今無 ヅイ / 第13話

第十三話 ミス・リブラリアン

 最初に戻ってきた言葉は、報告書だった。 「……報告書」 「後です」  即答だった。  梓は薄く目を開けた。白い天井。薄い布。薬草と清潔な水の匂い。見慣れた自宅の天井ではない。ギルド本部の医務室だった。  枕元にはファリンがいる。  その隣に、なぜかスィレアの脚が何本か見えた。上半身は少し離れた椅子にあり、紙束を器用にまとめている。 「注記……」 「後です」 「ジュベアリ……」 「その単語はまだ誰も意味を確認していません」 「……確認しなきゃ」 「しなくていいです」  ファリンはいつもの静かな声で言った。 「少なくとも今日は」  梓はしばらく天井を見ていた。  頭の奥が、まだ少し揺れている。船酔いに似ているが、胃ではない。言葉が揺れている。古代語と大陸公用語と日本語が、棚の端でまだ少しぶつかっている。 「……終わりました?」 「終わりました」  ファリンは短く答えた。 「西区導線異常は、一時収束。帰宅時間帯の大規模事故は発生しませんでした」 「負傷者もなし」 「裏搬入は一部制限のままですが、表通り側の荷回しで生活は回っています」  梓は、ゆっくり息を吐いた。 「帰れたんですね」 「はい」 「みんな」 「はい」  その返事で、ようやく胸の奥に何かが落ちた。  石板の光。  小さき炉灯。  支え梁の者。  小さき勝ち。  自由な者。  境の館に立つ、記録の木。  帰路、未定。  全部、夢ではなかったらしい。 「パン屋の女将さんから、差し入れが来ていますよ」  スィレアがにこにこと言った。 「平焼きパンと、蜂蜜を塗った焼き菓子です〜」 「……食べたいです」 「まだ胃に優しいものからです」  ファリンが止めた。 「医務士から、薄いスープと柔らかいパンだけ許可が出ています」 「救ったのに」 「救ったから休んでください」  正論だった。  スィレアが小さな紙片を一枚持ち上げる。 「あと、ニコくんから伝言です〜」 「読まない方がいいですか」 「わたしが読みますねえ」  スィレアは、少しだけ声を整えた。 「マミヤさんへ。昨日はありがとうございました。今日は裏口を通っても戻りませんでした。女将さんに、走るなと怒られました。パンは少し焦がしました。ニコ」  梓は目を閉じた。  なぜだろう。  大規模人的被害を未然に防いだ、などと言われても実感がなかったのに。  少し焦げたパンの話を聞いた瞬間、ようやく分かった。  帰れたのだ。  あの子は、今日もパン屋の裏口を走って、怒られて、少しパンを焦がしている。 「……よかった」 「ええ」  ファリンの声が、少しだけ柔らかかった。 「よかったです」      ◇  表彰は、三日後に行われた。  大広間ではない。  ギルド本部の中会議室だった。  長机があり、壁際に記録係がいて、窓際には数脚の椅子が並んでいる。派手な花も楽隊もない。代わりに、案件記録、報奨書、昇格通知、関係者の署名欄がきちんと揃っていた。  梓はその方が落ち着いた。  いや、落ち着くというより、理解できた。  これは祭りではない。  仕事の結果を、仕事として記録する場だ。  ただし、部屋にいる顔ぶれは少し多かった。  ファリン。スィレア。  ガレス、ログ、リネア、フェイロン。  市警備隊のイーヴァ。商人組合のバルト。  そして、ギルドマスター。  ギルドマスターは書類を一枚持ち、梓を見る。 「間宮梓」 「はい」 「西区導線異常において、貴殿は古代帳面、現代住民名簿、商人組合荷札、市警備隊記録、並びに日本語手帳を統合読解した」 「その結果、帰宅時間帯に発生し得た大規模人的被害を未然に防ぎ、西区の常住者導線、荷導線、客導線を正常化した」  文字にされると、急に怖かった。  大規模人的被害。  あの切れた荷車を思い出す。  もし、あれが人だったら。  梓は少しだけ息を吸った。  ギルドマスターは続ける。 「また、現代住民の名を古代客籍帳面へ意味登録し、誤分類状態にあった街区住民を常住者として復帰させた功績は、単なる解読補助の範囲を超える」 「よって、ギルド本部は貴殿の職能等級を改定する」  嫌な予感がした。  こういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。 「本日付で、間宮梓を、上位解読士から高位解読士へ昇格とする」  梓は少し黙った。 「……高位」 「はい」 「上位の上ですか」  ファリンが答えた。 「上位の上です」 「言葉としては分かりますけど、受け入れたくないですね」 「受け入れてください」  ギルドマスターは淡々と続けた。 「高位という等級自体は、剣士、偵察士、薬師、罠見士など各職能に存在する」 「だが、解読士で高位に到達した者は、ギルド史においても多くない」 「そういう重い情報は、薄めて出してください」 「薄まらん」  正論だった。  ログが後ろで小さく笑った。 「すげえな、高位解読士」 「やめてください」 「褒めてるぞ」 「褒められているのは分かるんですが、肩が重いんです」  リネアが腕を組んで言った。 「重い肩書きには、重い報酬がつくんだろうね」 「そこは重要です」  梓は素直に反応した。  ギルドマスターが別の書類を置く。 「特別報奨金。危険手当。西区商人組合からの礼金。加えて、書物保存用乾式術式の維持費補助、六か月分」  梓は固まった。 「六か月」 「六か月です」  ファリンが少しだけ笑った。 「一番いい顔をしましたね」 「生活がかかっていますので」 「でしょうね」  スィレアが楽しそうに言う。 「おめでとうございます〜。報告書とローンと乾式術式が、少し仲良くなりましたねえ」 「その三つは、できれば離れていてほしいです」  離れていてほしいが、補助は助かる。  とても助かる。  梓は報奨書を見つめた。金額は大金というほどではない。少なくとも家のローンが消えるようなものではない。だが、現実の生活を確実に軽くする額だった。  こういう報酬が、一番実感がある。  ギルドマスターが、もう一枚の紙を手に取った。  今度は、少しだけ空気が変わった。 「加えて、同件における功績、および今後の同種案件における識別名として、特名を授与する」  梓の背筋に、別の嫌な予感が走った。 「識別名」 「はい」 「それは、必要ですか」 「必要だ」 「必要なんですか」 「必要だ」  逃げ道がない声だった。  ギルドマスターは、はっきりと言った。 「特名、ミス・リブラリアン」  部屋の中が、静かになった。  茶化す者はいなかった。  それが、むしろ梓には困った。  ミス・リブラリアン。  外から来た、小柄で、体力がなく、よく嫌そうな顔をして、けれど読まなければならないものを読んできた解読士としての、この世界での通り名。  それが今、正式な特名として記録される。 「正式になるんですか、それ」 「なりました」  ファリンが言った。 「おめでとうございます」  スィレアが続ける。 「おめでとうございます〜、ミス・リブラリアン」 「逃げ道が、どんどんなくなっていく……」  梓は小さく呻いた。  けれど、部屋の中にあるのは笑いだけではなかった。  ガレスは無言で頷いた。  フェイロンは静かに目を伏せた。  リネアは少しだけ口元を緩めた。  ログは、どこか誇らしそうにしていた。  イーヴァが短く言う。 「西区の連中は、そう呼んでるよ」 「え」 「帰れない道を読んで、帰れるようにした人」 「市警備隊の記録にも、そう残る」  バルトも頷いた。 「商人組合の方でもな」 「荷を荷として、人を人として戻した解読士。長いから、ミス・リブラリアンで通してる」 「長いからって」 「でも通じる」  反論しづらかった。  梓は、少しだけ視線を落とした。  称号なんて、重い。  呼ばれたいわけではない。  むしろ、呼ばれるたびに面倒ごとの影が伸びる気がする。  それでも。  ニコが裏口を普通に通れたこと。  ミラがパンを焼けたこと。  ロッテが南角詰所へ帰れたこと。  バルトが荷を荷として運べたこと。  名前が、帰る道を結んだこと。  その全部のあとに付いた名前なら、完全に嫌だとは言えなかった。 「……分かりました」  梓は小さく言った。 「受けます」  ファリンが頷いた。 「はい」 「ただし、呼ぶ時は普通にマミヤさんでお願いします」 「状況によります」 「そこは断言してください」 「状況によります」  駄目だった。      ◇  式と言うには実務的で、会議と言うには少しだけ温かい時間が終わると、梓は会議室の端で報奨書を確認していた。  報奨金。  危険手当。  商人組合礼金。  乾式術式維持費補助。  高位解読士昇格通知。  特名授与記録。  紙が多い。  紙が多いということは、後の仕事も多い。 「これ、全部保管義務ありますよね」  梓が聞くと、ファリンは当然のように頷いた。 「あります」 「ですよね」 「写しも必要です」 「ですよね」 「報告書も必要です」 「ですよね……」  現実だった。  名誉は紙になる。  紙は保管される。  保管された紙は、後で参照される。  参照される紙は、だいたい次の面倒ごとの入口になる。  梓は少し遠い目をした。  そこへ、ファリンが小さな硬い札を一枚差し出した。  黒に近い濃紺の板札。縁に銀色の細工。中央にギルド本部の印。裏面に、細かい文字が刻まれている。 「それから、こちらは報奨ではありません」 「嫌な前置きですね」 「高位解読士への昇格に伴い、自動で付与される権限です」  梓は札を受け取った。  文字を見る。  読める。  読めてしまう。 「禁制閉架棚、限定閲覧許可証」  声が少しだけ変わった。  ファリンは頷いた。 「高位解読士以上には、禁制閉架棚の限定閲覧権限が付与されます」 「ただし、持ち出し禁止。写し作成は申請制。第一種禁制資料は別途審査会許可が必要です」 「禁書棚」 「俗にはそう呼ばれます」 「禁書棚……」  梓は札を見つめた。  逃げたい気持ちと、読みたい気持ちが同時に起きた。  ものすごく危険な棚だ。  だいたい、禁書棚などというものは、まともな生活者なら遠ざかるべきである。  だが、そこにはおそらくある。  外来者記録。  古い転移者の痕跡。  中央還路庁関連の資料。  帰還の本に近い何か。 「外来者記録もありますか」 「あります」  ファリンは隠さなかった。 「帰還関係は」 「閲覧してみなければ」 「……読みます」 「でしょうね」  スィレアが横からにこにこと覗き込む。 「読みたい顔ですねえ」 「読みたいです」  そこは否定できなかった。  梓は札を両手で持った。  高位解読士。  ミス・リブラリアン。  禁制閉架棚、限定閲覧許可。  名誉と面倒ごとと、帰還の手がかりが、全部同じ札に乗っている。  最悪である。  でも、読みたい。      ◇  夕方、梓はギルド本部を出た。  まだ本調子ではないので、ファリンからは直帰を命じられている。命じられている、というか、言い渡された。  ログが途中まで荷物を持つと言ったが、梓は断った。 「落とさないのは知っていますけど、今日は自分で歩きます」 「そうか」 「はい」 「ふらついたら担ぐ」 「そこは確認ではなく宣言なんですね」 「おう」  ありがたいような、ありがたくないような。  グランドゲートの通りは、いつも通りだった。  ハーフリングの屋台が平焼きパンを焼き、ゴブリンの銀行員が帳面を抱えて走り、コボルドの荷役が縄を肩にかけ、オークの行商人が薬草束を並べている。  少し歩くと、西区へ続く通りが見えた。  いつものように、人が行き交っている。  パンを抱えた子ども。  荷札を持つ商人。  水桶を運ぶ女。  巡邏中の市警備隊員。  そして、裏口の方へ走っていく小柄な少年。  少年は角を曲がった。  戻ってこなかった。  普通に、先へ抜けた。  梓は立ち止まり、しばらくそれを見ていた。 「……帰れた」  小さく呟く。  誰も拍手しない。  誰も英雄譚を語らない。  街はただ、夕方の顔で動いている。  それでよかった。  それがよかった。  梓は鞄の中の閲覧許可証に、そっと指を触れた。  帰還の手がかりかもしれない。  あるいは、次の面倒ごとかもしれない。  たぶん、その両方だ。  空腹を感じた。  少しだけ笑う。  人は帰る。  腹は減る。  報告書は残る。  そして、読まなければならないものは、まだ棚の奥にある。  梓は、家の方へ歩き出した。  ミス・リブラリアンと呼ばれることになったその人は、今日もたいへん不本意そうな顔で、自分の帰路を歩いていた。

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