今無 ヅイ / 第5話

第五話 静かな住まいも高くつく

 帰宅して、まず確認したのは戸締まりではなく、壁際の術式板だった。  淡い青。安定。唸りは弱く、紙に悪い湿気も混じっていない。  梓はそこでようやく肩の力を抜いた。 「……よし」  迎賓館跡で拾った写しを机へ置く。靴を脱ぎ、外套を椅子へかけ、手袋を外し、乾燥剤袋の口を開いて中身を確かめる。紙は無事。炭筆も折れていない。革筒の角に泥がついていたので、それだけ布で拭った。  その間じゅう、部屋は静かだった。  この静けさのために、どれだけ金を払っているのかを思うと、笑うしかない。だが同時に、払う価値はあるとも思う。現場から持ち帰った写しを、そのまま机へ広げられる場所があるというのは、想像以上に大きい。  ギルド宿舎では、絶対に無理だった。  梓は椅子へ腰を下ろし、迎賓館跡の写しを並べた。  外より来し者。  帰路を望む客。  西二門。  中央還路庁。  帰る、という語がここまで近くへ来たのは初めてだった。正確には、語そのものは前にも見ている。だが今回みたいに、施設の運用文の中へ、まるで当然のように置かれているのは初めてだ。  つまり古代には、外から来た者がいて、帰路を望む者がいて、それを制度として扱う仕組みがあった。  その事実だけで、今日の依頼は十分に大当たりだった。 「……受付案内だったけど」  呟くと、部屋は当然のように静かだった。  机の隅には返済予定表が置いてある。今月分の魔導ローン。乾式術式の維持費。水道代。どれも整然としていて、どれも容赦がない。  梓はその書類を見て、少しだけ笑った。  最初からこんなふうに座っていられたわけではない。  この机も、この術式板も、この部屋も、最初からあったわけじゃない。  少しずつ依頼をこなし、報告書を書いて、どうにか生き延びて、ようやくここまで来たのだ。迎賓館跡みたいな案件を、いきなり任されるはずもない。  梓は椅子の背へ身を預け、天井を見上げた。  最初の日のことは、今でもわりとはっきり覚えている。  怖かった、という感情もあった。あったが、それより先に出てきたのは、理解できないものを理解したいという癖のほうだった。  どうしようもない職業病なのだと思う。      ◇  最初に思ったのは、図書館にしては匂いが悪い、だった。  草と湿った土と、古い木と、水気を含んだ石の匂い。紙の匂いではない。糊の乾きでも、革装丁でも、インクでもない。なのに視界のどこかが、本棚の隙間みたいに見えた。  木立のあいだに立っていた。  いや、立っていたのではなく、気づいたら立っていた。  梓はしばらく動かなかった。  まず足元を見る。土。落ち葉。小石。水たまりはない。靴は汚れているが、破れてはいない。次に手を見る。傷はない。鞄はある。服もそのまま。財布もある。スマートフォンは、画面が真っ暗なまま起動しない。 「……はい?」  返事はない。  木々の向こうから鳥の鳴く声がひとつ。風が枝を揺らし、葉擦れの音が続く。それだけだ。  次に梓は、鞄の中を確認した。財布、鍵、ハンカチ、ペンケース、小さなメモ帳、文庫本。そこまではよかった。だが、そこにあるはずのないものも混じっていた。  見知らぬ革綴じの小冊子。  手に取った瞬間、梓は眉をひそめた。  文字が、読めたのだ。  読めるはずがない字体だった。日本語でも英語でも、大学で齧ったラテン語でもない。なのに、意味だけが頭へ入ってくる。  道標。水。人里。南。  そこまで読めた時点で、梓は「夢かもしれない」と考えるのをやめた。  夢にしては、情報の入り方が実務的すぎる。  とりあえず人里へ向かおう。そう決めて歩き出した。足場は悪かったが、幸い、方角は分かった。道標があるなら人もいる。  その時点では、ずいぶん冷静だったと思う。泣きも叫びもしなかった。ただ、あとで思い返すと、冷静だったというより、処理が追いつかずに感情が後ろへ回っていただけだったのかもしれない。  人里に着いた時、最初に梓を見つけたのは、巡回帰りのギルド所属警備員だった。  彼らは、いきなり囲んだり、剣を抜いたりはしなかった。  それがまず、ありがたかった。  代わりに一定の距離を取り、こちらの言葉が通じるかを確かめた。そして梓が混乱していること、服装や持ち物が妙にちぐはぐなこと、道標の小冊子を読めていることを確認すると、あっさり方針を決めた。 「グランドゲート本部へ連れていく」  その一言で、あとは驚くほど早かった。  梓は椅子に座らされ、湯を出され、事情を聞かれた。  その時、正直に言ったのだ。 「分かりません。たぶん、ものすごくよくない形で、道に迷いました」  その返答に、向かいへ座っていた女がわずかに目を細めた。  栗色の髪をきっちりまとめ、事務服の袖を無駄なく捲っていた。その時点ではまだ名前を知らなかったが、後に梓の人生へずいぶん深く食い込んでくることになる、ファリンだった。 「分からない、で済ませるには、持ち物も服も来歴が不自然ですね」 「私もそう思います」 「嘘をついている感じはしません。ただ、常識の噛み方がずれています」 「それも自覚があります」  ファリンは書類へさらさらと何かを書き込んだ。 「言葉は通じていますか」 「通じています」 「文字は」 「今見たものなら」 「今見たものなら?」  そこで梓は、机の端へ置かれていた一枚の札を指した。 「それ、読めます。面談室」  ファリンの手が止まった。 「今のは、大陸公用語ですけど」 「読めてます」  そのあと、確認は少しだけ大掛かりになった。  古い帳簿。用途不明の木札。古代語の欠片。現代の公用文。王都大学から回されたという、誰にも読めない碑文写し。  梓はそれらを順に見た。  読めるものと、読めないものがあった。  その境目が、最初は自分でもよく分からなかった。だが何枚か見ているうちに、ひとつだけはっきりしたことがある。 「少なくとも、この世界に属する文字なら、私が知らないものでも読めるみたいです」 「逆に、これは読めません」  梓は最後の一枚を返した。ひどく単純な幾何学記号が並んだ紙片だ。意味どころか、文字としても認識できない。 「それは何ですか」 「学芸局が送ってきた、意味不明の印字片ですね」 「じゃあ無理です。文字として認識できないので」  ファリンはまた何かを書き込んだ。  驚いてはいた。だが浮ついてはいなかった。珍しいものを見た顔ではなく、運用方法を考えている顔だった。  それが、ありがたかった。  面談の最後に、ファリンが聞いた。 「元の場所へ戻りたいですか」  その問いには、梓はすぐ答えられなかった。  戻りたい。  その気持ちはあった。だが、あまりに当然すぎて、逆に言葉へしにくい。  少し考えてから、ようやく口を開いた。 「帰れるなら、帰りたいです」 「帰る方法を探したい、と」 「はい」  ファリンは頷いた。 「分かりました。では、その前提で記録します」  笑いもしないし、慰めもしない。ただ事実として受け取って、書類へ落とす。その手つきに、梓は少しだけ救われた。  帰りたい、という願いを、願いのまま宙へ浮かせずに、調査対象として机の上へ置いてくれたからだ。  そこから先は、思ったより早かった。  王都大学や学芸局へ籠もるより、現場へ出るほうが近い資料もある。読む力があるなら、待つより取りに行った方が早い。 「冒険者になればよいのでは」  そう言い出したのはファリンだった。 「嫌です」 「即答ですね」 「私は静かな職場に勤めたいんです。資料室とか、閉架書庫とか、そういう場所に」 「お気持ちは分かります。ただ、帰還に関わる記録は、未踏地や遺跡の現場から出ることが多いです」 「嫌な傾向ですね」 「読解技能を持つ調査員なら、報酬も出ます」 「嫌な説得の仕方をしないでください」 「現実的と言ってください」  結局、その理屈を否定しきれなかった。  帰る方法を探したい。  読める。  現場へ行ける。  報酬が出る。  だったら、やるしかない。  そうして梓は、冒険者登録をした。  正確には、冒険者ギルド所属の見習い解読士として登録された。  登録票の職能欄には、解読、記録、資料保全。  戦闘適性欄には、なし。  現場活動条件には、単独行動禁止、護衛必須、危険区域への先行進入不可。  最後の三つについて、梓に異論はなかった。 「戦えませんので」 「自覚があって何よりです」 「本を読む仕事に、戦闘適性を求めないでほしいんですが」 「現場へ本を読みに行くのは、たいてい冒険ですから」  ファリンの理屈は、いつも嫌なところで正しかった。  最初に任されたのは、旧街道沿いに倒れていた警告標の再確認だった。  護衛二名。  測量補助一名。  見習い解読士一名。  現場まで歩き、泥を払い、文字を読み、写しを取り、帰って報告書を書く。  やることだけを並べれば、図書館の資料調査とそれほど変わらない。違うのは、資料の横から牙の生えた原生生物が出てくる可能性があることと、読み間違えた警告標の先に本物の崖があることだった。  梓はその仕事で、初めて知った。  文字が読めることと、現場で正しく扱えることは、同じではない。  風化した文字をどこまで補うか。  後代の追記と原文をどう区別するか。  触れてよい石と、触れた瞬間に崩れる石をどう見分けるか。  危険を感じたとき、資料より先に自分の身体を退避させられるか。  最後の一つが、梓には特に難しかった。 「写しは取り直せます」  最初の護衛にそう言われた。 「人は取り直せません」 「分かっています」 「分かっている人は、崩れかけた石板の下へ頭を入れません」 「……以後、気をつけます」  それから、梓は小さな案件をいくつもこなした。  崩れた礼拝堂の献辞板。  半分水没した倉庫跡の目録。  古道の結索標と、消えかけた退避指示。  移築された石碑の年代照合。  使われなくなった宿場の帳簿整理。  どれも派手ではなかった。  だが、梓が一語を正しく読み直したことで、閉鎖されていた道が一本使えるようになった。  倉庫跡から回収した目録によって、行方不明だった薬草箱の所在が分かった。  礼拝堂の献辞だと思われていた文が、実際には地下水路の補修記録だったこともある。  読めば、何かが繋がった。  繋がったものは報告書になり、次の誰かが使える情報になった。  梓は、その積み重なりが嫌いではなかった。  もちろん、失敗もした。  一日に三種類の古代語を続けて読み、帰還後、古代語と大陸公用語の語順が頭の中で混ざったことがある。  意味は分かる。  単語も覚えている。  どの文献の、どの頁で見た表現かまで思い出せる。  なのに、今使うべき言葉だけを取り出せない。  その日は丸一日、まともな報告書が書けなかった。 「言語酔い、とでも呼ぶべき症状ですね」  医務士は平然と言った。 「言語酔い」 「正式な病名ではありません。少なくとも、この世界の一般的な症例ではないので」 「急に不安になる説明をしないでください」  医務士は、梓の書き損じを一枚持ち上げた。  大陸公用語で書き始めた文章が、途中から古代北エルヴィン語の語順になり、最後の注記だけ日本語へ戻っている。 「あなたの読解能力は、未知の文字を意味へ変える。ここまでは、これまでの検査でも確認されています」 「はい」 「ですが、その後が普通ではない」 「その後?」 「普通なら、読んだ文章の細部は少しずつ薄れます。あなたは薄れない。文字の形、語順、用例、頁の位置まで、頭の中へ整理して保存してしまう」  梓は黙った。  否定できなかった。 「今日は三つの言語体系を同時に開き、その切り替えを何度も繰り返した。読解の力が壊れたのではありません。あなた自身の整理が、流入する情報に追いつかなくなったのでしょう」 「……頭の中で、棚が渋滞した」 「その理解で構いません」 「分かりやすいのが腹立たしいですね……」 「治療は休息です。新しい文章を読まない。報告書を書かない。できれば、文字そのものを見ない」 「最後のは無理です」 「では、治るまで長引きます」  正論だった。  それ以来、ファリンは梓が一日に扱った言語の数と、連続して読解した時間まで記録するようになった。  転移してから三ヶ月が近づくころには、任される案件の規模も変わっていた。  北部遺構第三層手前の封鎖扉。  通路の壁に残された、古代の規則違反で有益な走り書き。  《閉じる》と《還す》のどちらにも取れる、古い送還句。  護衛つきで後ろから読むだけだった梓は、いつの間にか、現場で解釈を求められる立場、一般解読士になっていた。  さらに、そこから三ヶ月後。  ファリンが一枚の通知書を机へ置いた。 「上位解読士への昇格審査が通りました」  梓は通知書とファリンの顔を交互に見た。 「……まだ半年ですよ」 「はい。異例の速さです」 「何かの間違いでは?」 「審査記録を三度確認しました。残念ながら、間違いではありません」 「残念ながら」 「マミヤさんにとっては、でしょう?」  否定できなかった。  上位解読士。  読めるだけでは認められない等級だった。  現場判断、記録精度、資料保全、危険認識、報告書の再利用性。そのすべてについて、一定以上の実績が必要になる。   未知の文字を読めるのは、転移した時に与えられた力だ。  だが、読んだ文章を忘れず、別の文献と照合し、時代や用法ごとに分類できることまで、その力が与えてくれたわけではない。  文字の並びを棚へ置く。  似た用例を隣へ並べる。  矛盾する記述には印をつけ、必要な時に正しい頁を取り出す。  それは、この世界へ来る前から梓が持っていた、ひどく偏った記憶の使い方だった。  読めるのは、与えられた力のおかげだ。  読んだものを仕事として役立てられるのは、梓自身の才能と、半年間に積み重ねた経験のおかげだった。 「通常は、何年くらいかかるものなんですか」 「人によります」 「濁しましたね」 「早い方でも数年です」 「聞かなければよかった」 「ですが、昇格に伴って指名依頼の報酬基準が上がります」  梓は通知書をもう一度見た。 「受けます」 「そう言うと思いました」  こうして梓は、見習い解読士として登録されてからおよそ半年という、本人にとってまったく不本意な速さで、上位解読士になった。  問題は、その半年のあいだも、ずっと続いていた。  ギルド宿舎が、本気で無理だったのだ。  部屋が狭い。  壁が薄い。  夜中まで騒ぐ。  紙を広げる机がない。  乾燥環境など、夢のまた夢。  宿舎へ入って三日目には、梓はファリンへ訴えていた。 「無理です」  ファリンが顔を上げる。 「何がですか」 「宿舎が」 「早かったですね」 「書類が湿気ます。夜がうるさい。本が置けない。机が狭い。あと風呂トイレは別がいいです」 「多いですね」  ファリンは少し考えてから、あっさり言った。 「では住居を探しましょうか」 「借りられます?」 「探せば。ただ、静かで、術式を入れられて、書庫向きとなると、高いですよ」  高かった。  王都の賃貸は高い。静かな場所はもっと高い。書類を積める広さがあるとさらに高い。そこへ乾式術式を入れたいとなると、最初から設備のある物件か、大幅な追加工事になる。  いくつか見たあとで、梓は計算した。  月額。  術式維持。  置ける蔵書量。  今後何年、帰還調査の拠点として使うか。  その結果、もっとも合理的な答えは、もっとも高価だった。 「買った方がましでは?」  自分で言っておいて、梓はしばらく計算表を見た。  ファリンも少し黙った。 「……本当に買います?」 「この条件で借り続けるより、拠点として固定したほうが安いです。静かで、乾いていて、本が積めるなら」 「職能登録は通っています。高位解読士向けの優遇融資も、ギルドの職能保証も使えます」  梓は計算表をもう一度見た。 「それなら、買います」 「……買うんですね」 「買います」  そうして梓は、異世界へ来てそれほど経たないうちに、家を買った。  静かな部屋と、書庫用乾式術式と、まともな机と、本を積む壁を手に入れた代わりに、魔導ローン月三百金貨を背負った。  我ながら、実に正気とは思えない判断だ。  だが今こうして迎賓館跡の写しを机へ広げ、静かな空気の中で整理していると、間違いではなかったとも思う。      ◇  梓は天井から視線を戻した。  部屋は静かだった。術式板は青く、写しは乾いていて、机は広い。払っている額を考えれば笑うしかないが、必要だったことも否定できない。  迎賓館跡の写しを引き寄せる。  中央還路庁。  その語を、もう一度なぞる。  最初の日から比べれば、ずいぶん遠くまで来たものだ。知らない世界で保護されて、文字が読めると分かって、帰りたいと相談して、地味な案件を積み重ねて、家まで買って、ようやくここまで来た。 「……高くついたけど」  梓は小さく息を吐いた。 「必要経費だったな、これは」  そう呟いて、炭筆を取る。  次の調査に向けて、整理しておくことは山ほどある。  帰るために読む。  そのための部屋だ。  高いが、今のところは、きちんと元を取っている。

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