今無 ヅイ / 第6話

第六話 報告書のあとで

 朝の静けさというものは、金を払って買っても、たまに別の音に負ける。  こん、こん、と扉が鳴った。  梓は寝台の上で片目だけ開けた。まだ起きるつもりはなかった。正確には、起きるべき時間ではあるが、起きたくはなかった。  昨夜は遅くまで報告書を書いていた。古代語の注記に一行足し、備考欄から二行削り、調査班長の雑な走り書きを提出できる文章に直し、最後に提出用の清書をした。  つまり寝不足である。  寝不足の解読士は、だいたい不機嫌だ。  ノックがもう一度鳴る。  ファリンさんにしては、少しだけ間が柔らかい。 「……はい」 「マミヤさん、起きてますか〜?」  その声に、梓は布団の中で小さく眉をひそめた。  梓は渋々寝台を降り、肩に適当な上着を引っかけて扉へ向かった。鍵を外し、半分だけ開けようとして、 「っぐえ」  思ったより近かった。  反射的に半歩下がる。視界いっぱいに、艶のある黒褐色の脚。その上に、にこにこと人好きのする笑みを浮かべた上半身。  ギルド事務員、アラクネ族のスィレアさんが、朝からたいへん元気そうに立っていた。  地面から頭までで、たぶん二五〇センチくらいある。 「相変わらず食べちゃいたいくらい小さくてかわいいですね〜」 「相変わらず言い方が物騒なんですよ!」 「安心してください、今日はお仕事で来ました〜」 「今日はって何ですか」  スィレアさんはくすくす笑った。細い指先で書類束を持ち直す。上半身はよく整った事務員の女性そのものなのに、下半身の蜘蛛脚が玄関先の石床にきわめて安定して広がっているので、梓は何度見ても「そうだった」と思う。  別に驚きはしない。  ただ、朝いちばんに家の扉を開けた瞬間、いつもより近い位置にいると心臓に悪いだけである。 「ファリンさんは?」 「お休みです〜。昨日、月末締めと冒険者の精算が重なったので、今日は寝かせろと上から言い渡されました」 「それはそう」 「なので、今日はわたしが使いです」 「嫌な予感しかしないんですが」 「正解です〜」  梓は扉の枠に額を預けた。 「その正解ですでだいたい帰りたくなるんですよね……」 「でもここ、ご自宅ですよ?」 「それはもうファリンさんで聞いたやつなんですよ」  スィレアさんは楽しそうに肩をすくめ、それから書類束の一枚を抜き出した。 「報告書の補足確認が一件。それとは別に、以前マミヤさんが担当した北部遺構について、共同調査側から追加で二件です〜」 「北部って、二ヶ月前の?あれ、今になって確認が来たんですか」 「第三層手前の封鎖扉です〜。ついでに、先日の注記で、《還す》を送還寄りに取った理由を、もう少し詳しく聞きたいそうで」 「ついでの量ではないですね?」 「大丈夫です、全部ギルドでできます〜」 「できるできないの問題ではなく」 「あと、差し入れに甘い焼き菓子を持ってきました」 「それを先に言ってください」  梓はようやく扉を開き切った。  スィレアさんは満足そうに頷くと、器用に身体を少し持ち上げて玄関先の段差を越えた。何本もの脚が、音を立てることなく位置を変える。  その動きは滑らかで、怖いというより感心してしまう。ギルドの書庫で高い棚の上から台帳を取る時もそうだが、スィレアさんの動きはいつも静かで速い。 「おじゃまします〜。今日もきれいにしてますねえ」 「きれいですか?」 「玄関に積まれてる資料が左に倒れてないので、きれいです」 「基準が低い」 「ギルド基準では高いほうです〜」  言いながら、スィレアさんは脚の一本で器用に扉を閉めた。上半身はそのまま書類をめくっている。見た目の印象に反して、同時進行の処理能力が高い。 「ファリンさんは静かな圧で追い詰めてきますけど、スィレアさんはにこにこしながら逃げ道塞ぎますよね」 「褒め言葉として受け取っておきます〜」 「あ、全然褒めてないです」  台所のほうで湯を沸かしながら、梓は視線だけスィレアさんへ向ける。上着の袖を軽くまくり、盆の上に杯を二つ出す。 「お茶、飲みますか」 「いただきます〜。あ、でも先にこれを」  スィレアさんが差し出したのは、小さな包みだった。開けると、蜂蜜を薄く塗って焼いた焼き菓子が三つ。  ハーフリングの屋台の品だろう。  梓は少しだけ目を細める。 「……これ、朝から並ばないと買えないやつでは」 「ええ。今朝、ゴブリンの銀行員が走っていく横をすり抜けて確保しました〜」 「何でその情景が目に浮かぶんでしょうね、この街」 「グランドゲートですから」  そう、グランドゲートだ。  通りの角では若いオークの行商人が薬草束を売り、銀行へ急ぐゴブリンが帳面を抱えて走り、ハーフリングが朝食を焼く。  エルフもドワーフもヒュームも、珍しいものを見る目では互いを見ない。  忙しい人、商売している人、これから外縁へ出る人、帰ってきた人。  そういう目だけが行き交う。  そしてギルドの受付には、地面から頭まで天井くらいあるアラクネ族の事務員がいて、朝から解読士を「食べちゃいたいくらいかわいい」と評するのである。  だいぶ変な町だ。  でも、今ではもう、その変さのほうが落ち着く。 「で、補足確認って何ですか」  梓が杯を差し出すと、スィレアさんは上半身だけで丁寧に受け取った。脚の何本かは床に安定を作ったまま、別の二本でさっと書類束を仮留めする。細い糸が一瞬だけ光って、紙の端がまとめられた。 「第三層手前の封鎖扉です〜。あの注記、還すを送還寄りに取った理由を、共同調査側がもう少し詳しく聞きたいそうで」 「嫌なところを突いてきますね」 「みなさん、マミヤさんが読めるのは知ってますけど、どう読んだかまではまだ読めませんから〜。あともう一件、壁の走り書きの件です〜」  梓は顔をしかめた。 「遺跡の壁に落書きすなー!」 「やっぱりそこなんですねえ」 「内容が有益なのと遺構保存の倫理は別です!」 「でも、あの急速記法メモのおかげで、右通路の罠を避けられたんですよね?」 「助かりましたけど!助かりましたけど、それとこれとは別です!」  スィレアさんはくすくすと喉を鳴らした。 「好きですねえ、そういうところ」 「何がですか」 「ちゃんと怒るところです〜。役に立つなら何でもよし、で済ませないの、わたしは好きですよ〜」  梓は少し黙った。  そう言われると、少しだけ勢いが削がれる。  杯を口元へ運び、湯気の向こうでスィレアさんを見る。上半身の笑みはやわらかい。けれどその下の身体はしっかりした硬質の脚に支えられ、紙束と糸と筆記具の位置取りは、妙に隙がない。  この人もファリンさんと同じだ。  やわらかい顔で、実務のど真ん中にいる。 「……で、次の案件の事前相談は?」  聞くと、スィレアさんの笑みがほんの少しだけ深くなった。 「マミヤさん向けです〜」 「帰ります」 「もうご自宅です〜」 「その言い回し、ギルドで共有されてるんですか?」 「自然発生で〜す」  ずるい。  梓は焼き菓子を一つつまみ、半分だけかじった。蜂蜜の甘さが思ったよりしっかりしていて、少しだけ頭が起きる。  請求書と報告書と焼き菓子と、次の面倒ごと。  冒険はまだ始まっていないのに、だいたいこういう時点で、もう逃げ道はない。      ◇  結局、梓は一時間後にスィレアさんと並んでギルドへ向かっていた。  報告書の正本と写し、補足用の注記控え、ついでに昨日ほつれた手袋も鞄へ入れた。補修屋へ寄るつもりである。生活というものは、事件が終わったあとも忙しい。  朝の通りは、すでに仕事の顔をしていた。  平焼きパンの香り。荷車の軋み。帳面を抱えたゴブリンの小走り。石畳の隙間を縫うように進むスィレアさんの脚は、相変わらず妙に静かだ。 「スィレアさん、朝からだいぶ目立ちません?」 「そうですか〜? 皆さんもう見慣れてますよ〜?」 「それはそうなんですけど」  実際、その通りだった。  通りを行く人々は、スィレアさんを二度見しない。挨拶をする人はいる。道を譲る人もいる。だが「珍しいもの」として振り返る人はいない。  グランドゲートでは、そういうものはだいたい三日で風景になる。  ギルドへ着くころには、玄関前の掲示板に人だかりができていた。新規依頼札の貼り替え時間らしい。  雨樋の修理。古井戸の水質確認。旧街道の境界標再確認。資料搬送の護衛。遺構下見。  派手な討伐依頼ばかりではない。むしろ、誰かの生活の続きを支える依頼のほうが多い。  梓はその雑多さが嫌いではなかった。  受付前を抜け、依頼掲示板を横目に報告窓口の列へ向かう。朝の列は短くない。  濡れた縄を抱えた漁労班らしき三人組。その後ろに古道測量帰りの二人組。そして梓。  後ろの二人は、泥のついた棒を抱えたままぼやいていた。 「お前んとこ、目印札なくしたんだって?」 「なくしたんじゃねえよ、流れたんだ。川が増えてたんだよ」 「それ、報告書になんて書くんだ」 「自然条件の予測を誤った」 「言い方だけは立派だなあ」  梓は少しだけ口元を緩めた。  自分の番が来ると、窓口の事務員が封筒を受け取り、封印の有無と枚数を確認した。 「南西外縁地下遺構、第一次調査報告ですね」 「はい」 「写し三枚、構造図一枚、退出導線確認追記あり……西二門、安定退出確認」  事務員はそこで一瞬だけ目を止め、横の仕分け台へ回した。 「これは……ファリンさん案件ですね」 「でしょうね」  数分後、奥の机からファリンさんが顔を出した。 「ファリンさん、お休みでは?」 「休めと言われました。なので休みました」 「過去形にするのが早すぎません?」  ファリンさんは封筒を受け取り、その場でざっと中身をめくる。頁を送る指が速い。読むというより確認に近い。にもかかわらず、要点は外さない。 「報告書は綺麗です。退出導線の安定確認も入っていますね」 「必要かと思って」 「必要です。迎賓館跡の件、次に入る班はそれで助かります」  その言い方が、少しうれしかった。  梓が読んで持ち帰ったものが、次の誰かをちゃんと助ける。そういう形で仕事が積み上がっていくのは嫌いじゃない。 「報酬は本処理後ですが、前金差し引きで追加分が出ます。それから、写しの一部を王都大学と学芸局へ回します」 「中央還路庁の件も?」 「ええ。そちらは注記つきで。ただ、現状ではまだ地名か施設名か断定しません」 「お願いします」  ファリンさんはそこで視線を上げた。 「あと、ひとつ。西区で、同じ角を二度曲がった気がするという情報が三件来ています」  梓は少しだけ間を置いた。 「……三件、ですか」 「ええ」 「……まだ苦情のうちですね」 「少なくとも現状では。ただ、迎賓館跡の件がありましたので、一応」  その返答は、嫌な意味で丁寧だった。 「増えたら?」 「案件になります」 「嫌ですね」 「ええ」 「今は?」 「生活してください」 「ギルド事務員が言うと妙に怖いですね、それ」 「生活は大事です」  それは本当だった。  梓は報告受付票を受け取り、そのまま精算窓口へ向かった。途中で補修屋へ預ける手袋のことを思い出して、鞄の端を軽く叩く。  やることが増える時は、たいてい小さい用事も一緒に増える。  精算窓口には、濃紺の上着のゴブリンが座っていた。髪はきっちり撫でつけられ、胸元の札には《第四会計連携窓口》とある。 「アズサ・マミヤ様」 「はい」 「前回案件の追加報酬、三十八銀貨。現金受け取りと口座預け、どちらにしますか」 「半分預けで、半分現金でお願いします」 「承知しました。ローン引落日前です。堅実な判断ですね」 「その情報、毎回刺さるんですが」 「会計は、常に真実です。ミス・マミヤ」  なんともゴブリンらしい返答だった。  受け取った小銀貨の重みを確かめてから、梓は札をしまう。金貨の大きな音ではない。だが、こういう地道な積み重ねが今の部屋を支えているのだ。  昼が近くなると、ギルドの食堂兼休憩区画も賑やかになってくる。  梓はそこで、薄い野菜スープと小さな肉団子、黒パンひとかけを受け取った。朝に焼き菓子を食べたので、昼はこのくらいでちょうどいい。  長卓の端へ座る。  奥では、誰かが大声で笑い、近くの席では怪我人に包帯を巻きながら若い受付補助が「笑うと縫い目が開きます」と真顔で叱っていた。  梓はパンをちぎり、スープへ浸して口へ運ぶ。  そこへ、盆を持ったログさんがやって来た。 「ここ空いてるか」 「どうぞ」  ログさんの盆の上には、山盛りの炒め豆と骨つき肉、それに丸パンが二つ載っていた。 「食べますね」 「動くからな」 「説得力がある」  ログさんは腰を下ろし、いきなり肉へかぶりついた。 「報告、終わったのか」 「はい。追加報酬も少し出ました」 「よかったな」 「手袋は減りましたけど」 「それは見た」  ログさんは骨を皿へ置き、少しだけ声を落とした。 「迎賓館の件、けっこう噂になってるぞ」 「嫌な予感しかしません」 「悪い意味じゃない。遺跡に入ったら受付だったって」  梓はスープを飲みかけて止まった。 「それ、面白話として消費されてません?」 「ちょっとな」 「ひどい」 「でも、読めるやつがいると違うなとも言ってた」  その一言は、少しだけ胸へ残った。  梓は返事の代わりにスープをもう一口飲んだ。塩気は薄いが、昼の疲れた胃にはちょうどよかった。  食後、ギルドの外へ出る。  補修屋へ向かう前に、雑貨店へ寄って炭筆の芯と細紐を買う。どれも地味な買い物だ。だが、地味な買い物ほど生活には必要だ。  布地屋の軒先では、若いアラクネ族の女性が色見本を睨んでいた。隣の雑貨店では、ナーガ族の子どもが目一杯背伸びして釘箱を覗き込み、店主に「それは売り物であって宝箱じゃない」と言われている。  誰も彼も、自分の生活の続きをやっている。  夕方、《針と鋲》へ戻ると、上着の袖にはきれいに補強布が当てられ、手袋の裂け目も目立たなくなっていた。 「どうだい」  店の女主人が言う。  梓は手袋をはめ、指を曲げる。 「前より丈夫そう」 「前より丈夫にしたさ。次に石へ手をかけても、少しはましだろう」 「ありがたいです」 「ありがたがるなら、次は袖を裂く前に持ってきな」  ぐうの音も出ない正論だったので、梓はそそくさと退店した。      ◇  上着を抱えて部屋へ戻ると、術式板の青い灯は朝と変わらず静かだった。  補修された上着を衣桁へ掛け、買ってきた細紐や炭筆を机へ置く。精算札も、雑貨の釣り銭も、報告受付票も、散らさず一つずつ置く。  その横に、迎賓館跡の写しがある。  中央還路庁。  指先で一度だけ、その語をなぞる。  生活の一日は終わる。  飯を食って、服を繕って、報告書を出して、金を受け取り、買い物をして帰ってくる。  それでも、世界のどこかには、まだ読んでいない頁がある。  梓は椅子へ座り、小さく息を吐いた。 「……まあ、今日はいいか」  その一言に、自分で少しだけ笑う。  そして机の上の写しを見て、笑いを消した。  苦情のうち、だった西区の妙な迷子話も、たぶん明日には少し形を変えている。  依頼のない日にも、世界は動く。  梓は炭筆を取り、今日買った新しい細紐で写しを束ねながら、静かに呟いた。 「……次は、何を読まされるんだろうな」  答えのない問いだった。  ただ、答えがないこと自体には、もう少し慣れてきている。  そう思ったところで、扉が鳴った。  こん、こん、と二度。  梓は炭筆を置き、椅子の背にもたれた。 「……今度は何ですか」  返事はない。  代わりに、扉の下から一枚の小さな連絡札が差し込まれた。  ギルド本部の簡易札だった。  梓は拾い上げる。 『西区生活苦情票、追加あり。関連古記録発見。至急ではありませんが、早めに確認をお願いします。ファリン』  至急ではない。  その文言ほど信用できないものを、梓はあまり知らない。  札の下には、小さな包みが置かれていた。厚紙で巻かれ、細紐で結ばれている。管理札には、古資料仮置棚、西区関連、未分類、とある。 「未分類……」  梓は嫌な声で呟いた。  未分類は、よくない。  未分類とは、まだ棚がないということだ。棚がないものは、たいてい面倒である。  梓は包みを机に置き、細紐をほどいた。  中に入っていたのは、古びた手帳だった。  表紙は擦り切れ、角は丸くなり、革紐は一度切れて結び直されている。大陸公用語の管理札が付いているが、中身の文字は見えない。  梓はしばらく、その手帳を見ていた。  西区の苦情。  迎賓館跡の退出導線。  中央還路庁。  そして、未分類の古記録。  生活の一日は、終わったはずだった。  けれど、世界のどこかには、まだ読んでいない頁がある。  梓は小さく息を吐き、手帳の表紙を開いた。

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