Zeφyr(ゼファー) / 第7話

6、隣にいた人

【【6、隣にいた人】】  ——大学到着後。  蒼と遥陽は講義棟へ向かう人の波から途中で外れ、そのままキャンパスの奥にある学生相談窓口へと向かった。  防音の施された個室へ通され、二人は昨夜から今朝にかけて整理した記録を、順を追って丁寧に説明していく。  高校時代からどこかで撮影されていた可能性のある写真群。正体不明の匿名アカウントから届いた不気味なDM。昨日、正門を出たあとに遥陽と指を絡ませて歩いていた姿を、離れた場所から盗撮した写真。  そして——遥陽が蒼のアパートへ駆けつけた直後に届いた、あの気味の悪い一文。 『遥陽くん、来たんだ』  さらに、今朝になって思い出した高校時代の不気味な出来事の数々。 なくなった蒼の体育のジャージ。 蒼への盗撮疑惑がある東恭介の話。そして、机の中へ忍び込まされていた匿名の手紙。 『今日も遥陽くんと帰るの?』 『あの人より僕の方が蒼くんを見てる』  二人の話を聞く担当職員の表情は、説明が進むにつれて次第に険しくなっていった。 「一ノ瀬さん。この件については、単なるSNS上の噂や嫌がらせの域を超えています。警察との連携も含め、厳重に対応すべき事案です」 「……はい」 「昨夜、ご自身たちで相手を特定したり接触しようとしなかった判断は非常に適切でした。今後も絶対に個人で動かないでください」  隣に座る遥陽が、深く頷く。  職員はノートパソコンに素早くメモを取りながら、指示を重ねた。 「届いたDMは削除せずにすべてスクリーンショットで保存すること。新しいメッセージが来ても絶対に返信しないこと。そして学内では、可能な限り一人にならないように徹底してください」 「わかりました」 「高校時代の出来事については、ご本人の同意をいただけるなら、大学側から相手方の高校へ当時の記録を確認する方法も検討できます」  蒼はほんの一瞬だけ視線を落としたが、隣にいる遥陽の存在を感じると、意を決して顔を上げた。 「……お願いします」 「承知いたしました」  職員がキーボードを叩き、システムへとデータを入力していく。  その時だった。 「あ……」  カチャカチャと響いていた打鍵音が、ピタリと止まった。 「どうしました……?」  眉をひそめた遥陽が尋ねる。職員はモニターをじっと見つめたあと、ゆっくりと蒼の方へ視線を向けた。 「一ノ瀬さん」 「はい」 「申し訳ありませんが、少々ここでお待ちください」 「……え?」  職員はそれ以上なにも言わず席を立ち、慌ただしく部屋を出ていった。 残された蒼と遥陽は、顔を見合わせる。 「……なんだろう」 「わかんねえ……」  数分後。 扉が開き、担当職員が別の職員を伴って戻ってきた。二人とも、先ほどより一段と固くこわばった表情をしている。 「一ノ瀬さん」 「はい」 「システム内の記録を確認いたしました」  一度言葉を選んでから、職員は重い口を開いた。 「実は——今年の五月の時点で、一ノ瀬さんに関するご相談が、別の学生から窓口へ入っていました」 「…………え?」  蒼は目を見開き、遥陽も思わず身を乗り出した。 「今年の五月……? そんなに前からですか?」  つまり、昨日二人の関係が動き始めたことで起きた騒ぎとは、まったく別の時期から始まっていたということだ。 「その相談内容って……何だったんですか?」 「申し訳ありませんが、相談者の個人情報に関わるため、現時点ですべてをお伝えすることはできません。ただ……」  職員が蒼をまっすぐに見つめる。 「『一ノ瀬さんの姿を、遠くから頻繁に盗撮している不審な学生がいるようだ』という情報提供でした」 「…………っ」  部屋の空気が一気に張り詰めた。遥陽が低く抑え込んだ声で問い詰めた。 「誰が撮ってたか……大学側は把握してるんですか」 「相談者の方から、特定の人物の名前は挙がっていました」 「それって、誰なんですか——」 「高橋さん」  身を乗り出す遥陽を、職員が静かな、しかし強い口調で制した。 「ここから先は大学側と関係機関で事実関係を確認します。絶対に個人で犯人を捜したり、問い詰めたりしないでください」 「……っ……わかりました」  遥陽は悔しそうに奥歯を噛み締め、背もたれへ身体を戻した。悔しくても、今いちばん優先すべきなのは蒼の安全だった。 「一ノ瀬さん。本日の講義ですが、無理に出席なさる必要はありません。こちらから担当教員へ連絡を入れ、公欠扱いの手配をすることも可能です」 「…………」  蒼は細いフレームの眼鏡を押し上げ、しばし思案した。 「……講義、受けます」  遥陽が驚いたように横を向く。 「蒼……無理すんなよ」 「うん。でも……ずっと怯えて部屋に閉じこもってるのも嫌だし……ちゃんと普通に過ごしたいから」 「……そっか」  蒼の芯の強さを知っている遥陽は、それ以上止めなかった。 「じゃあ俺、お前の講義が終わるまで講義棟の外で待ってる」 「遥陽だって、自分の講義あるでしょ?」 「……あ、あったわ」 「ちゃんと受けてきてよ」 「はい……」  二人のやり取りに、ピリついていた部屋の空気が少しだけ緩み、職員がほっとしたように目元を和ませた。  その日の午後。  大学側の迅速な働きかけにより、高校時代の指導記録などへの照会が行われた。そして——予想よりも早く、高校側から回答が返ってきた。  再び相談室へ呼び出された蒼の隣には遥陽が座り、正面では深刻な顔をした職員が資料を手にしていた。 「高校側に、当時の指導記録が残っていました」  職員が開いた資料に目を落とす。 「当時同じ学年だった東恭介さんが、一ノ瀬さんを本人の許可なく校内で複数回撮影していた件で、教員から指導を受けています」 「…………」  蒼がそっと遥陽を見つめる。遥陽の記憶と、同級生からの情報は間違っていなかったのだ。 「やっぱり……東だったんだ……」  安堵しかけた二人に、職員は静かに言葉を重ねた。 「ただ——」  遥陽が顔を上げた。 「それとは別に、気になる情報が判明しました」 「気になる情報……?」 「一ノ瀬さんが今朝おっしゃっていた、高校時代に机へ入れられていたという匿名の手紙についてです」 「……はい」 「実は当時、学校側もその手紙の存在を一部把握していました」 「え……? 僕、先生に相談なんてしてませんけど……」  蒼自身も初めて知る事実に、思わず目を丸くする。 「担任の先生が、別の生徒から『一ノ瀬さんの机へ不自然に近づいている人物がいる』と相談を受けていたそうです」  遥陽の眉間に深いシワが寄る。 「それも……東ですか?」 「それが——」  職員が手元の資料へ視線を落とし、言葉を詰まらせた。 「手紙を入れていたと疑われていた生徒は、東さんとは別の生徒だったそうです」 「…………え?」  一瞬で、室内に重い沈黙が落ちた。 「待ってください……」  遥陽が身を乗り出す。 「じゃあ……高校の時から、蒼の周りには……ストーカーみたいな奴が、少なくとも二人いたってことですか!?」 「現段階で断定はできません」  職員は慎重に言葉を選びながら答える。 「東さんが盗撮を行っていたことは事実です。しかし、匿名の手紙に関して不審な動きを見せていた人物は、別の生徒だった……ということです」 「その生徒って……誰なんですか!?」  蒼が尋ねると、職員はわずかに言い淀んだ。 「現在、高校側が当時の詳細な記録と照合を行っている最中です。……ただ、当時の相談内容の中に、ひとつ非常に気になる記述がありました」 「気になる記述……?」  職員は手元の紙面を読み上げる。 「その人物は……一ノ瀬さん本人よりも——」  言葉を一旦切り、まっすぐに目の前の二人を見据えた。 「——高橋さんの方を、執拗に見ていたそうです」 「……え? 俺……!?」  遥陽が弾かれたように固まった。蒼も息を呑み、隣の遥陽を見つめる。 「どういう……ことですか?」 「一ノ瀬さんと高橋さんが一緒にいる時、あるいは高橋さんが一人で移動している時にだけ、その人物が遠巻きに現れることが非常に多かった……と、当時の記録に残っています」  重苦しい沈黙が部屋に落ちた。  高校時代、蒼の机に届いていた匿名のメッセージ。 『今日も遥陽くんと帰るの?』 『あの人より僕の方が蒼くんを見てる』  そして、昨夜届いた悪夢のような一文。 『遥陽くん、来たんだ』  遥陽の背筋を、冷たいものが這い上がっていく。 「……これ……」  遥陽が、震える声をゆっくりと絞り出した。 「こいつが狙ってたのは……蒼だけじゃなかったのかもしれない」 「え……?」 「俺と蒼……二人でいる、その関係そのものを……ずっと見てたんじゃないか……」  その時——卓上に置かれた職員のスマートフォンが激しく震えた。 高校側からの追加の緊急連絡だった。  職員が素早く電話に出て、短く返答を重ねていく。 通話を終えた職員の表情は、先ほどまでとは明らかに変わっていた。 「……手紙の人物について、名前の確認が取れました」 「誰なんですか……!?」  蒼が身を乗り出して問う。職員は重い眼差しで、目の前の二人を見つめた。 「当時、手紙の件でマークされていた生徒の名は——」  一拍の、重い間。 「——《《久| く》》《《世| ぜ》》《《直| なお》》《《哉| や》》、という人物です」 「…………っ!?」  その名を聞いた瞬間、遥陽の顔から一瞬で血の気が引き、土気色へと変わった。 「遥陽……? 知ってる人なの……?」  蒼の問いかけに、遥陽は震える唇を開いた。 「……知ってる……」 「誰……なの……?」  遥陽は強張った顔で、ゆっくりと蒼を見つめ返した。 「……俺と……同じ中学だった奴だ」 「え……?」 「……高校の入学式の日に——」  六年前。遥陽が体育館に行く途中で初めて蒼の姿を見かけ、その存在に雷が落ちたように一目惚れをした、あの日。 「……あの時、俺のすぐ隣にいた奴だ」  今まで『東恭介』へ向かっていた一本の線が、ここで過去の起点へ繋がるもう一つの影へと枝分かれした。  遥陽の言葉に、蒼は思わずアイスブルーの瞳を丸くして瞬かせた。 「入学式の日……?」 「……ああ」  遥陽は椅子の背もたれに深く体重を預け、天井の一点を見つめた。 日々の中に埋もれ、これまで思い出すこともほとんどなかった記憶。けれど——あの春の日、初めて一ノ瀬蒼という存在を目に焼き付けた瞬間のことだけは、今でも鮮明に思い出すことができた。  ——高校一年、桜の舞う入学式。 「遥陽、何組だった?」 「俺は二組。久世は?」 「俺も二組」 「マジで? どんだけ腐れ縁なんだよ」 「中学三年間ずっと同じクラスだった奴に言われたくないんだけど」  久世直哉。中学時代からの気心の知れた友人だった。遥陽のように誰とでもすぐ打ち解けるタイプではなく、どちらかといえば物静かで、人付き合いが少し不器用な男だった。それでも遥陽とは妙に馬が合い、中学の三年間、なんとなく一緒に行動することが多かった。  ワイワイと喧騒に包まれた廊下を抜け、二人並んで体育館へ向かっていた、その時。 前を歩いていた遥陽の足が、ピタリと止まった。 「…………」 「遥陽? どうしたの」 「……ちょっと、何あれ」 「え?」  遥陽の視線に引っ張られるように、久世も足を止める。遥陽の釘付けになった視線の先——人混みの中で、そこだけ妙に目を引く場所があった。  プラチナブロンドの柔らかそうな髪。 細いフレームの眼鏡の奥にある、どこか浮世離れした綺麗な青い瞳。 周囲の新入生たちの中でもひときわ目を引く、儚げで整った容姿。  一ノ瀬蒼。 当時はまだ、その名前すら知らなかった。 「…………やっべ」  遥陽の口から、感嘆とも吐息ともつかない声が漏れ出る。 「何が?」 「めちゃくちゃ綺麗な女子がいる……」  久世も遥陽の視線を追い、じっとその人物を見つめた。 「……あの人、男じゃない?」 「え?」  遥陽は思わず二度見した。 「マジで?」 「うん。制服、男子のだし」 「…………」  男だとわかっても、一度引き寄せられた遥陽の視線は離れようとしなかった。胸の奥がドクンと大きく脈打っている。久世が横から、どこか探るような目つきで遥陽の横顔を覗き込んだ。 「何? 気になるの?」 「…………」  遥陽は気恥ずかしさを誤魔化すように、へらりと鼻先をかいた。 「いや……」  もう一度、遠くの人影を見つめる。 「たぶん俺、あの子のこと好きになるわ」  半ば冗談めかして、軽い調子で口にした言葉だった。 だが、隣の久世が一瞬だけ口を噤み、沈黙した。 「……まだ喋ったこともないのに?」 「うん」 「男だよ?」 「だから何?」  自分でもよくわかっていなかった。理屈では説明できない。ただ、どうしても目が離せなかった。 「名前、何て言うんだろうな」  壁に貼り出されたクラス分けの巨大な掲示板の前に移動し、名前を探す。 「……一ノ瀬蒼」  遥陽より先に、久世がその名前を見つけ出して呟いた。 「三組だって」 「なんだ、隣のクラスじゃん」  遥陽が心底嬉しそうに笑った。 「よっしゃ」 「何がよっしゃなの?」 「知らん。でも、なんかめちゃくちゃ嬉しい」  ——遥陽の記憶は、そこで途切れていた。  現在。  相談室の静寂の中、遥陽がゆっくりと顔を上げた。 「……思い出した」 「なにを?」  蒼が身を乗り出す。 「久世は……知ってた」 「え?」 「俺が、蒼に一目惚れしたこと」  あの入学式。すべての始まりの日から。 「それに……」  遥陽の眉間にシワが寄る。 「蒼の名前を一番最初に見つけたのも……俺じゃなくて久世だった」 「…………」  大学の担当職員が、その会話を記録していく。遥陽はさらに、過去の記憶を手繰り寄せた。 「そういえば高一の時も、あいつに何回か聞かれたんだ……『あの一ノ瀬って奴とは話せたのか?』とか」  当時は単に、入学式で騒いだのを覚えていて冷やかしているだけだと思っていた。 「二年で蒼と同じクラスになった時もさ……『よかったじゃん、好きな奴と同じクラスになれて』って言われた」  久世は知っていたのだ。遥陽が蒼に惹かれた、その最初の瞬間から。 「……待てよ」  遥陽の顔から、急速に血の気が引いていく。 「高二で俺が蒼と仲良くなってから……久世と二人で遊ぶこと、激減したんだ」 「喧嘩でもしたの?」 「いや、してない」  喧嘩などがなかったからこそ、遥陽はなにも気づかなかった。 「環境が変わって、自然と疎遠になっただけだと思ってた……」  けれど——もし、それが自然な疎遠ではなく、久世の側に別の感情があったのだとしたら。  大学側はすぐに、久世直哉に関する学内データベースの照会を始めた。 ほどなくして、担当職員が画面から顔を上げた。 「……確認が取れました」  担当職員の声に、二人が顔を上げる。 「久世直哉さん」  手元の資料に目を落としながら、職員が告げた。 「現在——本学に在籍しております」 「…………は?」  遥陽の低い声。蒼も言葉を失う。 「同じ……大学……?」 「ええ」 「俺、全然知らなかった……! 大学に入ってから一度も会ったことないのに!」 「所属している学部と、普段利用する棟が異なりますね」  そう言って職員が提示したものは、蒼たちが普段の学生生活でほとんど足を踏み入れないエリアだった。 「……でも」  蒼が震える声で問いかける。 「……ずっと同じ大学の中にいたってことですよね?」 「そうなります」 「…………」  遥陽の顔から、すっと表情が消えた。  同じ大学にいながら、一度も声をかけてこなかった元・親友。 だが高校時代、蒼の机に気味の悪い匿名の手紙を入れていた強い疑惑がある人物。そして今、蒼の元にはキャンパス内で盗撮された写真やメッセージが届いている。 「……久世が送ってるって、まだ確定したわけじゃない」  遥陽は自分に言い聞かせるように低く呟いた。職員も深く頷く。 「その通りです。現段階で久世さんが匿名アカウントの本人だと断定することはできません」 「……はい」 「大学側で慎重に調査を進めます。それまでは絶対に、ご自身で久世さんに接触しようとしないでください」 「わかりました」  蒼も固く頷いた。  その日は、もう二人でこれ以上動かないことにした。  調査は大学に任せる。久世にも、東にも連絡は取らない。 SNSの匿名アカウントにも返信しない。  西日が落ち始めた帰り道。蒼と遥陽は、少し距離を空けて並んで歩いていた。今日は手を繋いでいない。お互い考えることが多すぎて、触れ合う余裕すらなかった。 「……遥陽」 「ん?」 「高校の時の久世くんって……どんな人だったの?」 「んー……」  遥陽が夕空を見上げる。 「根は悪い奴じゃなかった」 「すごく仲が良かったんだよね」 「中学の時はな」 「遥陽にとって、一番の親友だった?」 「うーん……俺、昔から友達だけは無駄に多かったからさ」  遥陽は少し考えてから、ぽつりと漏らした。 「でも……久世からしたら、俺が一番近い存在だったのかもしれねぇ」 「…………」 「あいつ、自分から人に話しかけるようなタイプじゃなかったし」  そして、高校進学。遥陽は入学初日に蒼を見つけ、二年生で親友になった。 「…………」  遥陽の足が、ふっと止まる。 「俺さ……」 「なに?」 「高二で親友になってから……昼休み、ほぼ毎日蒼と一緒にいただろ」 「うん」 「帰りも、ずっと一緒で」 「そうだったね」 「休日まで二人で出かけるようになってさ」 「……うん」 「……久世と過ごす時間、俺がめちゃくちゃ削ってたんだ」  蒼は何も言わず、遥陽の横顔を見つめた。 「俺、何にも考えてなかった。蒼といるのがただただ楽しすぎて……」  遥陽が自嘲気味に笑う。 「……好きで好きで仕方なかったから」 「…………っ」  こんな状況だというのに、蒼の頬が熱くなった。 「それで……久世のこと、いつの間にか誘わなくなってたんだ」 「遥陽」  蒼はまっすぐに遥陽を見つめ返した。 「それと、今回のことは全く別だよ」 「……わかってる」  遥陽はすぐに頷いた。 「もし仮に久世が犯人だったとしても、だからって蒼を裏で盗撮したり、怖がらせたりしていい理由には絶対にならない」 「うん」 「ただ……」  遥陽は少し寂しそうに笑った。 「俺もあいつが陰でなに考えて、どんな顔してたのか……全然見てなかったんだなって」  再び、二人は歩き出す。 静かな帰り道で、今度は蒼の方がなにかを思い出したように目を見開いた。 「……遥陽」 「ん?」 「高二の文化祭の日……覚えてる?」 「覚えてる。蒼と二人で写真撮った」  即答だった。 「そんなことまで覚えてるの?」 「当たり前だろ。俺、あの写真今でもスマホの鍵付きフォルダに入れて大切に持ってるし」 「えっ」 「一番のお気に入り」 「ご、五年前の写真だよ……?」 「好きな奴と初めて撮ったツーショだぞ? 宝物に決まってんだろ」 「…………っ」  蒼は赤くなった頬を誤魔化すように、眼鏡のブリッジを押し上げた。 「……その話じゃなくて」 「ん?」 「その日……僕が教室に戻ったら、机の中に手紙が入ってたんだ」  遥陽の瞳から、一瞬で冗談の色が消えた。 「内容は……?」 「確か……」  ぼんやりとした記憶を辿る。けれど、ある一文だけが鮮明に脳裏に焼き付いていた。 「『やっぱり遥陽くんの隣なんだね』って……書いてあった」 「…………」  遥陽の足が、完全に止まった。蒼も足を止め、振り向く。  高校時代。 『今日も遥陽くんと帰るの?』 『やっぱり遥陽くんの隣なんだね』  そして、現在。 『高橋くんを選んだんだね』 『遥陽くん、来たんだ』  送ってきたのが本当に同一人物なのかどうかはまだわからない。けれど——そこに共通する不気味な執着だけは、はっきりと感じ取れた。  蒼。そして——遥陽。 「……これ」  遥陽が、低い声で言った。 「俺たちの関係が進展するたびに……反応して動いてる」  高校で親友になった時。 放課後、二人きりで帰るようになった時。そして今——蒼が遥陽を特別な『恋愛対象』として見始めた、まさに今。  影に潜む何者かもまた、二人の関係が変わるたびに動き出している。  二人は夕闇の迫る道端で、じっと見つめ合った。 「…………」  遥陽が大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。 「……よし、今日はもうやめよう」 「え?」 「これ以上考えるの、おしまい!」  遥陽の顔に、いつもの太陽のような明るい笑顔が戻る。 「大学の窓口に任せるって決めたろ?」 「……うん」 「俺たちが帰り道で素人探偵ごっこやっててもキリがねえし」  そして、遥陽はお腹を押さえておどけてみせた。 「それに……めちゃくちゃ腹減った」 「ふふ、急だね」 「昨日から考えること多すぎて、脳のエネルギーが切れてんだよ」 「なにか食べて帰る?」  遥陽は嬉しそうに目を輝かせ、蒼を覗き込んだ。 「……いいの?」 「なにが?」 「今日も……俺を選んでくれんの?」 「…………」  蒼は呆れたように息をついた。 「今、こうして一緒に帰ってるでしょ」 「そうでした」 「それに……」  蒼はふっと、柔らかく目を細めた。 「今日は普通に……遥陽とご飯食べて帰りたい」 「…………」  遥陽の表情が、一瞬で破顔した。 「そっか……!」  事件の怖さに脅かされたからでも、誰かに強制されたからでもない。蒼自身が、自分の意思で『遥陽と一緒にいたい』と望んでくれた。そのことが、今の遥陽には何よりも嬉しかった。 「じゃ、行こう!」 「どこに行くの?」 「今日はラーメン!」 「僕……猫舌だから熱いの苦手なんだけど」 「知ってる」 「絶対、遥陽の方が先に食べ終わるでしょ」 「知ってる」 「ちゃんと待っててよ?」  遥陽は眩しそうに蒼を見つめ、ふっと悪戯っぽく笑った。 「六年待った男を舐めんなよ?」 「それとこれ、全く関係なくない……?」 「大ありだね」 「絶対ないよ」  他愛もない軽口を叩き合いながら、二人はいつもの帰り道を歩いていく。  過去と現在が交差する不気味なこの問題は、大学に委ねる。今夜は、少なくとも今この瞬間だけは。  二人で紡いできた大切な日常を、誰にも侵させはしない。

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