今無 ヅイ / 第11話

第十一話 帳面を探せ

 切れた荷車は、しばらくその場に置かれることになった。  見せ物ではない。証拠である。  ただし、それを見る者は皆、同じことを考えた。  これが人だったら。  その想像を、誰も声には出さなかった。  西区の裏搬入は全面停止になった。市警備隊が裏路地の入口に縄を張り、商人組合の荷役たちが表通り側へ荷を回している。文句は当然出た。出たが、切れた荷車を見た者から順に黙った。  現実には、説得力というものがある。  荷車の断面は、たいへん説得力があった。 「帳面を探します」  梓は、パン屋裏の石段を見下ろしながら言った。 「見つからなかったら?」  ログが聞く。 「困ります」 「困るで済むのか」 「済みません」 「だよな」  その短い返事に、妙な重みがあった。  梓は鞄から日本語の手帳を出し、該当する頁を開いた。  中央は後。  先に西区の受付。  帳面が残ってるなら、そこから戻せる。  名前をそのまま書くな。  意味で通せ。  最後の一行で、梓は目を細めた。 「……嫌なことが書いてある」 「どのくらい嫌だ」  ガレスが聞く。 「帳面があっても、すぐには直らないかもしれない、というくらいです」 「十分嫌だな」 「はい」  リネアが石段の縁を叩いた。 「入口はここだね。昨日見た時より、隙間が開いてる」 「動いたからですか」 「多分ね。荷口を寝かせたせいで、別の導線が少し浮いたんだろうさ」  フェイロンが風を見ている。 「下から来る風が変わった。荷口ではなく、受付側に近い」 「受付側の風って何ですか」  梓が思わず聞くと、フェイロンは少しだけ目を細めた。 「人が通る前提の風だ」 「分かるような、分かりたくないような」 「古い施設は、荷と人で空気の流し方を変えることがある。香、湿気、火、記録紙。客を通すところは、紙を傷めない」 「急にありがたい話になりましたね」 「ありがたいかは、下へ降りてからだ」  ありがたくない可能性の方が高かった。  イーヴァは市警備隊の二人へ指示を出していた。 「表通りは止めるな。裏だけ塞げ。野次馬は近づけるな。荷車の断面は触らせるな。子どもは特に近づけるな」 「はい」 「商人組合から来た人間はバルトへ回せ。文句は私に持ってくるな。持ってきたら怒る」 「はい」  たいへん分かりやすい指示だった。  バルトはその横で、荷札束を片手に顔をしかめている。 「帳面っていうのは、古代の帳面だろ」 「そうですね」 「現代の荷札や屋号も必要になるか」 「おそらく必要です」  梓が答えると、バルトは短く頷いた。 「なら、取りに行かせる。商人組合の通行名簿、屋号一覧、裏搬入の荷口利用者。全部持ってこさせる」 「助かります」 「人が荷扱いされるよりは、紙を持って走る方がましだ」 「とても正しいです」  こういう時、実務の人はありがたい。  人命と書類を天秤にかけて、迷わず書類を走らせる人は、とてもありがたい。  ガレスが石段の前に立った。 「降りるぞ。マミヤは中央。ログは後ろにつけ。リネア、先導。フェイロン、風を見る。イーヴァは入口を押さえろ」 「私は降りない方がいいか」  イーヴァが聞く。 「入口側を任せる」 「了解。中で何かあったら?」 「叫ぶ」 「分かりやすい」  リネアが石段の上に置かれていた古い板をどけた。下から、ひやりとした空気が上がってくる。湿ってはいない。古い石と、乾いた紙と、かすかな粉の匂い。  梓はそれを吸って、顔をしかめた。 「紙の匂いがする」 「良いことかい?」  リネアが聞く。 「良いことです。でも、こんなところで紙の匂いがするのは、だいたい嫌なことでもあります」 「いつも通りだね」  いつも通りだった。      ◇  石段は、思ったより短かった。  十数段ほど降りると、狭い踊り場に出る。天井は低い。ログが少し身を屈める必要があった。壁には古い漆喰が残り、その上から後代の補修材が雑に塗られている。  現代の街が、古い施設を知らずに使ってきた痕跡だった。 「ここ、完全に埋めたわけじゃないんですね」  梓が言うと、リネアが壁を撫でた。 「埋めたら上の建物が傾くんだろうね。だから空気だけ残して塞いだ。よくある」 「よくあるんですか」 「古い街じゃね」 「古い街、怖いなあ」  ガレスが短く言った。 「前」  踊り場の奥に、横へ伸びる細い通路があった。通路の床には、薄い溝が三本走っている。一本はパン屋裏の荷口へ。一本は表通り側へ。もう一本は、西へ向かっている。  梓はしゃがみ、溝の縁を見た。  刻文がある。  細かい。  古い。  読みたくない。 「客、荷、常住者……」  梓はゆっくり読み上げた。 「三本です。昨日の仮説通り」 「どれが受付だ」  ガレスが聞く。 「常住者導線の先です。客と荷を分ける前に、まず“この街の者かどうか”を見る仕組みになってる」 「現代の住民は?」 「登録されていない可能性が高いです」 「それで戻される」 「はい。街から見ると、住民が住民じゃない」  言っていて、嫌な気分になった。  住んでいるのに、街から住民として認識されない。  それは、かなり嫌な状態だ。  フェイロンが奥を指す。 「風はこっちだ」  常住者導線の先へ進む。通路は短く、すぐに小部屋へ出た。  そこは、受付だった。  大きくはない。むしろ小さい。今のギルド受付を見慣れていると、拍子抜けするくらい質素だ。  壁際に石の台。台の上には、乾いた泥に半分埋もれた金属製の留め具。台の奥には、薄い石板が何枚も重なっている。紙ではない。石板だ。だが、石板同士の間には、かすかに紙のような薄膜が挟まっている。  保存状態は、悪くない。  悪くないことが、怖かった。 「帳面だ」  リネアが低く言った。 「石板帳面か」  フェイロンが近づき、灯りの角度を少し変える。 「影で文字が出る」 「やめてくださいよ、そういうの」  梓は心から言った。 「普通に読ませてください」 「古代施設に普通を求めるな」 「求めたい」  灯りが斜めに当たると、石板の表面に細い文字が浮かんだ。  古代北エルヴィン語を基礎にしている。  ただし、もっと実務寄りだ。詩的な修辞は少ない。代わりに、分類語と区分語が多い。  梓は少しだけ息を吸った。 「西方客籍補助受付」 「常住者、客、荷、通行、保留」 「当たりだな」  ガレスが言う。 「当たりですが、嫌です」 「知ってる」  帳面の一枚目には、古代の名前が並んでいた。どれも今の西区には存在しない名前だ。宿場管理者、厨房担当、荷口番、客室整備、火床係。古い街がまだ生きていた時代の登録なのだろう。  梓は次の石板をめくろうとして、手を止めた。 「触っていいですか」  リネアが台を見た。 「留め具は生きてる。乱暴にやると割れる」 「分かりました。乱暴じゃなくて、静かに嫌がります」 「それは好きにしな」  フェイロンが灯りを支え、リネアが留め具を押さえる。梓は石板を一枚だけ持ち上げた。  下の頁に、短い警告があった。  夕刻、帰路確定。  常住者は家へ。  客は西二門へ。  荷は荷口へ。  未登録は保留。  梓は黙った。 「どうした」  ログが聞く。 「夕方が危ないです」 「なんで」 「夕刻に、帰路確定処理が走ります。この仕組みは多分、夕方になると人や荷をそれぞれの帰り先へ流す」 「常住者は家へ。客は出口へ。荷は荷口へ」 「未登録は?」  ガレスが聞く。 「保留です」 「戻されるのか」 「戻されるだけならいいんですが」  梓は切れた荷車を思い出した。  木目が途中で終わる断面。  人だったら、という想像。 「客と荷が混ざっていると、分けられます」  誰もすぐには言わなかった。  沈黙の中で、通路の奥から微かな街の音が聞こえた。パン屋の声。荷役の声。表通りを行く客の足音。  その人たちが夕方になれば帰る。  家へ。宿へ。倉庫へ。  当たり前に。  でも、この古い帳面が今の人々を知らなければ、街は彼らを正しく帰せない。 「……あと何時間だ」  ガレスが聞いた。 「今が昼前です。夕方まで、五、六時間」 「短いな」 「短いです」  梓は石板の続きを見た。  登録形式。  常住者名。  意味名。  役割。  帰路。  荷口関係。  火床関係。  水場関係。  そして、最後の注意。  音のみ不可。  意味にて記すこと。  名は帰路を結ぶ。 「……音のみ不可」  梓は呻いた。 「やっぱり」 「何だ」  ガレスが聞く。 「名前をそのまま書いても駄目です。意味で登録しないと通らない」 「意味?」  ログが顔をしかめる。 「バルトなら、バルトって書くだけじゃ駄目ってことか」 「そうです。その名前がどういう意味を持つか、どこの言語由来か、本人や家がどう扱っているかを見て、古代語の登録形式に変換する必要があります」 「面倒だな」 「面倒で済めばいいんですけど」  梓は石板の警告を見た。  名は帰路を結ぶ。  名前を間違えたら、帰る道が間違う。  この街では、今それが物理的な危険を持つ。 「失敗したら?」  リネアが聞いた。 「多分、その人は正しく帰れません。最悪の場合、客導線か荷導線へ誤分類されます」 「荷車みたいになるか」  ログの声が低い。  梓は目を伏せた。 「可能性はあります」  小部屋が、音をなくした。  パン屋の声も、荷役の声も、遠くなった気がした。  ガレスが梓を見る。 「できるのか」  梓は石板から目を離さずに答えた。 「住民名簿、商人組合の通行名簿、荷札、屋号、職能、住所、苦情票。全部あれば、できます」 「時間は足りません」 「でも、やります」 「怖くないのか」  ログが低く言った。  梓は少しだけ笑おうとして、失敗した。 「怖いですよ」 「めちゃくちゃ怖いです」  声は思ったより静かだった。 「誰かの名前を訳し間違えたら、その人が帰れなくなるかもしれない。荷として扱われるかもしれない。切れるかもしれない」 「でも」  梓は石板の文字を見た。  音のみ不可。  意味にて記すこと。  名は帰路を結ぶ。 「でも、私以外にできる人がいません」  読めるから。  意味を拾えるから。  現代の名前と古代の登録形式を、その場で繋げられるから。  そして、知ってしまったから。  このまま夕方になれば、人が帰れなくなるかもしれない。  ただ家へ帰ろうとしただけの人が、荷と間違われるかもしれない。  知ってしまったものを、知らないふりはできなかった。  ガレスは数秒だけ黙り、それから短く言った。 「分かった」  その一言で、決まった。 「イーヴァを呼ぶ。バルトに名簿を出させる。ファリンとスィレアにも来てもらう」 「ギルドから?」 「必要だろ」 「必要です」  必要すぎる。  梓一人で名前を集めている時間はない。  ファリンの書類整理。スィレアの分類。イーヴァの住民把握。バルトの商人組合名簿。全部いる。  これは、梓一人の読解ではない。  街の実務を、全部ここへ集める作業だ。  石板の光は、まだ消えない。  帳面は、現代の名前を待っている。  梓は嫌そうな顔で、それでもはっきりと言った。 「だから、私がやります」

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