今無 ヅイ / 第10話

第十話 苦情のうちは終わった

 西区導線異常は、予備対応案件から正式調査案件へ格上げされた。  そう聞いた瞬間、梓はいつもよりたいへん嫌そうな顔をした。 「名前が長くなると、だいたい面倒も増えるんですよ」 「事実です」  ファリンは否定しなかった。  ギルド本部の実務机には、新しい案件札が置かれている。  西区導線異常・正式調査案件。  昨日までの札より、少しだけ厚みがある。文字も濃い。札そのものに罪はないが、梓には妙に腹立たしかった。 「予備対応で終わってほしかった……」 「終わりませんでしたねえ」  スィレアは、昨日よりさらに増えた苦情票を糸で束ねていた。今日は分類用の糸が三色に分かれている。迷い、戻り、荷の異常。見たくないほど整理されていた。 「西区詰所から追加共有です。市警備隊は、パン屋裏と井戸周辺、旧宿場壁の三か所に簡易規制線を張りました〜」 「はい」 「西区商人組合からも、荷運び遅延の照会が来ています。あと、昨日の夕方に、荷車が向きだけ変わって戻ったという報告が一件」 「向きだけ」  梓は眉を寄せた。 「荷車そのものは戻ったんですか」 「戻りました〜。ただ、引いていた人は“まっすぐ進んだつもりだった”そうです」 「嫌な予兆ですね」 「ええ。嫌な予兆です」  スィレアがさらりと同意するのが、なお嫌だった。  ファリンは机の上に、もう一枚の紙を置いた。 「今日の目的は、昨日確認した“荷口”の絞り込みです」 「荷口を閉じろ、ですね」 「はい。日本語手帳の該当箇所ですね」  梓は鞄から手帳を取り出した。油染みの残る頁を開く。昨日から何度も読んだ文が、そこにある。  帳面が死んでるなら、西まで響く。  帳面が残ってるなら、先に荷口を閉じろ。  客と荷が混ざると、台所から人が戻る。  火床の西、粉の下。 「火床の西、粉の下」  ファリンが繰り返した。 「パン屋裏ですね」 「だと思います。ただ、現代のパン屋そのものではなく、古い火床区画かもしれません」 「分かりました。ガレス班、市警備隊のイーヴァさん、加えて商人組合の荷役代表に現地協力を依頼済みです」 「仕事が早い」 「正式調査案件ですので」 「本当に仕事になってしまった……」  梓は小さく呻いた。  スィレアが柔らかく言う。 「マミヤさん。今日は、少し危ないかもしれません」 「……はい」  その言い方が、いつもの冗談めいた調子ではなかったので、梓はすぐに頷いた。 「分かっています。戻されるだけでは済まない可能性があります」 「ええ」 「だからこそ、荷口を見ます。人が通る前に」  ファリンは静かに頷いた。 「お願いします」 「お願いされると逃げづらいんですよね」 「逃げないでしょう?」 「逃げたい気持ちは常にあります」  梓は手帳を閉じ、鞄にしまった。 「でも、逃げたせいで人が切れたら寝られないので」  言ってから、少しだけ自分で顔をしかめる。  言葉にすると、急に現実になる。  人が切れる。  そんなことは、起きてほしくない。      ◇  西区は、昨日より明らかに緊張していた。  パン屋の表では、いつも通り平焼きパンが焼かれている。だが、裏口の横には市警備隊の札が増え、粉袋置き場の前には簡易の縄が張られていた。荷は表側で受けるように、何人かの店主や荷役が不満そうに並んでいる。  不便そうだが、混乱はしていない。  それがイーヴァの仕事なのだろう。 「来たね」  灰色の外套を着た市警備隊員、イーヴァが片手を上げた。 「表の搬入はこっちで回してる。裏は止めた。ただ、商人組合から一台、確認用の空荷車を出してもらった」 「空荷車」  梓は嫌な予感で胃が重くなった。 「試すんですか」 「試さないと分からないことがある。ただし、人は通さない。荷車だけだ」  イーヴァの横には、商人組合の荷役代表らしき中年の男がいた。ハーフリングではなくヒュームだが、背は低めで、腕が太い。腰には荷札束と鉛筆をぶら下げている。 「商人組合のバルトです。西区の荷回しを止められると、昼から困る店が増えます。ただ、死ぬよりは困りません」 「とても正しいです」  梓は即答した。  バルトは少しだけ目を丸くし、それから頷いた。 「話が早そうで助かります」 「話は早いですが、解決が早いとは限りません」 「それも正しい」  横ではガレス班がすでに準備を終えていた。ガレスはいつも通り無骨に立ち、ログは荷車を見ている。リネアは石段の縁を叩き、フェイロンは風の流れを確かめていた。 「マミヤ」  ガレスが短く呼ぶ。 「はい」 「昨日の荷口、今日は動いている」 「動いている?」  梓が近づくと、リネアが石段の下を指した。 「風が昨日より強い。それと、粉袋置き場の下。床が鳴る」  床と言っても、今は石畳だ。その上に木箱や粉袋を置いているだけに見える。だが、リネアが杖で軽く叩くと、そこだけ音が違った。  薄い。  下が空いている。  梓は手帳を開く。  火床の西、粉の下。 「……ここですね」 「だろうね」  リネアは嫌そうに頷いた。 「現代のパン屋が悪いわけじゃない。ただ、古い荷口の上に粉袋置き場を作っちまってる」 「生活って、古代施設への配慮を前提にしてくれませんからね」 「そりゃそうだ」  ログが荷車の横から声をかける。 「この空荷車、押すの俺でいいか」  ガレスが即座に首を振った。 「駄目だ」 「空荷だぞ」 「人が触ってたら、人ごと扱われる可能性がある」  梓も頷いた。 「今回は縄で引きましょう。人と荷を少しでも切り離した方がいいです」 「人と荷を切り離すって、言い方が怖いな」 「状況が怖いので」  バルトが持ってきた長い荷縄を、ログが荷車の前軸に結ぶ。人が直接触らず、距離を取って引けるようにする。イーヴァが周囲の通行人を下がらせ、ガレスが手を上げた。 「全員、境界に近づくな。荷車だけを通す。異常が出たら、縄を離せ」  梓は手帳を握りしめた。  荷車が、ゆっくりと粉袋置き場の横へ引かれる。  車輪が石畳を軋ませる。何も起きない。  一歩。  二歩。  古い石段の脇、灰捨て場との境へ差しかかった時だった。  荷車の前輪が、ふっと薄くなった。  見間違いかと思った。  次の瞬間、荷車の前半分だけが、裏口の脇に現れた。  後ろ半分は、まだ元の場所にあった。  縄がたわみ、誰かが息を呑む。  荷車の中央で、板が切れていた。  鋸で切ったような荒さではない。燃えたわけでも、折れたわけでもない。木目が、そこで突然終わっていた。まるで最初から、そこまでしか作られていなかったように。  空気が凍った。 「……おい」  ログの声が低くなった。 「今の、人だったら」 「言わないでください」  梓は即座に言った。 「分かってます」  言いながら、自分の指先が冷えているのが分かった。  リネアがゆっくりと切断面へ近づく。ガレスが「触るな」と言いかけたが、リネアは手袋の先で、ほんの少しだけ断面の手前を示した。 「切ったんじゃないね」 「じゃあ何だ」  ログが聞く。 「分けたんだ。前半分を別口へ流して、後ろ半分をこっちに残した。結果として切れてる」 「結果が同じなら危険度も同じです」  梓は言った。  声は冷静だった。冷静に聞こえるようにしていた。 「これは刃じゃない。街の仕分け機構が、荷車を別々の導線へ振り分けようとしている。前を“搬入荷”、後ろを“未処理の荷”か“通行者の所持物”として見た。だから分かれた」 「人もそうなるか」  ガレスが聞いた。  梓は少しだけ黙った。  答えたくなかった。  でも、答えなければならなかった。 「可能性はあります」  ログが小さく罵った。  バルトは顔色を失っている。イーヴァは短く息を吐き、すぐに市警備隊員へ合図を送った。 「裏導線、完全封鎖。粉袋置き場の周辺、一般人立入禁止。商人組合へ、裏搬入は全停止で通達」 「全停止か」  バルトが苦い顔をする。 「昼の店がいくつか止まるぞ」 「人が切れるよりましだろ」 「分かってる」  彼は唇を結んで頷いた。  その判断が早いのは、ありがたかった。  しかし、そこで終わらなかった。  パン屋の裏手から、若い女の声が飛んだ。 「誰か! 貯蔵庫に二人、戻ってこない!」  全員が振り向いた。  パン屋の女将らしき女性が、顔を青くして裏口から出てくる。 「朝のうちに、塩と乾燥豆を取りに降りたんだよ。さっきから呼んでるのに、声はするのに、出てこない!」  ログが一歩踏み出す。  ガレスが腕で止めた。 「待て」 「でも」 「待て」  その声に、ログが歯を食いしばって止まる。  梓も手帳を開いた。  台所から人が戻る。  荷口を閉じろ。  客と荷が混ざると、台所から人が戻る。 「地下貯蔵庫はどこですか」  梓が聞くと、女将は震える手で奥を指した。 「そこの階段を降りた先だよ。いつもなら、すぐ戻れる。でも今日は、棚のところに戻るって」 「声は聞こえるんですね」 「聞こえる。でも、こっちへ歩くとまた棚の前に戻るって」  それは、迷路ではない。  梓はそう直感した。  貯蔵庫の入口へ近づくと、奥から確かに声が聞こえた。 「おーい! こっちだ!」 「階段に向かってる! 向かってるのに、また豆棚だ!」  ログが拳を握る。 「見えてるんだぞ」 「行けません」  梓は言った。 「行けないんじゃなくて、行ったら増えるんです」  ログが梓を見る。 「でも」 「助ける人数を増やすのは、救助じゃないです」  自分でも冷たい言い方だと思った。  でも、今は冷たく聞こえても止めるべきだった。  ガレスが短く頷く。 「読め」 「はい」  梓は入口の石枠を調べた。古い傷。後代の補修。煤。粉の白い跡。石枠の内側に、ほとんど見えないほど細い刻文が残っている。  大陸公用語ではない。  古代北エルヴィン語でもない。  少し崩れた実務記号。  おそらく、古い宿場の荷導線符号。 「……正式な文じゃない。荷札に近い」 「読めるのか」  ガレスが聞く。 「読めます。読みたくはないです」  梓は目を凝らした。  塩。  豆。  乾燥荷。  保留。  未登録荷。  搬出待機。  そして、人名ではなく、人数らしき記号。 「まずい」 「何が」 「中の二人、荷に混ざってます。客でも常住者でもなく、未登録荷扱いです」  イーヴァが低く言う。 「人間が荷扱い?」 「この仕組みから見れば、今はそうです。貯蔵庫に入った人と、塩と豆が同じ導線に乗ってる。でも荷口が壊れてるから、搬出できずに棚へ戻されてる」  奥からまた声が聞こえた。 「おい! 何か分かったか!」  女将が泣きそうな顔で入口へ寄ろうとする。イーヴァがそっと肩を押さえて止めた。 「今、読む。近づくな」  梓は手帳の該当頁を開く。  荷口を閉じろ。  客と荷が混ざると、台所から人が戻る。  火床の西、粉の下。  荷を止めるなら、塩を先に戻すな。豆を動かすな。  人を先に呼べ。 「……料理人さん」  梓は小さく呟いた。 「あなた、本当に現場の人ですね」  このメモは、ただの記録ではない。  対応手順だ。  塩を戻すな。  豆を動かすな。  人を先に呼べ。 「塩と乾燥豆、動かしてますか」  梓が聞くと、女将が頷いた。 「今朝、取るつもりだったんだよ」 「今は動かさないでください。中の二人に、荷を持たずに声だけで階段へ向かうよう伝えてください」 「でも、さっきから」 「その前に、荷導線を止めます」  梓は石枠の刻文をもう一度見る。  保留。  未登録荷。  搬出待機。  ここに一時停止の文があるはずだ。  あった。  小さい。  ほとんど削れている。  だが、ある。 「荷口、一時閉鎖の文」  梓は息を整えた。 「読めば止まるか」  ガレスが聞く。 「読むだけでは駄目です。現場の状態と合わせる必要があります。荷を動かさない。人を荷から切り離す。入口に現代の規制を置く。それから、古い閉鎖文を通します」 「やることを言え」  ガレスの声が短い。  ありがたい。 「ログさん、粉袋置き場の縄をもう一本。入口の手前に張ってください。人が荷を持って通らないように。リネアさん、この石枠の右下、割れそうなら押さえてください。フェイロンさん、風が止まるか見てください。イーヴァさん、中の二人に“荷を置いて、手を空にして、声のする方へ”と伝えてください。バルトさん、外の荷役を止めてください。誰にも荷を持たせないで」  全員が動いた。  ログが縄を張る。  リネアが石枠の亀裂へ金具を当てる。  フェイロンが灯りの向きと風を見ている。  イーヴァが貯蔵庫の中へ声を張る。 「中の二人! 荷を置け! 何も持つな! 声だけ聞いてこっちへ来い!」 「何も持つなって何だ!」 「いいから置け! 死にたくなきゃ置け!」  非常に分かりやすい。  梓は刻文へ指を添えた。 「荷口、一時閉鎖。未登録荷、搬出保留。人員、客導線へ退避」  古代語は、やはり面倒だった。  でも、これは儀礼文ではない。祈祷でもない。  実務文だ。  だから、梓は実務として読んだ。 「西方補助荷口、閉鎖。乾燥荷、保留。人員二名、荷扱い解除。退避導線、階段口へ」  石枠が、かすかに震えた。  風が止まる。  フェイロンが静かに言った。 「変わった」  奥から、今度は別の声がした。 「階段だ!」 「見えた! 見えてる!」 「走るな!」  ガレスが怒鳴る。 「歩け!」  数秒後、貯蔵庫の奥から二人の男がよろけながら出てきた。どちらも粉まみれで、片方は塩袋を途中で落としたらしい。手は空だった。  女将が泣きながら駆け寄ろうとして、イーヴァに止められる。 「待て。境界を越えてからだ」  二人が石枠を抜ける。  今度は戻らない。  ログが大きく息を吐いた。 「出た……」  梓も、そこでようやく息をした。  膝から力が抜けそうだったが、座るほどではない。座ると立ちたくなくなるので、立っていた。  救助された男の一人が、震えながら言った。 「棚に戻るんだ。何回歩いても、同じ豆棚の前で。荷を持ってると、手が引っ張られるみたいで」 「もう動かさないでください」  梓は即答した。 「そこは今、人と荷を間違えます」  男は意味が分からない顔をしたが、イーヴァが代わりに言った。 「分からなくていい。今日はもう地下へ入るな」 「はい」  その返事は早かった。  バルトが切れた荷車を見て、それから救助された二人を見た。 「これ、組合にも強めに回す。裏搬入は全面停止だ。文句を言うやつがいたら、切れた荷車を見せる」 「見せ物にはしないでください」  梓が言うと、バルトは少し笑った。 「分かってる。でも、証拠にはする」 「それは必要です」  リネアが石枠から手を離し、短く息を吐いた。 「応急処置だね。閉じたというより、寝かせただけだ」 「はい」  梓は頷いた。 「荷口を一時的に止めただけです。根本は、帳面です。人を客にも荷にも誤分類しないように、区分を直さないと無理です」  ガレスが言った。 「つまり」 「西区の補助受付か、中継記録室を探します。そこに客、荷、常住者の帳面があるはずです。それを見ないと、直せません」  イーヴァは周囲を見回した。  パン屋。  粉袋置き場。  切れた荷車。  青ざめた人々。  救助された二人。  それでも、表通りからは昼前の客の声が聞こえる。 「規制線は広げる」  彼女は言った。 「でも長くは持たないよ。夕方の帰宅時間までに人の流れを変えきれなかったら、もっと面倒になる」 「でしょうね」  梓は手帳を握った。  帰宅時間。  人が家へ帰る時間。  それが一番危ないかもしれないというのは、あまりにも皮肉だった。 「苦情のうちは、もう終わりましたね」  梓が言うと、ガレスがうなずく。 「終わったな」 「ここから先は」  梓は、切れた荷車の断面を見た。  木目が、途中で何事もなかったように終わっている。  人だったら。  腕だったら。  首だったら。  考えたくなかった。  でも、考えないわけにはいかなかった。 「帰れない人を増やさないための仕事です」  その言葉を、誰も笑わなかった。  街はまだ昼の顔をしている。  パンは焼かれ、客は並び、表通りでは誰かが値段の交渉をしている。  そのすぐ裏で、荷車は二つに分かれ、人が荷と間違われ、古い街の帳面が沈黙している。  梓は嫌そうな顔のまま、しかしもう迷わなかった。 「帳面を探しましょう。今日中に」  ガレスが短く答える。 「動くぞ」  不本意な冒険は、いよいよ生活のすぐ隣で、人を殺しうるものになった。

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