今無 ヅイ / 第12話

第十二話 名前を戻す

 言った瞬間、言葉はもう仕事になっていた。  ガレスが動くのは早かった。 「イーヴァを呼べ。バルトに名簿を出させる。ギルドへ伝令。ファリンとスィレアを呼ぶ」 「了解」  ログが石段を駆け上がる。  狭い小部屋に、街の音がかすかに流れ込んでいた。上ではまだパンが焼かれている。商人たちが荷を回している。市警備隊が通行をさばいている。  街は止まらない。  だから、止める前に直さなければならない。 「マミヤ」  ガレスが言った。 「今のうちに確認しろ。何が要る」 「住民名簿、商人組合の通行名簿、荷札、屋号、職能、住所、苦情票。あとは、市警備隊の巡邏記録です」 「多いな」 「多いです」 「減らせるか」 「減らすなら、危険導線に関わる人からです。パン屋、井戸、旧宿場壁、粉袋置き場、裏搬入口。その周辺の常住者と、夕方までに出入りする人」 「分かった」  ガレスは短く頷いた。 「入口を固める。リネア、帳面まわりを見ろ。フェイロン、風が変わったら言え。ログは戻ったらマミヤの後ろにつけ」 「おう」  上からログの返事が聞こえた。  リネアは石板台の横を覗き込み、フェイロンは灯りを低くした。石板の文字が、影の中で薄く浮かぶ。  常住者名。  意味名。  役割。  帰路。  荷口関係。  火床関係。  水場関係。  通行区分。  梓はそれを読み、唇を引き結んだ。 「名前だけじゃ駄目です」 「その人がこの街でどう呼ばれて、何をして、どこへ帰るのかまで繋げないと通らない」 「名前が、道になるってことか」  リネアが言った。 「そうです。名前を間違えたら、帰る道も間違う」  誰も軽口を言わなかった。      ◇  ファリンとスィレアが到着したのは、それから半刻ほど後だった。  早い。  かなり早い。  梓は二人の姿を見て、心底ほっとした。 「状況は聞きました」  ファリンは石板帳面を見るなり、表情を硬くした。 「名前の意味登録ですか」 「はい」 「最悪ですね」 「ファリンがそれを言うと、かなり重いです」 「重いですから」  スィレアは小部屋の天井と壁を見回し、すぐに脚を動かして位置取りを変えた。 「紙を広げる場所、足りませんねえ。わたし、壁側使います〜」  そう言うと、細い糸を壁の突起に渡し、仮の書類棚を作り始めた。  苦情票。  住民名簿。  商人組合名簿。  荷役名簿。  パン屋周辺の屋号一覧。  西区詰所の巡邏記録。  紙束が空中で分類されていく。  梓は思わず見た。 「便利……」 「褒めてください〜」 「すごく便利です」 「素直でよろしいです〜」  ファリンはすでに市警備隊の住民台帳を受け取り、必要な範囲を抜き出していた。 「まず、危険導線周辺の常住者を優先します。パン屋、粉袋置き場、井戸、旧宿場壁、裏搬入口周辺。人数は?」  入口側から、イーヴァが答えた。 「常住者で七十八。商売人と荷役を入れると百三十は超える。夕方に出入りする者まで含めると、もっと増える」  梓はこめかみを押さえた。 「多い」 「多いですね」  ファリンは淡々と同意した。 「ですが、全部を完全登録する必要はありません。まず、帰宅時間に巻き込まれる可能性の高い導線だけを優先しましょう」 「優先順位をください」 「出します」  ファリンは即答した。  その即答が、本当にありがたかった。  スィレアが糸で束ねた紙束を、順番に梓の前へ送る。 「最初はパン屋周辺です〜。住民名、屋号、職能、導線区分つき」 「ありがとうございます」  梓は石板の空欄を見た。  名前を書く。  ただし、音ではなく意味で。  最初の名前は、パン屋の女将だった。 「ミラ」  ファリンが読み上げる。 「パン屋《炉の小窓》の店主。住居は店舗上階。火床管理者」  梓は頷いた。  ミラ。  大陸公用語では、古い形で「小さな灯」に近い。  だが、この町では炉を守る女将として呼ばれている。  火床に関わる。だが、荷ではない。常住者。火床管理者。  梓は息を整えた。 「ミラ」 「小さき炉灯」 「西区常住者」 「火床管理」 「帰路、パン屋上階」  古代語で書く。  石板の文字が、薄く光った。  小さく、導線の音が変わる。  フェイロンが言った。 「通った」  梓は息を吐いた。  一人目。  あと、たくさん。  次は、バルト。  彼は商人組合の人間で、住民ではない。通行者。荷口関係者。 「名前の由来は?」  梓が聞くと、バルトは少しだけ口ごもった。 「古いレグナ語で、支える梁、みたいな意味らしい」 「親父が荷運びだったんだ。梁みたいに支えろって」 「いい名前ですね」 「今そう言われると、妙に恥ずかしいな」 「恥ずかしがっている場合ではないので、登録します」  梓は書く。 「支え梁の者」 「西区通行登録」 「荷口管理協力者」 「帰路、商人組合通用門」  また光る。  また通る。  バルトは少し黙った。  自分の名前が、古い街の帳面に通った。  その意味を、言葉にするのが難しかったのだろう。  次。  次。  次。  名前を聞く。意味を確認する。古い語源を拾う。種族語由来のものは、意味優先順位を噛み砕く。屋号と職能を照合する。住民か、通行者か、荷役か、火床関係者か、水場関係者かを分ける。  これは翻訳ではない。  人を、その人として街に差し出す作業だった。 「次、井戸番のロウ」 「ロウは?」  イーヴァが名簿を見た。 「古い水場名から来てる。本人は井戸番の家系だ」 「水場常住者。帰路、井戸脇住居」  書く。  光る。 「次、粉挽きのエノ」 「エノは短縮名です。本名は?」 「エノルダ。古いハーフリング系で“丸いパン”に近いって本人が言ってた」 「……本人が?」 「そう言ってた」 「かわいい名前ですね」 「今言うな。本人が怒る」 「登録します」  書く。  光る。  時間が削れていく。  石板に文字が増えていく。  外では、市警備隊が人流を抑えている。  商人組合が荷を表へ回している。  ガレス班が入口を守っている。  街は、夕方へ向かっている。      ◇  五十人を超えたあたりで、梓の頭の奥に熱が出始めた。  言語酔いの前兆だった。  まだ大丈夫。  そう思った。  大丈夫ではない時ほど、人はそう思う。 「マミヤさん」  ファリンが声をかけた。 「休憩を」 「無理です」 「まだ夕方まで少しあります」 「少ししかないんです」  梓は石板から目を離さなかった。 「今止めると、再開に時間がかかります」 「頭の中の対応表が崩れる」  ファリンは黙った。  それがどういう意味か、分かっているのだろう。  いま梓の頭の中には、現代名、語源、古代語、導線区分、住民位置、職能、屋号が無理やり並んでいる。  一度崩れたら、もう一度組み直すのに時間がいる。  時間はない。  スィレアが静かに言った。 「では、こちらで流す順番をもっと整えます〜。マミヤさんは、読んで書くことだけにしてください」 「助かります」 「助かってください〜」  梓は少しだけ笑いそうになったが、笑う余裕はなかった。  次の名前が来る。  パン屋の使いの少年。昨日、戻された子だ。 「ニコ」  イーヴァが言う。 「孤児上がり。パン屋で働いてる。名前は女将がつけた」 「意味は?」  女将が入口の向こうから答えた。 「小さい勝ち、だよ」 「あの子、拾った時に死にかけててね」 「一日生きたら勝ち。二日生きたら、また勝ち」  梓の手が、一瞬止まった。  小さい勝ち。  この町で生きている名前だった。  梓はゆっくり息を吸った。 「小さき勝ち」 「パン屋見習い」 「火床補助」 「西区常住予定者」 「帰路、パン屋裏手より上階」  石板が光る。  外から、誰かが息を呑んだ気配がした。  ニコ本人かもしれない。  梓は目を閉じたくなったが、閉じなかった。  次。  次。  また次。  文字を書く。  意味を通す。  人を荷にしない。  人を客のままにしない。  人を、帰るべき場所へ戻す。  夕方の鐘が、遠くで一つ鳴った。  梓の背筋が冷えた。 「あと何人」  ガレスが聞く。  スィレアが即答した。 「優先登録、残り十七です〜」 「やります」  梓は言った。  声が少し、自分のものではないみたいに聞こえた。  古代語の語順が、頭の中で現代語に混ざる。  日本語の手帳の文字が、横から顔を出す。  豆、塩、火床、名前、帰路、常住者。  まだ大丈夫。  まだ。  石板へ書く。  また一人。  また一人。  また一人。  そして最後の一人。  イーヴァが読み上げた。 「ロッテ。西区詰所の巡邏補助。住まいは南角」 「意味は?」 「本人に聞いたら、“自由な者”だと」  梓は頷いた。 「自由な者」 「西区巡邏補助」 「通行登録」 「帰路、南角詰所」  書いた。  石板が光った。  その瞬間、小部屋の外で風が変わった。  フェイロンが顔を上げる。 「通った」  リネアが石段の方を見る。 「溝が落ち着いたね」  ガレスが短く言った。 「外を見ろ」  ログが駆け上がる。数秒後、上から声が飛んだ。 「戻ってない!」 「裏の角、普通に抜けた!」  外で歓声が上がる。  パン屋の女将の泣き声も聞こえた。  イーヴァが市警備隊へ指示を飛ばす声。  バルトが商人組合へ叫ぶ声。  表通りのざわめき。  人が帰れる音だった。  梓は、石板から指を離した。 「……よかった」  そう言った。  言ったはずだった。  けれど、帳面は閉じなかった。  石板の端に、まだ細い光が残っている。登録待ちの空欄。常住者でも、客でも、荷でもない。けれど、そこにいる者を求める光。  梓はその意味を読んで、少しだけ黙った。 「……まだ、閉じません」  ガレスが振り返る。 「誰が残ってる」 「私です」  小部屋の空気が止まった。  ファリンが一歩近づく。 「間宮さんが?」 「はい」 「帳面を触って、導線を通して、名前を結んでいるのに、私はこの街に登録されていない」 「だから、最後の導線が閉じない」 「登録できるんですか」  スィレアの声が、いつもより少しだけ慎重だった。 「します」  梓は石板を見つめた。  自分の名前。  マミヤ、アズサ。  間宮、梓。  今まで、他人の名前を意味へ変えてきた。  その人がどこへ帰るのか。どの店で働いているのか。誰に呼ばれているのか。どんな意味を背負っているのか。  今度は、自分の番だった。 「間宮」  梓はゆっくりと言った。 「間にある宮」 「境に立つ館」 「二つの場所のあいだにある、建物」  日本と、この世界。  古代と、現代。  読めるものと、まだ読めないもの。  そのあいだに、自分は立っている。 「梓」  続ける。 「木の名です」 「文字を刻む版木にも使われた、本に近い木」 「記録を残す木」  ファリンが何も言わず、ただ見ていた。  スィレアの糸も止まっている。  ガレスも、ログも、リネアも、フェイロンも、黙っていた。  梓は息を吸った。 「境の館に立つ、記録の木」 「一時通行者」 「読解者」  そこで、石板が次を求めた。  帰路。  梓は一瞬だけ、手を止めた。  他の人には、帰路があった。  パン屋上階。  南角詰所。  井戸脇住居。  商人組合通用門。  帰る場所が、あった。  梓には、まだない。  元の世界へ帰る道は、見つかっていない。  この街の家はある。ローンもある。書庫もある。乾式術式もある。けれど、それを帰路と呼んでいいのか、まだ自分では決められなかった。  だから、梓は書いた。 「帰路、未定」  石板が、静かに光った。  光は、今までの誰よりも長く残った。  そして、ゆっくりと沈むように消えた。  帳面が閉じる。  小部屋の外で、風が変わった。  それは、さっきまでの冷たい風ではなかった。  街の中を通る、ごく普通の風だった。  フェイロンが言った。 「閉じた」  リネアが石段の方を見て、短く息を吐いた。 「これで、導線は落ち着いたね」  ログの声が上から響く。 「通れる!」 「みんな、通れてる!」  外の歓声が大きくなる。  帰れる。  人が、自分の家へ帰れる。  梓は石板から手を離す。  今度こそ、安堵の声を言ったつもりだった。  けれど、言葉が少し崩れた。 「ドムナ、常住……カルガじゃないので……ノーメンを棚に、違う、帳面に……リメン・ドムス、スクラ・アルボル……帰路は未定、でもペンデじゃない……ビエリコ、注記、報告書、ええと……カクテイシンコク……違う、それは今じゃない……フォコラ、ルーメ、ファバは動かさないで……違う、豆じゃない、荷じゃない……人は、ノン・カルガ……」  言葉が、並ばない。  頭の中で、複数の棚が一斉に崩れる音がした。  古代語。  大陸公用語。  日本語。  ハーフリング語由来の名前。  レグナ語の古い語源。  荷札。  屋号。  帰路。  常住者。  そして、自分の名前。  全部が、一斉に滑った。 「マミヤさん」  ファリンの声が近い。 「もう読まなくていいです」 「でも、報告書……」 「後です」 「注記……」 「後です」 「ジュベアリ……」 「もう駄目です。寝てください」  その返しに、少しだけ笑いたかった。  でも、笑い方も分からなくなっていた。 「あ」  梓は、自分の足元が遠くなるのを感じた。  倒れる、と思った。  その前に、ログの腕が受け止めた。 「落とさねえよ」  低い声が聞こえた。 「絶対に」  そうだ。  だから、この班を指名したのだ。  そこまで考えたところで、言葉の棚が完全に崩れた。  梓は、何も読めなくなった。

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