたんじゃない?」 「誰かさんのせいで、酒が進んだんだよ」 「僕?」 「…………」  遥陽がそっと目を向け、隣に座る蒼を覗き込む。  細いフレームの眼鏡の奥のアイスブルーの瞳。プラチナブロンドの柔らかい髪の毛から広がるシャンプーの香り。いつもの蒼なのに、遥陽の胸の奥がじんわりと熱くなる。 「なに?」 「……何でもない」 「また? 今日の遥陽、『何でもない』多すぎ」  蒼が呆れたように言うと少し笑う。 「ほんとだな。今日の俺、駄目だな」  遥陽が自分自身を笑うように軽口を叩いた、その時だった。  ——ピコン。  静かな車内に、蒼のスマホの電子音が短く響く。  膝の上に置かれた画面が明るく点灯し、ロック画面の通知エリアに送り主の名前とメッセージが表示された。 『藤原 悠真』  蒼のスマホを見るつもりなど一切なかった。  ただ、隣に座っていたから、視界の端に入ってしまったのだ。 『今日はどうもありがとう。楽しかったよ。俺、やっぱり一ノ瀬のこともっと知りたいな』 「…………」  遥陽の顔から、一瞬で軽薄な笑みが消え失せた。 (……やっぱり)  予想はしていた。飲み会での悠真の顔、蒼への距離感、あの瞳に宿る熱意。どれをとっても分かりやすかったのだから、こうして直接踏み込んでくることくらい目に見えていた。  しかし、実際に目の前に突きつけられると——胸の奥に突き刺さる痛みの大きさが、想像を遥かに超えていた。 「……藤原?」  蒼が画面を直視するより早く、遥陽の低い声が響いた。 「あ」  しまった、という顔をして遥陽はすぐに口元を押さえた。 「悪い。目に入っちまった」  蒼がスマートフォンを手にとり、通知の画面を確認する。 「……うん」 「そっか」  遥陽はそれ以上追及するのをやめ、逃げるように窓の外へ顔を向けた。闇の中を流れていく夜景をじっと見つめる。  しばらくの静寂ののち、再び電子音が鳴った。  ——ピコン。 『俺さ、今日一ノ瀬と話せて嬉しかったし、もっと仲良くなりたいって本当に思ったんだ』 「…………」  遥陽はもう画面を見ようとはしなかった。ただひたすらに、窓に映る自分の情けない顔を見つめている。  けれど——胸の奥で渦巻く熱いものが、どうしても抑えきれなかった。 「……蒼」 「ん?」 「昼に俺が言ったこと、覚えてるか?」 「……嫉妬してるってやつ?」 「直球で言うなよ……」  遥陽は苦笑いを漏らしたが、今度は冗談めかして笑い飛ばすことすらできなかった。 「……うん。それ」  ゆっくりと、胸の奥の空気を吐き出す。 「今も、してる」  低く、静かな声だった。いつものチャラいお調子者のトーンは微塵もない。 「めちゃくちゃ嫉妬してる」 「遥陽……」 「でも、藤原が悪いわけじゃねえし。もちろん蒼が悪いわけでもねえ」  遥陽は自分の手を膝の上で固く握りしめた。 「だから……俺が口出すようなことじゃねえってのも、痛いほどわかってる」 「…………」 「わかってんだけどさ」  遥陽が意を決したように、ゆっくりと蒼の方へ顔を向けた。  アルコールのせいなのか。それとも、『親友』を続ける限界が来ているのか。昼間の学食にいた時よりも、ずっと剥き出しで素直な眼差しがそこにあった。 「……あいつと仲良くなってほしくねえって、思ってる」  一瞬だけ、二人の視線が真っ向からぶつかり合う。  氷のようなアイスブルーの瞳に吸い込まれそうになり、遥陽は耐え切れずに先に目を逸らした。 「……最低だよな、俺」  自嘲気味に笑おうとする。けれど、引きつった唇では上手く笑えなかった。 「蒼には蒼の交友関係があんのにさ。俺が口出す筋合いなんてねぇのに」  ガタゴトと電車が大きく揺れ、遥陽の肩と蒼の華奢な肩が軽く触れ合った。  いつもなら気にも留めない、日常のささやかな接触。  なのに今夜だけは、その肌の熱、骨の細さ、触れ合っているわずかな面積のすべてが、遥陽の神経を異常なほど研ぎ澄ませていく。 「……俺さ」  ぽつり、と言葉が漏れ出た。 「藤原より、絶対にお前のこと知ってる自信ある」  高校二年で同じクラスになってからではない。  遥陽にとっては——高校一年のあの入学式で一目惚れしたその瞬間から、ずっとずっと蒼だけを見つめ続けてきたのだから。 「猫舌で熱いものが苦手なのも。照れるとすぐ無意識に眼鏡のフレーム触るのも。難しいこと考えてるときに黙り込む癖も」  口元が、懐かしむように少しだけ緩む。 「くすぐったいのが極端に苦手なくせに……俺の隣だと警戒感ゼロで寝ちゃうところも」  それから——。 「……だから」  喉の奥まで、熱い固まりが競り上がってくる。 『あいつに取られたくない』 『俺以外の男に、そんな顔見せないでくれ』 『俺だけを見てくれ』  喉元まで出かかった言葉。だが、それを口にしてしまえば。  もう二度と『親友』という場所には戻れなくなる。暖かい今の関係は全て壊れて、蒼を失ってしまうかもしれないという恐怖が、遥陽の足をすくませた。 「…………いや」  遥陽はぎゅっと目を閉じ、座席の背もたれへ深く身体を預け直した。 「やっぱ、何でもない」  また、逃げた。親友という卑怯な殻の中に、閉じこもろうとした。  その、瞬間。  ——ピコン。  本日三通目の電子音が、無情にも二人の間を切り裂いた。  藤原からのメッセージ。  画面の明るい光が、蒼の膝元を照らし出す。  そこに浮かび上がった文字は——逃げようとした遥陽の目にも、はっきりと焼き付いた。 【【『一ノ瀬に好きな人がいないなら、俺にもチャンスあるって思っていいかな?』】】 「…………」  何度も逃げ続け、自分の感情から目を背けてきた遥陽の表情が、劇的に変わった。  すっと目の奥から光が消え、一人の男としての熱く深い執着だけがそこに残る。 「……それ」  遥陽はゆっくりと首を動かし、蒼を真っ直ぐに見つめた。 「俺も、聞きたい」  もう、笑っていなかった。  冗談に逃げることも、チャラいふりをして誤魔化すことも、完全に捨て去っていた。 「蒼って……今、好きな奴、いる?」  狭い車内。流れる夜景の光が二人の影を交互に照らす中、六年間秘め続けた熱い想いが、静かに溢れ出そうとしていた。  蒼はすぐには答えなかった。  ガタゴトと響く電車の走行音だけが、息の詰まるような二人の間の沈黙を埋めていく。  遥陽はその沈黙の重さに耐え兼ねるように、じっと蒼の横顔を見つめていた。 「……そんな真剣に考えなくてもいいぞ」  耐えきれなくなった遥陽が先に逃げ道を作った。 「ただ、何となく気になったから聞いただけだし……」  嘘だ。  胸の奥で、心臓が痛いほど暴れている。藤原からのメッセージなんて、もはや些細な事のように感じられた。  ただ、蒼が誰を見ているのか。そのアイスブルーの瞳に誰が映っているのか、それだけが知りたい。遥陽は固唾を飲んで蒼の唇が動くのを待った。  やがて蒼が、ゆっくりと小さく口を開いた。 「好きな人は……わからない」 「……そっか」  遥陽の胸が重く沈み込む。やっぱりそうか、という自嘲気味な笑いが浮かびかける。 「でも」 「ん……?」  蒼がゆっくりと顔を上げ、遥陽を見た。  細いフレームの眼鏡の奥から、吸い込まれそうな瞳が、誤魔化しようのない真っ直ぐな熱量で遥陽へ向けられる。 「一番一緒にいたいのは、遥陽だよ」 「…………」  世界からすべての音が消え去ったかのような衝撃に、遥陽は目を見開いた。 「……え?」 「だから」  蒼は自分が言ったことの破壊力に全く気づいていない様子で、当たり前の事実を説明するように言葉を重ねる。 「誰といるのが一番楽しいかって聞かれたら遥陽だし、一番一緒にいたいのも遥陽」  遥陽はただ呆然と、蒼の綺麗な顔を見つめ返すことしかできない。 「高校からずっとそうだよ?」 「…………待って」  数秒遅れて、ようやく喉の奥から絞り出すような声が出た。 「ちょっと待って、蒼……っ」  片手で口元を覆う。隠しきれなかった頬から耳にかけて、みるみるうちに真っ赤な熱が広がっていった。 「お前……それ……っ」 「?」 「……マジで言ってんのか……?」 「うん」  間髪いれずに返ってくる、迷いのない答え。  遥陽は耐え切れず、そのまま電車の天井を仰ぎ見た。 「……ああ、もう……っ」  遥陽が自分の想いを押し殺して親友で居続けた相手、その相手の蒼本人から、これ以上ない純粋さで打ち明けられた言葉。  一番一緒にいたい。 「……俺さ」  遥陽が片手で顔を覆ったまま、ぽつりと呟く。 「今日だけで何回お前に殺されかけてんだろ……」 「殺されかけてる?」 「こっちの話」  自嘲気味に苦笑する。  けれど今度は、逃げるように視線を逸らすことはしなかった。 「……でも」  座席の上で、ほんの少しだけ蒼との距離を詰める。  触れ合う肩と肩。互いの体温が、服越しにダイレクトに伝わってくる。 「俺も」  低く沈んでいた声が、驚くほど柔らかく、優しく熱を帯びた。 「一番一緒にいたいの、蒼だから」  それ以上は言わない。恋人になってくれなんて、まだ到底口には出せない。  けれど、遥陽の中で長年燻っていた諦めと恐れが、ガラリと形を変えた。  今までは自分だけが一方的に蒼を想い、身を焦がしているのだと思っていた。蒼にとっての自分は、大勢いる友人の中の一人。ただ高校からの付き合いが少し長いだけの、都合の良い親友なのだと。  でも、違った。  恋愛感情としての『好き』かどうかはまだわからなくても。  少なくとも、自分は蒼にとっても……間違いなく唯一無二の『一番』なのだ。  今は、それだけで胸がはち切れそうなほど十分だった。 「……なあ」  遥陽が、心底嬉しそうに口元を緩めて笑う。 「藤原には悪いけどさ」 「え?」 「俺、まだ負ける気しねえわ」 「なんの勝負?」 「秘密」 「なにそれ、変なの」 「うるせー」  ガタゴトと電車が大きく揺れ、触れていた二人の肩が、今度は少し強く重なり合う。  遥陽は身を引かなかった。そして、蒼も避けることなくそのまま遥陽に身を預けている。  ただそれだけのことが、遥陽にはたまらなく愛おしく、嬉しかった。  しばらくの間、心地よい静寂が二人を包み込む。  やがて最寄り駅の到着を告げるアナウンスが流れ始めた頃、遥陽がそっと呟いた。 「蒼」 「ん?」 「さっきの」 「なに?」 「一番一緒にいたいってやつ」  遥陽は、真っ赤になった顔を隠しもせずにふっと笑った。 「……絶対に、忘れんなよ」 「忘れないよ。本当のことだもん」  ふと見つめ合う二人の間に、甘く静かな時間が流れる。  ずっと、親友という場所で止まっていた片思いが。  ほんの数センチだけ、けれど確実に縮まった夜だった。  ——翌朝。  いつもの駅の改札口。  遥陽は柱に軽く背をもたれ、スマホの画面に視線を落としていた。待ち合わせ時刻の五分前。画面をタップする指先が、心なしかいつもよりぎこちない。 「遥陽」  雑踏を抜けて、聞き慣れた澄んだ声が届く。顔を上げると、そこに蒼が立っていた。 「おはよ」 「……おう」  蒼はいつも通りそこにいた。  細いフレーム越しに見えるアイスブルーの瞳も、日光を拾って柔らかく輝くプラチナブロンドの髪も、キメの細かい陶器のような白い肌も、何もかもが『いつも通り』だ。 「今日、朝からちょっと暑いね」 「……そうだな」 「どうしたの? なんか顔、怖くない?」 「いや……」  遥陽は言葉を詰まらせ、じっと蒼を見つめた。 (こいつ……っ)  昨夜、電車の中で投下されたあまりにも威力が高すぎる爆弾。 『一番一緒にいたいのは、遥陽だよ』  あの言葉のせいで、遥陽はほとんど眠れなかったのだ。ベッドに潜り込んでも脳裏に焼き付いて離れず、朝になって起きてからも、洗面所で歯を磨いている時でも、その声を思い出しては一人で悶絶していたというのに。  当の本人は、何事もなかったかのような涼しい顔で立っている。 「……蒼」 「ん?」 「お前……昨日のこと、覚えてるか?」 「飲み会?」 「そのあとだよ」 「電車?」 「……あー、もういい」 「なにさ?」  あまりにも無自覚な返答に、遥陽は頭を抱えて盛大にため息をついた。 「遥陽、さっきから変だよ?」 「……お前って、本当に平和で幸せな奴だなと思ってさ」 「えっ、急に失礼だなあ」  不満そうに頬を膨らませる蒼と他愛もない会話を交わしながら、二人は混み合い始めた電車へと乗り込んだ。  大学に到着してからも、蒼の様子はどこまでも『いつも通り』の親友だった。  対する遥陽だけが、蒼のちょっとした仕草や触れ合いそうになる距離感に、過剰なほど胸を跳ねさせて意識し続けていた。  昼前。講義終了のチャイムが鳴り、二人は教科書を抱えて廊下へ出た。 「蒼、今日昼飯どうする? いつもの——」 「あ、一ノ瀬!」  遥陽の声を遮るようにして、後方から明るい声が飛んできた。  振り返れば、そこにいたのは昨夜の飲み会で蒼の隣に座っていた男——藤原悠真だった。  みるみるうちに遥陽の表情がひきつる。昨夜、蒼のスマホ画面に表示されたメッセージが鮮明に脳裏によみがえった。 『一ノ瀬に好きな人がいないなら、俺にもチャンスあるって思っていいかな?』  悠真はまっすぐな足取りで蒼の目の前まで歩み寄ってきた。 「一ノ瀬、ちょっといい?」 「僕?」 「うん」  そして悠真は、隣に立つ遥陽へと視線を向けた。 「悪い、高橋。少しだけ一ノ瀬借りてもいいか?」 「…………」  遥陽の唇が固く結ばれた。  蒼へと視線を送る。 (行くな)  喉まで出かかった言葉。引き止めて、自分の胸の中に隠してしまいたいという歪んだ独占欲。  けれど、ただの『親友』でしかない自分にそれを口にする権利などない。 「……蒼が良いなら、俺は別に」  低く掠れた声でそれだけを告げるのが、今の遥陽には精一杯だった。  大学棟の裏手。日陰になっていて人通りの少ない自動販売機の前に、遥陽は一人で立っていた。  ガタン、と音を立てて落ちてきた缶コーヒーを取り出す。  別に待っているわけではない。盗み聞きをするつもりなんて、毛頭ない。……そう自分に言い聞かせながらも、足は地面に縫い付けられたように一歩も動こうとしなかった。 「……俺、マジで何やってんだか」  あまりにも滑稽な自分自身に対して自嘲的に笑いを漏らし、缶のプルタブに指をかけた、その時だった。  少し離れた曲がり角の向こうから声が聞こえた。 「一ノ瀬」  悠真の声だ。遥陽の指がピタリと止まる。 「昨日、LINEで中途半端なメッセージ送ってごめんな。驚かせただろ」 (聞いちゃダメだ……立ち去れよ、俺)  頭ではそう分かっているのに、身体が石のように固まって動かない。 「でも、どうしても直接ちゃんと言いたくてさ」  続く言葉に、遥陽の背筋が凍りついた。 【【「俺、一ノ瀬のことが好きだ」】】 「…………」  静かな空間に、その言葉はあまりにもハッキリと、隠しようもなく響き渡った。 「初めてキャンパスで見かけた時から、ずっと気になってたんだ」  悠真の声には、一切のおちゃらけも、軽さもなかった。本気の、熱のこもった男の告白だった。 「男からいきなりこんなこと言われても、困るかもしれないけどさ、それでも言わせてくれ」  少しの静寂。 「俺と、付き合ってほしい」  自動販売機の陰で、遥陽は呼吸することすら忘れて硬直していた。 (……マジか……)  昨日までは、まだどこかで余裕をぶっこいていた。  遥陽は蒼のことを高校一年の時からずっと知っている。昨夜だって、蒼は『一番一緒にいたいのは遥陽』だと言ってくれた。だから誰が来ようと負ける気はしない、と。  けれど——。  悠真は、遥陽がこの五年間のあいだ居続けた『親友』という殻を、たった一日で破ってみせた。  好きだと伝えた。恋人になりたいと、男として正面から向き合った。  遥陽が握りしめたコーヒーの缶が、ミシリと歪む。  遥陽は蒼を失う事を恐れて殻に閉じこもっていた。  けれど、自分がそうやって臆病に閉じこもっている間に、誰かが蒼の魅力に気づき、本気で好きになる。誰かがなりふり構わず想いを伝える。  そしていつか——蒼が自分以外の誰かを男として意識し、好きになる日だって、絶対に来ないとは言えないのだ。もしそうなった時、自分は親友の顔をして『おめでとう』なんて笑って言えるのか? 「……無理に決まってんだろ……っ!」  絞り出すような呟きが、ポロリとこぼれ落ちた。  遥陽はぎゅっと目を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。  遥陽の瞳に新たな光が宿る。もう、自分の感情から逃げたくなかった。  それでも——今、あの曲がり角を曲がって告白を邪魔する権利など、臆病だった自分にはないこともわかっている。  遥陽はただ冷たい自販機に背を預けたまま、五年間親友という場所に甘んじてきた自分自身と蒼への抑えきれない愛情へ、素直に向き合っていた。 『俺と付き合ってほしい』  悠真のまっすぐな言葉のあと、重い沈黙が落ちた。  蒼はすぐには答えられなかった。  昨日まで、ただのゼミ生として接していただけの相手。それなのに今、一人の男として誠実で素直な好意を向けられている。 「……悠真、くん」 「うん」 「ちょっとごめん……考えさせてもらってもいい?」  悠真が一瞬だけ残念そうに目を伏せる。それでも、すぐに大人びた微笑みを浮かべた。 「もちろん」 「僕、こういうの……あんまりよく分からなくて」 「うん。直接伝えたくて我慢出来なくなっただけで、今すぐ答えを出して欲しい訳じゃないからさ」 「ありがとう」 「ただ」  悠真は少し照れながらも、蒼を見つめる瞳から決して目を逸らさなかった。 「俺は本気だから。それだけは覚えておいてくれな」  少し離れた自動販売機の前。 「…………」  遥陽は、そのやり取りをすべて陰から聞き届けていた。  ——考えさせて。  つまり。  蒼にとって、悠真と付き合う可能性は決してゼロではないということだ。  昨日の自分なら…… 『まあ、蒼が決めることだからな』  なんて、どこか物分りの良いフリをして引きつった笑顔を作っただろう。そしてまた、親友というぬるま湯へ逃げ込んでいたはずだ。  でも。 (……ずっとそれやってたら)  握りしめた缶コーヒーが、ペキッと嫌な音を立てて歪む。 (本当に、蒼が誰かのものになっちまう)  恐ろしいイメージが、脳裏を駆け巡る。  蒼の隣に悠真がいる。  二人で笑い合いながら大学の門をくぐる。  二人で楽しそうに昼飯を食う。  自分の前では絶対に見せない顔で、蒼が悠真を見て甘く微笑む。  自分の知らない蒼が、日ごとに増えていく。  そしていつか。 『遥陽、僕、悠真と付き合うことになったんだ』  なんて報告を、親友の顔をして聞かされたら。 「…………無理」  今度ははっきり、言葉にして口から漏れ出た。  六年も片思いして。  毎日毎日、胸を焦がして愛おしさを募らせてきて。  何もしないまま、勝手に諦めて終わるなんて。 「……無理に決まってんだろ、クソが……っ」  その日の午後。  遥陽の様子は、誰がどう見ても明らかに変だった。 「蒼、次の講義どこ?」 「四号館だよ」 「俺も行く」 「え? 遥陽、次空きコマじゃなかった?」 「……四号館まで送るんだよ」 「なんで?」 「暇だから」  講義が終了した夕方。 「蒼、このあとすぐ帰る?」 「ちょっと図書館寄って本返そうと思って」 「俺も行く」 「遥陽、図書館嫌いじゃん。活字見ると眠くなるって」 「今日から急に好きになった」 「……?」  明らかにおかしい。  そして、空が茜色に染まり始めた頃。  図書館を出ると、遥陽はどこか緊張した手つきでスマホを操作しながら言った。 「蒼」 「ん?」 「今日、このあと予定入ってる?」 「特にないよ」 「じゃあ……飯行こ」 「いいよ。学食? それとも他のとこ?」 「大学の近くじゃなくてさ」  遥陽は一瞬だけ言葉を詰まらせ、覚悟を決めるように息を吸った。 「……ちょっと、行きたい店がある」  蒼が連れてこられたのは、蒼のアパートの最寄り駅からほど近く、静かな街並みの中にある小さな隠れ家風イタリアンだった。  いつも行く騒がしい学生向けの居酒屋とはまるで違う。店内は暖色の照明が少し落とされていて、窓際の席からは綺麗に点灯し始めた街の明かりが見渡せた。  蒼が少し目を丸くして店内を見回す。 「遥陽、こういうお店来るんだ」 「……いや……うん、まあな」 「誰かと来たことあるの?」 「ない」  即答。 「今日、昼休みに調べた」 「今日?」 「うん」  蒼がますます不思議そうに首をかしげる。  遥陽は視線を泳がせ、手に取ったメニュー表で慌てて口元を覆い隠した。 「……そんな変な顔で見んなって」 「だって遥陽、今日ずっとおかしいよ」 「わかってるよ……っ」 「なにかあったの?」 「…………」  遥陽はゆっくりとメニュー表を下ろした。 「蒼」  今度は逃げない。チャラいお調子者の仮面も、親友という卑怯な防波堤も捨て去った。 「今日、藤原に告白されたろ」  蒼の瞳が、少しだけ見開かれる。 「……知ってるの?」 「自販機の裏にいたら……聞こえた」 「そっか」 「返事、考えるって言ったよな」 「うん」  胸の奥がぎゅっと痛む。それでも遥陽は、前を見据えて言葉を紡ぎ続ける。 「俺さ」  一度、深く息を吐き出した。 「それ聞いて初めて、めちゃくちゃ焦った」  まっすぐに、蒼の瞳を見つめる。 「今まで、俺はずっと勝手に安心しきってた。俺は蒼と五年一緒にいるし、蒼のことを一番知ってるし……昨日だって、一番一緒にいたいって言ってくれたから」 「うん」 「でも、それとこれとは別だろ」  遥陽の大きな指が、テーブルの下で痛いほど強く組まれる。 「俺が何もしねえで踏み出さなかったら……蒼がいつか誰かを好きになって、俺から離れて遠くに行っちまうことだってあるんだって」  そして。 「……だから、今日は」  緊張して言葉に詰まる。  普段ならどんな女子相手でもすらすら軽口が出る男が、たったこれだけの言葉に心臓を破裂させそうなほど緊張している。 「藤原より先に、蒼と二人でいたかった」  遥陽の頬から耳まで、隠しようもないほど真っ赤に染まっていく。 「……ただの親友としてじゃなくて」  静寂が二人を包み込む。 「今日だけ」  少し困ったように、けれど愛おしさを込めて口元を歪める。 「俺にも……藤原と同じ土俵に立たせてくれ」  まだ、面と向かって『好きだ』とは口にしていない。  けれど——。  五年間で初めて、遥陽は自らの足で、親友という境界線を明確に踏み越える。 「だから今日はさ」  蒼へ向けて、照れくさそうに笑いかける。  緊張を隠しきれない、けれど男らしくて不器用な笑顔。 「俺と、デートしてよ。蒼」  遥陽が心臓をバクバクさせながら言い切った直後。  蒼は細いフレームの眼鏡の奥で、アイスブルーの瞳をパチパチと瞬かせた。 「これって……デートなの?」 「…………」  遥陽の表情が引きつる。 「そこから!?」 「だって、二人でご飯食べるなら高校のときからいつも行ってるし」 「いや、今日の店は俺が昼休みに調べて、わざわざ予約までして二人で来てんだぞ!?」 「うん」 「しかも俺、今めちゃくちゃ勇気振り絞って『ただの親友としてじゃなくて』って言ったじゃん! 聞いてた!?」 「言ってたね」 「蒼さんっ!?」  当事者である蒼は、心底不思議そうに首をかしげてから、困ったように笑った。  遥陽はガクッとテーブルに突っ伏す勢いで項垂れた。 「……藤原、前言撤回だ。こいつ攻略すんの相当大変だぞ……」 「攻略?」 「何でもないです……」  その時だった。 「あれ? もしかして高橋?」  少し低めの、大人びた女性の声が頭上から降ってきた。  遥陽が顔を上げる。 「…………げ」 「『げ』って何よ」  二人のテーブルの脇に、同年代くらいの女性が立っていた。  緩く巻いた長い茶髪に、落ち着いた大人っぽいメイク。彼女は呆れたように遥陽を見下ろしている。 「久しぶりね」 「……久しぶり、《《渡| わた》》《《辺| なべ》》」  遥陽の態度が、明らかに気まずそうだ。蒼は不思議そうに二人を交互に見比べた。  渡辺と呼ばれた女性が蒼へと視線を滑らせる。 「友達?」 「まあ……うん」  遥陽が妙に言葉を濁した。すると渡辺は、何かに気づいたように蒼の可憐な顔立ちをじっと凝視し始めた。 「…………え?」 「何だよ、じろじろ見て」 「ねえ」  渡辺の表情が、驚きと納得が混ざり合ったものに変わる。 「あなた、一ノ瀬さん?」  今度は蒼が驚いて目を丸くした。 「僕のこと、知ってるんですか?」 「やっぱり!」  遥陽が慌てて立ち上がりかけた。 「おい、ちょ、待て——」 「高橋の高校からの親友で同じ大学よね?」 「なんで知って……」  蒼が不思議そうに見上げる。渡辺は楽しそうにクスクスと笑った。 「私、学校は違ったけど高校一年のときに高橋と付き合ってたの」 「…………え?」  遥陽が片手で額を押さえた。 「頼むから余計なこと言わないでくれ……っ」 「何よ。別に今さら隠すことでもないでしょ。たった二ヶ月だったし」 「期間まで言わなくていい!!」 「それに高橋、付き合ってる間もぜんぜん私のこと見てくれなかったし」 「…………」  遥陽がぐうの音も出ず黙り込む。  渡辺はそんな遥陽の気まずそうな顔を見つめ、もう一度、蒼の可憐な顔立ちと透き通るアイスブルーの瞳を見つめた。  そして——。 「ああ」  ポン、と手を叩き、すべての謎が解けたような顔をした。 「て事は……高橋、アンタまだ片思い中?」 「——はい?」  遥陽の顔から、一瞬で血の気が引いた。  蒼を見る。 「…………」  渡辺を見る。 「…………」  もう一度、蒼を見る。 「…………待って、待て待て待て」 「何?」 「それは——ちが、待てって!」 「だって高橋、付き合ったとき私に言ったじゃん? 『好きな奴がいるけどそれでもいいか』って」  遥陽が勢いよく立ち上がった。 「ストップ!!!! 喋るな!!」  静かな店内に遥陽の大声が響き渡り、周囲の客や店員が何事かと振り返った。 「声大きい、高橋」 「誰のせいだと思ってんだよ!!」  渡辺はまったく悪びれる様子もなく、肩をすくめる。 「『やっぱりあいつのこと忘れられない』『お前とちゃんと付き合えない』って言われて別れたんでしょ」 「…………」  遥陽は完全にフリーズし、石像のように固まった。  逃げ道が。  言い訳の余地が。  消滅した。 「それ、高一の終わりくらいだったよね?」  渡辺が蒼へ向けて優しく微笑みかける。 「一回だけ、高橋が口滑らして『男だけどすごく綺麗な奴』って言ったのは聞いたけど……見てみたら納得いったわ」 「…………」  蒼の綺麗なアイスブルーの瞳が、吸い込まれるように遥陽へと向けられる。  遥陽は諦めたように力の抜けた動作で座席へ座り直した。その顔は頬どころか耳まで、爆発したように真っ赤に染まっている。 「……お願いだからもう帰ってくれない?」 「はいはい」  渡辺は心底楽しそうに笑った。 「邪魔してごめんね、一ノ瀬さん。高橋と仲良くね」  そして去り際、遥陽の肩をぽんと叩く。 「今度こそ、逃げないでちゃんと言いなよ」 「うるせえ……早く行け……」 「じゃあね」  渡辺はヒールを鳴らして去っていった。  残された、二人。 「…………」 「…………」  重苦しい沈黙の中、遥陽はグラスの中の冷たい水を一口飲んだ。  さらにもう一口。  グラスが空になるまで飲み干した。 「……遥陽」 「待って」 「でもさ」 「三十秒……いや、一分だけ待ってくれ」  遥陽は両手で顔を丸ごと覆い隠した。指の隙間から、消え入りそうな声が漏れ出す。 「……今日、こうなる予定じゃなかったんだって……っ」  五年間。 『親友』という立場を守るために、必死で隠し通してきた恋心。  今日ようやく、ほんの数センチだけ一歩を踏み出そうとしたはずだった。  それなのに。  高校一年から既に恋心を抱いていて、そのせいで彼女と別れていたことまで、完全に蒼にバレてしまった。  ガバッと手を下ろすと、遥陽は半ばヤケクソ気味に蒼を見つめた。 「……何から聞きたい?」  こうなったらもう、どんな言い訳も、お調子者のフリも通用しない。  短い静寂があり、蒼がぽつりと口を開く。 「……高一の時好きだった人って、誰?」 「…………」  遥陽の喉仏が、ゴクリと大きく動いた。 「それ……マジで聞く?」 「気になるから」 「……そっか」  遥陽は小さく笑った。  いつものチャラいお調子者の笑い方とは違う。  自分の心と真剣に向き合い、緊張で肩に力が入り、指先まで固くなっていた。 「じゃあさ。答える前に……先に一個だけ訂正させて」 「なに?」 「『高一の時に好きだった人』じゃねえ」  遥陽はテーブルの上で痛いほど固く組んでいた手を、ゆっくりとほどいた。 「高一の、入学式からずっとだ」 「入学式……?」 「うん」  遥陽の脳裏に、鮮明な映像が蘇る。  体育館に満ちていた、独特の緊張感と春の匂い。  新入生として集められた、知らない顔ばかりがずらりと並んでいたあの日。  その中でただ一人、眩しいほどの光を放つプラチナブロンドの髪が目に入った。 「……なんかさ、めちゃくちゃ綺麗な奴がいるなって思って」  遥陽が耳まで赤くしながら照れくさそうに笑い、蒼の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。 「気づいた時にはもう、無意識にずっと目で追ってた」 「…………」 「一年のときはクラスも離れてたし、接点もなくてさ」 「うん」 「二年になってクラス発表の掲示見たとき、同じクラスんとこに名前見つけて」  遥陽の口元が、懐かしそうに緩んだ。 「跳び上がるくらいめちゃくちゃ嬉しかった」  蒼にとっては。  高校二年で偶然同じクラスになって、気付けば意気投合していた親友。  でも、遥陽にとっては違った。  入学式の時以来、遠くからずっと見つめ続けていた、憧れの人だったのだ。 「実際に話してみたらさ、見た目の印象よりずっと普通で」 「普通ってなに……」 「褒めてる、めちゃくちゃ褒めてるから」  ほんの少しだけ、いつもの軽妙な空気が戻る。  けれど遥陽の顔は、すぐに今までに見たこともないほど真剣なものに変わった。 「優しくて。天然で素直で。頭いいくせに、変なとこ抜けてて」 「……それ本当に褒めてる?」 「めちゃくちゃ褒めてんだよ」  そして。 「知れば知るほど、ますます好きになっていった」  蒼が目をパチパチと瞬かせる。  遥陽はもう、一度たりとも目を逸らそうとはしなかった。 「……その人って、誰?」  蒼がもう一度、確信を求めるように問いかけた。  今度こそ、遥陽は一切の誤魔化しを捨てて答えた。 【【「お前」】】  短い、けれど重い一言。 「…………」 【【「蒼だよ」】】  遥陽の声が、微かに震えていた。 「俺が高校の入学式から六年間、ずっと好きなのは……一ノ瀬蒼。お前だけだ」  ついに、言ってしまった。 「高校二年で親友になれてさ」  遥陽は切なさの混ざった笑みを浮かべた。 「最高に嬉しかった。その代わり……簡単に『好きだ』なんて言えなくなった」 「どうして?」 「失いたくなかったから」  間髪いれずに答えた。 「下手に告って気まずくなって、お前が俺から離れていくくらいなら……親友のままがいいって思った」 「…………」 「大学も同じになって、毎日一緒にいれて」  遥陽は一度だけ、苦しそうに目を伏せる。 「これで十分幸せなんだって。これ以上望んじゃダメなんだって、何千回も自分に言い聞かせた」  それから、決意を秘めた顔を上げた。 「でも……無理だった」  昼間、自販機の裏で聞いた悠真の真剣な告白が脳裏を駆け巡る。 「藤原に告られて、お前が『考える』って言ったの聞いた瞬間……」  遥陽は自嘲気味に笑った。 「無理だって思い知った」  五年間、親友というポジションで満足していた自分の甘さも。 「だから……もう逃げんのやめる」  遥陽は蒼の綺麗な瞳をまっすぐに見つめた。 「蒼」  今度は『親友の遥陽』としてではない。一人の男として。 【【「好きだ」】】  静かに、けれど揺るぎない確信を込めて。 【【「ずっと、お前が好きだった」】】  そして——照れながらも、困ったように笑った。 「……ごめん。今日いきなり答えを出せとは言わねえから」  悠真の告白にすら答えを出せていない蒼へ、さらに答えを迫って追い詰めるつもりは毛頭ない。 「ただ」  遥陽の表情が、少しだけ愛おしそうに切なくなる。 「もう俺のこと、『ただの親友』だと思わないでくれ」 「…………」 「俺は蒼と手え繋ぎたいし、デートしたいし」  顔を真っ赤にして本気で照れる。 「……いつか、本当の恋人になりたいって思ってる」  『親友』という名前の防波堤の裏側に隠し続けていたすべてを、蒼の目の前で綺麗に晒し切った。  遥陽はもう一度、深く深く息を吐き出す。 「……以上!」  そして、テーブルの上の空のグラスを掴んだ。 「やっべ……」  グラスを持つ手が震えている。 「人生で、一番緊張した……」  強がってハハッと笑ってみせる。  しかし、蒼の口からどんな返事が飛び出してくるのか、怖くて怖くてたまらないことだけは——隠しようもなく全身から溢れ出ていた。

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