今無 ヅイ / 第9話

第九話 街まで響く

 西区導線異常は、その日のうちに「苦情票の束」ではなくなった。  翌朝、ギルド本部の実務机の上には、ちゃんとした案件札が置かれていた。  西区導線異常・予備対応案件。  札を見た瞬間、梓は嫌そうな顔をした。 「名前がつくと、急に現実ですね……」 「ええ」  ファリンは淡々と答えた。 「もう“気のせいかもしれない”では済みませんので」  その横では、スィレアが苦情票を糸で束ねていた。細い糸が何本も紙の端を滑り、同じ文面、似た経路、近い時刻のものがあっという間に分類されていく。 「西区詰所にも共有済みです〜。市警備隊の巡邏さんが、問題の路地まわりを少し広めに見ます。ただし、原因調査はこっちですねえ」 「ですよね」  梓は机に額をぶつけたくなったが、今日も書類があるのでやめた。  市警備隊は人を止められる。通行を誘導できる。混乱した住民を落ち着かせることもできる。  だが、遺跡じみたものがどういう理屈で街路に噛んでいるかまでは分からない。  そこが分かる人員として、梓の名前はもう札に書いてある。 「本当に厄介だなあ……」 「よくあることです」 「よくあってほしくないんですよ、こういうのは」  ファリンはそこで一枚の報告書を差し出した。西区詰所の夜間巡邏控えだ。短く簡潔で、しかし内容はよろしくない。  裏路地を抜けたはずが同じ荷捌き場に戻る。二件。  水汲み役の童一名が井戸と裏口の間で方角感覚を失う。一件。  夜間巡邏員二名、問題の路地を避けて巡回。  市民被害なし。  最後の一文だけが救いだった。 「今のところは戻されるだけ、ですね」 「ええ。今のところは」  その“今のところは”が一番嫌なのだ。  梓は目を閉じ、息を整えてから、机の端に置かれた日本語の手帳を引き寄せた。  油染みのついた革表紙。角が丸くなり、手に馴染む重さ。誰かが何度も開き、何度も閉じた痕跡。  もうただの出土品には見えなかった。 「追加で読めた頁、ありますか」  ファリンが聞く。 「あります。いやな感じに」 「結構です。そういう時はだいたい重要です」 「何も結構ではないんですが」  梓は頁を開いた。  昨夜のうちに、短い写しは取ってあるが、こういうものは現物を見ながらの方が気配まで拾える気がした。  頁の途中、前より少しだけ強い筆圧で、こうある。  受付だけ通すな。  帳面が死んでるなら、西まで響く。  その一行で、部屋の温度が少し下がった気がした。  ファリンが言う。 「西まで響く、ですか」 「はい。しかも“帳面が死んでるなら”って前提つきです」 「帳面というのは」 「記録簿か、客籍台帳か、少なくとも何らかの中枢記録ですね。この人、導線は施設単体じゃなくて、帳面で繋がってる前提で見てる」  梓は次の行を指で追う。  客を一人通すと、道も一人分だけ起きる。  中央が起きてないなら、近いところへ流れる。  だいたい西。 「……だいたい、で書かないでほしいなあ」  思わず漏れた独り言に、スィレアがくすっと笑った。 「その“だいたい”が、一番現場感ありますねえ」 「ありますけど。ありますけど、今の私が欲しいのは現場感じゃなくて断定なんですよ」  客を一人通すと、道も一人分だけ起きる。  中央が起きてないなら、近いところへ流れる。  迎賓館跡で、梓たちは確かに正しい客処理を最後まで通した。  受付登録。  用途確認。  導線通行。  西二門からの退出。  その直後に、西区で苦情が出始めた。  嫌なくらい、話が噛み合っていた。 「……ファリンさん」 「はい」 「かなり高い確率で、私たちが起こしました」  ファリンは顔色を変えなかった。ただ、少しだけ視線を落とした。 「間違えて、ですか」 「いいえ。正しく通してしまったから、です」  スィレアの手が止まる。 「迎賓館跡は死んでいたんじゃなくて、ずっと待機していた。  私たちは、受付から退出までを最後まで通した。  それで客導線の末端が“まだ使われてる”と判断して、中枢へ同期を飛ばした。  でも中央還路庁は起きてないか、壊れている、だから近いところへ流れた。  それが……西区です」  話しながら、自分の声が少し乾いていくのが分かった。  誰かが意図してやった悪事ではない。  迎賓館での判断は正しかった。  それでも全体では、街の方へ異常を漏らす引き金になった。  嫌な理屈だ。  そしてこういうとき、嫌な理屈ほど、たいてい合っている。  ファリンは少しだけ息をつき、実務の顔に戻った。 「でしたら、今日の調査目的は二つですね。  一つ、西区でどこまで響いているか。  もう一つ、近いところへ流れた先、つまり補助受付か中継記録の有無を確認すること」 「はい」 「ガレス班にはもう伝えてあります」 「仕事が早い」 「間宮さんが嫌な顔をした時点で、半分は確信していました」 「やめてください、その便利な判断基準」      ◇  西区の朝は、昨日より少しだけ緊張していた。  パン屋の表には昨日と同じく焼き台が出ている。  甘い匂いもある。荷車も通る。  だが、裏手へ回ると、そこには市警備隊の簡易注意札がぶら下がっていた。  【通行注意。搬入は表通り側を優先されたし。】  かなり控えめな書き方だ。  まだ街を騒がせる段階ではない、という配慮が見える。  札の前には、ガレス、ログ、リネア、フェイロンの四人がすでに揃っていた。加えて今日は、灰色の外套を着た市警備隊員が一人いる。三十代後半くらいのヒュームの女で、動きやすい革鎧に、短い警杖だけを下げている。 「西区詰所のイーヴァです」  女は短く名乗った。 「一般人の規制と、通行整理だけこっちで見ます。潜るのと読むのは、そちらへ任せます」 「ありがたいです」  梓が答えると、イーヴァは手元の控えを渡してきた。 「夜の巡邏で拾った違和感、全部書いときました。読み書きは苦手ですが……読めますか?」 「十分です」  控えには、かなり実務的なメモが並んでいた。  同じ窓の下を二度通る。  井戸脇の風が冷たい。  粉袋の匂いが裏路地まで濃い。  角を曲がっても音の反響が変わらない。  梓は少しだけ目を上げた。 「かなり優秀ですね、この巡邏記録」 「死にたくないからね」  イーヴァは肩をすくめた。 「分からなくても、変なものは変って書いとくのが一番いい」  その態度は、梓にとってかなり好ましかった。  分からないものを分からないまま記録してくれる人は貴重だ。  分かったふりをされるより、よほど助かる。  ガレスが短く手を叩いた。 「行くぞ」 「今日は広く見る。昨日の裏口、井戸跡、旧宿場壁、地下風抜け」 「一般人が来たら、市警備隊へ返す」 「はい」  パン屋裏の石段は、昨日見たときよりもはっきりと“不自然”だった。  半ば埋めたはずの縁が、どこかで今も使われているみたいに摩耗している。灰捨て場の脇から抜ける風は冷たく、しかも一定だ。リネアが石段の側面を叩くと、下が空洞であることが乾いた音で分かる。 「後埋めだけど、完全には塞いでない」 「通気のため?」  ログが聞く。 「それもある」 「でも、もっと上流の理由だね」 「もともと塞げない構造だったんだろうさ」  フェイロンは石壁の継ぎ目を見ていた。 「石材の年代が違う」 「上は後代、西側の基礎は古い」 「この区画だけ、街が何かを避けるように建っている」  梓はその言葉で、昨日からの違和感が一つ繋がった気がした。 「……待ってください」  全員の視線が向く。 「グランドゲートって、後から未踏領域の外に作った街じゃなかったんですか」  リネアが片眉を上げる。 「少なくとも西区は、そう単純じゃなさそうだね」 「嫌すぎる」  梓は即答した。 「毎日パンを買ってる町並みの下から、古代の受付が出てくるの、ほんと嫌です」  イーヴァが低く笑った。 「その言い方、嫌いじゃないよ」  だが嫌いじゃないで済ませていい規模ではない。  パン屋裏からさらに西へ、古い井戸跡の脇を回ると、路地の壁際に半ば埋もれた石台があった。いまは樽置き場の一部にしか見えない。だが、梓が泥を払うと、その縁に文字が出た。  大陸公用語ではない。  古代北エルヴィン語。  例によって読みたくはないやつだ。 「何て?」  ログが覗き込む。  梓はため息をついてから読んだ。 「……西方客籍補助台」 「その下に、小さく“荷は別口”」  イーヴァが顔をしかめる。 「客籍?」 「客を記録する帳面の台、だと思います」 「本来は、ここで客扱いか荷扱いか、区分を切ってた」  リネアが石台の下を指した。 「見な」 「石の下に溝がある」  そこには、細い導線溝のようなものが走っていた。水路にしては浅く、装飾にしては機能的すぎる。梓はその線を見て、迎賓館跡の受付前で見た導線刻文を思い出した。  同じ系統だ。  しかもずっと雑に、後代の街路の下へ埋められている。 「……西区って」  梓は乾いた声で言った。 「未踏領域の端に後から作った街じゃなくて」 「古い境界宿場か、客導線施設の上に増築した街なんですね」  ガレスが短くうなずく。 「そう見るのが自然だな」 「自然なんですけど」 「自然に嫌ですね」  手帳を開く。  そこには、前よりも雑な字でこうあった。  宿の顔をしてるけど、宿だけじゃない。  人を泊める前に、分ける場所だ。  街もその上に乗ってる。  梓はその一文を、しばらく黙って見た。  この料理人は、気づいていたのだ。  パンを焼き、豆を煮ながら、宿場の顔をした街の下に、もっと古い何かがあると。  しかもおそらく、ずいぶん前から。 「どう読む?」  ガレスが聞いた。  梓は手帳と石台を見比べ、それから答えた。 「迎賓館跡は単独施設じゃなかった」 「客を受ける末端で、その客をどこへ流すかは、街側の補助受付と帳面で分けてた」  そこで一度、言葉を切る。 「客導線、荷導線、常住者導線……」 「少なくとも三つ。たぶん、それ以上あります」 「今は?」 「全部が半端につながってます」  厄介だった。  だが、そうとでも考えないと説明がつかない。  ログが頭を掻く。 「つまり、昨日のガキは何扱いだったんだ」 「未登録の客、ですかね」  梓は言いながら、本気で嫌になった。 「パン屋の使いで、塩を運んでただけなのに」 「街の下の古い仕組みから見たら、“どこの誰か分からない一時客”に見えた」  イーヴァが低く舌打ちした。 「そりゃあ治安側じゃ分からないわけだ」 「ええ」 「人を見る側の問題じゃなくて、街そのものが人を見分け損ねてるので」  フェイロンが、風抜けの先を見ていた。 「下にまだ部屋がある」 「大きくはない」 「受付の裏か、帳面を置く中継室くらい」  リネアも石壁の継ぎ目を見てうなずく。 「あるね」 「しかも、そこまで深くない」 「街を建て直す時、完全には潰さなかったんだろう」  ガレスが短く言った。 「入れるか」 「入口だけなら」 「でも」  梓は手帳の頁をめくる。  そこに、昨夜は読み飛ばしていた短い一行があった。  帳面が死んでるなら、西まで響く。  帳面が残ってるなら、先に荷口を閉じろ。 「……先に荷口を閉じろ」 「荷口?」 「搬入口導線を先に切れ、って意味かもしれません」 「荷と客が混線すると厄介だから」  ファリンがいれば、ここでたぶん「では、搬入口側の規制を強めましょう」と即断しただろう。  イーヴァはファリンではないが、十分に話が早かった。 「市警備隊へ回す」 「パン屋裏の搬入は当面、表通り側限定にする」 「粉袋置き場の角も封じる」 「助かります」  梓は本心からそう言った。  こういう時、実務が通じる相手は本当に助かる。  ガレスが石段の前へ立つ。 「よし」 「今日はここまでで十分だ」 「原因の輪郭は見えた」 「次は下じゃなく、帳面の場所を取る」 「中央還路庁、ですか」  梓が聞くと、ガレスは首を振った。 「いきなり中央じゃない」 「まずは西区の補助受付か、中継記録だ」  その判断は正しかった。  手帳にもある。  中央は後。先に西区の受付。  いきなり中央へ行っても、たぶん何も噛まない。  まずこの街の下で、どこまでが客で、どこからが常住者で、どこが荷なのか、その仕分け帳面を掴まなければならない。  梓は石段の下から上がってくる冷たい風を見つめた。  前回の迎賓館では、正しく読んで正しく通した。  それが、今回の起動条件になった。  間違えたからではない。  正しく通してしまったから、街まで響いた。  そう考えると、本当に気が重かった。  だがその重さは、解き方の輪郭も連れてきている。 「……次は」  梓は手帳を閉じ、はっきり言った。 「西区の受付を探しましょう」 「帳面が残ってるなら、そこから切れます」  ガレスがうなずく。 「正式に上げる」  イーヴァも続けた。 「こっちは規制線を増やす」 「街に死人を出す前に、片をつけよう」  死人。  その言葉を聞いて、梓は小さく息を呑んだ。  そうだ。  今はまだ、戻されるだけだ。  でも、それがいつまで“だけ”で済むかは分からない。  手帳の料理人は、そこまで見ていたのだろうか。  だから、あんな雑な字で、あんなに切実な実務メモを残したのかもしれない。  パン屋の表から、焼き上がりを知らせる声が飛ぶ。  街は今日も、いつも通りの顔で昼へ向かっている。  その顔の下に、古い受付と帳面と、間違った客導線が眠っている。  梓は嫌そうな顔のまま、しかしもう躊躇いはなかった。 「……ほんと、街まで響くんだなあ」  誰にともなく呟く。  それは、いまさら確認するには遅い事実だった。  けれど、遅いからといって、読まなくていい理由にはならない。

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