今無 ヅイ / 第14話

第一話 ここ多分図書館です

 忘却の外縁、中浅層南部。そこは、かつて湿地だった場所だという。  少なくとも、間宮梓にはそう聞かされていた。  だが実際に足を踏み入れてみれば、湿地というより、巨大な皿を日干しにしたような土地だった。  乾いた泥が亀甲のように割れ、低い葦の枯れ株がまばらに地面から突き出している。ところどころに白く乾いた塩の筋が残り、かつて水が流れていたらしい浅い溝が、地面を蛇行していた。  風が吹くたび、細かな砂と乾いた泥の匂いが立つ。  梓は口元を布で覆いながら、死んだ目で呟いた。 「自然環境適応型パーティに、自然環境非適応型の私を混ぜないでほしいんですが」  先頭を歩いていたヒュームの男が振り返った。  今回の隊長、ラウルである。三十代半ばほどの、日に焼けた実務家顔の探索者だった。派手な武勇を誇る感じはない。だが、進む時は迷わず、止まる時も迷わない。そういう種類の人間だった。 「ギルドの指定だ。古い文字が出たら、高位解読士を入れろと」 「古い文字が出たら、であって、古い泥が出たら、ではないと思います」 「泥の下に文字があるかもしれない」 「正論で人を外縁に連れてこないでください」  梓は息を整えながら、肩から下げた書類筒の位置を直した。  彼らは、忘却の外縁南部の乾燥湿地、河川跡、旧水路遺構の調査を得意とする中堅探索者隊だった。  隊長のラウルは、ヒュームの現場指揮役。  隊員のサイラは、ナーガ種の女性である。下半身の蛇体を乾いた泥の上に滑らせながら、時折、腹側を地面に寄せて振動を拾っている。  ネリカは、半陸棲のイカ種だった。外套膜を守る湿り布を身につけ、複数の腕で湿度計、採取瓶、記録板、短い槍を同時に扱っている。梓からすると、仕事机が歩いているように見えた。  最後に、オーク種のドラム。大柄な前衛兼荷役で、背負子には野営具、杭、縄、予備水、そして梓が持つには重すぎる調査具が積まれている。本人はそれを背負っているというより、軽い上着を羽織っているような顔で歩いていた。  この四人に、梓が追加された。  名目は、古代文字対応。  実情は、最近ギルド内で増えつつある「マミヤさんに見てもらえ」という雑だが否定しにくい流れである。  梓はその流れを、たいへん不本意に思っていた。 「止まれ」  ラウルが片手を上げた。  隊が静かに止まる。  サイラが地面に身を低くした。 「下に空洞がある。水路跡とは違う。硬いものが、規則的に並んでいる」  ネリカが腕の一本で湿度計を掲げる。 「乾いてるけど、下から少し湿気が上がってるね。完全な自然空洞じゃないと思う」  ドラムがひざをつき、乾いた泥を指で崩した。 「この草、根が浅い。ここ十年くらいで水が引いた。けど三年やそこらじゃない」 「つまり?」  梓が尋ねる。  ラウルは前方を見た。  乾いた葦原の向こうに、半ば泥に埋まった石の構造物があった。  厚い石壁。斜めに沈んだ門柱。水門のような溝。外側には、錆びた金属棒の列が並んでいる。  いかにも古い軍事施設か、水利施設に見えた。 「先遣調査の目的地だ。南湿地跡第三構造物。先行班は入口だけ見つけて戻った。防衛個体の残骸あり。内部に古い文字あり。奥は未確認」  梓はその説明を聞いて、すでに帰りたくなっていた。 「軍事施設ですかね」 「その可能性が高い。水門つきの補給拠点か、湿地戦用の防衛施設だと思っている」 「思っている、ということは」 「確定していない。だからあんたがいる」 「そういう理路整然とした説明、逃げ道がなくて嫌いです」  ラウルは気にした様子もなく、前へ進んだ。  入口周辺には、確かに古い戦闘の痕跡らしきものがあった。折れた金属棒。崩れた石材。泥に埋まった防衛個体の外殻。もっとも、その防衛個体が何を守っていたのかは、まだ分からない。  ドラムが金属棒のひとつを持ち上げようとして、首を傾げた。 「槍じゃないな」 「違うのか?」  ラウルが尋ねる。 「柄がない。先端もない。重さも変だ。武器にするには持ちにくい」  ネリカが別の腕で棒の根元を指した。 「同じ間隔で並んでる。柵かな」  サイラが低く言った。 「水の流れを止めるものではない。流れは、この棒の間を通っていた」  梓は金属棒の列を見た。  続いて、石壁の内側を見た。  泥と乾いた藻の下に、うっすらと刻まれた線がある。  ただの装飾にも見える。だが、梓の目にはそうは見えなかった。 「……分類線?」 「何か読めるのか」 「まだ文字ではありません。ただ、配置が妙です。軍事施設にしては、棚の間隔みたいな規則性があります」 「棚?」  ドラムが少しだけ期待外れの声を出した。  梓は答えず、入口の内側へ近づいた。  そこには、古い文字が残っていた。  共通筆記ではない。現代の大陸公用語でもない。古いリザードマン種の言語だった。  梓は壁に触れないよう、少し距離を取って目を細めた。  リザードマン語系の古い表記は、単語だけ拾うと危ない。彼らの言語は、熱、乾燥、湿り、石、保存状態を文の前提に置く。何を開けるのか。何を閉じるのか。何を乾かしてはいけないのか。それを読み違えると、意味がひっくり返る。  梓は、声に出して読んだ。 「開閉厳禁、返却必須……」  場が静かになった。  ラウルが眉を寄せる。 「開閉厳禁は分かる。水門か隔壁か」 「問題は後半です」 「返却必須?」 「はい」 「何をだ?」 「そこです」  梓は、もう一度壁面を見た。 「軍事施設なら、普通は“持ち出し禁止”“漏洩禁止”“敵対者排除”“使用許可なき操作を禁ず”あたりの語彙が出ます。でもこれは違う」 「違う?」 「“返却”と書いてあります。しかも、ただ返せではなく、正しい環境へ戻せ、に近い」  ネリカが腕を一本上げた。 「環境へ戻す?」 「閲覧後、資料を元の保管槽へ戻せ、という意味だと思います。開閉厳禁も、扉を開け閉めするなではなく、保管槽を不用意に開閉して、内部の温湿度を乱すな、でしょう」  サイラが乾いた水路跡を見た。 「水路施設ではないのか?」 「水路施設ではあります。ただ、水を運ぶためというより、水で管理するための施設です」 「何を?」  梓は、錆びた金属棒の列を見た。  槍立てではない。  柵でもない。  たぶん、記録板の架台だ。  水位によって保管棚への導線が変わる。湿度が一定に保たれる。閲覧者は決まった導線を通り、決まった場所で資料を見て、元の槽へ戻す。  梓は、ゆっくりと言った。 「ここ、多分図書館です」  四人が、乾いた元湿地の地下入口を見た。  分厚い石壁。水門。隔壁。防衛個体の残骸。金属棒の列。  ラウルが言った。 「軍事施設じゃなく?」 「軍事施設なら、返せとは書きません」  ドラムが少しだけ肩を落とした。 「武器庫じゃないのか」 「おそらく」 「防具も?」 「たぶん」 「そっか」  ネリカが湿度計を見ながら、納得したように頷いた。 「でも、湿度管理してるなら保存施設ってことか。なら分かるかも」  サイラは水路跡に腹を寄せたまま、首を傾げる。 「図書館で水が流れるのか」 「湿地の図書館なので」 「……まあ、湿地なら流れるな」  ラウルはしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。 「まあ、それならそれでいくか」  梓は頷いた。 「はい。図書館は攻め落とすものではなく、利用手続きをするものです」  その時、奥の暗がりで、かすかな音がした。  石が擦れるような、乾いた音だった。  倒れていたと思われた防衛個体の一部が、ゆっくりと持ち上がる。泥をかぶった外殻の奥で、鈍い光が灯った。  ラウルが剣に手をかけた。 「利用手続きが起きたぞ」 「古代図書館なので!」  梓は叫びながら、壁の文字を追った。  命令文は短い。  無断抜架者を制止せよ。  保管槽の開閉を禁ず。  閲覧後の未返却を拘束対象とする。 「攻撃命令ではありません! 制止です!」 「制止の腕が太い!」  ドラムが盾を構え、防衛個体の腕を受け止めた。重い音が響く。  ネリカが複数の腕で縄を投げ、起動しかけた脚部に絡める。サイラが乾いた水路跡に身体を滑り込ませ、防衛個体の足場の振動を乱した。  ラウルは踏み込みすぎず、梓の前に立つ。 「止め方は?」 「閲覧者登録か、未抜架証明です!」 「分かる言葉で言え!」 「私たちは本を盗んでませんと証明します!」 「最初からそう言え!」  梓は入口脇の壁面を探した。  受付台らしき石の台がある。表面には泥がこびりついていたが、その下に細かな刻みがあった。  入館者記録。  来訪目的。  閲覧区分。  返却誓約。 「ネリカさん、ここを乾かしすぎず、泥だけ落とせますか」 「できるけど、注文が図書館っぽいね!」 「図書館です!」  ネリカが湿った布で石台を拭う。乾いた泥だけが落ち、刻まれた文字が現れた。  梓は自分の筆記板を取り出した。  古いリザードマン語の記法に合わせ、大陸公用語登録名を添える。職能登録。調査目的。抜架なし。閲覧なし。先遣調査。二次調査隊への引き継ぎ予定。  最後に、返却誓約の欄で手が止まった。  何も借りていないのに返却誓約を書くのは、妙な気分だった。  だが図書館とは、そういう場所である。  梓は書いた。  資料を無断で持ち出さない。  保管槽を開閉しない。  現状を記録し、管理者へ報告する。  管理者が誰なのかは知らない。  少なくとも、この場合は冒険者ギルドになるだろう。  梓が石台に記録板を差し込むと、防衛個体の光が揺らいだ。  腕の動きが止まる。  ドラムが盾越しに言った。 「止まった?」 「たぶん、未返却者ではないと認識されました」 「まだ何も借りてないのにな」 「借りてからでは遅いんです」  ラウルが剣から手を離した。 「古代図書館、面倒だな」 「現代図書館も返却しない人には面倒です」 「経験がある言い方だ」 「司書だったので」  その一言に、ラウルは少しだけ梓を見た。  だが、それ以上は聞かなかった。  先遣調査は、深入りしないのが鉄則である。  入口部の安全確認。施設種別の暫定判定。内部危険の種類。二次調査隊に必要な人員と装備。  そこまで分かれば、今日の仕事としては十分だった。  ラウルは短く指示を出した。 「奥は触らない。入口と外周だけ記録する。あとは二次調査隊だ」  サイラが周囲を見回す。 「夜は西側の低地に冷気が溜まる。野営は東の乾いた高台がいい」  ネリカが湿度計を揺らした。 「夕方から湿気が戻るね。入口は閉じたままがいい。中の空気、まだ生きてる感じがする」  ドラムは背負子から杭と標識板を出した。 「目印、書いておくか。軍事施設じゃない。図書館。開けるな。返せ」  梓は頷いた。 「最後は大きめにお願いします」  ラウルが半眼になる。 「返すものを持ち出すな、じゃないのか」 「図書館において、“返せ”は祈りであり、命令であり、最後通牒です」  ドラムが標識板に文字を彫りながら、ぼそりと言った。 「怖いな、図書館」 「怖いんです」  梓は入口の古い文字を、もう一度見上げた。  開閉厳禁。  返却必須。  何百年、あるいは何千年も前に、誰かがここにそう刻んだ。  湿地は乾いた。  水路は止まった。  利用者も管理者も消えた。  それでもなお、文字だけが残っている。  返せ、と。  梓は少しだけ笑った。 「古代の司書も、返却しない利用者に怒ってたんだなあ」

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