芦名 雅 / 第12話

第九話 王都への帰還

 証拠を手にしたセレスティーヌは、王都へ戻る決意をした。 「今度は、わたくしから動きます」 「追い出されたから戻るのではありません。確かめるために戻るのです」  誰に言うでもなく、彼女はそう付け加えた。  吾輩は膝の上で目を閉じた。  前に王都を離れたときより、馬車の揺れがずいぶん小さく感じられた。たぶん道が良くなったわけではない。  吾輩を抱え、馬車に乗り込む彼女の顔つきは、以前とは違っていた。  あのときは、周囲の声に押されるまま王都を去った。  今度は違う。  自ら戻るのだ。  王都では、アルディオンがセレスティーヌからの謁見の申し出を受けていた。  久しぶりに顔を合わせた二人の間には、しばし妙な沈黙が流れた。 「セレスティーヌ......何故、戻ってきた」 「殿下に、お見せしたいものがございます」  セレスティーヌは証拠の手紙と帳簿を差し出した。 「これは結論ではございません。調査の入口です」  アルディオンは書状を読み、すぐには何も言わなかった。  以前の彼なら、そこで誰かの言葉を信じて終わっていたかもしれない。  だが今度は、王室監査官を呼び、帳簿と送金記録を一件ずつ照合するよう命じた。  少なくとも、一度痛い目を見た人間は学ぶらしい。猫ほどではないが。  その手は震えていなかった。  調査が始まると、グレゴールはすぐに王城へ呼び出された。 「これは捏造です!」  彼は青ざめた顔で言い逃れを試みた。  だが、古い帳簿の筆跡、先代宰相の印章、複数の商会に残されていた送金記録。  一つの証拠を否定すれば、次の証拠が出てくる。  十年前の送金先の一つは、今もグレゴールと取引のある商会だった。  さらに、領地へ忍び込んだ男が落とした使用人章の番号から、グレゴール家に雇われた臨時従者が特定された。  謁見の間の隅で、吾輩はセレスティーヌの足元にちょこんと座り、居並ぶ貴族たちの中からグレゴールだけをじっと見据えていた。  グレゴールが外して卓上へ置いた革手袋から、あの夜と同じ苦い香草と油の臭いがした。吾輩の毛が逆立つ。低く、喉の奥から唸り声が漏れた。 「……この猫、グレゴール卿にだけ随分な反応をしますな」  王室監査官ハルト・ゼーガーが、報告書から顔を上げて呟いた。  グレゴールが眉をひそめる。吾輩は視線を逸らさなかった。  証拠としての重みはない。ただ、居並ぶ貴族たちには、吾輩がグレゴールだけを警戒していることは伝わったらしい。  吾輩に言わせれば当然である。  匂いは、書類より先に嘘をつかない。  領地へ忍び込んだ臨時従者を拘束すると、階段事件の数日前に王城の下働きへ金を渡したことまで白状した。  吾輩からすると、逃げるネズミを追い詰めるときとよく似ている。  そして最後に出てきたのが、香水店の帳面である。  マルタが使っていたものと同じ香りを、事件の前日に大量に買った客がいた。名義は偽名だったが、支払いに使われたのはグレゴール家の商会手形。  例の「目撃者」の少年も、報酬を受け取って嘘をついたことを認めた。  リーゼを階段で押した実行役までは逃亡していたが、少なくともセレスティーヌとマルタを犯人に仕立てる工作の経路は、これでほぼ繋がった。 「馬鹿な......何故、これがここに......」  グレゴールが忌々しげに呟いた。 「――マティアス様。まだ、あんたの亡霊に足を引っ張られるのか」  誰にともなく、そう吐き捨てる。 「あんたは最後までそうだった。家柄も後ろ盾もない私を引き上げたくせに、死んでからまで正しさを押しつけてくる」  グレゴールは積み上がった証拠を睨み、吐き捨てるように続けた。 「家柄だけで上へ行く連中に、私がどれほど軽んじられてきたか分かるものか。地位も財産も、自分の手で掴んだ。今さら全部失えるか」  なるほど。言いたいことはあるらしい。だが吾輩には、目の前の証拠より立派な言い訳には聞こえなかった。  その視線の先に、吾輩がいた。  やがて彼の目が、大きく見開かれる。 「......まさか、領地の書庫で部下を邪魔した猫か」  どうやら、あの男から吾輩のことを聞いていたらしい。  光栄である。できればもう少し早く思い出し、悪事を諦めてほしかったものだが。  吾輩は悠然と尻尾を揺らしてやった。  人間の言葉は話せずとも、勝ち誇るくらいはできる。  調査が進むにつれ、グレゴールの罪状は明らかとなり、セレスティーヌにかけられた疑いも晴れていった。  疑いをかけられていた侍女マルタも、当日は休暇で実家に帰っていたことが記録から裏付けられ、潔白が証明された。  リーゼも正式な聞き取りの場で、「セレスティーヌ様に押されたところは見ていない。怖くて、もっと早くそう言えなかった」と証言した。  セレスティーヌは責めなかった。 「あなたが謝ることではありません。悪いのは、恐怖を利用した人間です」  そう言った本人が、以前「平民が殿下に近づくな」と言った女と同一人物なのだから、人間はやはり分からない。  すべてが終わったあと、アルディオンは人払いをして、彼女の前に立った。 「セレスティーヌ。......すまなかった」 「私は、君を信じなかった」  アルディオンは顔を上げずに続けた。 「証拠が揃っていたからではない。皆がそう言っていたから、それを正しいと思った。王太子として、一番してはいけない判断だった」  王太子が深く頭を下げた。  セレスティーヌは、しばらく何も言わなかった。  かつてなら、きっと「お気になさらず」とでも言ったのだろう。  だが今の彼女は違った。 「謝罪は受け取ります」 「ですが、許すことと、元に戻ることも別です」  以前なら飲み込んでいたはずの言葉を、セレスティーヌは静かに口にした。  アルディオンが顔を上げる。 「ですが、婚約を元に戻すかどうかは、別のお話ですわ」 「......そう、だな」 「わたくし、領地の仕事が気に入っておりますので」  その言葉に、アルディオンは寂しそうに、それでもどこか安心したように笑った。  吾輩は思った。少しはまともな顔ができるではないか。  もっとも、これで全部帳消しというわけではない。  猫の信頼は魚一匹で買えることもあるが、人間の信頼はどうやらそう簡単ではないらしい。

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