今無 ヅイ / 第20話

第二話 その注記は増やさないでください

 グランドゲート冒険者ギルド本部の受付は、いつ来ても騒がしい。  鎧を着た者がいる。泥まみれの者がいる。やたら大きな背嚢を背負った者がいる。羽毛を払っている鳥人種がいる。宿の朝食包みを片手に依頼票を眺めているハーフリングがいる。ゴブリンの会計係が帳簿を抱えて小走りに横切り、奥の記録室からは、紙束を揃える音が絶えず聞こえていた。  そこへ、忘却の外縁から戻った五人が入ってくる。  ラウルたちは、乾いた泥を多少かぶってはいたが、足取りはしっかりしていた。  サイラは尾の鱗に付いた砂を軽く払っている。ネリカは複数の腕で採取瓶と記録板を整理しながら、もう一本の腕で水筒を持っていた。ドラムは背負子を下ろすと、何事もなかったように肩を回した。  梓だけが、受付横の長椅子を見つけた瞬間、そこへ吸い寄せられた。 「帰還しました」  ラウルが受付へ報告する。  梓は長椅子に腰を下ろし、両手を膝に置いた。 「私も帰還しました」 「見れば分かります」  受付にいたファリンが、いつもの落ち着いた顔で答えた。 「お帰りなさい、マミヤさん。ご無事で何よりです」 「ご無事ではありますが、乾いています」 「湿潤室サロンを予約しますか」 「私は半陸棲種ではないので、普通のお風呂でお願いします」  ネリカが腕を一本上げた。 「湿潤室サロン、いいよ。乾いた外縁帰りには効く」 「お気持ちだけ受け取っておきます」 「そう? 外套膜がしっとりするのに」 「外套膜がありません」  梓は深く息を吐いた。  身体が重い。  忘却の外縁への中長期遠征そのものは珍しくない。珍しくはないが、慣れるかどうかは別問題である。特に、変動自然環境適応型の探索者隊に混ざったあとの疲労は、同じ道を歩いていたはずなのに別の依頼を受けていたような気分になる。  サイラは「夜露が戻る時間帯は悪くなかった」と言い、ネリカは「乾いてたけどまだ湿りは読めた」と言い、ドラムは「足場は硬かったから楽だった」と言った。  梓の感想は一つである。  地面が硬かろうが湿っていようが、外縁は外縁だ。   つまり、しんどかった。 「報告は奥で受けます。ラウルさん、皆さんもこちらへ」  ファリンは手元の札を裏返し、記録室側へ声をかけた。 「ミルカさん、南湿地跡第三構造物の先遣報告です。古リザードマン語の確認をお願いします」  しばらくして、記録室の扉が開いた。  出てきたのは、短毛のコボルド族だった。背は梓より少し低い。耳は短く、毛並みは淡い茶色。丸い眼鏡をかけ、胸元には解読士の職能章を下げている。  手には、すでに何枚かの記録紙があった。 「ミルカ・レインです。一般解読士、記録課付き。確認補助に入ります」 「よろしくお願いします。高位解読士のマミヤです」 「存じています、ミス・リブラリアン」  ミルカは即答した。  梓は嫌な予感がした。 「その“存じています”は、どの範囲の存じていますですか」 「西区導線異常の報告書と、古代帳面の意味登録処理に関する内部照会と、あと今回の同行指定の備考欄です」 「備考欄」 「はい。“類似案件ではミス・リブラリアンの同行を推奨”と」  梓はファリンを見た。  ファリンは目をそらさなかった。 「必要な記載です」 「必要という言葉は、とても便利ですね」 「便利な言葉は、だいたい必要です」 「使い方がうまい」  ミルカは眼鏡の位置を直した。 「ただ、私は現場には出ません。机上確認と報告書整理が担当です」 「賢明です」 「ありがとうございます。外縁には行きたくありません」 「同業者の正しい判断ですね」 「現場に出る高位解読士という存在は、記録課でも時々話題になります」 「できれば話題にしないでください」 「無理だと思います」  即答だった。  梓は少しだけ傷ついた。  会議卓には、ラウル隊が持ち帰った拓本、簡易地図、採取記録、湿度推移の控え、入口の見取り図が並べられた。  ファリンがそれらを確認し、ミルカが記録紙に番号を振る。ネリカは採取瓶を種類別に置き、サイラは乾いた水路跡の経路を指で示し、ドラムは標識板に彫った文面の写しを提出した。  ラウルは簡潔に報告した。 「南湿地跡第三構造物。暫定で軍事施設または水利施設と見ていたが、マミヤさんの読解で分類を変更する。古リザードマン語による記述あり。内容は、開閉厳禁、返却必須。入口部の構造、内部の金属架台、水路跡、防衛個体の命令文から見て、古い湿地環境下の記録保管施設と判断した」 「図書館です」  梓は補足した。  ミルカの耳がぴくりと動いた。 「湿地の図書館」 「はい」 「古リザードマン語で」 「はい」 「防衛個体つきで」 「はい」  ミルカは少し沈黙した。 「嫌ですね」 「分かってくれますか」 「分かります。私は行きません」  梓は同業者に対して、久しぶりに深い親近感を覚えた。  ミルカは拓本を手に取った。 「この“開閉”ですが、扉の開閉ではなく、保管槽の開閉、あるいは環境境界の攪乱と解釈した根拠は?」 「前後の語彙です。“返却”の目的語が物品名ではなく保管状態に掛かっています。あと、後段に“乾き切る前に戻せ”に近い句がありました。古いリザードマン語では、開くという語が熱や湿度の流入を含む場合があります」 「辞書にない用法ですね」 「辞書には、大事な時に限ってありません」  ミルカは頷いた。 「嫌な仕事ですね」 「はい」 「ですが、筋は通っています。水門や隔壁を開閉するな、ではなく、資料を保管環境から不用意に出すな、という注意書きとして読んだ方が、後続の“返却必須”と一致します」 「そうです」 「それを現場で?」 「防衛個体が起きたあとに」 「嫌ですね」 「二度目ですね」 「二度言う必要があります」  ラウルが腕を組んだ。 「こっちは助かった。俺たちだけなら、武器架か水門部品と見ていたかもしれない。奥へ進む前に止まれたのは大きい」  ドラムが頷く。 「槍じゃなかった」 「記録板の架台です」 「地味だった」 「大事です」 「大事なのは分かる」  ドラムは真面目な顔で言った。 「分かるけど、武器庫かと思ってた」  ネリカが笑った。 「ドラム、ちょっと期待してたよね」 「ちょっとな」  サイラは尾を軽く丸めた。 「私は水路施設だと思っていた。水の流れは読めたが、流れが何のためかまでは分からなかった」 「そこは私も、文字がなければ確定できませんでした」  梓は素直に言った。 「この施設は、水の流れ、湿度、保管槽、利用者導線が一体になっています。自然環境の見立てがなければ、私も図書館とは言い切れませんでした」  ラウルが小さく頷く。 「なら、報告書にはそう書く。自然環境調査班と高位解読士の共同判断。二次調査隊には、保存術士、湿度管理具、古リザードマン語対応者、記録板の扱いに慣れた者を入れる」  ファリンが筆を走らせた。 「防衛個体は討伐対象ではなく、制止機構として扱う。破壊は原則禁止。無断抜架、保管槽開閉、乾燥具の持ち込みを禁止。入口部の登録台は、二次調査時まで封印維持」 「あと、標識を大きめに」  ドラムが言った。 「開けるな。返せ」  ミルカが手を止めた。 「その標識、本当にそう書いたんですか」 「書いた」 「古代語ではなく?」 「共通語で」 「良いと思います」  ミルカは真面目に頷いた。 「解読以前に、読める注意書きは大切です」 「同業者の言葉が強い」  梓は少し感動した。  ファリンは報告書の端に、淡々と追記を入れている。  梓はその手元を見て、不穏なものを感じた。 「ファリンさん」 「はい」 「今、何を書きました?」 「南湿地跡第三構造物の暫定分類変更についてです」 「その下です」 「判断根拠です」 「その下です」 「高位解読士マミヤによる古リザードマン語読解、および現地環境との照合」 「名前を添えないでください」 「照会先なので」 「照会先という言葉も嫌いになりそうです」  ミルカが横から言った。 「照会先は必要です。後続の解読士が確認する時、誰の判断か分からないと困ります」 「同業者が背中を刺してきました」 「同情と記録は別です」 「名言みたいに言わないでください」 「記録課では基本です」  ファリンがさらに一枚、別の用紙を取り出した。  梓は警戒した。 「それは何ですか」 「特名欄への追記案です」 「追記しないでください」 「必要です」 「必要禁止令を出したい」 「出せません」  ファリンは用紙を読み上げた。 「ミス・リブラリアン。南湿地跡第三構造物における古リザードマン語読解、湿地記録保管施設の暫定判定、二次調査隊編成変更への寄与」 「長い」 「短くしますか」 「消してください」 「短くします」 「消してください」  ミルカが別案を書いた。 「湿地図書館判定」 「短くなりましたね。嫌な方向に」 「実務上は分かりやすいです」 「実務上という言葉も嫌いになりそうです」  ラウルは、少しだけ笑った。 「諦めた方がいい。今回の件は、名前が残る」 「残らなくていいんですが」 「残さないと、次の隊が同じ間違いをする」  その言い方は、ずるい。  梓は文句を言おうとして、言えなかった。  名が残るのは嫌だ。  称号が育つのも嫌だ。  だが、報告書に名前が残らなければ、誰かがあの入口を軍事施設として扱うかもしれない。水門だと思って開けるかもしれない。記録板の架台を武器棚だと思うかもしれない。防衛個体を破壊するかもしれない。  そして、古代の湿地図書館は、二度目の死に方をする。 「……注記は、必要最小限でお願いします」 「承知しました」  ファリンは即答した。  その声があまりにも準備済みだったので、梓は目を細めた。 「今、私が折れるのを待っていましたね」 「業務上の見通しです」 「言い方」  ミルカは、拓本の一部を机に広げた。 「ところで、マミヤさん。この利用者登録欄ですが」 「はい」 「ここ、名前の欄が二つありますね」  梓の視線が、自然と拓本に落ちた。  入口脇の登録台に刻まれていた欄である。泥を落とした時には、防衛個体を止める方を優先していたため、細部までは読み込めていなかった。  ミルカが爪先で行を示す。 「こちらが登録名。こちらが……保管名?」 「違います。たぶん、湿季名です」 「湿季名」  ファリンが顔を上げた。 「季節で名前が変わるのですか」 「古い湿地集落では、生活域が季節で変わることがあります。水位が高い時の居住名と、乾いた時の居住名が違う。個人名というより、所属と場所を含む名前です」  サイラが頷いた。 「水が変われば、通る場所も変わる。名が変わるのは分かる」  ネリカも腕を組んだ。 「半陸の古い集落でも、潮の名前と陸の名前が別って話は聞くね」  ミルカは記録紙に書き込んだ。 「では、単純な別名ではなく、環境条件つきの登録名」 「はい。これを現代の台帳で一つの名前として扱うと、照合がずれる可能性があります」  梓はそこまで言って、少し黙った。  嫌な予感がした。  予感というより、書類の端が指に引っかかったような感覚だった。 「ファリンさん」 「はい」 「最近、旧市街の宿帳や倉庫票で、種族名や通称の照会が増えていませんか」  ファリンの筆が止まった。 「……あります」 「ありますか」 「大きな問題にはなっていません。今のところは、表記揺れや古い登録名の確認として処理されています」 「今のところ」 「はい」  その時、記録室の扉が控えめに叩かれた。  別の受付職員が顔を出す。 「ファリンさん、すみません。旧市街の宿帳照会で少し妙な件が来ています」  梓は目を閉じた。  来た。  そういう顔をしてしまった自覚があった。  ファリンが訊く。 「妙な件とは?」 「同じナーガの方が、二つの名前で予約されているそうです。片方は本人確認済み、もう片方は未登録扱いになっていて。宿側では同一人物だと言っているのですが、古い照合票が弾くそうで」  部屋の空気が、紙一枚分だけ重くなった。  ミルカが拓本を見る。  サイラが静かに目を細める。  ネリカが腕を一本、湿度計から離した。  ラウルは何も言わなかったが、梓の方を見た。  ファリンも、梓を見た。 「マミヤさん」 「帰っていいですか」 「まだ報告書が終わっていません」 「フリーランスに勤務時間を発生させないでください」 「フリーランスが何かはともかく、照会対応として別件依頼にします」 「逃げ道を封鎖する技術が高い」  ミルカが小さく手を上げた。 「私、机上確認なら手伝えます。現場には行きません」 「やっぱり賢明ですね」 「ですが、これはたぶん、放っておくと面倒です」 「同業者が嫌なことを言う」 「同業者なので」  梓は、机の上の拓本を見た。  開閉厳禁。返却必須。  湿季名。乾季名。登録名。保管名。  名前は、ただ呼ぶためのものではない。  宿に泊まるためのものでもある。荷物を受け取るためのものでもある。給金を受け取るためのものでも、門を通るためのものでもある。  名前がずれれば、人は社会の中で迷子になる。  梓は深く息を吐いた。 「……まず、その宿帳照会を見せてください」  ファリンは、穏やかに頷いた。 「はい」  梓は長椅子に座る前よりも疲れた気がした。  名声というものは、もっと華やかなものだと思っていた。  少なくとも、泥と報告書と宿帳照会の形をしているとは思っていなかった。  ファリンが新しい照会状を机の上に置く。  その端には、すでに小さな字で宛先が書かれていた。  高位解読士マミヤ殿。  梓はそれを見下ろし、低く呟いた。 「その注記は、増やさないでください」  ファリンは筆を取った。 「努力します」 「今のは、増える人の返事です」

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