朝海 / 第28話

Code9

 ――ル……君。  ――カ……ル君。  ――カイル君。  ――起きて。  ――目を覚まして。  ――このまま、逝ってほしくない。  ――私が寂しいわ。    カイルに聞こえてきたのは、アイルの泣く直前の声だった。意識は水中から浮上していく。  ゆっくりと目を開いた。  人工呼吸器をつけられていると気付く。心臓の上にはコードがつながっていて、心音モニターがピッ、ピッと記録をつけている。 「よかった。一時期脈も呼吸も弱くなって、どうなるかと思った」 「アイル……先生」  人工呼吸器の中ではっ、はっと浅い呼吸をする。このケアハウスに来てから、まともに食べられていない。点滴の栄養剤でやり過ごしていた。衰弱していっているのが実感できる。首には真新しい包帯が巻かれていた  あれは、夢ではない。  現実だったのだ。  呪いの影響だろう。  戦えなくなったカイルをふるい落とすために。  地獄に突き落とすために。  よく帰って来られたものだった。  おそらく、サラの声がスイッチになっていたと考えられる。あと少しで、死に近づいていたはずである。なぜ、生き残ってしまったのだろう。生かされてしまったのだろう。  死についての計画が狂ってきている気がする。まるで、生きてほしいといわれているみたいだった。それでも、ズブズブの生ぬるい湯に浸かるつもりはなかった。  ――まさか……!  そこで、ハッとした。  一番大切な状態を思い出した。  頭の中を切り替えていく。  包帯を巻き直したのだとしたら。  服を着替えさせたのだとしたら。  ――紋章を見られた?  ――あの体全体に広がる忌々しいツタを?  全身の血流が逆流していく。  墓場までもっていくつもりでいた。  それなのに、見られてしまうなんて。  憐みの目を向けられるだろう。ドクン、ドクンと心臓が激しく音を立てる。気持ち悪いと言われてしまえばそれまでだった。  そうなれば、ここから出て行かないといけない。知る人がいない遠い町へ逃げなければならない。 「その紋章が全ての元凶かしら?」  カイルはびくり、と体を震わせた。  ざわり、と空気が揺らぐ。  ざわざわと、揺らぎ続ける。  一瞬、暗殺者としての顔を覗かせる。  瞳が鋭くなる。  研ぎ澄まされていく。 「そうだと言ったら……あなたに何ができますか?」  肩で息をするのが精一杯の中で答える。   「安心して。私はそれについて何を言うつもりはないわ」  ――息が苦しい。  不意に呼吸が乱れていく。  ギリギリと紋章が締め付けてくる。  この役立たず――お前は呪われている身なのだと、忘れるなと点滅をする。  これは罰だ。  人を殺してきた罰である。  カイルが苦しいと無意識に腕を伸ばす。細く白い指が宙をさまよった。カイルの手をアイルは受け止めて握りしめる。 「大丈夫よ。ゆっくり呼吸をしてみてごらん」  穏やかな声だった。  思わず目を見開く。 『大丈夫――大丈夫ですわ。ゆっくり息をしてくださいませ』  同じ言葉だったからだろうか――その声は、サラと重なった。 「サ……ラさん」  人工呼吸器の中で、ぽつり、と名前を呼ぶ。名前を呼ぶだけでずきり、と胸が痛む。  ――まただ。  ――また、胸が痛む。  この気持ちは何なのだろう。契約を勝手に破棄して逃げ出した罪悪感? もやもやとした気持ちを取り払えない。それに、手紙を残していなくなった事実は変わらない。  ただ、サラの笑顔を失いたくなかった。  涙を見たくなかった。  理由はそれだけだった。  だから、離れた。  わざと突き放した。  別れを選択した。  弱さでサラから逃げたのである。その分、サラを傷つけてしまった。  我儘のためだけに。  ――カイルさん……!  ――話を聞いてくださいませ!  ――今回の試験も主席でしたの。  ――家庭科の実習でケーキを作りました。    ――紅茶と一緒に食べませんか?  ――また、熱が上がりましたね。  ――苦しくないですか?  ――氷を変えますね。  ――食べられるものがあれば、用意しますわ。  ――私の料理はおいしいと評判ですから。  なのに、看病をしてくれた時の心配げな声や笑顔を思い出してしまう。くるくると変わる表情と、日傘を差して歩く後ろ姿が浮かぶ。白い制服のスカートをひらりと、翻しながら歩く姿は記憶に新しかった。  それほど、身近になっていた。天真爛漫なサラが隣にいるのが当たり前になっていた。  当たり前だと思っていた。  でも、サラは公爵令嬢だ。  生まれた頃からのお嬢様である。    片やカイルは暗殺者だ。  血に汚れている手とは違う。  縛り付けていい相手ではない。  サラには自由が似合っている。  あの真っ白い日傘を差して。  ――サラさんが遠い。  どんどん遠くなっていく。  サラの幻影が消えていく。  消えてほしくないなんて。  いてほしいだなんて。  ――勝手だな。  人工呼吸器に覆われた口元に浮かぶのは、皮肉気な笑みだった。  ――僕はどうしたい?   ――何がしたい?    ――今、こうして、平穏な日々を送ろうとしている自分?  どれが、本当のカイルなのだろう。    ――僕はどこを目指しているのかな?  ――ダメだ。  ――ものすごく眠い。  疲れからなのか考えなければいけないのに、うつらうつらしてしまう。  抵抗できないまま瞳を閉じた。

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